2009年12月8日火曜日

市民マラソンに初挑戦

  先週の日曜日八幡市民マラソン大会3キロの部に参加した。毎朝ストレッチやテニスの壁打ちをやった後1キロのジョギングをつづけているうち一度レースに挑戦したいという意欲が湧いてきた。偶々仕事の関係で八幡市役所へ行った折に大会を知り軽い気持ちでエントリーした。
  レースが近づいてくると何か不安になってきてジョギングシューズを新調した。10日ほど前から3キロのレース・シミュレーションを重ねた。徐々にタイムがちぢまり15分を切れるようになった。自信めいたものを胸に秘めてレース当日を迎えた。

  スタートして圧倒された。凄いスタートダッシュで皆、飛ばしていく。あっという間にドンジリになってしまう。しかし懸命に『マイペース』を心がける。3分どころで女子高生らしい二人に追いついた。その前のママさんランナーも抜いた。しかし今日の『3キロ』は長い、気ままに一人で走るのとレースはこんなに違うものなのか。それにしても長い。やっとのことでゴールにたどり着いて「完走証」を発行してもらった。『248位/335人中・56位/74人中』良かった!エントリーした「高校男子・一般男子」で7人も抜いていたんだ、3キロ部門で100人も私の後ろにいる。そう思うと嬉しさが込み上げてきた。タイムはどうだったのだろう。『2904秒』ウソだろう!?

  帰りのバス停で同年輩の女性に出会った。「何キロ走られたんですか」「3キロです」「あれね、誘導員のミスリードで5キロほどあったらしいですよ」「本当ですか!5キロと2分ほどしか違わないから衰えたなぁって落ち込んでいたんです。良かった」。ションボリとしていた彼女の顔がパッと輝いた。
  私の抗議の後お詫びのアナウンスがあった。「しかしレースは成立していますので上位8位の方まで表彰します」冗談じゃない!レースは成立していない!我々は3キロのレースがしたかったのだ。チェックリストにも『レース運びの見通しが立っているか。体調に異常を感じたら、早めにレースをやめる勇気を持ちましょう』と書いてあるではないか。レースはあなた方が考えている以上に、真剣で、でも楽しみなのだ!!
  今回のレースで一番の問題は私が抗議するまで本部が事実を知らなかったことだ。このことの意味は相当根深いのだが関係者は気づいていているだろうか。

 


2009年11月23日月曜日

詐欺女事件

 お金持ちと普通の家が今よりもっとはっきりとしていた頃、「ええ氏(お金持ちで育ちのいい家の人のことを関西ではこう云っていた)」の旦那さんが『御妾さん』をもつことは割合と普通のことであった(勿論全てがそうではなかったが)。正妻さんは器量もそこそこで頭もよくキチンとしていて何より育ちのいい家から嫁いできているから品が良い、いわゆる『良妻賢母』型で文句のつけようがなくご近所の評判も悪くない。ところが妾になった女性というのが教養が乏しくだらしの無いところもあって、何より器量が正妻さんより相当劣る場合が少なくなかった(と聞いている)。あの正妻さんのどこに不満があってあんな女と、といわれるようなタイプが類型的な『御妾さん』であったようだ。

 最近マスコミを騒がしている「34歳女詐欺事件」であるとか「鳥取35歳詐欺女事件」で当該の女性が「肥満型で余り美人でない」ということで話題になっているのを知って『お妾さん』の話を思い出した(事件の彼女たちがどれほど上等かどうかはしらないが)。男性が女性に求めるものが一様でないことを知っていれば別に不思議でないのだが、世間ではマスコミも含めて不審がっているのがおかしい。多分大量に同種の情報が一方通行にタレ流されているので『男が見るいい女』がステロタイプ化されてしまっているのだろう。未熟な若い人ならそれも仕方ないが、いい年をした年配の男性までもが「若いピチピチした女」の尻を追いかけているのは余りミットモいいものではない。

 人為的につくられた流行に押し流されるように女性や男性の良し悪しまでも自分の価値基準で判らず借り物の尺度で判定している現状を嘆いても仕方ないのだろろうが、相手に真正面からぶつかってみて欲しいと思う。

