2011年6月27日月曜日

拝啓 市長様

 私は毎朝近くのU公園のゴミ拾いをしていますが2ケ月ほど前、大変なごみ捨てがありました。公園中央の休憩所にペットボトルや空き缶、即席うどんのカップやお菓子の食べかす、それにタバコの吸殻と空箱が大量に散乱していたのです。捨てられたゴミの状態で捨てた人間の心が感じられることがあります。このゴミを見たとき非常に不愉快になりました。それだけでなく異常さと不気味さもありました。捨てた人間の心の荒(すさ)び方が尋常でないと思いました。
 夕方野球場のカギを施錠に行くと休憩場に10人以上の中学生(?)がタムロしているのが見えました。その後朝のゴミ拾いのときに何度か聞えてきた声高な彼らの話の断片を繋ぎ合わすと、そのうちの一人が退学になり学校や周囲の何もかもにムカついていて仲間を誘って一晩中与太話をしてうさを晴らしている、ザッとこのような事情がうかがえました。
 ある朝ベンチの合板の上板が30センチ四方ほどの広さに炭化していました。少しオイルでもかけると一挙に燃え上がる危険性があると感じてスグHみどり管理事務所に修理を依頼しました。すると驚くべきことに翌朝修理ができていたのです。余りの対応の早さに驚いたのでしょう、その日ゴミはほとんど散らかっていませんでした。でもその翌日にはゴミは又捨てられました。
 
 ここ数日ゴミ捨てがありません、彼らの気持ちが治まったのならいいのですが。「破れ窓の理論」を持ち出すまでもなく犯罪の目は早期につみとることが大切です。彼らのゴミ捨てを犯罪と呼ぶには違和感もありますが、もしゴミが散らかったまま放置されていたら彼らの荒びは更に増したに違いありません。ベンチに火をつけようとした時、役所の対応があんなに素早くなかったら彼らのイタズラが一段悪い段階に進んでいたのは間違いないでしょう。誰かが見ているという感覚とこの公園は役所が大切にしているものなのだと思わされたから、徐々に荒びを和らげたのだと思います、いや思いたいのです。

 子供は「切り捨てられてはいけない存在」だと思います。しかし大人は簡単にレッテルを貼ってしまいがちです。私は根気よく子供たちと付き合っていこうとゴミ拾いを続けています。連日のように発生する違法投棄や施設の不具合についての私の通報に適切に対処される役所の姿勢に感謝しています。うるさいおっさんですがこれからも辛抱強くお付き合い下さい。
 
 公園は「地域のシンボルマーク」です。子供たちが楽しく遊べるキレイな公園にしておきたいと願っています。
 市政の益々の発展をお祈りしています。                          草々

2011年6月20日月曜日

想 滴滴

 「自ら笑う/狂夫 老いて更に狂するを―杜甫(狂夫より)」(もともと勝手気儘な自分が、年をとってますます気ままになってきたと、我ながらおかしく思う)。

 杜甫のこの漢詩に接したとき、男というものは古今を問わず晩年に差し掛かると同じような感懐を抱くものなのだと、彼我の隔絶する才に忸怩としながらも内心の苦笑を禁じえなかった。しかしよくよく考えてみると「勝手気まま」に生きるということはなかなか難しい。自分では気ままな積りでもどこかで他人の真似をしていることが多いし、往々にしてお金に縛られている。そこへいくと友人K君などは定年になってから、これまでの人生でやりたかったことや定年を期してやりたいこと100以上をこれからの人生でやり遂げようとしている立派な「勝手気まま人」である。独創性や創造性は自由な身になってからこそ大切な素質かも知れない。

 「難波人/葦火(あしび)焚(た)く屋の煤(す)してあれど/己が妻こそ常(とこ)めづらしき―万葉集・作者不詳」。難波の人が葦火を焚くので家が煤(すす)けるが、おれの妻もそのように古びている。けれどおれの妻はいつまで経っても見飽きない。おれの妻はやはりいつまでも一番いい、と詠っている。若い者の恋愛とちがって落ち着いたうちに無限の愛情をたたえている(読解と概説は斉藤茂吉による)。
 茂吉のいうように確かに年配の夫婦にしかないしみじみとした愛情の感じられる歌にちがいないが、「万葉人でも奥さんにお上手を言っていたんだ!」という諧謔を感じさせる新鮮な一面もある。それにしても「常めづらしき」という表現はいい。「めづらし」という古語には「見慣れないので、新鮮に感じられて心をひかれる」という意味があるがそれに「常(とこ)」を接けることで、長い人生を共にしてきた夫婦こその愛情がにじみでてくる。

