2024年4月15日月曜日

長生きは自己流

  最近やたらと百才本や長生き本が出回っています。いわく『無敵100歳』『102歳、一人暮らし』『九十八歳。戦いやまず日は暮れず』『91歳、ヨサヘロ快走中』『90歳の幸福論』等々。これらの本がどうして売れるのか不思議でなりません。テレビに82、3才のご同輩が出てくると「えっ、これが82才?俺ってこんなの!」と驚かされますが、ことほど左様に人間80才も超えれば外見も身体能力も人それぞれで個人差があって当然。佐藤愛子さんがどんな健康法で長寿を得られようとそれが私に当てはまるとは限りません。同様に私にもあなたにも自分なりの健康法や鍛錬のメソッドがあるはずです。

 とはいえ私も以前一度だけ同種の本を読んだことがあります。外国の知名な女性の高齢になってからの「人的ネットワーク」を活用した仕事や趣味の広げ方、大体そんな本だったように覚えていますが有名人の彼女と私ではネットワークの広さも知名度、社会的地位も比較になりません。悠々たる老後の設計を開陳していましたが到底私の及ぶところではなく「そうですか、あなたはご立派ですね」といささかのやっかみと羨望を抱いて読み捨てました。せめてもの救いは図書館の本だったので金銭的浪費をせずに済んだことでした(そもそもこんなミミッチイ根性ですから勝負になりませんが)。

 

 最近になって「長生きはそれだけで立派」と思うようになりました。多くの場合「一病息災」の人が多いのですが、それでありながら健康寿命を維持して80才90才95才と生き永らえることは本当に凄いと思います。朝目覚めたときどこも悪いところがないということはめったにないはずです、それを長年付き合ってきた自分の身体のメンテナンス法でなだめて修復して、昨日と同じように振舞う。それを繰り返し繰り返して、絶えず健康維持法メンテナンス法を上書きして明日もまた同じような明日を生きる。そして90才95才100才と齢を重ねる、本当に尊敬します。どうして他人の生きざまを気にする必要があるのでしょうか。「長生きは自己流」しかありません。

 

 などと言っておきながら自分のことを吹聴するのは憚られるのですが最近気づいた「晩年の発見」を書いて見ようと思います。

 まず最初は先週書いた「筆ペン習字」のことです。何度も挫折した書を「80才の手習い」で何とか手の内に入れられたのは「筆ペン」のお陰です。挑戦しようと意欲が湧いたのは筆ペンの「手軽さ」でした。書は毛筆でするものという固定観念でいたらこうはならなかったにちがいありません。新しい技術を受け入れたから開けたのです。同様なことはパソコン(PC)やスマホにもいえます。60才を過ぎてPCに挑戦したお陰で今こうして「コラム」の連載もありますし読書も上々のペースで進めています。スマホで言葉や語句の意味を手軽に検索できることでどれほど読書の質が向上したことか。また引用文献をスマホで図書館に予約して読書がつながって問題意識を深化させることができた、こんな経験の積み重ねが読書を継続できた大きな原因になっています。新しい技術といえば「Line」もそうです。孫の成長がLineで送られてくる娘からの写真や動画で毎日のように身近に感じられています。

 老いても挑戦をつづける。気持ちの若さ、これが大事です。

 

 次は「日本酒」です。今年の正月伏見の親戚から「金札(宮)さんのお下がり」と月桂冠の一升瓶を頂きました。冬の晩酌はウィスキーか焼酎のお湯割りが定番で日本酒は正月やお祝いのときに呑む程度で、それも720ml壜をチビリチビリとやります。しかし一升瓶は開けたら早く吞み切らないと気が抜けますから毎日1合をお湯割りと共に呑みました。そして日本酒を呑んだときの睡眠の質が良いことに気づいたのです。深く眠れたり寝覚めた後の二度寝の寝つきがよかったり。ネットで調べてみると、ライオンと筑波大の裏出良博教授との共同研究で「清酒酵母」に“睡眠の質を高める”効果があることを発見したという情報がありました。

 80才で初孫を授かって彼の成長と私の老いの相反を考えると、老いを制御しなければならない必要性に迫られ、睡眠と排泄を最重要テーマにしました。睡眠の質は節酒が効果的(飲酒時の睡眠が浅い経験から)と判断して週2~3回休肝日にするのを今年の目標にしていたのですがそこへ日本酒の「睡眠の質向上効果」を発見したのです。勿論「不呑の日」はつづけていますが呑む時も僅かでも日本酒を加えることで良い睡眠が得られているように感じています。

 たまたま晩年に初孫を得るという僥倖に恵まれた結果ですが、老いと真正面から向き合おうという意欲を持てたことはのちのち感謝することになるでしょう。

 

 最後は「先祖祀り」についてです。先日友人4人と会って当然のことのように「健康長寿」が話題になり、私たちだけが夫婦とも健康なことの原因は何かと問われました。みな経済的に恵まれていますから健康配慮におさおさ怠りはなく、にもかかわらずあっちを切ったこっちを開いたしているのです。そこで私が訊ねたのが「先祖祀り」です。3人とも仏壇はありますが毎日お水を換えるくらいで、ひとりは手を合わす程度のお参りをしていましたが声を出して念仏を唱える者はいません。ましてや般若経を唱えてはいませんし「先祖と話をする(内心で)」ことなど思いもよらないのです。

