2011年5月30日月曜日

フクシマ原発を考える

 ある人が自分の理想とする考えのために最初にすることは、嘘をつくことである。―ヨーゼフ・シュンペーター―

 日本の原発の安全神話を喧伝してきた人たち―所轄官庁の官僚、政治家、電力業界、地方自治体有力者そしてメーカーと原子力関係研究者―は、彼らに理想があったかどうか別にして、何と多くの嘘をついてきたことであろうか。なかで最悪は「メルトダウンしていない」という嘘だ。人類が経験したメルトダウンはチェルノブイリ等4件あるがそのいずれもメルトダウンの諸相を異にするものでありその経験をもとに設備の改良が積み重ねられてきた。それでも科学的知見で予見できる想定を超えることが起こり得るのが原子力発電であり「フクシマ」は世界の叡智を結集して取組めば貴重な「人類の知恵」となり得たはずである。もしも『理想』として原発推進を願うのであれば「フクシマの悲劇」を「より完成型に近い原発」の開発につなげることができたのだが、残念なことに今回の事故の責任者や関係者は『理想』よりも「既得権維持」を望む人たちで固められていたようである。

 「トイレのないマンション」といわれるように日本の原子力発電関連事業は極めて不完全なものである。前工程のウラン濃縮を担う日本原燃六ヶ所ウラン濃縮工場には1系統の遠心分離機しか稼動しておらず、100万Kw/H級原発1基分の濃縮ウラン製造能力しかない。遠心分離機の寿命は10年であるから遠からず全面操業停止になってしまう。
 もっと危ういのは後工程の高レベル放射性廃棄物最終処分事業と高速増殖炉である。日本原燃六ヶ所再処理工場は1993年着工2000年操業開始を予定していたが廃液ガラス溶融炉の不具合を繰返しており2012年10月の稼動も危ぶまれている。
 また福井県敦賀市の原子力機構の高速増殖炉「もんじゅ」でもナトリウム漏洩火災事故で一度頓挫し又その後発生した炉内中継装置落下事故は未だに復旧に見通しがつかず2013年の本格運転開始は大きく遅れる可能性が高い。
 高レベル放射性廃棄物最終処分に関しては概要調査地区の候補地すら決まっていない状況にある。
 このような事情があって長期間の中間貯蔵が必要になっていた処分遅れの使用済核燃料が今回の事故拡大の原因のひとつになったことは記憶に生々しい。

 原子力発電の推進は電力の供給安定性を高めるという論点から促進されてきた。しかし戦後電力供給危機が広域的に長期間にわたり生じたことはなかったが、原子力分野では東京電力検査・点検偽装事件(2002年)と柏崎刈羽原子力発電所地震災害(2007年)により二度も生じている。
 環境保全効果の観点から原子力発電が推進されてきた側面もある。エネルギー1単位を生み出す際の有害化学物質排出量及び温室効果ガス排出量は火力発電よりも格段に少ない。その一方で原子力発電は、事故による放射能・放射線の環境への大量放出の危険を内包し、又各種の放射性廃棄物を生み出す。このような正負の環境特性を正当に評価する必要があり、原子力に対してのみ優遇措置が講じられている現状はアンフェアといわねばならない。
 こうした諸条件を適正に判定して採用する発電源の同等の選択肢の一つとして原子力が位置づけられることが今最も望まれているのではないか。

 日本の原子力政策は国家安全保障のための側面(これを「国家安全保障のための原子力」の公理と呼ぶ)も強くあった。核武装は差し控えるが、核武装のための技術的・産業的な潜在力を保持することによってアメリカとの軍事的同盟の安定性が担保されてきたことは隠されてきた事実である。

