2010年7月26日月曜日

コミュニケーション力は挨拶力

 昔長嶋監督が新し背番号33のユニフォームをキャンプでいつ披露するかということを一部マスコミが大仰に取り上げたことがあった。昨今の『小沢元民主党幹事長雲隠れ騒動』をみていて「あぁ、長嶋騒動と同じだ」と思った。長嶋監督であれ小沢元幹事長であれマスコミが『カリスマ化して大騒ぎする馬鹿馬鹿しさ』は全く苦々しい限りで、『選挙の達人』『政界の実力者』というマスコミが作り出した『幻想』による扇動に市民は冷ややかな視線を注いでいることを知るべきである。

 閑話休題。23日内閣府が、ひきこもり状態にある若者が全国で約69万人、ひきこもり傾向にある若者も約155万人いるという推計を発表した。この結果について専門家は「高いコミュニケーション能力が必要な時代になり、それができずにひきこもる若者が多いようだ」と分析している。若者のコミュニケーション能力不足に対する危機感は大学、企業を問わず深刻で、各種研修や講座が盛況である。これらでは「自信をもって他者と交流する能力を養成して、効果的な協力関係を構築し、業務遂行能力を高める」ことを目的としているようだ。
 
 こうした現状を知って素朴に疑問を感じることがある。
 『コミュニケーション能力の欠如』は今この時点での問題なのだろうか。もっと前の時点に病根があるのではないか。まず、幼い頃から「挨拶のできない子」が多い。昨今では子供ばかりでなく大人も挨拶ができない。つぎに、相手の話を聞いていない人が多い。これは特に女性と老人にも共通の傾向だ。三つ目に「譲り合いの精神」が希薄なことがある。雑踏の中で道を譲らないで平気でブツカってくる人が多い。
 こうした最も基本的な『生活上の心得』のない状態で、いくらハウツウとしてのスキルを与えてみたところでその効果は限定的にならざるを得ないのではないか。知識や功利的な技術としてでなく、身についたものとして、自然に『生活上の心得』がにじみでてくるようでないと本物の『コミュニケーション能力』にならないと思う。

 人間は臆病だ、何重ものガードで我が身を守っている。そのガードを開く最も有効な手立てが『挨拶』なのではなかろうか。そんな基本的なステップをないがしろにして一足飛びに大人になってからコミュニケーション能力を磨くといっても、それは土台無理な話だと私は思う。

2010年7月19日月曜日

民意の真意

 先ずクイズを。
 ある女性が癌のために死に瀕しています。夫が彼女を救うために最近開発された特効薬を求め様としたのですが開発者の薬剤師は2000ドルという法外な要求を出して一歩も譲りません。1000ドルしかない夫はどうしても妻を助けたくてとうとうその薬を盗んでしまいました。
 彼の行動は正しかったでしょうか?それとも間違っていたでしょうか?そしてそれはどのような理由からでしょうか。

 これはコールバーグの道徳性発達段階テストとよばれるもので答えはつぎの6段階がある。[1]懲罰志向(警察に捕まって刑務所に入れられるから盗むべきでない)[2]道徳的快楽志向(彼が刑務所から出てくる頃には妻は死んでいるだろうから何の徳にもならない)[3]よい子志向(ドロボーと呼ばれるし妻も盗んだ薬で治りたくないだろう)[4]権威志向(どんな理由でも窃盗は正当化されない)[5]社会契約志向(盗むべきでない。薬剤師のやり方はひどいが開発者の権利は尊重されるべきだ)[6]個人的理念に基づく道徳性(盗んでよい。その代り自首して処罰は受けなければならない。最も大事なことは妻の命を助けることだ)

 民主党惨敗の参議院議員選挙の結果について種々取り沙汰されているが、上のテストの『妻の命を助ける』と同じような最高位に位置づけられるべき『価値』があいまいにされて議論されている。民意の揺れが激しいと『衆愚』と嘲る向きもあるがとんでもないと思う。
 政治システムや政治家の資質が今のままではいけないのではないか。自民党的なるものは制度疲労して使い物にならないが、かといって民主党の提案も正しいとは思えない。こうした迷いが『ねじれ』となって一方に傾斜するのを躊躇っている、それが『民意』なのだ。

 明治以来欧米先進国へのキャッチアップを目指してきて戦後経済の復興と世界第2位の経済大国を実現した。政治についてみれば議会を興し、民意を反映するシステムに発展させるために政治家は努力してきたし一応の結果は齎している。
 政治も経済も目指してきた目標はソコソコ達成したといえる。ところがここに至って目標を明確にすることが困難なほど価値が多様化、重層化、複雑化してしまったために政治システム(含む官僚組織)も政治家も対応できなくなっている。
 大変革の時代は古い政治システムと政治家の退場を要求しているように思う。

