2011年7月25日月曜日

原発事故とブレヒト

 「英雄のいない国は不幸だ!」「違うぞ、英雄を必要とする国が不幸なんだ。」このセリフで有名なB.ブレヒトの「ガリレイの生涯」は1939年に第1稿(デンマーク版)が完成したが原爆投下を知ったブレヒトは作品の大幅な書き直しを決意する。ガリレイの学説撤回は科学の原罪として断罪されなければならないと考えたからである。
 戯曲「ガリレイの生涯」はこうした経緯もあってかフクシマ原発事故に関わる警句に満ちている。(テキストは「ブレヒト戯曲全集第4巻・岩淵達治訳」未来社版を使用)

 君たちは科学の光を慎重に管理し/それを利用し、決して悪用するな。/いつの日かそれが火の玉となって降り注ぎ、/われわれを抹殺することのないように、/そうだ、根こそぎにしないように。(第15場)

 (宗教裁判で自らの地動説を撤回したガリレイと決別した愛弟子アンドレアがオランダへ科学の研究に旅立つ前に幽閉地フィレンツェの別荘にガリレイを訪れる。番兵と娘のヴィルジーニアが席をはずし二人きりになるのをまっていたかのようにガリレイが苦渋の胸の内を吐露する第14場でドラマはクライマックスを迎える。)
 私は自分の職業を裏切ったのだ。私のしたようなことをしでかす人間は、科学者の席を汚すことはできないのだ。
 私は、自分の知識を権力者に引き渡して、彼らがそれを全く自分の都合で使ったり使わなかったり、悪用したりできるようにしてしまった。
 科学は知識を扱う、知識は疑うことによって得られる、すべての人のために、すべてのことについて知識を作り出しながら、科学はすべての人を疑いをもつ人にしようとする。
 科学の唯一の目的は、人間の生存条件の辛さを軽くすることにあると思うんだ。もし科学者が我欲の強い権力者に脅迫されて臆病になり、知識のために知識を積み重ねることだけで満足するようになったら、科学は片輪にされ、君たちの作る新しい機械もただ新たな苦しみを生み出すことにしかならないかもしれない。
 私が抵抗していたら、自然科学者は、医者たちの間のヒポクラテスの誓いのようなものを行うようなことになったかもしれない。自分たちの知識を人類の福祉のため以外は用いないというあの誓いだ!
 しかしわれわれ科学者は、大衆に背を向けてもなお科学者でいられるだろうか?

 人類はブレヒトを必要としない時代を迎えることができるだろうか。

2011年7月18日月曜日

愛国心

 「『社長100人アンケート』で、約4割の経営者が円高の是正や税制の見直しが進まなければ3年以内に海外に生産拠点等を移さざるを得ないと回答した。(略)電力不足問題が長期化する懸念から、国内生産が維持できなくなるとの危機感が広がっている。(7.15日経より)」
「大阪商工会議所の佐藤茂雄会頭は15日の定例記者会見で、政府が原子力発電所のストレステストを実施する方針を示したことについて、『(海江田万里)経産相や自治体の原発再稼動への努力を無にするもの。再稼動が遅れると経済活動、市民生活に壊滅的な打撃を与える』と強く非難。政府に早期再稼動にむけた努力を求めた。(7.16日経より)」

 3月11日の東日本大震災と福島第1原発事故から4ヶ月経った今、電力会社を初めとして経済界、政治家や関連官僚組織の恫喝にも似た原発再稼動への動きが加速している。被災地の復旧復興が未だほとんど手付かずな状況にあり、毎日のように原発事故の被害が拡大しているにもかかわらず、である。そして上記の社長アンケートだ。企業のレゾンデートル(存在理由)が「雇用」にあることは論を俟たない。アメリカも同様であるが金融危機からの脱却のために政府の莫大な財政支援を得て企業経営は回復、軌道に乗ってきているが雇用は一向に改善せず失業率は高止まりしたままである。これでは国民の血税を使った意味がない。
加えて、よりにもよって国内空洞化を平然と公言する大企業経営者に『経営哲学』はあるのだろうか。安倍内閣当時『愛国心』論義が盛んに行われ政治家の多くと共に財界首脳もその必要性を声高に叫んでいたが、彼らの『愛国心』とは何と底の浅い信念の不確かなものなのか。彼らが好んでつかう『国難』の今こそ、あらゆる試練を乗り越えて国家国民のために日本国の再設計を成し遂げる気概が求められているのではないのか。それこそ本物の『愛国心』ではないのか。