 脱原発は一筋縄にはいかないが、電力自由化と発・送電分離を行い分散型発電と全量買取制を実現することで市場競争が機能できる環境を築く以外に方途はない。

2011年5月23日月曜日

消えた子供店長

 東日本大震災の犠牲者が大幅に減っている。最大時3万人近かった犠牲者が今では2万5千人より下った。変なことを言っているとお思いかもしれないので詳しく述べる。3月11日の震災発生から増え続けた犠牲者(死者と安否不明者)は4月1日には29,886名に達した。連日の新聞を見て心を痛めた方も多かったに違いない。ところが4月初旬を過ぎる頃から減少に転じ5月20日現在では24,029名までになった。これは死者11,739名、安否不明者18,152名であった安否不明者が8,881名までに減じたことによる。死者が15,148名に増えたことは残念であり痛ましい事実であるが9,271名の安否が明らかになり5,857名の生存が確認されたことを誠に喜ばしく感じる。この間の自衛隊を初め警察、消防、地元行政の方々やボランティアの方のご努力は大変なものであったろう。海外の支援も大きな力になったに違いない。まだまだ作業は維持・継続されなければならないからご苦労は大変だと思うが、避難されている被災者の方々共々ご健康を心からお祈り申上げる。
 一方で政治の体たらくは目を覆うばかりであるが今日は触れないことにする。

 丁度震災がテレビの番組改変期に相当したこともあるのだろうが、自粛が解けて広告が流れ始めるとあれほど画面を賑わしていた『子供店長』がパッタリ姿を見せなくなっていた。事情は分からないが結果として又「タレントの使い捨て」かと、頑是無い子供店長に憐れを感じる。考えてみればここ10年近い間に何人のテレビタレントが「使い捨て」られていることか。一般人も少しはテレビ界のことをしるようになっているから「あぁ、このタレントは今年限りだな」と分かる。大人タレントなら「随分と稼いでいるからまぁいいか」と突き放すこともできるが子供はそうはいかない。親や所属しているタレント事務所はさておいて当人たる「子供店長」の行く末を考えると暗澹たる気持ちに襲われる。願わくば彼の健全な成長を願って止まない。

 「TV局⇒広告会社⇒タレント事務所」とテレビを作る中心勢力は変遷してきたがそれとともにテレビは面白くなくなってきた。大金をかけ―国民にも大変な負担を強いたデジタル化は生かせるのだろうか。

2011年5月16日月曜日

21世紀の日本

 有限であるはずのエネルギーと資源―原材料を無尽蔵に費消して大量生産大量消費を実現した20世紀文明がこれまで順調に成長してきたのは世界のほんの一握りの国々がエネルギーと資源を独占できたからに他ならない。世界190ヶ国の内の25カ国の先進国が人口では世界の僅か15%に過ぎないのに、残りの85%と比べて約6倍の所得を享受しているという現実がそれを如実に物語っている。
 しかし市場を勝ち抜くために不断の供給力優位を追及しなければならなかった企業は市場の拡大と投入労働力確保のために「グローバル経済」に突入せざるをえなくなった。このことは市場でのプレーヤーの増大を意味し、エネルギーと資源の独占的利用を困難にする。原油と国際商品市況の恒常的高騰傾向は今後益々強まるに違いない。このため先進国の停滞を尻目に世界経済を牽引しているBRICs諸国の高成長もエネルギーと資源の制約から遠からず(中国の場合2020年頃から)成長に翳りがでるであろう。

 21世紀になって早11年目になるにもかかわらず安穏と20世紀の延長線上に居座っていた我々は3.11東日本大震災によって『強制終了』され20世紀文明との決別に追込まれた。原子力発電への依存を強制的に低下させなければならない必要から「大量生産大量消費型文明」を乗り越え『新しい文明の形』を創造しなければならなくなってしまった。

 唯一の被爆国である我国は原子力の暴力的利用と共に平和的利用に関しても人類の叡智を結集した高度な管理技術と管理体制を築く責任を負わされた。同時に21世紀型の新しいエネルギーシステムを現実化しなければならない。
 輸出依存から脱却し内需を拡大しなければならない経済状況は製造業と太平洋側偏重の産業構造の根本的見直しが必要であり、その為には既得権に結びついている各種の「規制改革」を大胆にすすめなければならない。
 人類の夢であった「不老不死」―超高齢社会を、構成する国民の各層が満足するような理想型にする責任はもう待ったなしの状況になっている。

 こうして考えて来ると我が日本は『21世紀型文明の実験室』であることがはっきりと分かる。これからの数年間―21世紀初頭期に世界のお手本となるような『国づくり』をすることが震災で亡くなった方々への我々の責務であると強く思う。