 先のお妾さんの話は、家では表の顔で通さなければならないから形式ばって息が抜けない反動で気楽な場所を求めてそうした状況に合う女性を選んだ、ということらしい。決して褒められたことではないが、そんな余裕のあった時代が僅か50年ほど前だったことに驚く。

2009年11月18日水曜日

残虐への郷愁

  久し振りに横浜に行ったついでに港の見える岡公園の中にある「神奈川近代文学館」へ行ってみた。これが思わぬ儲けもので興味深い資料の数々に出会った。なかでも夏目漱石の墨絵二幅には驚かされた。とても素人の手遊(てすさ)びとは思えない見事なもので、改めて昔の文人の教養の深さに感服させられた。

特別展示で「大乱歩展」が行われていたが、そのうちの月岡芳年『無残絵』コーナーのタイトルに用いられていた「残虐への郷愁」という彼のエッセーが気になって、帰ってから早速乱歩全集を開いてみた。「神は残虐である。人間の生存そのものが残虐である。そして又、本来の人類が如何に残虐を愛したか。神や王侯の祝祭には、いつも虐殺と犠牲とがつきものであった。社会生活の便宜主義が宗教の力添えによって、残虐への嫌悪と羞恥を生み出してから何千年、残虐はもうゆるぎのないタブーとなっているけれど、戦争と芸術だけが、それぞれ全く違ったやり方で、あからさまに残虐への郷愁を満たすのである」。短いエッセーの結語にこうあった。

最近残忍な犯行が際立って多くなった。今マスコミを騒がしている「島根女子大生殺人事件」をはじめとしてここ数年の間に両手に余る事件が発生している。そこで展開される事件の分析や解決策のなかに乱歩のいう『本来の人間が有していた残虐』に根ざした論が全く無かったことに違和感を覚えていた。

幼い子が蟻を圧し殺そうとすると「アリさんが可哀そうでしょう。止めようね」とやさしく諭すことがほとんどであろう。ミミズを足で踏みつぶそうとしたら「気持ち悪い。やめなさい」と親の感情を押し付けてしまうのではないか。しかし人間の心の奥底には今でも『本源的な残虐さ』が潜んでいるのは間違いない。自我の目覚める前に小さな生き物や植物を殺したり傷めることでかすかな満足を得ながら、社会生活の便宜主義という『道徳』や『日常的な宗教の力添え』を通過する中で「残虐を飼い慣らす」技術を身につけるのではないだろうか。最初の『小さな満足』をえないで一足飛びに大人になってしまった子どもたちが多すぎる気がしてならない。

2009年11月1日日曜日

表現の自由

 秋競馬真っ盛りである。菊花賞、天皇賞秋から暮の有馬記念へとつづくこの数ヶ月は競馬ファンにとって堪らない。馬券が的中すればもっと良いのだがほとんどの人は多分マイナスに違いない。そんなファンが頼りにする『競馬新聞』だが的中率は意外と低い。昔大川慶次郎という競馬評論家が1日の全レース的中という偉業を成し遂げたことがあったが、このような僥倖は空前絶後のことだ。

 シンザンがダービーに勝った年に競馬を始めた私の競馬暦はそろそろ半世紀になるがまったくの『馬券下手』で勝った記憶があまり無い。血統から動物学的アプローチまで相当深く『競馬道』を極めた積りだが結論的に必勝法が「騎手で買う」では、莫大な投資は全く生かされていないに等しい。しかし競馬を構成している多種多様な要素の中で公表されている最も確率の高い情報は「騎手の勝率」だからそのランク上位騎手を中心に推理を組み立てることはあながち間違いとはいえない。その証拠に人気上位の馬に勝率の低い騎手が騎乗しているレースでベテラン騎手の騎乗馬を絡ませて高配ゲットというケースは決して少なくない。

 いずれにしても競馬の予想は当てにならないのが常識だが経済評論家の『景気見通し』が同様の評価しかないのは困ったことだ。これについては予想する側に言い訳があるに違いない。そもそも経済は多様な要素が影響しあって結果に繋がるものだからその前提を抜きにして「来年の景気は?」と問われても答えに100%責任は持てないという言い分には同情の余地がある。まぁ競馬の予想も景気の見通しにも全幅の信頼を置いている人は余り居ないから詮索はこれ位で止めておこう。

