2010年3月29日月曜日

迷走する郵政民営化

 郵政民営化が迷走している。亀井金融相の郵政見直し方針は(1)郵便局会社と郵便事業会社を持ち株会社に統合して3社体制にする(2)政府の出資比率を1/3超にする(3)郵便貯金の預入限度額を2000万円に引上げる、などを骨子にしている。
 これに対して民営推進派からは「民業圧迫」の声が強い。(1)民間金融機関のペイオフ(預金保護)が1000万円の預金と利子であるのに対して実質政府保証の元に2000万円保証されることになり正常な競争が阻害される(2)限度額の2000万円への引き上げは金持ち優遇策だ(3)民間資金が集中することで国債発行の膨張につながり財政規律が失われる、などが反対の主な論点になっている。

 賛否を論ずる前に我国の貯蓄の状況(平成20年度)を見てみよう(総務省統計局・家計調査年報による)。
(1)2人以上世帯の平均貯蓄額(現在高)は1680万円、うち勤労者世帯では1250万円(2)中位数(貯蓄額順に人数を数えたときの丁度真ん中の人の金額)は2人以上世帯で995万円、勤労者世帯では757万円(3)2人以上世帯で平均額を下回る世帯数は67.6%、100万円未満の貯蓄額の世帯数は10.7%に上る。
こうした数字を見ると「金持ち優遇」という批判の正しいことが分かる。従って小泉改革は格差拡大を齎したという批判勢力が郵政民営化見直しを行おうとしているのであるから、見直しは格差を今以上に拡大する方向に働くから理念と矛盾することになる。そしてペイオフの実質拡大は間違いなく民間資金を郵貯、カンポにシフトさせるであろうから、現在の運用のあり方から類推すれば「国債の発行余裕」は増大するに違いない。

 見直しは『民業を圧迫』するだろう。しかし民間金融機関が本当に一般市民や中小企業のために機能していたかどうかは検討の余地がある。金融危機時の「貸し渋り・貸しはがし」は記憶に生々しいし、最近の銀行店舗は「富裕層向け窓口」が半分以上のスペースを占めている。又僻地や離島などへのユニバーサルサービス提供にしても、採算ベースに乗らないからと放置してきたことは批判されて当然である。

 どっちもどっちやなあ、というのが庶民の気持ちに違いない。

2010年3月22日月曜日

いい店がまた無くなった

 駅前にあった馴染みの文房具屋が無くなった。いや正確に云えば商売替えしていた。かなり高齢の婆さんが店番をしていた頃は金封の表書きなども器用にしてくれて大いに助かったこともあってできるだけこの店を利用するようにしていた。数年前に婆さんが入院してから表書きは断るようになったがそれでもこの店を贔屓にしていたのは、文具の種類は多くなかったがそれぞれに高級品から廉価品まで多点数置いていたので好みの品を選ぶことができたからだ。久し振りに店に行ったのも7ミリ幅の附箋がここにしか置いていない近所の事情からだったが、無惨にも文具は片隅に追いやられ『高級バッグや時計』が所狭しと店を占領していた。
 又『いい店』が無くなってしまった。

 好きな喫茶店がある。カウンター席と椅子席に10人も入れば満席になる小じんまりした店で小粋なママさんがいる。コーヒーが抜群に旨いのだがこの店の一番は『客筋の良さ』だ。ほとんどが年金生活者層だが話が面白いし皆が居心地の好い雰囲気を醸す存在なのが嬉しい。
 昼食によく使う中華料理店は何といっても料理が旨い。給仕の女性も料理人も威勢が良く生き生きとしている。女将さんの愛想が心地良い。オーダーから配膳までの時間が少々長いがいつも満足している。
 いきつけの居酒屋はもう何年も通っている店で極めて居心地が好い。カウンターのなかの親父は二代目で先代からの付き合いの私にとっては弟のようなものだしおばちゃんは私の子どものころから知っている。先代譲りの割烹料理は筋が通っている。
 アバンザのジュンク堂が好きなのは本揃えが潤沢で店員の商品知識が豊富なところにある。客応対もそつがない。

 こうしてみると私の好きな店は、納得の商品を居心地の好い人空間のなかで購入できる店といえそうだ。もしこれを『いい店』とするならジュンク堂を除けば凡そ『今風』でない。これでは「またいい店が無くなった」と嘆き続けていくことを覚悟しておく必要がありそうだ。

2010年3月15日月曜日

トヨタと司馬遼太郎と

 トヨタバッシングが一向に収まらない。しかし報道の全てを真実と信じるべきかについては慎重な検証が要る。『アクセルが踏み込んだ状態で戻らなくなって高速のまま衝突した死亡事故の運転中の自動車からコールセンターに伝送されている緊急救助依頼のリアルタイムの声』が度々テレビで流された時ある種の企図を感じた。あの声が捏造されたものだと言っているのではない。あのような報道のかたちに悪意を感じたのだ。

 2009年3月期にトヨタは4369億円の赤字を出したがマスコミはこれを金融危機の影響だとした。しかし同業他社に比べて突出したトヨタの赤字の多くの部分が過剰投資(早すぎた成長願望)であったと米議会公聴会で社長が言明した。品質管理体制にも不備があったと彼は認めている。トヨタの『ものづくりノウハウ』に対する絶賛振りは異常過ぎた。早い時期から批判はあった。納入業者がカンバン方式の指定時間に合わせるためにトヨタの門前に長時間列を成して並んでいることや、カイゼン活動の時間が就業時間として認められない労働基準法違反のことなど、小さく報じられていたが多くのマスコミは無視した。

