2012年12月24日月曜日

貴(あて)ということ

冬至、冬の真盛り、寒さに凍れる毎日がつづく。それでもあと二ヶ月も我慢すればわずかに残った公園の常緑樹の葉陰から「ほゝき、ほゝきい」と幼鶯の鳴き声が聞こえ出す。そして十日もすればすっかり上手になって「ほけきょう、ほけきょう」とおとな鶯の囀りに変わる、と枯れ枝にポツポツと浅緑が芽吹いて春の近づきを知る。
鶯の鳴き声を「法喜、法喜」「法華経、法華経」と表したひとがいる。折口信夫の「死者の書」にあるのだが、奈良時代の古代語を駆使し古代の習俗や古代びとのものの考え方を芯に据えて展開する物語は千三百年余の時空を超えて我々を奈良朝の雅の世界に招じ入れてくれる。
継母の持統天皇に疎まれ謀殺せられた大津皇子の霊に恋した藤原南家郎女(中将姫)が蓮の糸で皇子の衣を織り上げ俤のきみを慕いながら入水死する、というこの小説は古代がたりの文体と相まって『無比(解説・川村二郎の言)』の作品となっている。

踏み越えても這入れ相に見える石垣だが、大昔交わされた誓ひで、目に見えぬ鬼神(モノ)から、人間に到るまで、あれが形だけでもある限り、入り込まぬ事になってゐる。こんな約束が、人と鬼神(モノ)との間にあって後、村々の人は、石城(シキ)の中に、ゆったりと棲むことが出来る様になった。(新潮文庫p82)
何を仰せられまする。以前から、何一つお教へなど申したことがおざりませうか。目下の者が、目上のお方さまに、お教え申すと言うやうな考へは、神様がお聞き届けになにません。教える者は目上、ならふ者は目下、と此が、神の代からの掟でおざりまする。(同p86)
何しろ、嫋女(タワヤメ)は国の宝じやでなう。出来ることなら、人の物にはせず、神の物にしておきたいところぢやが、(同p115)
大昔から、暦は聖の与る道と考へて来た。其で、男女は唯、長老(トネ)の言ふがまゝに、時の来又去った事を教はって、村や、家の行事を進めて行くばかりであった。(同p133)
世の中になし遂げられぬものゝあると言ふことを、あて人は知らぬのであった。(同p143)
つひに一度、ものを考へた事もないのが、此国のあて人の娘であった。磨かれぬ智慧を抱いたまゝ、何も知らず思はずに、過ぎて行った幾百年、幾万の貴い女性の間に、蓮(ハチス)の花がぽっちりと、莟(つぼみ)を擡(モタ)げたやうに、物を考へることを知り初めた郎女であった。(同p95)

知ること、考えることの危うさを折口信夫は「死者の書」に込めたのだろうか。

赤ちゃん―の「赤」は何もない無垢を表している―いわば古代のあて(貴)人と同じ状態にある赤ちゃんを今の、大人の論理で虐待する親。古代の長老は「神の物」にしたいと崇めていたものを。

2012年12月17日月曜日

今こそソフトパワー(4)

  北朝鮮がミサイル実験を強行した。すると翌日中国空軍機が尖閣上空の領空を侵犯したがこれは北朝鮮にメンツを潰された中国政府が国民の批判を逸らす為に起こした示威行為とみるのが単純だが当を得ているのではないか。
経済力を背景とした中国の権威主義的な外交政策は、尖閣諸島のみならず南シナ海の領有権をめぐるフィリピン、ベトナムとの対立激化、黄海での領有権をめぐる中韓対立、更に中国と良好な関係を保っていたミャンマー政府の中国離れなど再考を迫られている。
目を国内に転ずると所得格差を表す「ジニ係数」が警戒ラインを大幅に超え社会不安につながる『危険ライン』とされる0.6も突破するという状況に至っており不満分子の暴動は年間20万件を超えている。こした影響を受けてか2013年の昇給見通しは9.5%と予測され(人事・組織コンサルティング大手ヘイコンサルティンググループによる)これは物価上昇率の約3倍にも相当する。その一方で12年7月の失業率は8.05%と高止まりしており特に都市部の大学を卒業したばかりの労働者の失業率は16.4%と超高率になっている。
国内情勢が制御可能範囲を超えるかもしれない不安を抱えているにもかかわらず2012年度の国防費は前年度比11.2%増の6702億7400万元(約8兆7000億円)と増加傾向に一向に歯止めがかからない。こうした状況は一定して日本の軍国主義復活に対する不安を提起してきた中国に同調してきた東南アジア諸国を中国に対する恐怖をかきたて逆に日本の過去の侵略被害の記憶を打ち消し日本の再軍備への支持に変化させる結果を招いている。

10月から3回にわたって中国情勢を考えてきた。勿論それは経済を中心とした『中国一斑』にすぎないが、それにもかかわらず世上喧伝されている「中国脅威説」が根拠の薄いものでありむしろ中国共産党指導部の現体制維持の枠組みが相当困難な状況にい追い込まれていることを浮き彫りにしている。
「2025年には、いずれにせよ中国共産党の76年間にわたる権力に終止符が打たれるであろう」というジャック・アタリ「21世紀の歴史」(林昌宏訳作品社)の言葉はリアリティがあるし、更に「中国の軍事力を懸念する必要はない。なぜなら、中国は本当の意味で軍事大国ではないからだ。強大な海軍、空軍を持つには程遠い(2012.9.9毎日新聞「ジャック・アタリ/時代の風」)」という彼の発言は中国軍事力の見方に従来とは全く異なる視点を与えてくれる。

国内に抱えるマグマを増す矛盾、にもかかわらず対外的に威信を示さざるを得ないことからくる抑制不能な恒常的軍事費の増加傾向、拡大するGDPと1人当たりGDPの埋めることのできない乖離。
情報化とグローバル化が加速する世界情勢の中で、14億人の人口を一党独裁で制御することがいつまで可能なのだろうか。

安倍政権の10年後20年後を見据えた冷静で賢明な外交政策を期待する。

2012年12月10日月曜日

日本語の面白さ

 流行語大賞なるものが発表になった。今年も又お笑い芸人の一発ギャグが大賞を受けた。最近強く感じるのは芸人の人気や流行が臆面もない『仕組まれた』流れになっていることだ。若い人や子供がその流れに乗って人気が出ているように装われているが、それは仲間はずれを恐れての『追従』であって『熱狂』ではない。大賞を取った芸人が翌年消えてしまうのは至極当然のことになる。

 言葉に流行り廃りがあるのは古今を問わない。例えば今普通に使っている「です、であります」は江戸時代芸者や遊女の「職場言葉」であった。それが明治維新になって山手の言葉になった、その経緯はこうである。江戸時代諸藩の下屋敷のあった山手に維新政府の官僚や役人が地方(薩長土肥など)から移り住まうようになった。当然ながら彼らは芸者遊びや郭通いをしたがそこで使われている「です、であります」を彼らの共通語にしようと考えた、何故ならそれぞれお国訛りの強い方言だったから意思の疎通に齟齬を来たしていた、それを解消するために。やがて文部省に国語調査委員会が設置され標準語が制定され「です、であります」はめでたく標準語となり、今日に及んでいる。
 以上は新潮文庫「日本語の年輪・大野晋著」からの引用だが外にこんなことも書いてある。

 「おめかし」をするとは、美しくない人も美しいようにいろいろ手を加えることである。これは平安時代の最も高い美の範疇の一つとしての位置を占めていた「なまめかしい」からきている言葉だ。「なま」という言葉は、その状態や動作が、未熟であること、いい加減或いははっきりしないということを表す言葉であった。「めかし」というのは、「物がそのもの本来の様子に見える」ということと、「ほんものではないがほんもののように見える」ということの、二つの意味を持っている。これが結合した「なまめかしい」は、本当は十分な心づかいがされているにもかかわらず未熟のように見える、さりげなく、何でもないように見える。そんな慎ましやかな美しさを表しているのである。
 平安朝の宮廷で、「貴(あて)」と並んで最高の美の一つとして「なまめかしい―なんでもないような様子をしている」が重んじられていたことで、「日本の美意識」のひとつがこの時代に確立されていたことが知れる。
 また「うつくしい」という言葉は万葉集の時代には肉親的な親密な感情を表していた。美を表す言葉は、クハシ(細)、キヨラ(清)、ウツクシ(細小)、キレイ(清潔)と変遷し今に至っている。
こうしてみると日本人の美意識は、善なるもの豊かなものに対してよりも、清なるもの、潔なるもの、細かなものと同調する傾向が強いらしい。これに対して中国では「美」が「羊」が「大」なるもの、「麗」が大きな角を二本付けた立派な「鹿」の意味から転じたことを思うと、日中の美意識の違いが際立っているのが知れよう。

日本語は面白い、だけど軽々に操るものではない。

2012年12月3日月曜日

天と地

 11月30日の2つの記事に興味を惹かれた。
ひとつは「ハズレ馬券経費に認めず」という記事。競馬で得た所得を申告せず2009年までの3年間に計約5億7千万円の脱税をしたとして大阪地検が所得税法違反の罪で会社員の男を在宅起訴した、いうもの。年収800万円の男が市販の競馬予想ソフトに独自の計算式を入力し、3年間に約28億7千万円の馬券をインターネットで購入し約30億円の配当を獲得、差し引き約1億4千万円の純儲けを得た。しかし税務当局はハズレ馬券の購入費を経費と認めず、実際の当たり馬券の購入費のみが経費だとして利益を5億7千万円と判定した。少々分り難いが、1万円づつ100点の馬券を買い内1点が当たり100倍の配当があった場合、当たり馬券の購入費1万円が費用で差し引き99万円が儲けとして課税對象になる、というのが税務署の考えらしい。当然ながら一般の競馬ファンは100万円買って100万円の配当だからトントンと考えるからその差は著しい。サテ結末はどうなるのだろう。

 もうひとつは、過労死などで従業員が労災認定を受けた企業名を開示しないのは違法だとして市民団体代表が大阪労働局に起こした「不開示決定の取り消し」を求めた訴訟で、企業名が公表されると当該企業が社会的に『ブラック企業』という不当な否定的評価を受けることがあるので「不開示決定は適法」である、という判決を大阪高裁が下したというものだ。一審の大阪地裁が下した開示を命じた判決を大阪高裁が覆したのだ。「情報公開法は法人などの正当な利益を害する恐れがあるものを不開示情報と規定する」と指摘し「脳・心疾患による死亡で労災認定されただけでは過失や法令違反があることを意味しない」のに「社会的には『過労死』=『ブラック企業』という否定的評価を受け、信用が低下し利益が害される蓋然性が認められる」というのが判決理由になっている。原告の「全国過労死を考える家族の会」は「働く人の命が使い捨てにされる現状を改善して欲しい、納得がいかない」として上告する方針を明らかにしている。
 労働者の権利のうちで「労災認定」を受けるのは最もハードルの高いものになっている。石綿事案にみるようにいくつもの困難な条件をクリアしてやっと認定にたどりつくケースの多い労災認定で、山田裁判長のいうような可能性は果たしてどんな場合なのだろうか。具体性が極めて曖昧だ。それでなくても談合やダンピング、下請けいじめなどの公正取引法違反やインサイダー取引、偽装請負など企業倫理が低下している現在、法の力点は企業よりむしろ労働者側に置かれるべきではないのか。

 年収800万円の恵まれたサラリーマンの無分別なバクチ騒ぎと不遇な労働者の過労死、何という違いか。『働く』ということをもう一度考え直してみる必要がありそうだ。
 蛇足―マスコミが大きく取り上げたのはバクチ騒動の方だった。

2012年11月26日月曜日

落ち葉焼(た)く

 朝公園へ行ってみると逍遥路が落葉で埋め尽くされていた。昨日の雨が紅(黄)葉を散らしてしまったのだ。今年は夏の晩から秋、冬と季節が足早に移ったせいで紅(黄)葉が素晴らしかった。とりわけ朝の濡れた光に照り映える紅や黄の葉は昼間の数倍美しい。太陽は早朝の清澄な湿った光から刻々と潤いを失い中天に昇る頃にはすっかり乾いた光に変わってしまう。だから同じ木々も朝と昼では粧いが異なる。紅(黄)葉も新緑も早朝のたたずまいが一番だ。