 冗談で済まないのは格付け会社の「格付け」だ。今回の金融危機は複雑な金融工学を駆使して作られた金融商品の破綻が原因になったが、投資家は「格付け」を頼りに商品を購入していた。その投資家の損害賠償請求に対して「表現の自由」を盾に格付け会社が責任回避しているというのだから呆れてしまう。投資後進国の我国が「貯蓄から投資へ」を実現するにはまだまだ未整備な分野が多い。

2009年10月26日月曜日

WBCと日米安保

 今年のプロ野球は絶対に中日に優勝させてはいけないシーズンだった。巨人のセリーグCS優勝でこの願いは叶ったが、何故中日にこだわるかといえば春のWBCへの出場拒否が面白くなかったからだ。ご存じの通り日本チームが連覇したが、激戦の後遺症に各チームが苦しんだことは記憶に新しい。あのイチローさえも胃潰瘍で開幕に間に合わなかったことを考えるとWBCの選手に与えた肉体的精神的負担が激甚であったことがわかる。もし出場拒否した中日が優勝することになれば大いに困ったのだが、幸いそうした事態は避けることができて一安心である。

しかしこれはあくまでも私の個人的心情であって「野球世界は契約社会。選手が時に社員のように扱われるのはあり得ない(落合・中日監督談)」という考え方には一理あるし、それよりもアメリカ野球の事情だけですべての運営が行われている現在のありようは早急に改善される必要がある。

アメリカの身勝手さは野球に限らない。地球温暖化ガス削減問題など枚挙に暇がないが、なかでも日米安保体制への姿勢はその典型だ。現在問題になっている普天間基地移転問題に関して、日米安保は両国の基軸であり、たとえ自民党政権との取り決めであっても国家間の約束であるから速やかに実施するべきだ、という物分りのいい意見が多いが果たして米国は日米を基軸と考えているだろうか。ニクソンショックに表れているように米国は日本の頭越しに中国へ接触する「裏切り行為」を繰り返してきている。とりわけここ数年の中国への接近は異常であって安閑と放置できるものではない。そもそも米国には「心地良い関係(ゲーツ米国務長官)」と我国を侮っている気配があり、とても「対等な国家関係」などとはいい難い。

現在の日米安保は極東に於ける平和維持、極言すれば『中国と北朝鮮の脅威』への備えが我国安全保障そのものであり、その中国へ異常接近している米国が、今のままで、その時に、我国の安全を保証してくれるかどうかは甚だ疑問である。日米と日中の賢明な関係構築こそ我国安全保障の要諦と考えるべきで、民主党の今後の対応に期待したい。

2009年10月10日土曜日

古事記の国

 できたばかりのオノゴロ島に新居を構えたイザナキノ命(みこと)とイモイザナミノ命。初めての夜、イザナミノ命が『吾が身は、成り成りて成り合わざる処一処あり』と。イザナキノ命こたえて『我が身は、成り成りて成り余れるところ一処あり。故、この吾が身の成り余れる処をもちて、汝が身の成り合わざる処にさし塞ぎて、国土を生み成さんとおもふ』。さて『みとのまぐあひ(媾合い:筆者注)』のうち『イザナミノ命、先に「あなにやし、えをとこを。」と言ひ、後にイザナキノ命「あなにやし、えをとめを。」』(おおざっぱにいえば「あれまぁ、なんと好い男(女)なりや」という意味になろうか)。という事態に至ったそうな。

そんな後に子を生したがひとり目は流産、ふたりめも五体満足でなかった。思い余って天つ神に相談したところ『女先に言へるによりて良からず。また還り降りて改めて言え』との教え。早速帰って改めて行為に及び教え通り『ここにイザナキノ命、先に「あなにやし、えをとめを。」と言ひ、後にイモイザナミノ命「あなにやし、えをとこを。」と言ひき。かく言ひおえて御合して、うめる子』が『大八島國』なる我が日本国であった、と古事記に記してある。(『』内は古事記の本文)。