 お水を換えて仏壇の前に座り昨日生きさせていただいたことを感謝し出来事を伝え悩みを告白する、念仏と般若経を唱えて、最後にご本尊、曼荼羅、明王、ご先祖を念じて無想境に入る、一瞬――1秒ほどトランス状態に落ちて「如来様」が現れる。その1秒は完全な無意識状態に没入します、精神の空白時間です。目を開くとスーッと原状復帰しますが体中の力が抜けていたことが実感します。

 医療は肉体的なものです、それも「内臓関係」に限定されていて眼科や皮膚科、歯科は不具合なときだけで定期検診をしている人はめったにいません。まして精神的なケアは皆無なのでは。「先祖祀り」は私たちの親世代、祖父母世代は生活の一部でした。先祖は意識の中に「現存在」としてあったのではないでしょうか。それが精神的余裕を与えてくれていたかも知れません。健康は肉体的であると同時に精神的な側面との合併状態です。現在は肉体的側面に偏っているのではないでしょうか。

 

 いろいろ書きましたが「長生きは自己流」が一番です。それでこぞ納得の一生です。

 

 

 

 

2024年4月8日月曜日

筆ペンは邪道か

  先週極めて不愉快な目に遭いました。寺町二条の筆屋さんで「筆ペンのいいのありませんか」とたずねると「ウチは筆ペン、置いてません」と剣もホロロ、蛇蝎を見るが如き眼差しを浴びせられました。「呉竹の上級品をここが扱っているとネットで見たんですが」「呉竹、うちにはありません」。見かねたのかアルバイトの若い人が「入口のところにちょっとだけ置いてます。一軒隣の××さんならもっとあるかも知れませんよ」と申し訳なさそうに口添えしてくれました。隣の筆屋さんへ行くと女性の店員さんが親切に対応してくれて、呉竹ではなかったけれどソコソコ希望に沿った筆ペンを買うことができました。

 そして、書道も毛筆も廃(すて)れかけているのはあのおっさんのようなプライドばかりが高くて書道(毛筆文化)を普及させようと本気で考えていない輩がいるからだと心底思いました。

 

 去年筆ペンで百人一首を書くようになって、一年経って今年の正月から漢字も始めて書道にはまっています。毎日二枚ですがつづけているとたまに納得のいく字が書けることがあり、この時のよろこびはこれまで経験したことのないこころよさなのです。多分この習慣はこの先何年もつづくであろうと思います。

 

 これまで何回か書道に挑戦しました。筆も硯もそこそこのものを調えていますが長くて一ヶ月続いたことがありません。考えてみるととにかく面倒なのです。道具を出して墨汁(墨をすることは早くにしなくなっています)を用意して、書いて、筆を洗って乾かして。これがじゃまくさいのです。これを解決してくれたのが「筆ペン」です。筆箱から取り出してキャップを取ればそれでOK、書いたらキャップを被せれば終了、この手軽さは無敵です。大衆品ではじめてしばらくするともうちょっとマシなものが欲しくなり、今回はさらに高級品を試したくなったのです。弘法は筆を選ばず、といいますが素人は腕と内容が向上するにしたがってそれに合った筆が欲しくなるのです。何年もホコリを被っていた「本物の筆」もこの1年半ほどの間に何度か手にしました。ウデが上がるとそうなるのです、手にしてやっぱり「ちがうなぁ」とその良さを認識するのですが毎日になるとやっぱり筆ペンの手軽さに勝てません。

 

 そもそも筆を手にしようと思ったのは『くずし字で「百人一首」を楽しむ』(中野三敏著角川学芸出版)で「くずし字」を読めるようになろうとしたのがキッカケです。これまで何度も挑戦してどうしても習熟できなかった「くずし字」にもう一度取り組んでみようと思ったのです。これまでの失敗を反省してただ読むだけでなく「書いて」覚えようとボールペンで書いてみるとこれが中々効果的なのです。そこでどうせなら筆で書いてみようと手近にあった金封の表書き用で試すとこれが思った以上にお手本の雰囲気に馴染むので筆で書くことにしました。百首を一周すると筆をもっと良いのにしようと同じ呉竹でも上質のに取り替えるとますます「くずし字」らしくなり「覚え」の方も上々です。そうこうするうちに上のような経緯(いきさつ)に至ったのです。

 

 「くずし字」で平仮名になれると当然の流れとして「漢字」をやってみたくなりました。仮名のお手本を「百人一首」にしたのが続けることのできた原因でしたから漢字のお手本選びは慎重でした。本屋さんでいろいろ試し読みしましたがこれはという本には出会いませんでした。そこで古書店へ行ってみました。「三体千字文」を手に取って、これがいいと直感しましたが結構高いのです。そこでネット古書店で手に入れたのが『三体千字文』(飯田秋光書高橋書店昭和40年発行1,570円で購入)です。「千字文」というのは南朝・梁(502年~549年)の武帝が部下に字を習得させるために周興嗣に命じて作らせたお手本です、「三体」とは楷・行・草の三書体です。飯田さんの書体が好みに合っていて最高のお手本です。(意味は『岩波文庫・千字文(小川環樹他注解)』で学びます)

 

 何度も挑戦して挫折を繰り返してきた「書」になぜハマったのでしょうか。

 まずは「筆ペン」の手軽さです。筆箱から出せば即書ける手軽さは私のように面倒くさがり屋には必須の条件です。スタートは筆ペンでよいのです、手が上がれば結局「ほん物の筆」に行きつきます、当然の流れです。文机、硯、筆、墨、毛氈、紙と揃える大層さと大義さ、これが「書」を怯(ひる)ませるのです。最終目的は「書」に親しむことにあるのですから入口は入り易いほうがいいのです。