 落葉を踏みしめて歩いていると何となくメランコリックな気分に襲われるのはどうしてだろう。感情の吐露たる詩歌の歴史をたどってみると万葉集(759年頃成立)には憂愁とか哀しといった内的な主観で秋をとらえている歌は少ない。それが古今集(905年奏上)になるとすっかり様相が変わり「秋来ぬと 目にはさやかに見えねども 風のおとにぞおどろかれぬる(藤原敏行)」のような内面的に季節を感じる歌が多くなる。この変化は遣唐使の持ち帰った「白氏文集」の影響が大きい。唐の白居易(772~846)によるこの漢詩文集は平安貴族の必修歌集となり有名な「長恨歌」は源氏物語に大きな影響を与えている。集中の「王十八の山に帰るを送り 仙遊寺に寄題す」にある「林間に酒を煖(あたた)めて紅葉を焼(た)き 石上に詩を題して 青苔を掃(はら)う」の一節は特に有名で平家物語など多くの文学作品に現れている。古今集はやがて「古今伝授」の形で日本人の季節感に強く影響を与えるようになる。
 明治になってヴェルレーヌの「秋の日のヴィオロンの ためいきの身に染みて ひたぶるにうら悲し(落葉・上田敏訳)」が人口に膾炙し、更に堀辰雄の「風立ちぬ、いざ生きめやも」の詩句などが相乗効果となって『秋=憂鬱、もの哀しい』のイメージが定着したようだ。

 毎年この季節になると公園の『落葉掃き』をしている。大変ですね、とひとは声をかけてくれるがやってみれば分かる、結構楽しいものだ。お金持ちの「愉しみ」ともいう広い庭の落葉掃きの楽しさなど一生味わえないと思っていた。ところが今の公園の近くに住むようになったお蔭で思わぬ恩恵を受けることになったが自分の庭ではないから好きな時に掃けばいいというわけにはいかない。落葉の風情を楽しんでいる人も多いのだから病葉が少し邪魔になって汚れが目立つようになった頃合を見計らって拾ってやる。そのタイミングがなかなか難しい。
 いずれにしてもボランティアというものは強制されてやるものではない。好きな時に好きなようにやる、嫌ならいつ止めてもいい。今日辛度かったら明日やればいい。ボランティアはそんなものだと思う。

 来週になったら逍遥路の落葉掃きをしようか。

2012年11月19日月曜日

巨悪

  石原慎太郎氏には驚かされる、齢80にして新党立ち上げとは!
勿論彼の場合はこれまで都知事という現場にいたのだから一般の80歳とは異なるが、それにしてもすごい馬力だ。しかし今回の決起は彼の独自の思惑なのだろうか。議員として大臣を又東京都知事を4期も務めた彼が何を今更野党の党首として一議員の身に甘んじるのだろうか。彼の言葉に従えば、第三極の糾合大同団結による政界再編成が狙いかもしれないがその場合、彼は細川内閣のように連立の総理大臣にならなければスグにでも引退するのではないだろうか。

 ところでここにきて『橋下維新の会』の支持率が急落している。一時は10%を超えて民主党をも凌駕しようかという勢いのあったものが直近の調査では2%前後に低迷している。その原因のひとつに石原氏の存在を上げるのは無理筋であろうか。知事時代の両者の接触はほとんど維新の会の支持率に影響はなくむしろ石原氏が橋下氏にすり寄る様子にもうかがえたが、知事を辞任し新党設立に動き出した途端にマスコミは一斉に「第三極大同団結」をはやし立て一挙に「維新人気」は埋没してしまった。知事を離れた石原氏は持ち前の奔放磊落さが表に出て橋下氏との器の大きさというか人間的な深みの差がテレビの画面上に映し出され橋下氏はかすんでしまった。

 石原氏の動静が「橋下人気凋落」の外的要因だとすれば「週刊朝日事件」は人々の心にひそむ『ドス黒い澱(おり)』に深く『負の共鳴現象』を引き起こした。橋下氏の出自に被差別部落の影をにおわせ人格を否定するような特集記事を掲載した週刊朝日は陳謝と朝日出版社社長の辞任、編集長の降格解任による幕引きを図ったがこの経過は余りにもスラスラスラと進み過ぎ、の感がある。それまでのネガティブキャンペーンも相当エゲツナカッタが最後の一線は超えなかった。そのせいか橋下人気にほとんど影響はなかった。そこで硬派の朝日・読売・日経グループ週刊朝日が想像を絶する露骨な人権差別の人格否定特集を掲載するという暴挙に出た。表面的には朝日の責任を追及し部落差別の不当性をとなえても、50才前の世代以降の年配者たちは今だに「差別意識」を拭えていない。抑えても抑えても差別意識は残っている。朝日の記事はその許容しがたい深層意識に微妙に効果を与えるのに成功した、のではないか。選挙民の半数近くの層の橋下維新の会への『熱狂』に冷水を浴びせたのは間違いない。
 
そして石原新党の立ち上げに呼応するかのような野田首相の解散宣言。一挙に選挙モードに突入した政界地図に日本維新の会は第三極の一隅に10何分1かの位置を占めるまでに落ちぶれた。

 石原新党、週刊朝日事件、野田首相解散宣言。この3つの不自然な流れを意図的に操作して「橋下維新の会」の勢力剥奪を企図した誰かがいたとしたら。
 『巨悪』は存在するのだろうか。

2012年11月12日月曜日

今こそソフトパワー(3)

  8日開幕した中国の第18回共産党大会で胡錦濤総書記が「2020年までに1人当たりの国民所得を倍増する」という目標を掲げた。違和感を感じる控えめな目標ではないだろうか。

2010年に日本を抜いて世界第2位の経済大国に成長した中国は2020年から2025年にはアメリカを超えて世界第1位になるとまことしやかに伝えられている。もしそうなら2011年に5400米ドルだった1人当りGDPは1万ドルを超えて15000ドル、3倍に近い数字になっていなければおかしい計算になる。
中国が1位になるという想定を受け入れてその時の世界経済を考えてみると米国と中国が世界経済の40%近い比率を占めることになる。少し前の『G7(8)』は今や『G20』の時代になっており新興国隆盛の情勢を踏まえると今後は30カ国以上の国々が優勢な世界経済のプレイヤーとなるに違いない。『資源の有限性』という厳然たる事実を考えると米中2国で資源の独占が許されるとは到底思えない。
また中国がこれまで成長のエンジンとしてきた「人口ボーナス」はすでに転換点を越え2020年には「人口オーナス」の状況に至っている。人口、生産性、イノベーションが成長の3要素だとすれば人口増加の望めない中で成長を遂げるには生産性の向上とイノベーションが必須となるが現状の中国経済の状態はそれには程遠い状況にある。加えて総書記の活動報告にもあるように中国国内の腐敗と格差の拡大に対する不満は年間10万件を超える集団抗議行動として顕在化しておりそれを解消せずに成長を達成することは不可能である。

「中国の鄧小平の実行した四つの近代化は『工業、農業、国防、科学技術』であった。中国はこれには成功したと言えようが、情報の近代化を実現できるかがこれからの中国指導者の課題である。(24.11.4毎日「時代の風・中西寛」)」。中西氏の言うようにこれからの中国は情報化によるサービス産業の育成が重要になってくるが為政者はこの段階を着実に実行できるであろうか。

経営学に「スパン・オブ・コントロール(管理の限界)」という考え方がある。「ひとの管理できる人数は7~9人が限界である」として管理組織を構成していく。国家の経営を企業のそれになぞらえる事に無理があることは承知のうえで、国家経営の人口規模はどのあたりが限界なのだろうかと考えてみる。人種の坩堝といわれながら活力を失わずに辛うじて成長を続けるアメリカは格好のモデルケースといえるだろう。そのアメリカは今3億1千2百万人弱の人口である。先日の大統領選挙の結果をみても統一を保てるギリギリの限界のように感じる。とすれば13億人を超える中国は「国家の人口管理の限界=3億人」を4倍近く超えていることになる。

 胡錦濤総書記をはじめ中国為政者は「13億人の国家経営」に緊迫した危機感を抱いている。「所得倍増計画」はその表れと感じたのは私だけだろうか。

2012年11月5日月曜日

灯火親しむ

今「森鴎外の『うた日記』」という本を読んでいる。先日図書館に行った折にフト書架を見るとこの本が目につき借りてきたものである。どうしてこの本が気になったのだろう?森鴎外の愛読者であること、作者の岡井隆が短歌には無案内な私でも知っている著名な歌人であることが大きく影響したことは間違いない。しかしそれだけではない。まず背表紙のタイトルの字体と配置のバランスが良かった、装幀が上品で重厚であった、手触りや重さも心地よかった。そうした『総体』が長年の読書経験からきている『目利き力』に直感的に訴えるものがあってこの本を借りようと決めたのだろう。

 予想に違わずいい本に出会えた。鴎外の「うた日記」の解読、といえば堅苦しいが詩歌の背景、(漢語)詩の読み解き、岡井氏の感じ方と評価、特に本職の歌人の立場から『文豪・森鴎外』の詩歌を評点するところが面白いし矜持を感じる。「うた日記」というのは鴎外が日露戦争に軍医として出征した日日の思いを託した詩歌をまとめたもので、短歌、俳句、近代詩、漢詩と広いジャンルに亘っている。通り一遍の読みでは分からない、また漢(語)詩では読み方や語句の意味も定かでないものもあり、深く掘り下げて読み解いてくれる作者の語り口は滋味深い。
 いい本には作中の参考文献に優れたものがありその後の読書の大きな支援になることがあるが、今回も「大野晋著・日本語の教室・岩波新書」と「小島憲之著・ことばの重み(鴎外の謎を解く漢語)・講談社学術文庫」を紹介してもらった。すぐに読みたくなり早速購入して前書は既に読み終え後書も本書(うた日記)と並行して読んでいる。ともに言葉についての本だが教えられるところが多く玩味がある。

 最近「電子書籍(以下電子と略す)」が隆盛になってきたが『本との偶然の出会い』がないから今のところ二の足を踏んでいる。しかし辞書や百科事典のように全部ではなく一部を資料として使用する類のものには適しているだろう。雑誌も電子の方が面白いものが作れそうだしエンターテインメントとして読む小説や漫画もどんどん電子化していくに違いない。しかし傍線を引いたり付箋を貼って奮闘しながら挑戦する「専門書」は本としてこれからも存在していくと思う。最も適さないのは「詩」と「絵本」か。特に「詩」は言葉だけでなく書き方も重要な要素であるから質感も含めて本の形が望ましい。
 電子で最も期待されるのが教科書だ。本の教科書をただ移し換えたようなものでなく情報を多層化した多重構造の電子の作れる環境が整えば全く新しい教科書を生み出すことができる。それは学校経営にも大転換を齎す可能性を秘めているが、そのためには「文科省検定」や「学習指導要領」などの『規制撤廃』が前提となる。

 灯火親しむ―の候である。今年も「紙の本」を楽しもう。

2012年10月29日月曜日

啓蒙と政治

啓蒙について考えている。重くのしかかる閉塞感と目を覆うばかりの政治の劣化を打破し再生するためには市民の啓蒙が必要なのではないかと思うからである。

カントは啓蒙をこう定義している。人間が、みずから招いた未成年の状態から抜け出ることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。(略)ほとんどの人間は自然においてはすでに成年に達していて(自然による成年)、他人の指導を求める年齢ではなくなっているというのに、死ぬまで他人の指示を仰ぎたいと思っているのである。(略)その原因は人間の怠慢と臆病にある。というのも、未成年の状態にとどまっているのは、なんとも楽なことだからだ。(略)書物に頼り、(略)牧師に頼り、(略)考えるという面倒な仕事は、他人がひきうけてくれるからだ。(略)多くの人々は、未成年の状態から抜け出すための一歩を踏み出すことは困難で、きわめて危険なことだと考えるようになっている。(光文社古典新訳全集「カント・啓蒙とは何か」)。