何という「大らかさ」か!若干の好色さを交えながらノビノビと語られるこのような建国記は世界に比類無いであろう。

明治維新以来一世紀半に及んだ国の形が今、問い直されようとしている。マスコミは早くも「3兆円の補正予算削減が2.5兆円に留まっている」などと批判し始めている。しかし考えてみれば僅か1ヶ月足らずで2.5兆円もの無駄(何を基準とするかは別にして)があぶりだされた現実は、維新以来の官僚組織を中心とした中央集権体制が著しい制度疲労に陥っていたことの証に他なるまい。

「蜜月の100日」も未だ終わっていないのだから永い目で民主党政権を見守ろうではないか。何といっても「古事記の国」なのだから。

2009年9月27日日曜日

子ども手当の意味するもの

「一人口は食えぬが二人口は食える」という、今の若い人も多分そんな思いはあるに違いない。それなのに「子供には苦労をかけたくない」「十分な教育を受けさせられるか自信がない」という不安があって結婚に踏み切れない側面が相当強いのではないか。

経済協力開発機構(OECD)の「図表で見る教育09年版」によると日本の06年の公的財源からの教育支出の対国内総生産(GDP)比は33%(OECD平均は49%)で比較可能な28カ国中ワースト2位、公私合わせたすべての教育支出に占める私費割合は333%と韓国(412%)に次いで2番目に高かった。この事実は上に書いた若い人の不安を裏付けていないか。考えてみれば戦後60年の間に、以前は家庭が負担していたいろいろの機能を社会化してきた。医療、介護、老後の暮らし、そして教育の一部など。その結果高齢者の負担は随分軽減されたのに比べ若年層のそれは相対的に重くなっている。特に子育ては親の当然の責任として殆んど全て自己負担とされている。

今回の衆議院総選挙で民主党が圧勝した。バラマキ公約のマニフェストのお陰だと一部で言い募る向きもあるがそうだろうか。(1)中学卒業までの子ども一人に月額26千円の「子ども手当」を支給する。(2)公立高校を実質無償化し、私立高校生の学費負担を軽減する。(3)ほぼ自己負担なしに出産できるようにし、出産一時金を最大55万円支給する。(4)保育所の待機児童を解消する。(5消費税を財源とする「最低保障年金」を創設し、全ての人が7万円以上の年金を受け取れるようにする。
 これらの施策から見えてくる日本の将来像は、安心して子供が生め、一人の子供に約500万円の「子ども手当」が支給されるので高校の無償化も併せればそこそこの教育を受けさせることができる。これだけでも結婚後の生活設計はかなり明確に描けるようになる。

少子化による人口減少の解消は我が国経済の成長を維持するための最重要課題である。上記の諸施策は決してバラマキではない、コミットメント―必達目標である。

2009年8月24日月曜日

選挙と覚悟

 四年ぶりの衆議院議員総選挙も中盤にさしかかり民主党の圧勝が伝えられている。残る1週間に余程のサプライズが無い限り自民党は壊滅的な敗北を喫することだろう。もしそうなった場合我々国民は相当な覚悟をしなければならないことに気づいているだろうか。

自民党の壊滅的敗北は戦後自民党政治の否定を意味する。では自民党政治とは一体何だったのだろうか。極言すれば「利益配分型」の政治であり国民の立場からすれば「お上にお任せ」の民主主義であった。何故そうなったかを考えてみると、勝ち取ったものでなく敗戦によって与えられた民主主義であったことが大きく影響していた側面が強い。従って戦後自民党政治を否定するなら「お上にお任せの利益配分型」政治と決別する覚悟が必要になる。

敗戦によって焦土と化した国土を再建するためには乏しい財源を効率的に活用しなければならず、又めざすべき目標が明確であれば『有能な官僚組織』が最適であることは歴史が証明している。そこで中央集権的な行政体制を築き企業や市民から税を徴収し道路やインフラの整備、補助金の交付などのかたちで利益配分してきた。族議員の跋扈や中央への陳情の常態化は必然であったし、反対に民主党が官僚主義からの脱却をマニフェストの柱にしているのは自民党政治を否定する党である限り当然のことである。しかし本当に我々が反自民党的政治を望むならば民主党のマニフェストに入っている『自民党的利益配分』はいずれなくなるであろうことを覚悟しておく必要がある。そうでなければ民主党もいずれは自民党的に変質してしまって正常な二大政党政治は実現不可能になるからである。