 次が「書体」です。お習字はまず「楷書」から、これが難関なのです。楷書は完成形で他人(ひと)が誰でも読める端正な書体として公文書などに採用されたものです。入口は実際に昔の人が実用したもの――多分行書と草書の間の「エエ加減」なものからスタートした方が書き易い、経験からそう思います。くずし字で百人一首を、漢字は行草楷の三体で書くから馴染みやすく入れたように思います。

 三つめは「お手本」です。百人一首を楽しみながら平仮名を書くという入口が良かったと思います。いい大人ですから「いろは」では意欲ゼロになって当然です。漢字も「千字文」は漢文で意味内容がありますから興味をもって三体を書きますから「くずし方」、筆の運びが学べて楷書への道が開きます。

 最後に「書斎」です。机に向かって姿勢を正して「書」に向かう、この切り替えは大事です。娘が使っていた部屋が空いて念願の書斎に仕立てて、これが「書」にもいい効果を生みました。

 

 パソコンとスマホの時代になって、これは止めようのない時代の流れです。当然のように「書く」ことが減ってきます。しかし「書く」という作業と「学び」には人類の長い歴史のなかで強い結びつきがあります。このままでは「頭脳の劣化」が起こるのではないか、そんな危惧を抱いています。

 「書」はただ書くという作業以上に「遊び」として高級です。どうしても残したい「文化」です。日本文化の重要なピースです。そこへの導入という大きな目的のためなら「筆ペン」を邪道視しないで誰もが「書」に興味を持つ入り口として、「書道」の構成要素として組み込むことは有効なのではないでしょうか。書道に携わる方々、書の用具を扱う業者の方々、一考の余地ありと思いますがいかがでしょうか。

 

 「書」が生活の一部になりました。毎日の楽しいスタートです。

 

2024年4月1日月曜日

人口減を乗り越える

  早いもので来週には孫が2才になります。保育園に入ったこの1年の成長は目ざましいものがあり、会うたびにジジ、ババを驚かす変化は生命の輝きそのものでいのちの不思議さを感じさせられました。可愛さが増すにつれて孫の将来が思いやられ不安と不憫さが募ってきます。今の日本を、世界をこのまま彼らに渡すことはできない。気候変動も格差も世界平和も、綻んだままでは彼らの未来に希望はありません。

 

 彼らの将来について今はっきりとしていることは、2060年に日本の人口が現在の1億2300万人から8700万人に減少しているということです。折りしもGDP(名目・ドル建)がドイツに抜かれて世界第4位に後退するという衝撃的な発表があって、このままいけばわが国経済は「失われた30年」に止まらず長期低迷に陥るのではないかという悲観的な見通しが強まっています。確かに人口ボーナス期と高度成長は期を一にしていましたから人口とGDPに相関関係があるのは否めません。

 一つの考え方は「一人当りGDP」を重視するという考え方です。2022年の世界ランキング(IMF)によれば1位ルクセンブルク(12.6万ドル)2位ノルウェー(10.5万ドル)3位アイルランド(10.3万ドル)4位スイス(9.3万ドル)でそれぞれ人口はルクセンブルク70万人ノルウェー550万人アイルランド510万人スイス880万人と人口小国です。そこまででなくてもドイツはGDP4兆7千億ドルで1人当り5.6万ドル(18位)になっていますから日本の4兆2800万ドル1人当り3.38万ドル(32位)とは1.6倍以上と豊かな数値を実現しています。そのドイツの人口は8330万人(2024年)ですから丁度2060年のわが国人口とほぼ同じです。ドイツは明治以来目標としてきた国ですし第2次世界大戦ではイタリアとともに枢軸国として戦い敗戦した関係ですからドイツにできたことがわが国にできないことはありません。

 

 その前に人口減少でなにが問題なのでしょうか。まず最初に心配されるのは社会保障制度が破綻するのではないかということです。さらに子どもの立場に立てば教育制度が悪化して上質な教育を受けられなくなるのではないかという心配です。わが国の社会保障は世界有数のレベルにあると思われていますし教育についても大学進学率が50%を超えていてニ三年後には大学全入時代が来ると言われています。この恵まれた状況がGDPの減少に伴って悪化するという心配です。

 そこで一つの判断基準として社会保障費と教育費のGDP比率が世界的にみてどのような状況にあるかを考えてみましょう。GDPが減少すれば社会保障費や教育費に回せる余裕が減少すると見るのが当然の考え方だからです。

 社会保障(給付)費(2019年OECD諸国)の対GDP比はフランス31.5%デンマーク30.8%フィンランド29.5%とつづいてドイツ28.2%アメリカ24.2%日本は23.1%でOECD中17位になっています。

 教育費(2022年度世界)は1位キリバス16.58%は突出していますが16位スウェーデン6.46%、22位南アフリカ6.18%、27位デンマーク5.93%、29位ブラジル5.77%、37位スイス5.81%、42位アメリカ5.44%、45位イギリス5.40%、45位韓国5.40%、75位ドイツ4.54%121位日本3.46%、125位中国3.30%となっています。

 こうした数字から浮かび上がってくるわが国の現状は世間に流布している「社会保障大国」では決してなく教育費に至っては世界の121位という恥ずかしい水準にとどまっているということです。ちなみに防衛費の対GDP比をみますと、わが国は2023年現在1.1%で世界平均の2.2%の半分であり、ウクライナ33.5%は別にしてもロシアの4.06%アメリカ3.45%英国2.2%に比べて相当少ないレベルに抑えられています(中国1.60%という数字は?です)。

 