 閑話休題。孔子に「後世、畏るべし」という辞がある(『論語』子罕)。若者は先生(大人)を超える可能性を持っているから畏敬の目で見るべきだ、という意味だが、こんな大人と子供(若者)の社会であって欲しい。
 「母さん知らぬ/草の子を、/なん千万の/草の子を、/土はひとりで/育てます。∥草があおあお/茂ったら、/土はかくれて/しまふのに。(金子みすヾ「土と草」)」

2011年7月11日月曜日

即非の論理

 松本龍(前復興担当相)という人を始めて見たとき「この人は古いタイプの人だな」と思った。その後何度かテレビに映し出されると「この人は古いタイプの大物政治家を気取っている」と感じるようになった。例えば田中角栄のように『ヨッシャ、ヨッシャ』と親分肌で陳情を処理していった1980年代までの政治家を演じている風がにじみでていた。しかし当時と今では根本的に政治状況が変化している。財政資金が有り余っていた当時と異なり現在は財政再建が喫緊の課題となり復興財源の捻出にも四苦八苦している有様であり、加えて国が推進してきた原子力政策の是非が問われる福島第一原発問題の処理が最大の課題であるから、政府と地方の首長は微妙な関係にある。そうした状況を考慮する繊細さが微塵もなかった彼が即刻辞任するのは当然であった。

 菅直人首相も「後世に名宰相と評価される」総理であろうと懸命に演じている。消費税増税にはじまって平成の開国、再生可能エネルギー、原発廃止など評価の対象を漁って延命を模索しつづけている。

 鈴木大拙に「即非の論理」という教えがある。これは仏教の「色即是空(この世で形あるもの《色》はみな、とらえどころがない《空》。とらえどころがないからこそ、形あるものになれる。)」をまとめ直した考え方で、「AはAではないからこそAと呼ばれる」という論理で逆に言えば「このBは、まるっきりBそのものだ。だからBではない」ということでもある。例えば料理写真を考えてみると、素人が実物そのままを撮ったにもかかわらずあまり美味しそうに写らない。プロの写真家は、刺身にワックスを塗ったり焼き肉を絵の具で着色したりして、強力なライトを当てて撮影するから美味しそうに写る。AはAでないからこそA(美味しそうな料理)に見えるのだ(加藤徹著「漢文力」より)。

 菅首相も松本前復興相もさも「名宰相」たらん「大物政治家」たらんと振舞い過ぎたために反って『みすぼらしい本性』を曝け出してしまった、と後世は評価するかも知れない。

2011年7月4日月曜日

仏つくって

 国難を前にして政治が機能不全に陥っている。政権交代が結果として政治制度の欠陥を浮き彫りにした形となりマスコミは政治制度改革の必要性を訴えている。強すぎる参院権限見直し、参院否決後の衆院再可決ルールの緩和、小選挙区制度の見直しなど答えはほぼ出尽くした感がある。衆参の議決が異なった場合に開く両院協議会の改革など今すぐ手を付けられるものから早急に対処すべきであろう。

 しかしいくら制度を改めても中味―政治を形成する政党が今の構成では本質的な政治状況の改善にはつながらない。6月13日付けの本コラムにも記したように現在の我国の政党は右から左までほとんどが「大きな政府」を根本的な政治信条としている。戦後55年体制が長く続き、その間マスコミは「保守と革新の激突」などの表現を繰り返してきたが―そしてそれはレトリックとしては致し方ない側面もあるのだが―実際は「保守主義政党」は存在していなかった。従って政権奪取を目指す民主党とすれば政府に集めた国民の所得の再配分先と分配方法をこれまでの自民党方式と改める以外に差異化の術はなかった。それが「子ども手当」であり「農家への個別補償制度」などの直接支給方式につながることになったのであり『民主の自民化』など自明の結果である。

 では「保守主義」とはなにか。6月13日のコラムから引用すれば「私権の制限を最小限にすることを価値判断の基準とする考え方」であり「自分の属している社会構造から他の社会構造への移行を、人間的価値の損失を最低限にとどめながら引き起こすこと」であるから結果的に「小さな政府」を標榜することになる。「金持ちの政党」であったり「古いものを大切にする政党」が保守主義政党ではない。

 ただ『政治とは、(略)要するに権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である(M.ヴェーバー著「職業としての政治」より)』と考えると、保守主義は『分け前』にあずかる分野を今より大幅に削る必要に迫られるから既存の政治家には不人気であろう。そうした意味では勢力拡大に苦労するかも知れないが、今国民が求めているのは「信念を持った志の高い」政治であり政治家であるから刻苦勉励して貰いたい。

 制度改革と政党の成熟が伴って日本の政治の安定が齎される。