2009年8月24日月曜日

選挙と覚悟

 四年ぶりの衆議院議員総選挙も中盤にさしかかり民主党の圧勝が伝えられている。残る1週間に余程のサプライズが無い限り自民党は壊滅的な敗北を喫することだろう。もしそうなった場合我々国民は相当な覚悟をしなければならないことに気づいているだろうか。

自民党の壊滅的敗北は戦後自民党政治の否定を意味する。では自民党政治とは一体何だったのだろうか。極言すれば「利益配分型」の政治であり国民の立場からすれば「お上にお任せ」の民主主義であった。何故そうなったかを考えてみると、勝ち取ったものでなく敗戦によって与えられた民主主義であったことが大きく影響していた側面が強い。従って戦後自民党政治を否定するなら「お上にお任せの利益配分型」政治と決別する覚悟が必要になる。

敗戦によって焦土と化した国土を再建するためには乏しい財源を効率的に活用しなければならず、又めざすべき目標が明確であれば『有能な官僚組織』が最適であることは歴史が証明している。そこで中央集権的な行政体制を築き企業や市民から税を徴収し道路やインフラの整備、補助金の交付などのかたちで利益配分してきた。族議員の跋扈や中央への陳情の常態化は必然であったし、反対に民主党が官僚主義からの脱却をマニフェストの柱にしているのは自民党政治を否定する党である限り当然のことである。しかし本当に我々が反自民党的政治を望むならば民主党のマニフェストに入っている『自民党的利益配分』はいずれなくなるであろうことを覚悟しておく必要がある。そうでなければ民主党もいずれは自民党的に変質してしまって正常な二大政党政治は実現不可能になるからである。

さあ、「民主主義とは、社会的強者の人権ではなしに、社会的弱者の人権を守ることにほかならない」という飯沼二郎の言葉を心に留めて、覚悟して、選挙に行こう。

2009年8月3日月曜日

マニフェストについて

 総選挙を控えて各党マニフェストの品定めがマスコミを賑わしている。しかしメディアの大騒ぎに対して市民はいたって冷めている。

マニフェストとは「政権公約」と訳されて従来の「選挙公約」と区別され、具体的な施策、実施期限、数値目標を明示して事後検証性を担保し、有権者と候補者との間の委任関係を明確化したものとされている。2003年の公職選挙法改正によって選挙期間中の配布が認められるようになったが未だ日も浅く、事後検証によってマニフェストを信用できるものとして共有した経験がないこともあり疑心暗鬼のところがある。それよりもっと根本的なところで市民が政党を信用していないのは前回の小泉郵政選挙の結果の今日の体たらくにある。自民党296議席、与党327議席という圧倒的多数(総議席数480)を与えたのは『郵政民営化・構造改革・規制緩和』という選挙公約に有権者が日本の変革の兆しを感じたからであった。ところが今や郵政民営化は自身のアリバイ(当時の総務相であったが民営化には反対だった)を主張して総理が見直しを示唆する一方構造改革も規制緩和も中途半端なかたちで後退している現状では総理総裁が変われば政党の約束も簡単に反古にされてしまうのだと市民が認識してしまうのも当然だろう。

更に市民がマニフェストを信頼していないのは財源問題にある。与野党共にマニフェストの実現可能性の拠り所として『財源の有無と信頼性』をもちだしてくるが、そもそも我国予算(約89兆円)の38%(約33兆円)は借金(国債)で賄われている。一般歳出約52兆円(58%)の6割以上が借金で賄われているということは予算の6割に財源がないということに等しい。にもかかわらず財源がないからバラマキだ、選挙目当てだと相手党のマニフェストを非難するのは目くそ鼻くそを笑うの類に近い。一見手当てが妥当に見えても今や我国予算の6割以上が国債に依存した『マヤカシの財源』であることを市民・有権者は知っている。

国の運営がこれまでの延長線上にある方法ではどうにもならないことを本能的に気づいている国民が選択をどう下すか。選挙の結果が興味深い。