 ドイツがこれからのわが国のあり方として検討に値する存在だとすれば、「江戸時代」は自国の歴史に学ぶ価値ある時代であったのではないでしょうか。人口は大体3000万人で推移した「定常社会」であったにもかかわらず生活水準は決して世界的に見て貧くはなく衛生状態と教育水準(識字率)はオールコック(『大君の都』)やルイス・フロイス(『日本史』)など幕末にわが国を訪れた外国人を驚嘆せしめたほどでした。その江戸時代に学ぶべきは徹底した「地方分権」とムダを排除した「循環社会」であったことです。地産地消で廃棄物を再利用する経済システムは今こそ再評価されるべきで掛け声ばかりの「地方分権」ではなく東京一極集中を一日も早く解消して過度の中央集権システムと訣別すべきです。

 

 2060年8700万人という数字は人口問題研究所の公的な発表で蓋然性の高い予測です。何も手を打たずにこのままいけばわが国の将来は暗然たるものになるのはまちがいありません。今のわが国の「形」は上述の数字で明らかなように「社会保障」も「教育」も世界の中で、先進国の中で相当劣った水準に止まった中流以下の国だということです。ということはそれ以外の分野に予算の多くを配分しているのが現在のわが国の形なのです。それは多分生産分野に偏った予算配分になっているのでしょう。敗戦の壊滅状態から復興し世界の先頭に躍り出る国策をとった戦後経済社会体制の必然で高度成長はその結果でした。しかしバブルがはじけて「失われた30年」を経過するなかでそうした「国のかたち」は終焉を迎えていたのです。役目を終えた予算や施策が大量に残っているはずでそれらを社会保障や教育分野に配分替えして、もし国民の同意が得られるのなら防衛費を世界水準の2%台に乗せることも可能です。国のかたちをそのままにして防衛予算を倍増しようとするから財政破綻を来すのであって、そのためには「新しい国のかたち」を国民に提示し同意を得ることが必要なのです。

 

 人口減少は決して決定的なダメージ要因ではありません。それを前提に国のかたちを変えれば今より豊かな国を造ることも可能なのです。ドイツでは大学卒業と同程度の収入と社会的地位が保証されたマイスター制度があります。子どもたちに「複線の進路」が用意されているのです。それだけでも子どもたちの才能は広く生かされるはずでその分国の成長力は高まります。

 

 人口減を国のかたちを変える好機ととらえる発想が今望まれます。

 

 

 

2024年3月25日月曜日

市場の真実

  報道に接していて、それはそうだけど本当はこっちだろうということがよくあります。今の裏金問題でも、政治に金がかかるのは二世三世と政治が世襲化して地盤を継続するために後援会(地方議員含む)の維持費がかかるからでしょう(票の買収は問題外として)。ということは政治と金の問題を本気で解決する気があるなら前世紀の遺物である世襲化をぶっつぶさなければ「政治改革」を何度やろうと解決できないことは素人でも分かっていることです。それを知らんふりしてああだこうだ言っているのが今のマスコミなのです。

 そこで「本質はそこじゃないだろう」という視点で幾つかの問題を点検してみましょう。

 

 まずは「儲かる農業」について。

 止まらない「高齢化」と拡大する「休耕田と耕作放棄地」、加えて農村から大都市への若者の流出と農業を取り巻く環境は悪化の一途をたどっています。結果として食料自給率はカロリーベースで38%(生産額ベースで63%)と低迷し「食糧安保」からみたわが国の脆弱性が浮き彫りになってきました。そこで危機感を抱いた国の打ち出した政策が「儲かる農業化=農業の成長産業化」です。そのために「農林水産業の輸出力強化のための取り組み」「海外への日本食・食文化の普及の取り組み」「世界トップレベルの『スマート農業』の実現に向けて」「農地の集積・集約化によるコスト削減」等を戦術として打ち出しました。これ以前には休耕田・耕作放棄地を集約化して「農業法人」を設立し若者を「雇用者」として受け入れ、受け入れ側の地方自治体は空き家となっている古民家を無償・格安家賃で貸し出すなどの対策で若者の誘致に取り組み一定の成果も上がっています。とくに子育て世代には良好な自然環境と手厚い子育てサポートが魅力となって移住者が増え出生率も増加した地方も出てきています。テレワークの推進と相まって今後地方移住者は増える可能性は高まってくると思いますし「儲かる農業」が実現すれば農業に従事する若者も増加するかもしれません。

 しかしこれらの政策に欠けているのが『価格決定力』という視点です。今の農産物市場での価格決定力は「農家」にはありません。持っているのは大型スーパーマーケットであり大資本――コンビニや外食チェーン店です。スーパーの低価格政策や100円寿司などの圧力は農家の地道な生産性向上の努力を無視して「市場価格」を押しつけてきます。農産物だけでなく「養殖漁業」などにもその勢力は及んでおり、この現状を放置したままでは「農業サイド」がどんなに企業努力を続けても「低価格」を押しつけられて「儲かる農業化」は実現できません。そしてそれは「消費者の低価格志向の消費行動」に淵源があり更にそれは「上がらない賃金」「使い捨ての非正規雇用と低賃金」に行き着くのです。

 「儲かる農業」はこのように「価格決定力」が農家以外の市場関係者が握るという「いびつな市場」を解決しなければ実現は不可能であり、それは消費者の「低価格志向の消費行動」を崩すことが必要でありそのためには「賃上げ」が不可欠であることが分かります。「農(漁業)産物市場の適正化」は必須でありこうした視点を欠いたマスコミの論調は「底が浅い」と言わざるを得ません。

