2010年2月22日月曜日

本願誇りと断章取義

 2012年の750回忌大遠忌を控えて親鸞上人縁の出版が相次いでいる。親鸞上人といえば歎異抄にある「善人なおもて往生とぐ、いわんや悪人をや」が有名だが、これを『徳を重ねた善人が救われるのは当然だが、本願他力のみ教えは一声念仏で悪人までもが救われる』と解釈して殺生、盗み、邪淫などの悪行のふるまいを恐れない不逞の輩が出た。「本願誇り(ほんがんほこり)」はそうした行いを戒めた言葉だが、今もそれらしい人がどこやらにいそうな気がする。

 陶淵明の「歳月 人を待たず」はよく知られている。「時に及んで まさに勉励すべし/歳月 人を待たず」とつづけて『若いときは二度ないのだから時間を大切にして勉強に励みなさい』という教えに使う人が多い。しかしこの詩の真意は『チャンスを逃さず大いに遊びなさい』なのであって、前段に「歓を得なば まさに楽しみをなすべく(歓楽の機会を得たなら楽しむべきである)」とあるのだが、ここを読まないで先のような別の意味に使われることが多い。このようにもとの詩の一部を引用して、自分に都合のいい意味に使うことを『断章取義(だんしょうしゅぎ)』という。これを地で行っている人がいないか。
 
 もうお分かりだと思う。民主党の鳩山総理と小沢幹事長がその人だ。小沢氏は検察批判を繰り返し事情聴取を拒んでいたが一旦「嫌疑不十分で不起訴」になるや「検察の厳正な捜査に基づく公正な判断」と豹変、逆手にとって「国民の納得を得られたと思う」などと開き直るのは、まさに『断章取義』そのものだ。また鳩山氏も脱税紛いの偽装献金事件を犯しておきながら、修正申告して納税すればそれで無罪放免とばかりにノラリクラリの国会答弁で説明責任を免れようとするのは『本願誇り』と戒められても仕方ないのではないか。
 
 民主党は我国政治史上画期となる「政権交代」を実現した。両氏はこの偉業の立役者である。潔く身を処せば憲政史上に燦然と輝く存在として語り継がれるに違いない。晩節を汚さず自らの政治活動に幕を引いてほしいと、切に願う。

2010年2月8日月曜日

失ったものと守られたもの

 2010年2月4日はひょっとしたら日本にとってターニングポイントになるかも知れない。朝青龍引退、小沢民主党幹事長不起訴、トヨタのリコール問題の3つが同時に起ったからだが、このいずれもが後から考えると日本に大きな変化を齎すきっかけになる可能性を秘めている。そこで『失ったものと守られたもの』という視点からこれらの問題を考えてみたい。


 トヨタのリコール問題で失ったものは余りに大きい。高度成長の初期の頃、今の中国と同様に「安かろう、悪かろう」が日本製品に対する世界の評価であった。半世紀近い年月をかけて「高品質高付加価値」と世界から賞讃を受けるまでに高めた、その国を挙げての努力を一瞬にして水泡に帰したトヨタの責任は重い。影響はトヨタ一社に止まらず、又自動車産業だけでなく全産業に及ぶに違いない。『驕る平家』の過ちをトヨタまでもが犯してしまったことになるが、しかしこれによって『トヨタのものづくり神話』が崩壊すれば日本を覆う閉塞感を打破するきっかけになるかもしれない。20年に及ぶ我国の低成長は企業の低収益体質が根本にあるがそれは画期的なイノベーション(例えばiPod)が生まれていないことに原因がある。「ものづくり」ではなく「もの生み」が今必要でありそれには「トヨタのものづくり神話」からの脱却も必要なステップなのだ。ものづくりを知らない若い人の発想を生かす環境の醸成が日本経済活性化に求められていることに気づくべきだ。


 小沢幹事長不起訴の守ったものは言わずもがなだ。金とカネによる数の力による支配という古い自民党体質の政治はもう要らない。


 朝青龍引退で守られたものは何だろうか。もしそれが『国技の権威と横綱の品格』だとしたら空しい。でも多分そうなのであって、だから今「後味の悪さ」を感じているのだ。何時から相撲が『国技や神事』に『権威や品格』の対象になったのだろうか。私の幼い頃―終戦直後は国技と言われていなかったように憶えているし、一説ではコピーライターが最初に「国技」という形容をしたともいわれている。一体品格とか権威という言葉の中味は何なのだろうか。今の日本が喪失したものを相撲や横綱に求めているのだとしたら外人の横綱にそれは無理だし、相撲協会が代表する大相撲にそれは無い。

 力士の呼び名の「四股名」が元々は『醜名』であったということは相撲の出自を表していないか。


2010年2月1日月曜日

阪急河原町店閉店

 阪急河原町店が閉店になるという。西武有楽町店の閉店も先に報じられていたから百貨店凋落の傾向は止まる気配がない。これについては専門家の分析が多く伝えられているので私如き素人のしゃしゃり出る幕はないのだが若干私見を述べてみたい。

 先日「めざましテレビ」で小倉智明が『百貨店らしさが無くなったことが原因じゃないのか』と言っていた。彼の『百貨店らしさ』がどういうことか分からないが私もそう思う。百貨店とは文字通り『百貨』が取り揃えられた小売店であるにもかかわらずその強みが殆んど生かされていない。ファッションを考えてみよう。今『フアストファッション』が人気だがこれは何も『安価』なだけが原因ではない。二万円程度で全身を着飾れるから受入れられているのだと思う。彼女たちは洋服を買っているのではなく『変身』しているのだ。そのためには上着だけでなくパンツも帽子も靴も、できれば下着もメイクも替えたい。それを叶えてくれるからフアストファッションが支持を得ているのだと考えると、百貨店の不振は当然に思えてくる。単品、それもメーカー単位で張り合って、ひとつ店にありながら総合力が発揮されていないのだから、そうなればその道の専門で最高のスタッフを揃えたブランド店に負けるのは当然だ。しかし『変身』に最も適した小売店形式は『百貨店』ではないのか。顧客の望みを専門家の立場からプロデュースし自店にある商品をコーディネートして『変身』させてあげる。価格的にフアストファッションとは比較にならないかも知れないがそうした客層を相手にすればよい。今までのターゲットとそう懸け離れていないところに顧客はいる。

 ハードからソフト、ソリューションビジネスへ、『もの』から『こと』へという趨勢が成熟した産業社会だ。IBMがパソコン生産から脱却したのを典型とすれば、水処理技術や装置の生産で世界一でありながら水ビジネスでフランスなどの欧米企業に遅れをとっている日本企業はこの世界の潮流をまだ十分に理解していない。百貨店でいえば商品はハードだ。それと顧客を結び付けていかにソリューションビジネスとして成立させるか。そこに百貨店再生の解がある。

 定年退職した亭主が長年連れ添った妻を思いっ切りイメージチェインジさせてあげたい、これからの人生を共に歩むためのスタートに当たって、少々豪華に。こんな男のロマンを叶えてくれるところが百貨店ではないのか。