『閉塞感』というのは一歩を踏み出す『選択肢』がない状態だ。『政治の劣化』は政治家が国民に希望の持てる『選択肢』を提示する能力がないことによる。我が国は長い間西欧先進国にキャッチアップすればよかった。世界は一部の有力国が合意を形成することで繁栄を寡占することが許されてきた。我が国も世界も未経験の領域に踏み込んでいる、他人の指示を仰げない状態にいる。

この時期政治はどうあらねばならないか。政治とは国という組織を運用する義務を背負う行為です。ところが物事を組織的に見る目の欠落から、(略)虚偽と隠蔽と推理力の欠乏とがそこに瀰漫するとき、そこには社会の弱体化、一国の文明の崩壊が待っている。そしてそれは言語能力の軽視、低下に相応じる。これは国語学者大野晋の考え方である(岩波新書「日本語の教室」)。大野は鈴木梅太郎、湯川秀樹ら先人の偉業を讃えたあとこう続ける。思考の底の底の部分で、言語の力と、(物理学の)構想力とが何かしら通じ合っているところがあると私は見ます。(略)文明といっても実はその基本は、「集める、選び出す、言語化する、論理化する」という行動にある。「組織としてものを見る」態度にある。(略)ただし、ここで注意すべきは右に挙げた人々はみな戦前の教育を受けた人であり、漢文や漢文訓読文で育ち、明晰・的確・秩序を心がけて育った人々だということです。(略)戦後50年たった現在、文明を維持する力を失いつつある。正確さの喪失、真実に対する誠意の欠如がそれである。

ノダる、などと若者から最低の評価を受けてしまった現首相の「空疎で不誠実」な言葉からは、もう何も生み出されないであろう。

2012年10月22日月曜日

今こそソフトパワー(2)

 中国のGDPがあと10年ほどで米国を抜いて世界1位になるという。世界経済に占める割合は20%、人口も14億人を超えるに違いない。しかしこうした数字は現在のトレンドをそのまま延長したもので実現するには数々のハードルがある。

米国が今日あるのは米ドルが世界の基軸通貨であったこと、自動車・家電製品・ITなどイノベーションで世界経済を牽引し絶えず生産性を向上して高い成長率を維持してきたことによる。一方中国は人口ボーナスによる低賃金を武器とした製造業の輸出力がこれまでの推進力であったが今年になってそれに翳りが出ている。生産性について考えると資源の最適利用が必須の条件だが、我が国でもそうであるように政府の規制や既得権層の存在がそれを妨げることが多い。報道されることが余りないが中国では汚職や格差に対する集団抗議行動が年々増加し05年で8.7万件(政府発表)も起こっている。コピー商品は横行している。鉄鋼に代表されるように政府の方針に反して過剰な投資が行われている。こうした現状の中国では生産性の大幅な向上を望むのは困難であろう。

中国の抱えている難問を列挙してみると次のようなものが考えられる。国民の90%の人々には退職金や健康保険がなく、都市部に住む約半数と農村部の4/5に当たる人は医療サービスが受けられない。中国の最大都市上位500の都市の半分では飲料水の確保ができずゴミ処理場が不足しているなど都市部のインフラ整備に相当の財政資金を投入する必要がある。人民元の安定性を強化し汚職を撲滅して公的財政部門の健全化を持続的に推進していく必要がある。さらに都市部に流入してくる数億人の人々に職を与え、所得格差を解消しなければならない。教育システムを改善して多くの管理職を育て上げることも必要であり、旧態依然の公共部門を改革し、個人の所有権並びに著有権を保護するための法整備も急務である。これだけの課題を一党独裁体制でこなすことは事実上不可能である。2025年には、いずれにせよ中国共産党の76年間にわたる権力に終止符が打たれるであろう(ジャック・アタリ著林昌宏訳「21世紀の歴史」作品社)。

中国は広大な国土を抱え、成長の潜在力を持った国だ。他国と同様に民主主義に向かっている。現在の体制はエリート支配の一形態だが、今後、民主主義の台頭に直面しながら持ちこたえることができるとは思わない。(略)中国の軍事力を懸念する必要はない。なぜなら、中国は本当の意味で軍事大国ではないからだ。強大な海軍、空軍を持つには程遠い(2012.9.9毎日新聞「ジャック・アタリ/時代の風」)。

世界1位になっても1人当たりで見ると15000ドル(130万円)弱で現在の日本の1/3、韓国の2/3程度に留まる。国威と国民の経済的厚生をいかに調和させるか。弱い犬ほどよく吠える、ではないが中国が強面に打って出れば出るほど、抱えている問題の根が深いということではないのか。

2012年10月14日日曜日

人間 指導者 政治

 ビール類の売り上げ不振が続いている。大手5社の1~9月の課税済出荷量は前年同月比1.4%減で8年連続の売り上げ減になる。原因についていろいろ言われているが所詮「旨くない」からではないのか。発泡酒が出てきたときには「ビールに似せたものだからこんなものだろう」で済ませたが『第3のビール』に至って「これはもう全く別物」と言わざるを得なかった。低価格で酔えればいい、なら代替品で少しでも旨いものがあれば缶チュウハイでも缶ハイボールでもいいわけで、結局ビール会社は大衆の嗜好の変化に振り回されて「自らの首を絞める」結果を招いたということだろう。
テレビも同様で「面白くない」から売れないのだ。デジタル移行で無理やり買い換えさせられたが内容はアナ ログ時代と何ら変わるところがなく、お笑い芸人等のタレント事務所主導の番組ばかりで面白くないことこの上ない。テレビは最早「電気紙芝居」ではない、情報チャンネルだ。そのことをテレビに関わる人たちは理解しているのだろうか。
ビールもテレビも「本質」を忘れて成長はない。

唐突だが人間の本質は何だろう?「人の性は悪、その善なるは偽なり」と荀子は「性悪説」で喝破している。人の本来の性質は悪であり人の性質が善であるのは人為の結果である、というのだ。私は長い間「本性が善である人は人格を偽っているのだ」と理解していた。何より誤解していたのは「偽なり」を「ギなり」と読んでいたことである。これは訳にもある通り「いつわり」でなく「人為」を意味しているから「イなり」が正しく、「偽」と「為」は昔は通じて用いられたからここでは「イ」と読むべきだ、と「小川環樹著漢文入門(岩波全書)」に教えられた。

では指導者の本質はどうあらねばならないのか?孔子は論語で次のように述べている。「子 子夏に謂いて曰く、女(なんじ) 君子儒と為れ、小人儒と為る無かれ、と(雍也篇より)」。簡単に言えば(小人儒)知識人で終わるな(君子儒)教養人と為れ、ということで「君子儒」が指導者の本質とみているのだ。知識だけでなく徳性とか、表現力・判断力・構想力・決断力等々人間性・人格性といったものを備えた人物が指導者にふさわしいことになる。(加地伸行著「論語」講談社学術文庫より)。

最後に政治の本質はなんだろうか?「誠実さは最高の政治である(略)誠実さはあらゆる政治に勝るという理論的命題は、いかなる異議をも限りなく超越して、政治の不可欠な条件となっているのである(カント「永遠平和のために―哲学的な草案」中山元訳・光文社古典新訳文庫より)」。

民主党政治が末期的症状を呈している。原発の再稼働問題や復興予算の流用問題で示した態度は政権党にあるまじき醜態である。未開で未熟であることを自覚して「人為」を重ね、政治人として政党として成長を期して欲しい。

2012年10月8日月曜日

今こそソフトパワー

NHK土曜ドラマスペッシャル「負けて勝つ―戦後を創った男・吉田茂」は渡辺謙の名演と脇役陣の充実もあって本年第一等の重厚なドラマであった。

戦後日本の復興が想像以上のスピードで高度成長を達成したについては緒論あるが「軍事費負担を極力回避」する姿勢に徹した吉田の存在が大きく影響したことは衆目の一致するところである。軍事費の過大な負担が一国の経済成長と負の関係にあることは多くの識者の指摘するところであり、ソ連邦の崩壊も米国との冷戦による軍事費の負担がその一因であったことは認めざるを得ないであろう。又米国の経済的衰退もベトナム以降の「世界の警察」としての戦費の過大な負担が累積して今日あらしめたことも否定し得ないところである。米国の軍事費と経済の関係については「アメリカ経済と軍拡・産業荒廃の構図(R.ディグラス著・藤岡惇訳ミネルバ書房刊)」に詳しい。

R.ディグラスは次のような結果を導いている。政府がハイテク兵器開発のためにこれほどの巨費を投じなかったとしたら、軍需分野の技術者たちは民間用のエレクトロニクス製品の開発に力を注ぐことができ、より効果的に日本と対抗できたであろう(p63)。新興の産業群から労働と資本を奪い取り金融的な冒険精神を去勢することこそ、軍事支出の必然的結果なのである(p142)。そして「政府の有する資源をレーガン政権のような規模で軍事面に移せば、(略)失業問題、海外市場の喪失、技術的優位の衰退、工場施設の老朽化といった焦眉の課題に対処する国家の能力は大きな制約を受けることになるであろう。/これと同じ資源を、我が国の経済的問題解決のために直接投入できるとすれば、逆に合衆国経済は強化されるはずである(p148)」と結論づけている。

中国経済が急減速している。中国政府が雇用確保のために最低限必要としてきた8%成長を割り込み7%台に落ち込んだ原因をヨーロッパ経済の変調による輸出の大幅な減少とする論調が多いが、過大な軍事費負担が経済の重しになっているという見方は成立しないであろうか。中国の軍事費は公表されている数字でGDPの1.28%だが最低でもその2倍は下らないというのが通説になっておりそれ以上を主張する識者もいる。世界第2位のGDP産出国に成長したとは言え、1人当たりのGDPは未だに年間5400ドル(約40万円超)で世界の89位に留まっている(日本は45900ドル約360万円)。成長段階に比して軍事支出の負担がアンバランスといえないか。ディグラスは、軍事費負担がアメリカ経済の実績を損なっていることは間違いない。ベトナム戦争当時のように経済がフル操業に近い状態にあるときにはとくにそうである(p55)、とも言っている。中国はまさにフル操業にある。

中国経済減速の主因が軍事費の過大な負担にあるというのはひとつの仮説であるがそのおそれがないと断言することはできない。中韓ロとの領土問題が非常に難しい局面を迎えている今、稚拙な「ナショナリズム」の横行を座視せず別側面から我が国国民と相手国民を啓蒙するソフトパワーこそ必要なのではないか。NHKがこの時期に「ドラマ・負けて勝つ」を放映する狙いがもしそこにあったとしたら、その慧眼には脱帽するばかりである。

2012年10月1日月曜日

見逃しの三振

 スポーツの秋である。近くの公園の野球場では毎日少年野球が練習に励んでいる。今年はその内の1チームが全国大会で優勝し又そのチームのOBがドラフトに選ばれたりして熱気も一入である。「オラオラオラッ!ボーっと立っとるだけではアカンやないか!バット振らんか、振らなボールに当らへんど!見逃しの三振だけはすんな!」監督の叱咤激励が飛ぶいつもの光景である。

 ジャイアンツがセ・リーグのペナントレースを制した。3年ぶりである。快進撃の要因はいろいろあるが第1は何といっても阿部慎之助捕手の打撃術の飛躍的な成長であろう。川上、長島、王、松井と続く歴代の巨人軍4番打者に比べても全く遜色のない、堂々たる4番打者振りであった。打率(.341)、打点(98)はセ・リーグの1位であるし本塁打(26本)も3本差で2位にいる(9月24日現在)。昨年は個人打撃成績(規定打席以上)24傑にも入らず打率(.292)打点(61)本塁打(20本)であったから正に『大躍進』である。9月23日ヤクルト戦5回2死2塁、7回2死3塁での敬遠はそんな巨人軍4番打者阿部慎之助を象徴するシーンであった。