2011年5月9日月曜日

280円のユッケと59円の食器

 焼き肉チェーン「焼肉酒家えびす」のユッケによる死亡事件の報道に接して生食用牛肉の流通管理のズサンサにあ然としたがそれ以上にチェーン店のユッケが1人前280円であることを知って驚きより憤りを感じた。

 私が韓国料理を最初に食べたのはもう50年近く前になる。その頃まだ珍しかった韓国料理店が銀座に1軒あったのを友人に紹介されすっかり病み付きになってしまった。「焼肉」というものを知らなかったからその旨さに驚いた。ビビンバも美味だったが「ユッケ」は格別だった。生肉を食うという習慣がなかったから最初は戸惑ったが一度口にしてしまってからはその味を忘れることができなくなった。だからといってその頃の韓国料理は高級だったからめったに食べられるものではなかったので、麻雀や競馬でたまに大勝ちするとその店に飛んで行ったことを懐かしく思い出す。

 国連の『人間開発白書』によると世界人口の約半分にあたる30億人は1日2ドル未満で暮らしていると報告している。このような状況にある国々においては、食物は飢えを満たすものであり食器は食べ物を盛り付ける機能さえ満たしておれば満足しなければならないであろう。それに比して我国は中国に抜かれたとはいえGDP(国内総生産)は世界3位であるし1人当りGDPも4万3千ドル(2010年度US弗)近い水準にある。1日67ドルを超える高所得国であり文化国家であるはずの我国において59円の食器や280円のユッケがマスコミの広告で喧伝されている風潮は奇異に映る。
 
 東日本大震災の影響で電力の使用に制限をかけられた我国は「20世紀型文明」の見直しの止む無しに追込まれている。大量生産大量消費で機能の充足を満たした、つぎの段階に踏み出さざるをえない状況を強いられたことになる。ということは、機能以上の文化的価値を個人個人が『物に見出したり創造したりする作業』が求められる段階に差し掛かっているということだ。59円の食器や280円のユッケの『誤った豊かさ』に決別する文明の段階にいる、という自覚が必要なのではないか

2011年5月2日月曜日

強制終了

 朝気づかなかったハナミズキが夕方公園に行ってみると一斉に花を開いていた。日中に降った雨の恵みだ。そういえば木々の緑も或る朝とつぜん枝々に茂ることを最近になって知った。今までもそうだったに違いないのだがここ数年そうした自然の営みに驚き、敏感に反応している自分がいる。さだまさしの「人生の贈り物」にこんな歌詞がある。「季節の花がこんなに美しいことに/歳を取るまで少しも気づかなかった/私の人生の花が 散ってしまう頃/やっと花は私の心に咲いた」。

 それにしても今年の新緑の勢いは激しすぎないか。桜の花も随分と豊富であったように思うし、段々に亜熱帯的気候に近づいているのでは、と少し怖い。
 以前はもう少し穏やかに季節が移ろっていたのは間違いないから地球温暖化の影響が徐々に加速しているのではないか。お米は昔近江米や富山米が上等とされていたのに最近は「秋田コマチ」や「北海道きらら」が美味しいとされているのはそのひとつの例であるかもしれない。また鳩山前首相が国連気候変動サミットで温室効果ガスの排出量を2020年までに1990年比で25%削減すると明言したのは彼の数少ない功績に違いない。

 この25%の削減目標に対して「日本は早くにエネルギー削減に取組んできたからもうほとんど削減余地は残されていない」という論調が支配的で国際的公約を反古にしようという勢力がほとんどであった。
ところがこのような『趨勢的思考』に『強制終了』がかけられた。今回の東日本大震災による「節電目標」だ。海江田万里経済産業相は28日、東京電力と東北電力管内での今夏の最大使用電力の削減目標を、企業、家庭とも前年比15%減とすると正式に発表した。目標達成のために企業は生産時間短縮は当然だし家庭でもこれまでの生活習慣を根本的に改める取り組みをしなければならない。
大体料理は炎で、洗濯物は太陽で乾かす、風通しをよくして扇風機の風を送ればそれだけで随分涼しく感じられるものだ。電気が無限にあるように勘違いしてなんでもかんでも「オール電化」したのが間違いだったのだ。

 東日本大震災によって『20世紀型文明』を『強制終了』されたということを我々は肝に銘ずるべきだ。