さあ、「民主主義とは、社会的強者の人権ではなしに、社会的弱者の人権を守ることにほかならない」という飯沼二郎の言葉を心に留めて、覚悟して、選挙に行こう。

2009年8月3日月曜日

マニフェストについて

 総選挙を控えて各党マニフェストの品定めがマスコミを賑わしている。しかしメディアの大騒ぎに対して市民はいたって冷めている。

マニフェストとは「政権公約」と訳されて従来の「選挙公約」と区別され、具体的な施策、実施期限、数値目標を明示して事後検証性を担保し、有権者と候補者との間の委任関係を明確化したものとされている。2003年の公職選挙法改正によって選挙期間中の配布が認められるようになったが未だ日も浅く、事後検証によってマニフェストを信用できるものとして共有した経験がないこともあり疑心暗鬼のところがある。それよりもっと根本的なところで市民が政党を信用していないのは前回の小泉郵政選挙の結果の今日の体たらくにある。自民党296議席、与党327議席という圧倒的多数(総議席数480)を与えたのは『郵政民営化・構造改革・規制緩和』という選挙公約に有権者が日本の変革の兆しを感じたからであった。ところが今や郵政民営化は自身のアリバイ(当時の総務相であったが民営化には反対だった)を主張して総理が見直しを示唆する一方構造改革も規制緩和も中途半端なかたちで後退している現状では総理総裁が変われば政党の約束も簡単に反古にされてしまうのだと市民が認識してしまうのも当然だろう。

更に市民がマニフェストを信頼していないのは財源問題にある。与野党共にマニフェストの実現可能性の拠り所として『財源の有無と信頼性』をもちだしてくるが、そもそも我国予算(約89兆円)の38%(約33兆円)は借金(国債)で賄われている。一般歳出約52兆円(58%)の6割以上が借金で賄われているということは予算の6割に財源がないということに等しい。にもかかわらず財源がないからバラマキだ、選挙目当てだと相手党のマニフェストを非難するのは目くそ鼻くそを笑うの類に近い。一見手当てが妥当に見えても今や我国予算の6割以上が国債に依存した『マヤカシの財源』であることを市民・有権者は知っている。

国の運営がこれまでの延長線上にある方法ではどうにもならないことを本能的に気づいている国民が選択をどう下すか。選挙の結果が興味深い。

2009年7月6日月曜日

何故今、地方の反乱か

 明治維新以降、我国は「殖産興業」「富国強兵」を国是として先進国へのキャッチアップに邁進してきた。目指すべき目標が鮮明な限り少数の優秀なエリートによる集中管理が効率的な結果を齎すのは明らかで中央集権は必然であり、殖産興業が国是であれば『供給側=企業偏重』の『国のかたち』は当然であった。こうした国のかたちは敗戦処理にも有効に機能し驚異的な戦後復興を果たすことができた。

 しかしキャッチアップの果たされた今、国による種々の介入は資源配分に歪みを与え企業の自由な市場活動を阻害する悪い効果のほうが大きくなっている。むしろ『需要側=家計=市民サイド』への配分に国や行政の重点が移行しなければならないのに政治はそれに気づいていない。国のかたちを旧来の供給(企業)側育成のままに放置して、必要でなくなった予算や特別会計、補助金に税の配分を継続していたのでは国全体としての効率が低下し国民に不満が充満するは当然である。供給(企業)側偏重の国家のあり様は歴史的任務を終えたことを認識する必要がある。

 市民の要求に応えるためには国よりも身近な地方行政組織の方が効率的であることは明らかである。待機児童の多い保育施設の開設一つをとっても都市と地方で事情が異なるにもかかわらず全国一律の基準を押し通そうとするところに無理がある。活動領域が国全体、いや世界に及ぶ企業を国や行政の主たる管轄対象とする時代から市民のニーズに対象が大きく移行した現在、国や行政のかたちは変化しなければならないし国と地方の役割分担に根本的な変更が加えられるのも時代の要請である。その結果予算配分が国と地方で逆転するのも趨勢であるにもかかわらず官僚や役人、そして政治家もこの変化に気づいていないし受入れようとしない。