 阿部選手大変身のキーポイントは何か?それは『見逃しの三振』!
ストライクを見逃す勇気を持てるようになった、阿部選手が独占手記でそう語っている(9月22日報知新聞)。橋上さん(戦略コーチ)は「割り切りが大事」っていう。今まで打てなかった投手に対して「低めを絶対に我慢しよう」とか「見逃し三振はOK」とかね。これまでだったら、三振したくないから振りにいっていた。でも「三振してもいいんだな」って思えるようになり余裕が生まれた。(略)技術的には何も変わってない。
橋上コーチの存在はチーム全体にも大きな影響を与えた。野村ID野球の申し子ともいうべき彼の戦略がチームに浸透したのは苦手阪神能見投手を攻略した時であった。「見逃し三振も許して欲しい」と首脳陣に進言したことで各打者が低めに外れる決め球フォークの見極めを徹底でき、3回で5点を奪いKOした。「一打席を捨てても次につながれば大きい。打者に割り切らせるのが僕の仕事」という彼の指導が昨年323個でリーグ5位だった四球が今年はダントツの427個でリーグ1位となり、じっくりと見極めた効果は昨年0.243だったチーム打率が2割5分8厘でリーグ1位となって表れた(データは9月24日現在、日経9月23日「圧倒・巨人3年ぶりのV」を参考にしています)。

 阿部選手が大躍進を遂げたのは『見逃しの三振』を受け入れる余裕にあった。だからといって少年野球も見逃しOKとならないのは言うまでもないが、有能なプロ野球選手を『大打者』に変身させるためには当然とされてきたセオリーにも挑戦する指導者の斬新な発想が必要なことを阿部選手橋上コーチが示したジャイアンツの優勝であった。

2012年9月24日月曜日

過渡期のJRA

 秋競馬が始まった。来週のスプリンターズSを皮切りに年末の有馬記念までG1が続くこの期間は競馬ファンにとって最も楽しい季節である。

 鍛え上げられた『生きた芸術品』―サラブレッドが鞍上の騎手と共に繰り広げる直線のデッドヒート、勝負の瞬間に沸き上がる感動―これこそ競馬の醍醐味だ。競走馬の能力も年々向上し先日行われた京成杯オータムハンデ(GⅢ)1600mの走破タイムは我々オールドファンには夢のような1分30秒7という驚異的なタイムを記録するレベルにまで達している。今後競馬は益々面白くなるに違いない(ちなみに1970年ころのタイムは1分36秒であった)。
 ところがJRAが実力本位の競争体系に異質な制度を導入した。「自ブロック優先出走制」と呼ばれるもので「2(3)才平地未勝利競争および3(4)才以上500万円以下競争について、出馬投票の出走馬決定順位において『自ブロック所属馬』を優先する」というものである。関東(関西)のレースに関西(関東)馬が出走できるのは関東(関西)馬の登録が制限頭数以下の場合に限られる。事情はいろいろあるようだが全国同一基準による優勝劣敗の競争条件が歪められ結果として弱い関東馬が優先される一方で東西の交流が著しく損なわれることになりはしないか。
 栗東トレセンができたのは昭和44(1969)年11月だが1980年頃を境としてそれ以前―近代競馬の始まった昭和11(1936)年からの約50年は関東馬絶対優位の時代であった。それが栗東トレセンができトレーニング方法など関西陣営の努力が実って80年ころから関西馬優勢が続いている。関東にも美浦トレセンが昭和53(1978)年にできたが、以来30年経っても西高東低に変化の兆しはない。
競馬はより強い馬をつくり出すことに本質がある。下級条件競争の競争条件を緩和したところで強い関東馬が現れるはずもない今回のJRAの措置は見当はずれも甚だしいと言わねばなるまい。

政府が特殊法人独立行政法人等計114法人の給与水準の調査結果を公表した。これを見て驚いた。なんとJRAの職員給与が最も高く国家公務員の給与水準を100とした指数で140を超え平均867万円となっている。バブルの頃の競馬ブームに便乗してお手盛りで給与アップを続け今に至っているのだろうが、生産者の厳しい現状やファンの給与がバブル期から150万円以上減収していることを考えるとJRAの体質改善は急務である。

 強い馬をいかにつくるか、この原点へ生産者、厩舎、騎手を統合する。そんなJRAであって欲しいとファンは願っている。

2012年9月17日月曜日

想 滴滴

 古稀を超えたというのに未だにリアリティをもって死を感じることができないでいる。もし死を実感すると人間はどんな姿をみせるのだろう。「隠逸の詩人」陶淵明(365~427)は「形影神」という詩で死についてこんな風に詠んでいる(形影神、形はからだ、神はこころを表している。擬人化した形影神がそれぞれに死に対する考えを述べる)。

 まず「形」がこう詠う。「天地は長(とこし)えに没せず、山川は改まる時無し」自然は不変である。「人は最も霊智なりと謂うも、独り復(ま)た玆の如くならず」人は最も優れた存在だと威張っているが自然のように不変でいられるわけではない。「我に騰化(とうか)の術無ければ、必ず爾(しか)らんこと復た疑わず」私には不死の登仙の術などあるはずもないから死ぬことは避けられない。「願わくは君、我が言を取り、酒を得なば苟(いやしく)も辞する莫れ」君(影)よ、私の言わんとすることを汲んで、酒を手に入れたら決して飲むのを止めないでくれたまえ。―この「形」の死のイメージは死を恐れて酒に逃げる弱い人間の「死」に対する姿であり、淵明より古い漢詩人が詠った詩はこの型が多い。「古詩的悲哀」の死とでも名づけようか。
 「影」はこれに応えて。「生を存するは言う可からず、生を衛(まも)るすら毎(つね)に苦(はなは)だ拙し」いつまでも生きることなどは論外、この命を維持することさえうまくできないでいる。「身を没すれば名も亦た盡く」死んでしまえば生前の名声などすぐに消えてしまう。「善を立つれば遺愛あらん、胡為(なんす)れぞ自ら竭(つ)くさざる」思うに善行を重ねれば後世にも余恵を及ぼすという。ならば精一杯努力せずにおられようか。「酒は能(よ)く憂いを消すと云うも、此れに方(くら)ぶれば詎(なん)ぞ劣らざらん」酒は憂いを消してくれるというけれども善行を積むことのほうが優っていることは明らかだ。―この考え方は「儒家的」である。
 ふたりの考え方を聞いた神(こころ)がこう釈(かんがえ)をいう。「老少、一死を同じくし、賢愚、復た数うる無し」老いも若きも必ず一度は死ぬ、賢者であろうと愚かであってもそのことに変わりはない。そう述べたあと神はこう諭す。酒は百薬の長というけれどほどほどにしないと命を縮めてしまう、善行を積むのはいいけれど余り身を清く保とうと気を張り詰めすぎると体を壊してしまう、運を天に任せる位の気楽さでいいじゃないか、と。「大化の中に縦浪(しょうろう)し、喜ばず亦た懼れず」「応に尽くべくして便(すなわ)ち須(すべから)く尽くべし、復た独り多く慮ること無かれ」人生の大きな変化に身を任せ、喜びもせず懼れもせず、命尽きるときに尽きればいい、もうあれこれと思い悩むのはやめなさい、と。―これこそ老荘の「死生一如」の境地といえよう。
 そして淵明は別のところ(雑詩其の一)でこう覚悟を述べている。「盛年、重ねては来らず、一日、再びは晨(あした)なり難し」「時に及びて當に勉励すべし、歳月は人を待たず」盛んな若い時は二度とやってこない、この日が又明日やってくるとは限らない、今を精一杯生きよう、歳月は人を待ってくれないのだから。

 快楽主義といえば刹那的に捉えられ勝ちだが、今という時を精一杯楽しんで充実させようという考え方が、淵明の時代から今日まで中国には脈々と連続していることが分かる。(この稿は「陶淵明と白楽天(下定雅弘著)」を参考にしています)。

2012年9月10日月曜日

インフォームドコンセント

  弟が腫瘍を手術するのでインフォームドコンセント(以下IC)に立ち会ってくれといってきた。S医科大付属病院K外科のカンファレンスルームで診療科長が行ってくれたICはホワイトボードを使って図解を交えながら解り易く懇切丁寧なもので素人の私も納得し、ナーバスになっていた弟もすっか
り安堵してチェックシートに「よくわかった」と迷わず記入していた。
 翌日手術に付き添うため朝10時過ぎに病院へ行くと、興奮して中々寝付けなかったという弟は少し不安気であったがストレッチャーが来ると観念したのか黙って手術室に消えていった。

 病室に戻ってフト小卓を見るとクリアファイルがあった。開けるとIC関係の書類のまとめのようである。先ず「手術・観血的処置等に関する説明書(様式1-1)」を読んでみる。病名・症状、手術を選択する理由等々つぶさに説明してあり最後に「当診療科における成績について」書いてあった。それによると年間10例に満たない稀な症例であり死亡退院、在院死亡はほとんどないから「…でありますから上林様の場合には生命の危険はほぼないものと考えられます」と結んであった。昨日の診療科長のICもありさらに安心感が増した。
 「えっ!」ちょっと待て、上林様って誰のことだ?一瞬にして全てが吹っ飛んだ。カルテが間違っているのではないか、何か手違いでもないのか、次々に不安が募る。ナースステーションへ急いだ。事情を訴えると病棟長が飛んできた。PCを開いて数分すると少し安心したようにも見える風で説明を始めた。この説明書はカルテや診療関係の書類とは連動しておらず、本症例の場合のICに限定してアウトプットする書式で例文に記載があった氏名がそのまま残っていたものです。概略そのような説明を受けた。手術中でもありそれ以上その場に留まることはせず病室に戻った。
 IC書類をじっくり読んでみると「手術」「輸血」「麻酔」に大別されておりそれぞれに(様式1-1)から(様式1-4)で構成されている。1説明書、2ICのホワイトボードのコピー、3同意書、4ICチェックシートが標準様式だが、輸血は1と3だけ、麻酔も1と3だが「文書管理番号(様式1-1の符号)」が付けられていなかった。

 文書管理は総務部など管理(間接)部門の担当が普通であるがグローバル化の中、間接部門はアウトソ-シング(外注)されることが多い。ハード重視ソフト軽視が一般的な我が国の現状であるがこうした風潮がシャープでありソニーの惨状を招いた一因ではないのか。

 予定通り3時過ぎに病室に帰ってきた弟は涙ながらに「有難うございました」と執刀医、助手以下全員女性の手術チームに感謝していた。
この病院もハードは素晴らしいこと間違いないようだ。

2012年9月3日月曜日

身辺雑事

  白斑症の治療をしている。3ヶ月ほど前に右手の甲に一つできたと思ったらそれから一ヶ月もしないうちに今度は左手に3ヶ所一度にできた。フト鏡を見ると額の生え際1センチ程から頭頂にかけても脱色している。皮膚科の医師に相談した。「白斑症といってメラニンを生成するメラサイトが消滅又は機能停止して皮膚が白いままになる症状です。高齢者によく見られます。原因ははっきりしていませんが見た目以外に影響はありませんし、非常に治り難い症状ですからこのままでもいいと思います」ということだったが治療をお願いして塗り薬を処方してもらった。
 1ヶ月して症状に改善が見られ薬もなくなったので病院へ行った。一瞥して医師は「非常に治りにくい病気ですからなかなか結果が出ません。お薬をステロイド系に変えるとか紫外線治療をするとか、もありますが紫外線は症状のないところとの差が…」「先生、これ見てわかりませんか。半分ほどに小さくなっているし色もピンクに濃くなっているでしょう。今の治療を続けたいのでお薬を貰いに来たのですよ」と私。       
 1日に何10人も診察するのだから一人一人の症状を記憶しておくことは不可能かもしれない。それでも、治り難い症例であり施薬の効果も不確かであるなら、右手がオーストラリアのような形状で幅3.5cm高さ3cm、左手1.5×2.5cm位のが3ヶ所色はいづれも白色、程度の記録を録って次回に症状の変化を把握し治療の選択肢を判断するのがプロの医師ではないのか。そうした手順を全く踏まず治療の効果の測定もなく、まず言い訳し、他の治療法を提示して選択を患者に委ねるというのは一体どういう了簡なのか。治り難い症例だというのであれば、若い医師なら有効な治療法を発見したいという功名心がありそうなものだが。
 
 彼女もサラリーマン化したマニュアル医師だったということか。

 「今日はおっちゃんの言うこと聞いといたるは。そのかわり今度おっちゃんがルール違反していたら承知せんからな。」硬球禁止のグランドで親子で硬球のトスバッティングをしていた32、33才の若いお父さんの捨て台詞である。子供は昨日一人で硬球の壁投げをしていたのを注意した小学3年位の男の子である。多分帰宅して父親に「今日公園でよそのおっちゃんにキツー叱られた」とでも言いつけたのであろう。「ヨシ、明日お父ちゃんと一緒に公園行こう。お父ちゃんおったら、よう注意せえへんは。もし注意しよったらお父ちゃんが文句言うたる」。そんな会話があって、ところが意外にも注意を受けた父親は激昂して私に噛み付いたのだろう。

 要するに『幼稚』なのだ。ルールや常識、法律を守るように『躾ける』よりも、子供に『エエかっこ』したいのだ。子供と自分の世界しか見えていないのだ。こんな『おとな子供』が激増している。親の世代がだらしなかったのだろう。
 えっ!それって、我々の世代ではないのか?