 

 そこで「賃上げ」ですが、「働き方改革」と「労働力の流動化」というここ30年の間に進められてきた「新自由主義的労働政策」を転換しない限り「国民すべてに賃上げ」の恵みをもたらす体制にはならないでしょう。新自由主義的労働政策を大ざっぱにまとめると、景気変動のリスク回避を「非正規雇用」というショックアブソーバーで経営側が「自由度」を保持することと、労働組織率を低下させることで労働市場での「賃上げ交渉力」を経営側が絶対的優位をもつこと、の二点に集約できると思います。「自由な働き方」とか「仕事と自己実現の両立」などの美辞麗句に踊らされて非正規雇用という働き方を「ウーバーイーツ」や「ライドシュア」を新しい働き方としてありがたいもののようにアメリカから輸入したり、企業に縛られない働き方をしたいと若者が「個人事業主」という選択をしましたが、その結果は賃上げ交渉に「政府が口出し」するという異常事態が出来(しゅったい)し「官製賃上げ」が常態化するようになってしまったのです。本来なら労働市場で「労使」が丁々発止の交渉を「戦わす」のがあるべき姿なのですが組織率が今や16.%台(最高は1940年代後半の55%超)に止まっているのですから企業側の圧倒的優位となって「交渉」にならないのです。自由な働き方を選んだ結果「企業」という「巨人」に対して「個人」という「弱者」が刃向かうのですから勝敗は戦う前から決まっています。

 マスコミは「派遣」とか「契約」とか「業務委託や請負」を新しい働き方として好意的に報道しました。ウーバーイーツもライドシェアも何の批判的論評もなしに受け入れを是認しました。その結果が「長期の低賃金」という現状です。

 働くものが「働き」に応じた正当な賃金を獲得するには「企業」と対等な「交渉力」をもつことが必要条件であることを再認識すべきです。「新しい働き方」もそれが「正当な賃金」が得られるかどうかが受け入れの判断基準であるはずですがマスコミは経産省や厚労省のニュースリリースを垂れ流すだけでした。

 

 もうひとつ「教員不足問題」があります。

 以前から問題視されてきたように慢性的な長時間労働や部活指導、モンスターペアレント問題、いじめ問題、教育委員会や文科省からの過重な調査業務など教員を取り巻く環境は他産業との比較において相当劣悪な状態にあります。教員不足を解決するためにはこうした環境整備が不可欠ですがそれとは別に次のような視点も必要なのではないでしょうか。

 ひとつは公立学校以外の教育関連分野との競合です。今や塾や予備校、家庭教師はほとんどの子どもが利用しています。ということは本来なら教員になるべき人材が塾や予備校の講師、家庭教師になっているのですからその分教員の成り手が減るのは当然です。もうひとつは「私立学校」の増加です。最近の傾向として「お受験の低年齢化」がありますが今後「私立志向」は高まっていくのではないでしょうか。そうなると公立と私立の「教員獲得競争」が激化するのは明かです。

 「教員不足」問題は「働き方改革」も必要ですが教育関連産業や「私立学校」との競合を見落としては本質的な解決を図ることはできません。しかしこうした視点はマスコミにはほとんど見られませんし本家の「文科省」も問題にしていません。これでは「教員不足」の根本的解決は実現不可能です。

 

 これまでなんども取り上げてきましたが「記者クラブ」という日本独自の報道体制がある限り「上質なマスコミ」は育たないと思います。

 

 

 

2024年3月18日月曜日

職業に貴賤はない

  私たちの子どもの頃職業に貴賤はないと教えられました。それも相当厳格だったように記憶しています。そして同時に「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という福沢諭吉の『学問のすゝめ』の言葉も教えられました。今の子どもたちも教えられているのでしょうか。

 

 いま改めて「職業に貴賤はない」などという言葉を持ち出したのは最近ほとんど聞かなくなったからです。それにもかかわらず今ほどこの言葉の意味の重要性が高まっている時はないと思うのです。コロナがあって、自粛になって多くの人が安全のために身を竦(すく)ませて生活をしているなかで、普段通りの市民生活を守るために仕事をつづけてくれた人たち――私たちは今これらの仕事に従事する人たちを「エッセンシャル・ワーカー」と呼んでいます――の有難さを改めて認識させられました。そうであるのにそんな仕事を黙々と担ってくれている人たちが低賃金と過重労働を押しつけられている現実があります。ゴミ収集の人たち、病院の看護師さん、保育園の保育士さん、宅配を届けてくれる配送業者さんなどどれをとっても無ければコロナ禍の生活が送れなかったにもかかわらずあまり恵まれていないのです。反対に『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事(デヴィッド・グレーバー著岩波書店)』をしている人たちは恵まれた生活を保証されています。

 なぜこんな矛盾が起っているでしょうか。

 

 最も恐れることは私たちの心のなかに、いい仕事とそうでない仕事という「仕事のランク付け」があることです、仕事に貴賤ができていることです。そしてその根元をたどっていくと「いい会社(仕事)」があって「いい学校」があることです。「勉強してエエ学校入って立派な会社に就職せなあかんえ」と普通に言っていることです。親世代の心の中には職業に貴賤はないというモラルが今でもかすかに残っていますから若干の『罪悪感』がありますが若い人――子どもたちにはそれさえもないのではないでしょうか。

 