 ちょっと前まで私の周りでは司馬遼太郎の「坂の上の雲」のテレビドラマの話題で持ちきりだった。確かに彼の書くものは面白い。今や司馬文学は国民文学の地位を確保している。しかし私はかねてより彼のものを『小説』としては如何なものかと思っていた。だがこんな私に同調する人など皆無で長い間寂しい思いをしてきた。ところが最近こんな文に出会った。「彼(司馬遼太郎さん)の小説は半分以上エッセイだと言ってもいい。(中略)時として小説の体裁を成していないぐらい、そっちの方が多い。そういうやりかたもあるということです」。これは池澤夏樹の「世界文学を読みほどく」の一節である。さすがは池澤さんだ、私の言いたいことをズバリ表現している。長年の胸のつかえが一挙にほどけた。

 トヨタにしても司馬さんにしても、日本の誇るべきものであること論をまたない。しかしだからといって全面的に、なにからなにまで認めるのではなく、正当に評価する姿勢が必要なのではないか。そして時として過ちを見つけ、正す、厳しい目を失わないようにしないと、又、いつか来た道に迷い込んでしまうのではないかとおそれる。

2010年3月8日月曜日

テレビの凋落

 チリ地震による津波警報発令に伴う避難率が極めて低いことが問題になっている。青森県の場合大津波警報による避難者は避難指示・勧告対象者約6万6千人に対して実際の避難者が約3千人の5%未満に止まっている。全国の平均は6%前後のようだったが憂うべきは津波警報が発令されている海浜に見物に出かけたりサーフィンをする人がいたことだ。批判に応えて予測が過大だったと気象庁が謝罪したが、原因は予測の精度以外のところにもあるように思う。

 テレビというメディアに対する我々の信用度合いが極端に低下していることが大きく影響しているのではないか。芸能とスポーツから始まった情報トーク番組みが政治経済にまで対象を広げ全てをショー化した。犯罪も政治も劇場化し、政治家の発言が軽々しいものになってしまった。コメンテーターに多くのお笑い芸人や『隣のおじさんおばさん』的なタレントが多用されたことも手伝ってテレビが極めて卑近なものに変わってきた。インターネットの普及は情報源の多様化を齎し、テレビの一方向性が情報操作を疑わせる方向に作用した。これらの全ての相乗効果でテレビの信用度が急激に低下した。「テレビのいうてることはウソでっせ」という大阪のおばはんの捨て台詞が妙に当たり前のように感じられるようになっている。そんななかで津波警報が発令され終日テレビ画面の片隅に『警報地図』が貼り付けられ、時々に各地の情報が細切れに報じられるにつれ、心のどこかで『これもまた津波ショー』かと警戒心が急激に薄れていったのではないか。
 
 テレビはメディアとしての在り方をもう一度考え直すべきであろう。

 スノーボードの国母選手について一言付しておきたい。この件も視聴者の苦情をテレビが無批判に取り上げて騒動になってしまった典型だ。彼はオリンピックの制服をどう着こなせば自分流のおしゃれができるかを真剣に考えたと思う。その結果があのスタイルであって日本人の好きな『彼の美学』がそこにある。もしそれを否定するなら一昨年の今頃大バッシングを受けていた「奈良のせんとくん」の現状をどう説明するのか。

2010年3月1日月曜日

患者の立場


 早朝の公園は結構賑わっている。一番多いのは犬の散歩をしている人たちで彼らのご苦労には頭が下がる。盆も正月もない。考えてみれば当然のことで犬に正月はないし少々の雨なら散歩したいのだろうが、人間様は二日酔いになることもあれば体調不良のときもあろうに、可愛いいのだろう。

リハビリで体操やウォーキングをする人が意外と多い。そんななかに昨年の夏頃から来ている男性がいる。彼を始めてみたとき、杖にすがって右足を持ち上げるだけで数秒、左足をひきずって引き寄せるのに数秒と痛ましい限りの努力をしていた。半年ほどして、野球場外縁周回走している私が1周する間に20メートルほど歩けるようになっていた。それから3ヶ月少々、この間に急速に能力が向上したのだろうか、私が1周する間に200メートルも歩けるようになった。「早くなりましたね」と声を掛けると「ええ、ありがとうございます」と答えた顔の何と嬉しそうな輝きを放っていたことか。それから2、3日して又であったので並んで歩きながら「本当に早くなられましたね。医師(せんせい)がびっくりしているでしょう」とはなしかけた。「いいえ、医者は何にも言いませんよ」とさびしそうにいった。

 彼によると病状は左肢麻痺で治療は理学療法によるリハビリが主となっている。数人の療法士が担当しているらしいが療法や運動の効果とその発現部位を詳しく説明してくれる人は極めて少ないという。医師はデータで治療の進行具合をみているが患者の努力や能力の回復程度についての感想や進言はほとんどないらしい。

 弱者(高齢者や患者もそうだが)は褒められることが極めて心地良い。他人に命じられて、或いは自分で目標を定めて努力した結果が、僅かでも表れたら褒めてもらいたいものだ。すると又努力する。この良循環が更に効果を高める。医師(理学療養士などの医療従事者一般も含めて)はデータと同等に患者本人からの情報収集を扱う方がよい。情報交換を医師・患者間で密にして大いに患者を褒めてあげるようにすれば治癒率は今以上にアップするだろうし患者は医師を信頼すること請け合いだ。

 今のような状況でセカンドオピニオンなど有害無益、いたずらに混乱を招くだけだと思うのは私だけだろうか。