2012年8月27日月曜日

田沼に学ぶ

デフレからの脱却と外交の自立を民主党に託したがその期待は見事に裏切られた。

 歴史を遡ればこれまでにもデフレはあった。新井白石の「正徳の治」における貨幣良鋳に伴う不況、「田沼時代」の経済膨張を受けて行われた「寛政の改革」の引き起こしたデフレ、1880年代前半の紙幣整理のための「松方財政」、1930~31年の「金解禁」にともなう「井上財政」、1949~50年のインフレ抑圧のための「ドッジ・デフレ」であったが、いずれのデフレ不況も明確な政策目標をもったもので、現在のような政策的失敗の積み重ねによる構造的なデフレとは異なっている(杉山伸也著「日本経済史・近世-現代」p520より)。

 現今のデフレを解消するために田沼意次を見直してみたい。
 徳川時代は「年貢制」=米(現物)への直接課税徴税の財政でスタートした。しかし貨幣経済・商品経済が盛んになり18世紀も半ばになると税の公平性の面からも武士経済の安定の面からも商品経済=商人への課税を税制に組み込み、年貢(農業)外収入を恒常化せざるを得ない状況になっていた。田沼はこうした経済のパラダイム・シフトを正確に認識し政治経済体制を改革した敏腕官僚であった。

 日本経済はサービス産業化して久しく製造業の割合はGDPの20%前後に過ぎない。輸出の占める割合は15%と更に少ない。にもかかわらず経済財政政策は製造業、それも輸出関連を重視した政策に軸足が置かれている。今回策定された成長戦略の重点産業として「農林漁業、医療・介護、教育」などのサービス産業があげられているがこれらを成長産業にするためにはこれまで再々指摘されてきた「生産性の低さ」を解消する必要がある。
 教育については最近も話題になった「幼保の統合」が規制の壁で実現できなかった。もっと突っ込んでいえば「文部省検定」の教科書の使用が義務付けられていて経営は補助金頼みで文科省の規制からはみだして先進的あるいは特色ある教育を実現することは甚だ困難で、収益を前面に打ち出すことはタブー視されている。医療・介護は「料金表」が「保険」という形で厳然と存在し、これに縛られない「自由診療」はほんの一部に過ぎない。価格表に縛られない自由なサービスを提供し収益を高めようとしても現状ではほとんど不可能だ。又、農林漁業は規制が厳しく農地や漁業権の流通を自由化するには程遠く、規模の拡大や海外志向の経営などの実現には難しい環境にある。
 要するに、「生産性の低さ」は『規制』により経営の自由度が著しく阻害されているところに起因している側面が極めて大きいのである。

 経済の構造変化を捉えて輸出依存から脱却し、サービス産業を主とした「内需主導」の経済に転換するには『田沼意次』が行ったような大胆な規制改革を実現する以外にないが、道を切り拓く『リーダー』を現政権に期待するのは、もう無理だろう。

2012年8月20日月曜日

横チン

  夏はもっぱら半ズボンで過ごしている。先日トイレにたったとき「ヨシ、横チンでやってやろう」と突然思いたった。半ズボンの片裾をパンツと一緒に股間まで捲り上げイチモツを引き出し用を足すのだ。快適!開放感が少年の頃を思い出させた。戦後間もない頃の子供用パンツは前が開いていなかった。従って引き下ろして尻をむき出してするか、横チンでやるかのどっちかだった。パンツの前が開くようになったのは何時ころだろう、はっきり覚えていないが多分市販のパンツが出回るようになって母親が手作りしなくてもよくなったからに違いない。
 2、3年前からボクサータイプのメンズパンツを穿くようになった。はじめは量販店の2枚で1000円のを使っていたがどうも収まりが悪いので下着専門メーカーのを買ってみた。シックリと馴染む。勿論1枚で量販店価格を少し超えるが穿き心地の良さには変え難い。快適さは裁断や縫製の僅かな差のセイなのだろうが、本物と『似たようなもの』はこの僅かな差で違っているのだろう。
 
 デフレが長く続いて何でも「低価格志向」で安いものを買ってしまっているが、それで『僅かな差』を我慢している。「母の手作り」「普段とよそゆき」「家のご飯とごっつぉ」「いい物を長く使う」。20年、30年前まで我々が当たり前としてきた価値観がほとんど顧みられなくなった一方で、「僅かな差」を犠牲にしている。そろそろこの辺で考え直してもいいのではないか。

 東洋陶器(現TOTO)の温水洗浄便座「ウォシュレットG」が「機械遺産(生活の発展や社会に貢献し歴史的に意義のあるもの)」に選ばれた。そもそもは痔疾(等)治療のために開発されたものが一般に普及し、今や日本のみならず西欧先進国や中国の富裕層にまで購買層が広がっているようだ。
 高齢社会のなか「アンチエイジングや健康法」が花ざかりだが、畢竟『快食、快便、快眠』が健康と美容の源泉であろう。毎朝起床とともにトイレに行き排便がスムーズに終えられると思わず「ありがたい」と念じてしまうが「分量、色、におい、太さ」など健康チェックも怠らない。ところが洋式水洗トイレはチェックを難しくしてしまった。ウォシュレットは更にこれを難しくするとともに「排便行為」の『土俗感』まで排除してしまった。とりわけ「におい」を『忌避』する風潮を世間に浸透させたのではないか。
 「におい」に対する『嫌悪の風潮』は少々異常だ。多様な価値観が認められているようで実際はマスコミやインターネットが誘導する「狭い価値観」以外を排除してしまう息苦しい社会になっているようで、不気味だ。

 ウォシュレット育ちの若者が貧困国救済の先頭に立つような人材になれるかどうか、ちょっと心配である。

2012年8月13日月曜日

スポーツ雑感

ロンドンオリンピックで男子サッカーは何故敗れたか。
敗因を3つあげる。その1は永井へのコダワリである。確かに彼はこのオリンピックゲームのラッキーボーイだったし存在感も際立っていた。しかし、怪我をした時点で冷静に対応を判断すべきだった。流れを断つ、流れを変えることに躊躇いがあったに違いないが、怪我の回復が万全でないならすっぱりと次の一手に踏み出すべきであった。しかし指揮官は決断できなかった。再びピッチに立った永井は明らかに動きが鈍かったしキレもなかった。選手の間に『不協和音』が生じるのではないかと、懼れた。なにより対戦相手に付け入るスキを与えてしまったに違いない。怪我の回復が戦いに間に合わなかったとき、永井のツキは潰えたと判断するのが指揮官の務めであった。
2つめは「疲労」であろう。戦前、延長戦を戦ったメキシコの方が疲労度がキツイと言われていたがピッチの動きは明らかに我が方が劣っていた。これは決定的であった。
敗因の第3は「驕り」であろう。日本を発つときの下馬評は予選突破も危ぶまれたほど低かった。それが優勝候補のスペイン戦を鮮やかに勝ち上がりあっという間にベスト4まで上り詰めてしまった。準決勝前の選手のコメントに「絶対勝つ」「金メダルを狙う」などとメキシコ戦はもう勝ったような言葉が飛び交うテレビを見ていて驕りを畏れていた。ゲーム開始早々の前半12分、大津のプレミアリーグ級のミドルシュートが決まったとき、あっという間に『驕り』がチームに浸透し動きに『油断』が生まれた。権田、扇原の怠慢プレーは生まれるべくして生まれたものと言って憚らない。
勝負事は勝ちを当然視したとき、必ず敗れる。

メキシコオリンピック・マラソンの銀メダリスト君原健二さんが日経「私の履歴書」を書いている。まだ始まったばかりだがいくつもの好い言葉があるので記しておきたい(カッコ内は掲載日)。
そのころ抱いたのは、走ることで「ランナーという作品」をつくろうという思いだった。苦しい練習の場はいわばアトリエであり、大会は作品を披露する展覧会ではないか。そう考えると、喜びが沸いてきた。こつこつと作品をつくりあげていく喜びを感じながら、走れるようになっていた。(8.05)
マラソンとはいかに速く自分の体を42.195㌔先にあるゴールまで運ぶかという競技である。体が蓄えているエネルギー源(糖質と脂肪)は決まっている。それをうまく使いながら、できるだけ速くゴールする。そのためにはイーブンペースで走るのが理想的だと、私は信じている。(略)走りながらずっと、理想のペースについて考え続けなければならない。/5㌔まで行ったら、このままのペースで進んでも大丈夫だろうかと考える。修正が必要なら、あと37.195㌔をどういうペースで走ればいいか計算する。疲労の度合いをチェックし、気温や風向きの変化を感じ取ることが重要だ。10㌔地点では残りの32.195㌔の、15㌔地点では残り27.195㌔の理想のペースをはじき出し、速度を微調整していく。/途中でエネルギーが足りなくなってはいけないし、エネルギーを余らせてもいけない。人の動きに惑わされ、ペースを乱すと命取りになる。そういう意味で、マラソンとは人との戦いではなく、自分との戦いだと思う。(8.07)
実に具体的で分かりやすい。これからが楽しみだ。

2012年8月6日月曜日

詩人の預言

詩人は時として大いなる預言者たることがある。次に掲げるボードレールの詩句を読めば更にその感を強くするに違いない。
 「わが親愛なる兄弟よ、文明の進歩をほめそやす言葉を読者が聞く度に、悪魔の最も巧妙な策略は、悪魔なんてものは存在しないと読者に信じ込ませる点にあることを、忘れてはなりませんぞ!」(「パリの憂愁・29気前のいい賭博者」福永武彦訳、岩波文庫より)。

 「近代科学の粋―原子力発電は廉価で環境に優しく電力を安定的に長期の供給を可能にし、最先端の知見をもって多層的に構築された制御装置はいかなる過酷事故にも対応できる万全の体制で安全性を担保している」。この「安全神話」をどうして『悪魔の囁き』と見破ることができなかったのか。チェルノブイリ、スリーマイル島以外にも何度も目覚める機会はあったのに、知性も感性も金縛りにあったように妄信してきた50年。我々はここで悪魔の呪縛から解放されるのだろうか。
 一握りのエリートしか操れない「金融工学」という悪魔のツールで、危うい債務者にガチョウのように強制給餌した「サブプライムローン」を多重粉飾して危険度を薄めたように見せかけ捏造した「デリバティブ」に格付け会社の「優良」というレッテルを貼付し世界中の金融専門家を幻惑した『悪魔の囁き』を見抜けなかったグローバル経済は、いつになったら危機の深淵から脱出できるのか。
 