 消費税の増税を当然のように国の設計が行われようとしている。しかし企業偏重から市民重視に国のかたちを変更すれば事情は全く異なってくる。国と地方のあり方にも大転換が必要になる。地方の反乱は市民の反乱のでもあることに気づいた政治家が現れるまでこの国の混乱はつづくであろう。

2009年6月27日土曜日

下請いじめ

 何という厭な言葉であろうか。そして何と古い言葉だろう。

CSR(企業の社会的責任)やコーポレート・ガバナンス(企業統治)などカタカナ文字に彩られて『経営学』は進歩し、企業経営を科学的アプローチによって捉え経営の近代化を進めるというMBA(経営学修士)で固められた経営陣を擁しながら日本を代表する世界的企業には『偽装請負』や『下請いじめ』という古典的な『あくどい儲け主義』が未だにはびこっている。

昨年度の「下請け代金不当減額の総額」が前年度比2.7倍の約29億円の最多に上ったと27日公取委が発表している。これは下請け業者へ支払うべき代金を発注者側が不当に減額したものを下請法違反で返還させた金額で044月の改正法施行後の最高額である。是正勧告も同2件増の15件で最高になっており警告措置に留まった発注者側も含め計50社が下請約2000社に不当減額を行っていたと報告している。しかしこれは公取委へ違反を訴えたものだけで氷山の一角に過ぎない。実際はこの何倍もの下請業者が泣き寝入りしているに違いない。

建築業界には更に異なった事情もある。先月15日近畿整備局等近畿地方の発注機関と(社)日本土木工業協会の意見交換会で業者側が強く申し入れた「設計変更ガイドラインの整備」は企業会計の決算基準が進行基準に変更になったことと共に下請法の適用が厳格になった事情を反映している。こうした申し入れをしなければならないほど設計変更や追加工事が受発注者間で不明朗かつ強圧的に行われてきたのでありそのしわ寄せで『下請いじめ』が常態化していた側面もある。

都留重人が著書「市場には心がない」のなかでこういっている。「(市場化の特徴は)自由競争を阻害する独占や寡占、あるいは談合化の弊害があるほか、人間生活の福祉からの逸脱や市場の失敗と呼ばれるネガティブな効果も否定できない現実なので、こうした市場化のマイナス要因にどう対処するかが、不可欠の課題となる。」

『下請いじめ』は「市場には心がない」の最低の例である。

初動捜査

 先日公園で盗難バイクを見つけた。ナンバープレートの下半分(数字部分)が引きちぎられていて、あとで草むらからそのプレートが捨てられていたのを拾ったのでプレートの切れ端を持って交番へ届けた。警官が「西京区ナンバーでしたか」と訊ねたので「そこまでは見ていない」と答えたが彼は無視して本署へ「西京○○○○」で盗難車検索を問い合わせた。急いでいたので「夕方又来るから」と帰ろうとするとそれは駄目だと言う。「単なる拾得物ではないので調書を作成しなければなりません」と盗難車両が特定できるまで待ってくださいという。暫くして本署から電話があった。「コンピューターの調子が悪くて検索ができませんので帰っていただいて結構です」という。あっけにとられて帰ってきた。

 警察の初動捜査のミスにまつわる不祥事が多いがさもありなんと思う。私の例で言えば▽西京区であるかどうか公園へ行って確認していない▽本署のコンピューターの作動不良で検索が捜査初期に行えなかったのは明らかにミスである。たかが盗難車の捜査だがこんな初歩的な捜査ですら基本的な手順が踏まれていない。

 

最近何かといえば創造的な仕事がしたいとか自分に合った職業につきたいという若者が多い。学校教育でも画一的でない創造性に富んだ、子供が興味を抱く教育が良しとされている。しかし実際の仕事というものは九割方決まりきった手順を踏む退屈で単純な繰り返し作業で構成されておりそれを愚直に実行することが求められる。創造性の必要な割合など殆んどの職業で一割にも満たないであろう。そして不思議なことに創造力というものは愚直な手順の繰り返しの中から生まれることが多い。単調な日常の作業を蔑ろにしていると創造力を発揮する機会に恵まれないのだがそれに気づく前に次の職に移ってしまうのが昨今の傾向のようだ。決まりきった事を愚直に繰り返すことの大切さを今一度知るべきであろう。