 戦争に負けて、何もかもを失って一面が焼け野原になって――ウクライナのプーチンの爆撃で破壊された「死の町」を見るときいつもあの焼け野原を思い浮かべます――、あそこからよく復興できたものだと思います。何もないからすべてを一から作り直していきましたから仕事にいいも悪いもありませんでした、どんな仕事も必要不可欠でした。みんなが貧乏でしたから身分に上下はありませんでした――人の上にも下にも人はいなかったから「職業に貴賤はない」も「天は人の上に――」が素直に受け入れられたのです。

 それが僅か11年(1956年)で「もはや戦後では」なくなって「高度成長」の時代に突入して19年間(1955年~1973年)、バブル期(1986年12月~1991年2月頃)を経てバブル崩壊(1991年3月~1993年10月)して「失われた30年」が「今」です。この間に「職業に貴賤」ができ「人の上に人」がいるようになったのです。

 この期間に何があったのでしょうか。「豊か」になって「給料の高い人と低い人」ができました。豊かさの尺度は「物を多く持つ」ことでそれは「給料の多さ」で計られました。『生産性』の高い低いで仕事が評価され「会社の成長度」が株価に厳しく反映されるようになりました。グローバル経済に勝って日本経済が成長続けるために「法人税率」が43.3%から22.2.%まで引き下げられイノベーションと投資が増加することで会社が儲かれば給料も高くなる――トリクルダウンを期待して、生産性向上のために「官から民へ」があらゆる分野で進められました。

 それが今の日本です。

 格差が信じられないくらい拡がって、非正規雇用が30年で2割から4割にまで増えました。そして「人手不足」時代になっていたのです。今年の大手の賃上げは軒並み「満額回答」でバブル崩壊後最高の5%以上を実現しました。パートなどの非正規雇用の賃上げも6%を超える高水準になっています。

 

 こうした労働市場の表面的な動きの下で大きな二つの「変革」がつづいています。

 1つは「ロボットとAI導入」で今ある仕事の49%が無くなる、というものです。実際メガバンクは3万人の人員整理をすすめています。

 もうひとつは「生成AI」の進化で多くの職種で仕事のAIへの「置き換え」が急速に進められる、という予測です。行政では職員サポートや企画事務活用(EBPM等)における生成AI活用の想定事例を作成して移行への準備が進められています。

 こうした動きのなかで「エッセンシャル・ワーカー」の必要性はますます高まっているのです。

 

 では具体的にエッセンシャルワーカーとはどんなものをいうのでしょうか。①医療従事者②介護福祉士や保育士などの福祉関連③教育機関に勤める教育者④警官や消防士の公務員⑤運輸業界や物流業者⑥小売業者や販売業の従事者⑦生活インフラの維持に関わる職種(電気、ガス、水道、通信、ゴミ収集など)⑧農業などの一次産業⑨銀行などの金融機関などがそれに相当します。

 生成AIの得意分野は文書(法律)やデータの多く流通している分野です。ということで最初に思い浮かぶのは「お役所仕事」です。先にも書きましたが行政が先行してAI活用に踏み出しているのはその表れでしょうし同様に法律を仕事の基本においている「士(さむらい)仕事」――弁護士、公認会計士、弁理士、社会保険労務士などは全部ではなくとも部分的にはすぐにも「置き換え」が可能になることでしょう。

 

 「昔は学校の先生とかお役人、銀行の人は信用できると思っていたけど今は誰も信用できひん」、 妻がよく言う文句です。それは結局、仕事が給料を稼ぐだけのものに成り下がったからです。以前東大理科三類(医学部)の学生に取材した番組で、なぜ3類を志望したのかという問いに「日本で最難関だから」と答えていました。医学医療に対する使命感もモラルもなく給料が多いから、社会的地位が高いからそして何より自分の学力(といっても受験学力ですが)の高さを誇示するために彼は医学部に進学したのです。

 

 今ある仕事の多くは消滅するでしょう。そして「生産性」を担当する分野はロボットとAIに置き替わるにちがいありません。そうなれば「生産性」が高いから給料が高いという価値基準は意味をなさなくなります。その仕事が好きだ、楽しい、面白い、価値がある、生きがいを感じる、そんな仕事だけが求められる社会になるでしょう。

 そのとき、仕事に貴賤はなくなっているにちがいありません。問題はそれで「健康で文化的な生活」が営めるかどうかです。

 多分人間はそんな社会をつくり上げていると私は信じています。

 

 

 

 

 

 

 

2024年3月11日月曜日

かんの虫

  数日前娘から電話がありました。「Hくん、ゆうべ4回も5回も起きはるねん。泣かはるから抱きしめてあげたらスグ寝やはるから良かったけど、親は睡眠不足で眠たいわぁ」。やっぱり来たかと思いました、これは「かんの虫」なのです。しゃべるのが遅くて心配していたのですが今年になると徐々に話せる単語が多くなり2月になると急激に言葉数が増え2語文も達者になって、もうすぐ2才になりますがその頃には一人前にニクマレ口もたたくかも知れません。保育園での活動が多様になり外出が増えてはじめての体験が積み重なって、言葉と体験の情報が大量になり睡眠中の情報処理がうまくいかなかったり容量オーバーして起きて泣いて、寝てスイッチを入れ直して、起きて泣いて。むかしはこれを「かんの虫」と言ったのですが今は脳神経科学的な説明をしているようです。

 ことほど左様に我々の時代と「子育て方法」が変わっているのに気づきました。それは偶然と必然と必要に迫られてのことですが結果として順調に成長してくれていますからまちがってはいないのでしょう。そこで彼らの子育てで印象に残っているいくつかを記してみようと思います。

 