2010年7月12日月曜日

自己責任の罠

 裁判員制度が始まって1年になるが、顕著な傾向として執行猶予判決に「保護観察」のつくケースがこれまでの37%から59%に増えていることが最高裁から公表された実施状況で明らかになった。裁判員が職業裁判官に比して被告人の社会復帰や更生に強い関心を持っていることを表していると分析されている。一方でこうした状況が従来からの保護司不足を更に深刻にしているとして問題視されている。

 そもそも保護司とは「厚生保護法」の定めに従い犯罪者の更正を主任者である保護監察官で十分でないところを補うボランティアの国家公務員で、保護監察官の絶対数が不足しているところから更正支援の実質的な担い手となっている。保護観察の再犯抑止効果は明確で「犯罪白書」に数字を上げて示されているが、保護観察を付ける判決が08年には執行猶予判決全体の8.3%にとどまり過去最低になっている(60年代には2割前後で推移していたが80年代以降減少傾向で03年に初めて1割台を割り込んだ)。
 しかし近年の経済状況悪化から犯罪者は増加しており刑務所不足が恒常化、現在4千人分が不足、今後更に毎年5~6千人ペースで受刑者が増えると予想されている。こうした状況は財政負担を悪化させる事は明らかで抜本的な取り組みが必要であろう。

 しかし何故このような重要な職務が『無給のボランティア』に頼っているのだろうか。
 保護司制度に限らず今あるいろいろな社会制度は根本的に見直す時期に来ている。最近問題になっている貧困ビジネスの温床である「生活保護」についても発想の転換によって全く異なった対処法が見えてくる。6月に発表された厚労省ナショナルミニマム研究会「貧困層に対する積極的就労支援対策の効果の推計」によれば、18才から2年間生活保障付きの集中的就労支援をすることで、それにかかる費用と20才から平均的な人生をたどることによって齎される税・社会保険料納付額を比較すると、女性で2倍、男性では8倍以上の効果があることが示されている。

 犯罪であれ生活保護であれ現在は『自己責任』で突き放し『セイフティーネット』で救済するという考え方が支配的だが、グローバル化した資本主義経済の病理を冷静に突き詰めれば、『互助』『共助』という姿勢で『機会の不平等』を修正する方が、効果的で『人間的温もり』のある社会に変革できることに気づくべきだ。

2010年7月5日月曜日

子育て支援を根付かせるために

 毎週土曜の「ウラマヨ!」(関西TV)を楽しみにしている。ブラックマヨネーズがMCをしているのが嬉しくて見ているのだがこの枠、つい最近までメッセンジャー黒田司会の別の番組が放送されていた。それが昨年暮大阪市内のバーで店長を暴行し重傷を負わせた容疑で逮捕、送検される事件があり番組は降板、今日に至っている。事実は結局誤認であった様だが事件はウヤムヤの内にマスコミから消え、タレント黒田はテレビから姿を消したままである。何とも理不尽な結末で後味が悪い。

 6月30日に施行された「改正育児・介護法」の男性の育児休暇取得に関する報道を見てこの黒田事件を思い出した。男性の取得率がわずか1.23%(女性は90.6%、08年)であることの男性陣の言い訳が「1年も休んだら会社に席が無くなってしまうんじゃないかと不安」というのが殆んどで、加えて取得率向上を促す論評が「ワークライフバランス」であったり「子育てや暮らしを大切にできる風土」の醸成であったりで、我国企業のあり方に踏み込んだ指摘が無い。黒田事件を持ち出すまでも無く企業にあっては『自分の代わりはいつでもいる』のが当然のことなのだ。

 我国はいまだにデフレから脱却できていない。その原因のひとつは極めて低い『労働生産性』にある。2008年の比較でOECD平均の0.92、1位のルクセンブルグの0.59、米国の0.69に過ぎない。選挙を控えて成長戦略がクローズアップされ、イノベーションが無いことや少子高齢化の影響による労働力不足が大きく取り沙汰されているが労働生産性の改善策をもっと真剣に考える必要がある。定期一括採用による正規社員偏重の労働力構成で、職務の標準化、定量化がされないまま『正社員』という美名の下に職務内容を不明確なまま不定量な分担で週60時間以上の長時間労働を当然としている勤務形態では生産性の向上は覚束ない。職務分析を精細に行い定量化して分担職務を明確にするなどの取組みを行い、IT化の高度化と同一労働同一賃金を実現し正規非正規の差を無くして労働力の流動化する、などを本気に取組まなければ労働生産性の向上は図れないし「育児・介護法」を根付かせることはできない。

 選挙目当ての浮ついた成長戦略でなく日本の再生を真剣に考えないと少子化は脱却できない。