私の母校の校是は「平凡の偉大さに徹せよ」である。

今何故、家計に負担を言い立てるのか

 10日麻生首相は、日本の2020年時点の温暖化ガスの削減目標を05年比15%削減(1990年比8%削減)にすると表明した。これは昨年の洞爺湖サミットの「2050年までに世界全体の排出量の少なくとも50%の削減を達成する目標」とどのように整合性を保っているのか。そして今、何故「この目標を達成するためには年間76千円程度の負担を家計にお願いしなければならない」などと突然言い立てるのか。

 低炭素社会を実現するための世界的合意形成の基本的な資料は国連の気候変動に関する政府間パネルの「気温上昇を23度に抑えるには先進国が20年までに排出量を90年比で2540%削減する必要がある」という指摘を採用するのが最も説得力を持つであろう。又EU2100年に産業革命以来の温度上昇を2度以下に抑えるとの理念のもと、20年に90年比20%減の目標を掲げていることも判断指標の一つになる。そして京都議定書の「第一約束期間(20082012年)の締約国の温室効果ガス総排出量を5.2%削減し、日本は基準年比6%削減するという目標」とどう向き合っていくのか。数字だけ見れば、日本は京都議定書に基づいて12年までに90年比6%削減した後に、1320年に追加で同2%程度しか削減しない、低炭素社会実現に非常に消極的な国と見られるに違いない。

 世界のGDPの約75%は韓国までの上位13カ国(この中に中国、印度、露国、ブラジルも含まれている)が稼ぎ出したものである(2005年現在)。この繁栄を享受している先進国或いは豊かな国が温暖化阻止に対して積極的な貢献を果たさなければ世界の200近い国・地域のほとんどが温暖化による負の影響を甘受しなければならないという『不条理』に引き込まれる。

 先の家計負担額は、産業構造を変革せず産業界にそれほどの負担を求めず排出量取引などによる削減誘導策も進めないという条件の基に役人が算出した、国民を威しにかけた数字である。役人の志の無い机上の空論的数字に踊らされて、世界の国から尊敬されず、文明史的転換点での国家変革の失敗の愚を犯していいのだろうか。

根拠なき楽観

 かつてグリーンスパン米FRB議長が株式市場の異常な高騰を「根拠なき熱狂」と警告したことがあった。株価が一時一万円台を回復したり政府が景気の底打ち宣言を出したりしている今の我国の状況を『根拠なき楽観』と感じているのは私だけだろうか。

 アメリカ発の金融危機による百年に一度の経済危機、を15兆円にも上る補正予算で乗り切ろうとしているが、その先にある「国のかたち」が全く見えてこない。退職者の健康保険等のレガシーコストがGMを破綻に追い込んだことを教訓として、オバマは国民健康保険の創設、GMやAIGなど経営破綻企業の一時国有化やグリーン・ニューディール政策によってアメリカを大きく方向転換させようとしている。EUは低炭素社会への移行を産業革命以来の文明史的転換と捉えて温暖化ガスの中期削減目標を1990年比20%を掲げている。自民党や民主党にこうした世界観歴史観が全く感じられない。
 
 明治維新以来わが国は「殖産興業」「富国強兵」を国是として先進国へのキャッチアップに邁進してきた。資源少国でありながら国のありようを「貿易立国」と定めて「資源、石油、食料、軍備」を外国から輸入することを当然としてきた。しかしこうした「日本国のかたち」を百パーセント見直して新しい国のかたちを問うのが今回の総選挙であり、これまでの延長線上や、ましてや従来型施策の増強などで『百年に一度の経済危機』を乗り切れないことを知る必要がある。

 消費税増税の前にムダを省くと誰もがいうが、歴史観に基づいた新しい国のかたちをもっていない政治家や役人の手におえる作業ではない。少なくともキャッチアップのための供給側(企業)偏重の国の経費は役割を終えたとして削減対象と見なす覚悟がいる。この視点だけでも相当な割合の国家予算が削減できるし特別会計は殆んど不要になるであろう。低炭素社会は石油輸入を、食料自給率向上は食料輸入を大幅に低下させる。さらに軍備削減に切り込む勇気があれば日本は全く新しい国に生まれ変われるのだが、そんなリーダーが現れてくれるだろうか。