 まず「ベッドからの解放」は偶然の産物です。産後の休養をわが家で過ごして帰宅して、寝室が2階にあるため家事を1階でやっていると子どもに目が届かないことに不安を覚えたのですが、かと言ってベッドを毎日上げ下ろしするのも面倒なのでリビングに蒲団を敷いて寝かせることにしました。これが良かったのです。4ケ月になる前から「寝返り」をするようになりハイハイも標準より随分早かったように覚えています。考えてみれば「ベッドで寝かす」のは親の都合です。赤ちゃんにとって〈70cm×120cm(標準サイズ)〉の囲いは相当なプレッシャーではないでしょうか。寝返りの標準は生後4~5ヶ月といわれていますがそれはベッドの与える圧迫感でそうなっているのかもしれません。わが孫は早期にベッドから解放されたおかげで幼児期の余計な「ストレス」を受けずにすんだのは良かったにちがいありません。

 

 テレビを1年をすぎるころまで見せないようにしたのは夫婦の方針です。これが「集中力」と「根気」に良い影響を与えました。耳に入ってくる言葉はすべて「自分に向けられたもの」と彼は思いこんだにちがいありません。もしテレビを習慣的につけていたらテレビの音に反応することもあるでしょうが周りのおとなは対応してくれません、そんな繰り返しは言葉(音)に対する集中力を散漫にしてしまうでしょう。集中力の継続が途切れて周りへの働きかけが弱まってしまうかもしれません。自分に向けられているとはっきり分かる言葉、与えられる言葉にしか反応しなくなるかもしれません。テレビの習慣的な「つけっぱなし」は幼児の集中力と根気の養成に悪影響を与えるのではないでしょうか。

 こうしたこともあってか自分で「遊びをつくりだす能力」が目立ちます。先日も紙風船と吹き戻しを持って行ったのですがおもちゃよりも包装袋(7cm×12cmほどの紙製)に興味が向いて袋飛ばしを始めたのです。うまくいくとくるりと回転してスーッと着地します。4、5回に1回ほどの成功が嬉しいのかこっちが音を上げるほどしつっこく繰り返していました。

 おもちゃの数はおもちゃ箱(50cm程の立方体)1杯とちょっとしかありません。本は40冊ちかくあります。おもちゃは1つのおもちゃでいくつもの遊びをします。たとえば「おじゃみ」は投げる、落とす、落ちる、隠す、重ねる、つかむなどして遊んで今は重ねる(大小各3個)と6つ全部をつかむことが楽しそうです。6個重ねるのは大小あるので難しく5、6回に1回成功する程度ですが根気よくやっています。6個を一挙に全部つかんで箱に入れて、急いでつかみ出してまたつかんで入れる。何が楽しいのか何度も何度も繰り返します。おかしかったのはつかまり立ちができるようになったころ、自分の背より少し高いところにある1.5cm程の段におじゃみを置いて滑り落ちてくるのをキャッキャ言って笑っていました。隠す、はわざと後ろに投げて「どこいったのかなぁ」といった風をよそおいます、どこいったのかなぁと言いながらおとなが探すフリをして「あった」と見つけて渡してやるとまた後ろに投げて探すフリをする。姉娘が遊びに来た時30分以上付き合わされて閉口したと言っていました。

 おもちゃ遊び以上に好きなのが本です。読み聞かせを早いうちからやったせいで本好きになり、同じ本を何度も何度も繰り返し読むので内容が記憶されているのか「いちご」が出てくると他の本のいちごを探し出して「いっしょ」と示してくれます。それが得意で楽しいようです。

 子どもは大人の想像もできない遊びを作り出す、発見する能力を持っています。それを邪魔しない、気づいてやる。子どもは遊びの天才です。

 

 1才になって、育児休暇が終了して保育園にあずけるようになったのは親の必要からでした。1才になったばかりの幼子を親の庇護から放り出して集団生活に入れることに不憫を感じました。できることなら私どもが1~2年あずかってやりたい、そう本気で考えました。「子どもは3才になるまでは母親の手で育てるべきだ」という「3歳児神話」を強く意識しました。通園し始めた頃は保育士さんに預けると泣くことが多かったので「後ろ髪を引かれる」思いで涙が出たこともあったようです。

 しかし杞憂でした。1年経って孫は驚くべき成長を遂げました。子どもは親(おとな)が思う以上にたくましいのです。親や爺ちゃん婆ちゃっが育児していたのでは到底到達できなかった「成長度」を孫は達成しました。保育士さんたちのスキルもありますが子ども同士の「学び合い」も大きいと思います。

 大体核家族で子育てを親だけで行なうようになったのはここ30年40年のことでそれ以前は大家族で育てていましたし、古代では部族や集落で何人もの子供を共同で子育てしていました。母親と云えども貴重な労働力でしたから出産してすぐに採集や農作業をするのが当然で養育は「おばあたち」の仕事でした。そう考えると親だけに子育てを押し付けている今の方が異常なのかもしれません。

 今にして保育園へ預けて正解だったと思います。

 

 80才で授かった初孫、その成長のまぶしいこと。まちがいなくこの子が私を生かしてくれています。

 

 

2024年3月4日月曜日

ことばのちから

  わが国は、古来自然災害の大変多い国であり、先人たちは自然の恵みに日々感謝するとともに畏れも抱き、自然の中に神を感じて祭祀を行い、畏怖の心をもってつつましく生活を営んできた民族であります。

 これは石清水八幡宮宮司、田中恆清さんの能登半島地震で罹災された方々への慰謝の言葉の一部です(2024.2.29京都新聞)。この小さな記事を読んだとき、地震発生以来心の中で蟠っていたもやもやが一掃された気がしました。