 「最も救い難い悪徳は、無知によって悪をなすことである」(「パリの憂愁・28にせ金」より)、「魂は手の触れ得ぬものであり、しばしば無益(むやく)、時としては邪魔にさえなるものであるから、それをなくしたことも、散歩の途中で名刺をなくした程の感じも、私に与えることはなかった」(「パリの憂愁・29気前のいい賭博者」より)。
 この詩句は野田首相に捧げよう。彼は「演説上手」といわれているが、野党のころ辻立で声高に訴えていた政治家としての使命感や正義感を喪失し魂をなくしており、言葉のひとつひとつに公正さが微塵も感じられなくなってしまった。財務官僚からレクチャーされた財政危機の深刻さに「恐怖」し政治生命を賭して消費増税を断行しようとしているが、「恐怖」が『無知』から来ることは周知である。

 文学は実学である―荒川洋治のこの辞に限りなくリアリティーを感じる。

2012年7月30日月曜日

『犠牲』から目を背けるな

矢張りそうだったか、福島第1原発事故の収束作業を請け負った建設会社の作業員が警報付き線量計(APD)に鉛カバーを装着させられていたという記事を読んだとき、心の奥底でそうつぶやいていた。更に同社が法律で禁止されている「多重派遣(派遣労働者を受け入れた会社が更に別の会社に労働者を再派遣しその会社の指揮下で働かせる行為)」の疑いのある作業員を使用していたという報道があり、その感はいよいよ強まった。
『犠牲者』が、知らないところで、間違いなく存在している、という畏れだ。

宗教家の山折哲雄さんが「危機と日本人・『犠牲』から目を背けるな(原発『事故調』の審議)」というコラムでこの問題について鋭く論じている(日経24.6.24)。(以下「」内は引用)
事故直後アメリカから「フクシマ・フィフティーズ・ヒーロー」という強烈なメッセージが寄せられた。現場で危機回避のために命がけで献身している50人の作業員たちの『犠牲』を『ヒーロー』と称賛した報道だが、そこにはこの『過酷事故』を収束するには何人かの犠牲なくしては成立しないという冷厳な現実観がある。しかし我々はどこかで『綺麗ごと』で『人命尊重』を謳い上げていなかったか。
全面撤退か一部撤退かで責任のなすり合いがあったが、「現場にふみとどまる人々が犠牲になるかもしれないことに目をつぶるのか、それともそのような危機的な状況を覚悟するのか」という信念をもって語られていただろうか。また、もし「現場からの全面撤退ということが、犠牲回避のための祈るような叫びであった」のかどうか検証されていたら頭ごなしに否定する事が許されたであろうか。

あの過酷事故の現場で働いていた人たちのすべてを東電は把握しているのか。2月末現在で約2万人が被爆しながら作業をしたという資料があるが、その全員についてその後の追跡調査が行われていて後日被爆被害が出てきたときに国家の補償で治療が受けられる体制がとられているのか。もしそうでないなら彼らの『犠牲』は『難死』に終わってしまうではないか。

「危機における生き残りの道をどう考えるのか」、そのための『犠牲』を国民が他人事でなく受け入れことができるのか。
再稼動という選択の過程でこのような覚悟がなされたのだろうか。

2012年7月23日月曜日

有る時払いの催促なし

昔、「有る時払いの催促なしで、お金貸してよ」という冗談があったが、今、野田首相が政治生命をかけて推し進めようとしている「社会保障と税の一体改革」は若年層と将来世代にとってはまさに「有る時払いの催促なし」で増税を迫られているようなものだ。
 
 まず年金制度は「750兆円の債務超過」に陥っている現行の「賦課方式の年金制度」をどのように精算するか、これが最重要課題である。企業が750兆円もの債務超過になれば会社破綻は当然であるように現行の年金が制度破綻しているのは自明である。にもかかわらず政治も行政(官僚)も小手先の改革でこの制度が持続可能であるように取り繕って今日まで来ている。そして今又同じ過ちを繰り返そうとしている。
 医療保険制度は、都道府県毎の保険者が経営者であるにもかかわらず予算が組めず決算もできない状態―財政責任を負いながら収入と支出の均衡を図る機能を有していない状態にあるのを、当事者能力を有した機関に改変できるかどうかが問題解決のポイントである。
社会保障給付の総額は凡そ100兆円、保険料で60兆円、税金で約40兆円(内30兆円国負担)を賄っている。国の一般会計90.3兆円のうち政策経費は51.8兆円に限られているが社会保障関連の支出は26.4兆円を占めしかも毎年1兆円のペースで増加していく。一方年金積立金は06年の165.6兆円が11年には125.7兆円まで取り崩されておりこのままでいくと28年には枯渇するのではないかと懸念されている。

 ではどうすれば解決ができるのか。
 「年金清算事業団創設による積み立て方式移行」、これが年金の抜本改革だ。年金清算事業団に債務と積立金のすべてを移行し、今の高齢者と既納付分に対応する年金の支払を担当する。事業団の収入は①積立金の取り崩し②新型相続税③追加所得税④年金清算事業団債を充当する。新型相続税は相続資産に一律10%課税とし35年間継続、追加所得税は1.93%で100年間課税、清算事業団債は新年金制度を引き受け機関とする、などの仕組みで改革は達成できる。
 現行医療保険制度―とりわけ高齢者医療制度の最大の問題点は名目上都道府県毎に保険者を設定しているが実際は市町村の寄り合い世帯である「広域連合」が担当しており、加えて負担調整が事後の赤字補填の形で行われているので財政責任が曖昧になる結果を招いているところにある。解決のためには負担の公平性を確保し、財政責任を負う保険者を明確に決め、監視能力を強化することが必要になる。現行制度は「年齢」のみで負担を決めているがこれでは公平性は2割程度しか反映されない。「地域」「所得種類」「その他の社会経済的要因」「慢性疾患の状態」などの変数を順次取り入れてオランダのように9割まで公平性を高めるよう努める。公平性を確保した上で「事後の赤字補填方式」から「事前予算制度」に徐々に移行する。具体的には、年度初めに加入者特性(年齢、地域、所得種類など)に応じて保険者に配分金を交付(または拠出金を徴収)し、収支赤字は保険者の責任として事後の赤字補填は行わない。収支調整は保険料の引き上げや保険給付の削減の形で保険者が行うようにし、財政規律を堅持する誘因を喚起する。監視機能については書類審査だけでなくデータベースの活用により不適切な医療行為を監視できるようにする。医療費の請求データベースを活用して、過剰診療や不適切な医療機関の特定などの能力を高めていく。これによって症状別の標準的な医療費の把握ができ予算統制が可能になる。

 繰り返すが、750兆円の債務超過をどう解消するか、保険者に経営者として当然の収支均衡の調整機能をどのように付与するか、この2点を抜本的に解決しない限り真の社会保障改革は実現できないことを認識するべきである。
(以上は「日経・経済教室『一体改革・残された課題』7.17~7.19担当吉川洋東大教授川口洋行成城大教授鈴木亘学習院大教授」の概略をまとめたものである)

2012年7月16日月曜日

魔球No1は誰か!

「史上最強の変化球」という特集が週刊ベースボール(7.23号)に掲っていた。No1はふたりいて「野茂英雄と佐々木主浩のフォークボール」が栄誉を分かち合った。つづいて「3位伊藤智仁のスライダー」「4位杉内俊哉のスライダー」が占めている。5位は「ダルビッシュ有のスライダー」だが「カーブ7位、フォーク13位」にランクされているところがダルビッシュの凄さか。以下「6位田中将大スライダー、7位村田兆治フォーク、潮崎哲也シンカー」「10位松坂大輔スライダー、岸孝之カーブ、浅尾拓也フォーク」がトップテンとなっている。ちょっと待てよ!誰がなんと言おうと魔球No1は「杉下茂のフォーク」だ、とオールドファンからクレームが入りそうだが、実は選んだメンバーが現役の選手、首脳陣、日本人メジャー・リーガーそして野球解説者を務めるOBだからこの結果も致し方ない。

 杉下以外にも「杉浦忠のカーブ」「稲尾和久のシュート、スライダー」「金田正一のカーブ」「平松政次のシュート」など強烈に記憶に残る名選手の魔球があったが実際に見ていない現役にとっては伝説の魔球になるのだろう。私の好みでは「巨人・大友工の下手投げのスライダー、カーブ」を是非加えておきたい。53年の米ジャイアンツ戦で日本投手として初めてメジャー単独チーム相手に完投勝利をマークし56年の対ドジャース戦でも途中登板で10三振を奪い勝利投手になっている。戦後すぐの昭和24年オドール監督率いる3Aサンフランシスコ・シールズ軍を皮切りに毎年のようにオフシーズンに来日したメジャーに子ども扱いされていたなか唯一溜飲を下げさせてくれたのが大友工であった。「マウンドの土の中から飛び出してくるボールを打てるかい」と悔しがらせた彼の投球はオールドファンにとって忘れることのできない鮮烈な1シーンとして記憶に残っている。

 シュートで選に上がったのが平松と西本聖の2投手であったのは選手寿命を大事にする最近の風潮から仕方ないのであろう。

 現中日監督高木守道がいかにも打撃の職人らしいコメントをしているので最後に記しておこう。「そりゃ昔より今の選手の方がすごい変化球を投げるよ。ただ、打てないということはないよ。どんな変化球だって狙っとったら打てるんだよ」。

2012年7月9日月曜日

イワン・イリイチの死

なぜ「老人」という言葉が忌避されるのだろう。老いが死に限りなく近づく現象であるからだろうか。死と生は補完語であるはずなのに、あったはずなのに、いつから死は生の対立語として貶められたのだろうか。

 こんな現代人の死生観をトルストイの「イワン・イリイチの死」(光文社古典新訳文庫、望月哲男訳)は誡め、あるべき死生観を悟らせてくれる。
ロシアの高級官僚(判事)である彼は「気楽、快適、上品」を追い求め、遂に同輩より2階級特進、5000ルーブリの上級職に就く。「仕事上の歓びが自尊心の歓びだとすれば、社交上の歓びは虚栄心の歓びであった。だがイワン・イリイチの本当の歓びは、ホイスト(カードゲームの一種)を戦わせる歓びだった(p59)」という得意絶頂の彼を病魔が襲う。当初の医師の見立てとは裏腹に病は重篤化し苦痛に苛まれ死の恐怖に脅える。病ではなく死の影に慄く彼を医師も家族さえも理解せず同情してくれないと憤る。「瀕死の病人は相変わらず身も世もなく叫び、両手を振り回していた。その片手が中学生の頭に当たった。息子はその手をつかんで唇に当てると、わっと泣き出した。」「するとその時、誰かが手に口づけしてくれるのを感じた。目を開けてみると息子が見える。彼は息子が哀れにになった。(略)彼は妻が哀れに思えた。/『そうだ、私はこの者たちを苦しめている』彼は思った。『彼らは哀れんでくれるが、しかし私が死ねば楽になるだろう』」「妻や子がかわいそうだ。彼らがつらい目にあわないようにしてやらなくては。彼らをこの苦しみから救えば、自分も苦しみをまぬがれる。」「なんと良いことだろう、そしてなんと簡単なことだろう。」「彼は自分がかねてからなじんできた死の恐怖を探してみたが、見出せなかった。死はどこにある?死とは何だ?恐怖はまったくなかった。死がなかったからだ。死の代わりにひとつの光があった。/『つまりこれだったのだ!』(略)『なんと歓ばしいことか!』」「『死は終わった』彼は自分に言った。『もはや死はない』」(p136~138)

 自分のことばかり考えて、苦しみのたうちまわり、恨み憤り恐怖していた彼が、息子と妻を哀れと思ったとき、彼らを楽にしてやろうと思ったとき、死の恐怖から開放され苦痛を克服する事が出来た。

 死を単なる「個人的なこと」として捉えるのではなく愛する人たちの間にいる自分のこととして考えることができれば、老いも死も「異なったかたち」で見ることができそうだ、と文豪トルストイの「イワン・イリイチの死」は教えてくれる。