 今年の年賀状に「興の趣くままに但し則を越えずに、が古稀の意味だそうです。その通りの人生で敬服致します」と書いてくれた先輩がおられた。このコラムを評価していただいたようで嬉しかった。励みにしてこれからも永くつづけていきたい。

2011年6月13日月曜日

保守主義について

 保守主義とは「私権の制限を最小限にすることを価値判断の基準とする考え方」ととらえている。これに「自分の属している社会構造から他の社会構造への移行を、人間的価値の損失を最低限にとどめながら引き起こすこと」というシュンペーターの考え方を付け加えると今の政治状況を的確に判断できる。

 東日本大震災の被災者の立場に立てば、自分の家や土地、生活権や営業権の制限はできるだけ免れたいと願うのは当然のことである。しかしどうしても妥協しなければならない状況に追込まれた時には、自分の誇りや人間的価値のバックボーンになっている地方特有の歴史や文化を可能な限り守りたいと思うに違いない。こうした視点から今までに打ち出されている「復旧・復興策」を点検してみると被災者の感情を逆なでしているものが少なくない。政治家や官僚・行政マンは所詮『他所者』であり被災者の心の奥底―今回のような想像を絶する災害に遭遇したとき人は究極の「保守主義」に落ち入らざるを得ないという心情―まで考えていない、机上論で処理しているからである。

 我国の政治状況を考えるとき、本当の意味での「保守主義政党」が育っていないことが根本的な弱点になっている。戦後復興という国難を乗り越えるためには「私権を制限して中央政府に権限を集中させ再配分を効率的に行う」必要があり、そうした体制が自民党政治崩壊まで続いてきた。ところが国民のほとんどは「自民党政治=保守政治」として疑ってこなかったから「反自民=革新政治」という図式で民主党を選んでしまった。ところが実際は両党とも「大きな政府」を標榜する政党であるから「政権の変更=政治の変化」とはならなかった。民主党になっても何にも変わらない、のは当然なのだ。
 
 菅首相が交代しても次ぎの総選挙まで今の体制が続くなら政治の混迷はつづく。大連立が収拾策でないことは明らかだ。本物の保守主義政党が出現するかどうか、そこが根本的な問題である。

2011年6月6日月曜日

Let's try again

 「 Let‘s try again」を聴いた(視た)。これは歌手の桑田桂祐が東日本大震災の犠牲者の鎮魂と被災者の支援のために作詞作曲し所属する事務所アミューズのタレントを総動員して制作したもので、CDとDVD1セットで1300円、利益のすべてが義捐金になる。
製作現場をドキュメントした映像がDVDになっていてこれを視ると桑田桂祐という歌手がいかに優れたプロデューサーでありディレクターであるかということが分かる。それと同時に出演している歌手とタレントがそれぞれ一定以上の水準をキープしているから短時日で制作されたにもかかわらず素晴らしい作品になっている。

 桑田桂祐は30年近く日本軽音楽界のリーダーとして存在し、音楽事務所アミューズはそんな彼に心酔した歌手が参集してできている。そうした背景があるからこの作品の実際の製作日数は僅か3日であるにもかかわらず30数組60人近い歌手・タレントがそれぞれの才能、もしくは持ち味以上のものをだし、桑田のメインテーマに各歌手のメガヒット曲を重ね合わせた軽快で楽しい作品になっている。「Let’s try again」は間違いなく聞く者の心に『湧き上がる力』を植えつけてくれる。

 桑田桂祐がカリスマ的な歌手であり制作者であるから福山雅治やBEGIN、ポルノグラフィティといった錚々たるメンバーが違和感なく融合している。優れた制作者の創った楽曲を絶対的なプロデューサーがメンバーを組織しカリスマ・ディレクターが演出すれば、メンバーの持てる力以上の最高を引き出して素晴らしい作品を仕上げることができるのだ。

 翻って我国の政治状況は目を覆うばかりの惨状で絶望感に襲われてしまう。ここまで劣化した政治がつづいてしまうと現在の政治システムは機能できていないと断定しても間違いあるまい。
そこで提案だがマスコミ総動員して「現在の衆参両院の議員で、選びうる限りのベストメンバーの震災復興挙国一致内閣」を組閣して欲しい。そしてそれを一斉に国民に提示して欲しい。党派やキャリアを超越して「社会の木鐸」としての矜持をもって選んで欲しい。そして世論を喚起しこの国難を乗り越えるために政治を望ましい方向に善導してほしい。

 もう、永田町と霞ヶ関だけに日本の政治を任せておけない!