 阪神淡路大震災、東日本大震災と福島原発事故、熊本地震と相次いだ中で、われわれは表面的な復旧・復興は行ないましたが根本的な思想の転換や経済・社会施策の方向転換には手をつけずに済ましてきました。福島原発事故直後原発の見直しを宣言し再生可能エネルギーへの方向転換を打ち出しましたが岸田首相はシレーッと「原発主電源化」に後戻りしてしまいました。能登半島地震にしても能登地方では近年何度も震度6や7近い地震が起こっていたにもかかわらず地震学者は大地震の危険性を警告しませんでしたし、大体日本海側の大地震予測はないがしろにされてきました。そして石川県知事はそんな状況であるにもかかわらず、地元民の不安の訴えがあったにもかかわらず、真摯に向き合わず地震への備えを怠ってきました。こうした為政者や学者の姿勢には、自然に対する傲慢さ、分からないこと(日本海側の地震調査の困難さ)に対するひたむきな学問的追求のなさ、怠慢さが顕著にうかがえます。

 仏教伝来までのわが国では自然神に対する信仰が主でした。今でも私たちは巨石や巨樹の前に立つと言葉にできない「畏れ」や「怖さ」が湧いてくるのを実感します。学問や科学の進歩はわれわれの生活を飛躍的に便利にし物質的豊かさをもたらしてくれました。しかしそれは科学や学問の「手の付けやすいところ」「得意な分野」で成し遂げられたことです。不得意な分野やまだ分かっていない領域は手づかずのままです。冷静に判断するなら自然界では「分かっていないこと」の方が断然多いのです。にもかかわらずわれわれは「自然を管理できる」と勘違いしてきました。だから「想定外」の災害を繰り返しているのです。

 自然の恵みに日々感謝する(略)畏怖の心をもってつつましく生活を営んできた、という田中宮司のことばにはわれわれに反省を促す強い「ちから」があります。

 

 「挫滅」。ざめつ、と読みます。この言葉は今度の能登半島地震で初めて知りました、災害状況の中間とりまとめの中に出ていたのです。挫のあとにつづく「滅」の字のなんと残酷な響きでしょうか。

 医療・ケア用語で「外部からの衝撃や圧迫によって、内部の組織が破壊されること」です。7万8千棟弱の住宅損壊があり241人の方が亡くなっていて92人の方が「圧死」されています。圧し潰されて骨が崩れて内臓が破壊される。なんという苦しさであったでしょうか、即死でなく徐々に痛み苦しみながら死んで行かれた被害者の状態を鮮やかに映している「挫滅」という文字(言葉)に衝撃を受けました。心が痛みました。「文字のちから」を知らされました。

 

 異常事態でも人々をつなぐ「きずな」を支えるのは言葉であり、言葉が「もうひとつのシェルター」になっている。

 ウクライナの詩人オスタップ・スリヴィンスキーの『戦争語彙集』(ロバート・キャンベル訳岩波書店)のなかにある言葉です。毎日新聞の書評欄(2024.1.20)に沼野充義さんが書いているなかにあった引用です。戦争下の市民に取材して普段使っている言葉が戦争によってどのように変化したかという視点で市民の体験がつづられています。例えば、「林檎」はかって恋人と聞いていた庭先に落ちる音とミサイルが落ちる音が重なる、以前見上げていた「星」は今は爆撃で窓が砕け散るのを防ぐテープを見て思い浮かべる言葉になった、という風です。

 まだこの本は読んでいないので上の引用がどのような文脈で語られているのかは分かっていませんが心に刺さったのです。「シェルター」とは、人を保護する施設や場所のことで、危険や攻撃から保護するだけでなく暑熱や風雨、駆け込み寺、難民収容所なども含まれます。しかしわれわれが今イメージするのは原爆から避難するシュルターです。ウクライナを侵攻するプーチンの脅しで原爆の脅威が緊迫感を増してきたためシェルターの必要性が高まっています。しかし物理的生理的脅威だけでなく現代では心理的な痛み苦しみも避けがたい状況になっています。そんなとき何気ない他人の言葉で「救われる」ことが少なくありません。絶望的な逃げ場のない状況に追い込まれることの少なくない現代において「ぬくもり」のある言葉は「シェルター」そのものです。

 

 齢のせいか最近言葉に神経質になっています。テレビやインターネットの言葉は暴力的に感じますし新聞や本の活字に敏感に反応します。そんななか京都新聞に連載されている冷泉貴実子さんの「四季の言の葉」に出会いました。わが国の古典に取材した「和語――やまとことば」(単語と表現)を、一つの季語―季節にまつわる言葉を取り出して100字ほどの短い文章で説明してくれるのですがこれが「豊潤」なのです。知らない言葉がいくつもありますし、その表現が多彩なのです。日本語がこれほど繊細、豊潤であったのかと驚かされます。

 一方で全盛のSNSは50字足らずの短文が主流です。おまけにテンプレート――標準化された文例――を駆使しますから独自の表現はむしろ嫌われます。今や「マルハラ(文中に読点“。”が書いてあると叱られているような圧迫感を覚えると“。”が忌避されているのです)」などという理不尽な傾向さえ起こっています。こんなことがつづけば「豊富な日本語」は絶滅するかもしれません。「ことばのちから」は学習と訓練で養成されます。しかしもっと大事なことは「伝えたいこと」を持つことです。

 

 今最もおそれるべきは「伝えること」を諦めることです。