2012年7月2日月曜日

荘を以てす

娘の呉れた小銭入れがとうとうオシャカになってしまった。マチの縫い目が解(ほど)けてそこから破け硬貨が抜け落ちてしまう。社会人になって初めての父の日にプレゼントして呉れたものだからもう15年近く使っている。牛革が暗褐色に深まって味が出ているのも好いがそれ以上に永年使い込んで鞣し具合が絶妙に掌に馴染む心地よさが捨て難い。惜しいので近くのスーパーにある修理屋さんに相談してみることにした。これまで傘やスニーカーの修理でお世話になっている親父さんは「預けてくれる、何とかしますよ」と言ってくれた。
 数日して引き取りに行くと、同色の糸で丁寧に縫った見事な出来栄えである。後10年は大丈夫だ。修理代315円。余りの安さに何とも申し訳なかったが有り難くご好意に甘えた。

 閑話休題。消費増税に関する一連の報道で造反派の議員が「仲間と結束して…」と発言しているのを聞いて愕然とした。今や政治家は「同志」的結合でなく「仲間」的結束になっているのだ。高校生の生徒会「仲間」と同じレベルに成り下がったのか。そういえば、いつか大阪府警の庁舎を通り抜けて近道しようとしたとき呼び止めた警官が「うちの会社にどんな用があるんですか」と詰問してきたのを思い出す。彼にとっては警察も一般企業と同程度の就職先に成り果てているのであろう。

 ところで消費税増税を柱とした一体改革関連法案採決前の民主党臨時代議士会で反対派の説得に当たった野田総理の演説をどう聞かれたであろうか。「心から心から、心から」と絶叫する彼の言葉を耳にしたとき、論語にある季康子の問いに答えた孔子の辞を思った。魯国の実力者である季康子が臣民を自分に敬し服せしめるにはどうしたらいいかと問うと「之に臨むに荘を以てすれば、則ち敬せん」と孔子は答えた。「人民の前で(疚しい気持ちがなく)ピシッとしゃんとすることです。そうすれば民は尊敬します」と答えたのだ(読み下し文と現代語訳は講談社学術文庫「論語・為政篇」加地伸行訳による)。少なくとも党の最高の地位に在る者が軽々に翻意(転向?)を懇願する姿は、「疚(やま)しい気持ちがなく」でなく「―ある」から「荘を以て」することができないのだろうと頗る不快に感じた。

 315円の地道な修理屋さんと政治家「仲間」の落差。唖然である。

2012年6月25日月曜日

「カフカ式練習帳」読書ノート

(「カフカ式練習帳」保坂和志著・文芸春秋社・2012年4月20日第1刷・京都市図書館蔵・平成24年6月19日読了)
保坂和志が新しい小説の試みに挑戦した。例によってテーマは無いが、愛猫の死、がようなものだ。それを経糸に同時並行的に進行する、作者が見て、聞いて、読んで感じた断片を「生きることを日々のピアノの練習にすること。日々を構成する物事をできるだけたくさんピアノの練習のようにしてゆくこと。永遠や一瞬という病から離れること。克服するのでなく子どもの頃のようにそんなものと無縁になること。(p396)」を企図して小説としてでなく断片で読者に提供してくれる。従って小説を読むと同時に、小説を書く作者の生の進行状況を知ることが出来る。「カフカ式練習帳」はそんな新しい小説である。
以下はその断片の抜書き。

(p396)「一瞬の中に永遠がある」とか「瞬間と永遠は等価である」などと考えるようになったが、この理屈は中学生でも思いつく粗雑なものだ。一瞬は永遠の反対語ではなく補完語だ。(以下上記につづく)
(p121)カフカは逆算の思考をしない。カフカの思考は原因特定でなく、ただ無闇に前へ進む。カフカが難解だとされる理由はそこにあるのかもしれない。それは「不条理」などでなく、逆算の思考でないということだけだ。逆算の思考をしないとき、人の考えは子どもっぽさを獲得する。
(p327)イントロの一音(一音になる前のひっかき)を聴いただけで曲の全体、または曲の全体を表象するサビの部分が頭の中で流れるように、人は(あるいは動物全般は)一瞬といえる時間のうちに相当量の時間を再体験する。
(p344)私が恐れるのは、進歩が消滅した世界なるものを、進歩を信じる世界の人たちが否定的に捉えることだ。人間を苦しめてきたのは、死や病気や貧困や災害ではなかった。人間を苦しめてきたのは、進歩と希望と富だった。
(p350)水商売が廃れつつあるのは景気の良し悪しや欲望のうんぬんが原因でなく、女性の社会進出が進んだからだ。女性の職業の選択肢がかぎられていた時代、女性は教師か水商売くらいしか仕事がなかった。(略)その女性たちが今では本来の職業についたため、水商売にいる女性たちの中に経営の才覚や社会的洞察力に優れた人が激減し、昔からそうだったような、水商売の男たち程度のレベルになりつつある。
(p362)変態はイデオロギーで、露骨は観察だから。
(p368)この、離れた猫が身に近づく感じ、さらにある閾を越えると、我が身と繋がり、それゆえ割かれると感じるその感じ。これは事実であり、私は私と世界との関係をここからはじめなければならない。私と猫は(略)別々であるという、物理、それも相当表面的な物理に立った世界像は、たんに思考の省略、欠落でしかない。(略)世界にあるいくつもの事象が我が身と繋がっているという実感なしに世界について語ることに何の意味があるか。

(p387)「日本人はなぜ戦争を止められなかったのか」という番組名を見て、/「日本人はなぜ原発を止められなかったのか」という番組が、三十年後、五十年後に作られる恥を感じた。

2012年6月18日月曜日

つくられた政治家

脱税、カルテル・談合、インサイダー取引、手抜き工事、サービス残業、下請けいじめ。大企業、一部上場企業と呼ばれる日本を代表する企業でこうした違法行為―いや悪事に手を染めていない企業がどれほどあるのだろうか。日本は恥ずかしい国になってしまった、ベアリング業界のカルテル報道に接してそう感じた。

 閑話休題。保坂和志が「カフカ式練習帳」でこんなことを云っている。「ひじょうに頭のいい旧石器時代人としゃべったら、彼はどんなことを言うのか。(ひじょうに頭のいい人が自分と対等にしゃべると思うこと自体、私は旧石器時代人を下に見ているのか)/いままで誰も語らずにきて、それゆえそのような出来事や世界があったことが誰にも知られていなかったことがある。その出来事からの生還者、その世界の生き残りがあらわれて語ることによって、はじめてそれらの実態(実相?)が明らかになりはじめる。(p223)」。
 意表を衝かれた。考えてみれば先人たちの学問や知識を学習している我々の思考技術は彼ら(旧石器時代人のひじょうに頭のいい人)より格段に高いレベルに達していることは間違いないが思考の緊要性において彼らは我々の比ではなかったであろう。なにしろ今日を生きるために、明日食べるために、子孫を増やすために、文字通り「必死」で思考に臨んでいたのだから。そう考えたとき、思考にとって技術と緊要性とどちらがより本質的な要件なのだろうかと思い悩んでしまう。

 小泉、安倍、福田、麻生、鳩山、菅、野田とつづいたここ数代の我国首相は、菅を別格とすれば、みな二(三)代目か政治塾のようなところで、育成・培養された面々である。彼らの政治姿勢・政策課題が自身の思考の結果だとすれば、その緊要性において「旧石器時代のひじょうに頭のいい人たち」に比べて劣っていても当然なのかもしれない。というような、失礼千万な言辞を弄せざるをえないほど現今の政治状況はひどい。一体、誰のために何をしたいのか、まったく理解できない。この体たらくを目の当りにすると我々国民の政治的選択肢は限りなく『ゼロ』に近づいていくのではないかという虞を抱いてしまう。

 「つくられたもの」は「つくりあげたもの」より脆弱で魅力の無いのは当然である。

2012年6月11日月曜日

グローバル化とデフレ

経済の目的は有限なる資源の最適利用による国民の経済的厚生の最大化である、と考えるならば、同量の資源を使って優れた品質の商品を最も多く造れる企業が優秀な企業であり、同量の資源で最も安く造れる企業が市場競争に勝つことになる。
 
「有限な資源」に着目すると「グローバル化」とは資源を利用できるプレイヤーが限りなく増加する現象である、といえる。考えてみればほんの10数年前までG8という僅か8ヶ国が優先的に世界の資源を利用していたのであり、それが今世紀になってG20の20ヶ国にプレイヤーが増えたに過ぎない。今後ますますプレイヤーは増え続けることは明らかであり、市場規模の観点から人口1000万人規模の国をプレイヤーの有資格国と考えるならば80ヶ国(2012年度WHO資料)までグローバル化は進展していく可能性がある。又、経済成長が「資本ストック、投下労働力、技術進歩」の結果であるとするなら、安価な労働力を保有する「遅れてプレイヤーになる国々」の市場優位性はこれから相当長い期間保たれるに違いない。昨今BRICsなどの新興国の景気減速が伝えられているが当然の結果であり、今後繰り返し「市場優位のプレイヤー」の入れ替えが行われることであろう。
 グローバル化を別の面から考えると「世界に偏在する貧困の平準化の過程」と捉えることが出来る。「安価な労働力」とは「貧困な国民」の別称に他ならず、グローバル化は「先に進む国の相対的な低賃金化」と引き換えに「遅れてきた国々の貧困の克服」を促進する。従って先進国のデフレ化は避け難い一面があり、G8諸国を襲っている深刻な低成長とデフレ化は「グローバル化の歴史的必然」といえる。

 我国のデフレには特殊事情が別にある。
 第一は2011年以来続いているゼロ金利が齎した300兆円を超える「逸失利子所得」による消費需要の喪失である。年額25兆円は12.5%の消費税に相当することを考えれば今ここで消費税増税することが消費に与える負の影響の大きさが理解できるであろう。
第二は高齢化による労働力人口減少の招いた勤労所得の減少効果である。高齢の労働者は相対的に所得が多く若年労働者との入れ替えだけでも国全体の所得は減少するが、そのうえに雇用者数の減少や非正規雇用の増加などが加わって全体の勤労所得の減少は相当なレベルに達している。
 
 可処分所得を如何にして増やすか、国の取るべき施策の方向性は明らかである。

2012年6月4日月曜日

消費税増税と利子所得の関係

先日とある居酒屋で隣に座っていた初老の親父さんがこんな呟きを洩らした。「消費税くらい10%でも20%でも払ってやるよ。その代わり銀行の利子を何とかして呉れよ。100万円1年預けて10円の利子しか付かないじゃ洒落にもならないよ」。この呟きが妙に耳に残った。

 個人金融資産1500兆円といわれているからもしこれに1%の利息が付けば単純に計算して15兆円の利子収入が発生することになる。消費税1%は2兆円の税収増とされているから1%の利息は消費税7%超に相当することになる。個人の財布(家計)を考えてみると、勤労所得と財産所得(利子や配当の所得)と言う形で収入を得て、所得税や消費税の税金を納め、残りの可処分所得で消費し余りを貯金しているから、消費税を納めるのも利子所得が減少するのも個人にとっては結果的に同じことだ。ということはこれまで消費税は5%払っていると思っていたが、実は10年以上前から消費税7%~15%(2%の利息なら)分位の「負担」を我慢させられてきたことになる。
 昨今消費税増税を声高に叫んでいる人達は、我国の消費税は西欧先進諸国の水準に比べて15%近い増税余地がある、と其の正当性を主張しているが、本当にそうなのだろうか。

 バブル崩壊から脱出するために平成11年2月にゼロ金利が導入され、それにつれて預金金利も平成3年の2%から平成11年に0.001%の水準に引き下げられた。この措置により受取利息は平成3年の38.9兆円をピークに17年には3.5兆円と1/10に減少した。一方家計は住宅ローンなどの借入れをしているが支払利率は受取利率ほど低くなっていないから純利子所得(受取利息―支払利息)は17年に10.2兆円の支払超過になっている。
 平成3年時点の利子所得38.9兆円を基準として4年以降各年の実際の受取利息との差額を逸失利子所得と考えて17年までを累計すると331兆円になる。支払利息の軽減分(82兆円)を調整したネットの逸失利子も249兆円に上る。(資料:予算委員会調査室福嶋博之「低金利がもたらした家計から企業への所得移転」)

 少々古い資料だがこれに従えばこれまで家計の被った「受け取ることの出来たかもしれない純利息収入逸失額」は17年時点の249兆円から更に積み上がって300兆円に達しているに違いない。国民所得勘定に云う「個人所得=国民所得+(個人利子所得)-(法人企業利潤)-(純利子)」であるから個人の利子所得の減少はマクロでみた個人所得の減少に大きな影響を及ぼしているはずであり、デフレの一因とみることもあながち誤りとは云えまい。
 デフレの原因が需給ギャップ(供給力に比して需要力が少ない状態)にあるとすれば消費の源泉である利子所得が大幅に減少している今、消費税増税によって家計から更なる収奪を行うようなことをすればますます消費が落ち込んでデフレを進行させることは明らかである。

 欧州諸国が景気の落ち込みを金融緩和(低利子化)によって凌ぎ、それによって悪化した財政を増税(家計から政府への所得移転)や雇用調整で健全化を図ろうとして経済破綻しかかっている現状は、今政権が政治生命を賭して行おうとしている「財政健全化のための消費税増税」が全く同じ過ちの後追いになる危険性を暗示していると言えないだろうか。

2012年5月28日月曜日

科学報道のあり方について

3.11以降地震関連の科学報道が多い。例えば23日「全国の小規模な活断層(長さ15km以下)を詳細に調べた結果、北海道、福島、島根の3断層が警戒目安の20kmを超える可能性がある」と産業技術総合研究所の分析結果として伝えられているがほとんどがこの種の報道で、研究機関が従来の資料の見直しや従来を上回る被害の可能性を窺わせる新たなデータを提示するものとなっている。

 科学は実証学問であるから理論の深化だけでなく実証技術の進化も重要であり又科学は応用によって人間生活に恩恵を齎すから応用面の充実の伴わない発展は考えにくい。我国ノーベル賞受賞者のうち記憶に新しい小柴昌也先生や島津製作所の田中耕一さんは実証技術の画期性に対する受賞であった。
 最近の地震学に関する報道の多くは実証技術の発展に伴う新たな事実の断片的な発見を報ずるのみで、それによる理論的深化との関連にはほとんど踏み込んでおらず、それにもかかわらず新たなデータによる地震予知への影響を過大に報じている。南海トラフを震源域とする巨大地震が発生した場合、高知県黒潮町には国内最大34・4メートルの津波が襲うと国が想定した、などのように。
 一体「地震予知」は科学できるものなのだろうか。

 中谷宇吉郎に「科学の方法」という著作がある(岩波新書)。
 科学というものには、本来限界があって、広い意味での再現可能な現象を、自然界から抜き出して、それを統計的に究明していく、そういう性質の学問なのである(p17)。
 自然現象は非常に複雑なもので、(略)その実態を決して知ることができない。ただ、その中から、(略)生活に利用し得るような知識を抜き出していくのである。(略)科学の眼を通じて見ていくのである(p35)。
 科学は自然の実態を探るとはいうものの、けっきょく広い意味での人間の利益に役立つように見た自然の姿が、すなわち科学の見た自然の実態なのである(p39)。
 定性的な研究、すなわち測定の対象についてその性質を常に見守っているということは、(略)常に大切なことである(p142)。

 報道からは、「限界」を窺わせる表現はなく、科学が抜き出した以外のものに眼が届いていない、又統計のベースになっている「仮定」が捨象されている。
 メディアも合理化が進められているだけに、科学部門の人材が手薄なのかも知れない。

2012年5月21日月曜日

スカイツリー狂想曲

22日に開業を控えるスカイツリーをめぐる商戦が加熱している。マスコミ各社も特集を組んでムードをいやがうえにもヒートアップさせ、展望台の予約客数が100万人を突破して年間約1700億円の経済効果が見込まれるとはやしたてる。しかし一方で「これで又お客さんが減ってしまう」と心配している人も決して少なくないはずだがそうした向きへの配慮はみえない。ほんの数日前まで「東北復興のために」と東北観光を振興しようと盛んに旗振りをしていたはずのマスコミは『スカイツリー狂想曲』によって東北観光が大きなダメージを受けるに違いないことを全く無視している。
 どこまで『東京一極集中』すればよいのか!!

 我国の余暇市場はこの約30年で40兆円から80兆円近い成長を遂げている(以下資料は「レジャー白書」による)。この間GDPはほとんど500兆円近辺に張り付いたままだからその比率は16%を超える巨大産業に成長したことになる。TDL(東京ディズニーランド)の開業したのは昭和58年(1983年)4月15日、TDS(東京ディズニーシー)は平成13年(2001年)に開業しているがこの二つの属する「遊園地・レジャーランド」の売り上げをみると1984年の3600億円から6500億円近くに成長しており「国内観光・行楽」に占める比率も7%弱から10%近くまで高まっている。遊園地・レジャーランドにおけるTDL・TDSの位置は入場者数が1000万人から2700万人に増えているから1/3からほぼ半分に近い状態になっていると見込まれる。ここでも『東京一極集中』が進行している。この上「スカイツリー」で東京に観光客が集中するようになれば、これはもう「東京対その他地方」と言っていい異常な集中度といえる。1700億円というスカイツリーの経済効果の大きさが遊園地・レジャーランドの売上高6500億円に比してみれば明らかであろう。
 勿論TDLが『テーマパーク』という新たな観光分野を創出したことは事実である。しかしそれを考慮しても「その他地域」の観光需要を侵食した影響は甚大でありそれは修学旅行需要の変化を見ても明らかである。

 今国会では「衆議院の一票の格差」是正が論議されている。しかしこの問題の本質は「違憲になるほどの歪な国土の経営」にあるということを政治家もマスコミも強く認識すべきである。

2012年5月14日月曜日

胡乱(うろん)

私はときどき思ふのである。立憲政治とか代議政体とか云ふやうなものも、果たして日本の国民性に合致した政体であるかどうかと。立憲政治は討論政治であり、雄弁政治であり、煽動政治である。然るに前にも云ったやうに由来東洋人は偉い人程おしゃべりをしない。古来大政治家が雄弁家だったと云ふ人を聞かない。(略)何か西洋の真似をしないで、もっとわれわれの国民性に順応した新しい政体がなかったものだろうか。若し西洋の文化が這入って来なかったなら、或いは東洋は東洋流の別個の政体が発達しなかったものだろうか。
 
これは谷崎潤一郎の言葉である。ここ数年の政治を見ているとこの昭和2年の文豪の辞(「饒舌録」より)がみょうにリアリティを帯びてくる。まったく機能しない政治状況の因って来る所以を考えると『政治家の言葉の軽さと嘘っぽさ』がありそれが国民の政治への信頼を失墜させ既成政党離れを増幅したことは疑いがない。
大体最近の政治家は『演説・雄弁』を誤解している。それは決して『テクニック』ではない、にもかかわらず彼らは『言葉の技術』と勘違いしている。野田首相はここ数代の総理中では演説上手といわれているがそれが却って彼の演説を『胡散臭い』ものにしている。「辻立ち」で鍛えた彼は演説に自信を持っているのだろう、言葉の力で野党と国民を牛耳れると信じているように映る。しかし、それにもかかわらず彼の言葉からは『正義と公正』がまったく感じられないから彼が思っているほど政治が進行しない。野党時代に彼が「正義」と感じ「公正」を訴えた真情とまったく逆の政治のあり方をいくら言辞を弄して訴えても、国民はその『胡乱』さを見抜いている。
彼はまだ言葉の不完全性を知るに至っていない。

谷崎はそれをこう示教している(「現代口語文の欠点について」より)。
日本語は不完全な国語だ、(略)到底欧州語のやうに、説いて委曲を盡すことは出来ない、と云ふ人があるかも知れない。(略)全体人間の言葉なんてさう思ひ通りのことを細大洩らさず表現できるものではないのだ。(略)然るに西洋人と言ふものは、なまじ彼等のヴォキャブラリーが豊富なために、さう云う説明のでき得べくもないことを、何とか彼とかあらん限りの言葉を費やして云ひ盡さうとして、そのくせ核心を摑むことは出来ず、愚かしい努力をしてゐるやうに私には見える。(略)言葉を費やせば費やすほど、全面を同時に具象的に云ゐ表すことが至難になる。

2012年5月7日月曜日

東電問題の見方(2)

東電問題を電力会社(供給側=産業界)の立場から考えて見たい。
 
 3.11直前までの「オール電化」狂騒曲は一体何だったのだろう。思うに、国際的に稼働率が20%以上低い我国の原発を世界レベルに引き上げる構想が政官財で出来上がっていたのではないか。その余剰電力を当て込んで電力会社は勿論のこと住宅メーカー、不動産業から家電、自動車など産業界上げて「オール電化」を演出していたに違いない。金融界が深く関与していたことはいうまでもない。政府はデフレ脱却の起爆剤として財務省、経産省などの官僚からこうした構想を吹き込まれ、原発の安全性を閑却視して盲目的にその推進を考えていたのであろう。
 ところが3.11がこの構想を根底から覆えしてしまった。原発の安全性に対して国民をはじめ政府、産業界も根本的な疑問を抱かざるを得なかった。そして「脱原発」が国民的合意を形成したかに見えた。それが半年も経たないうちに脆くも崩れ去り「原発再稼動」に大きく舵を切ったのは何故だろうか。

 経済社会への影響力を設備投資規模でみてみると、1980年代電力業界の規模は自動車業界全体の4倍、鉄鋼の6倍、そして産業界全体の4割近くを占めていた(5月1日日経「国有東電・苦難の再生」から)。この構図は今も余り変わっていない。取得設備投資額22年度実績見込額でみると電気は1兆27百億円で全産業の2割を占め、鉄鋼の2倍自動車の3倍近い(経産省企業金融調査:平成23年3月31日現在における)。経済のサービス化が進展する中でも電力産業の影響力は絶大で、とりわけ製造業の依存度は大きい。ということは電力業界が利益を上げて産業界の推進力となってくれなければ日本経済が大きく落ち込んでしまうのではないかという危惧を政官財のトップが抱いても当然である。
 電力業界が利益を上げる最も手っ取り早い方法は減価償却の済んだ原発を稼動させることだ。全国に54基ある原発のうち32基が1970年代以前に運転開始している。原発を何とか再稼動させたいという思惑の真意はここにある。デフレから脱却して景気を上向かせ、税収を大きく上げたい財務省や官僚組織としては電力業界の成長力回復が必須の条件であり政官財挙げてこれに取り組む必要がある。東電を潰す等以ての外なのである。

 原発の安全性を科学的に追求し必要電力を確保しながらも依存度を低め、経済運営を安定しつつ電力業界依存体質から新しい成長軌道へ導く。この難題に今の政治は機能するだろうか。

2012年4月30日月曜日

東電問題の見方(1)

東電問題を消費者(需要側)の立場から考えてみたい。
 
 地域独占の下で同一商品=同品質の電力を他地域と等しい価格で購入できない市場は、最早地域独占が容認される状況に無いのであるからこのまま放置せず早急に是正されなければならない。現状に至ったには種々の原因があるがそれによる供給側=電力会社の追加費用を電力料金の改定などの形で消費者に負担を強いる正当性はどこにも認められないからである。政府と電力会社は東電地区の消費者=需要家に他地域と同価格で電力を提供できる体制=仕組みを早急に構築する責任がある。
 
 これまで我国電力市場は、全国一律(概ね)の電力料金で安定供給することを条件として地域独占を認められてきた。良質な電力の安定供給を最重要条件として国際的に相当高い価格を消費者は受け入れてきたのであるから、供給価格と供給量の安定した体制は(今回のような地震、津波、原発事故など多重災害があっても)供給側(地域独占を認めてきた政府も含めて)の責任で保持されるのが当然である。
 今回の多重災害による追加費用を現状のままの体制で東電に負担させ、結果として地域の消費者に負担を押し付けるようなあり方は決して認められるものではない。政府と東電―他地域の電力会社も含めて―は全国一律の電力料金が保持できる体制を構築する責任がある。
 
 これまで討議されてきた解決策を勘案すれば、原発事故に関連する諸費用は政府負担とし一刻も早い地元の復興を政府の責任で行うことが妥当であろう。その他の追加費用は東電の責任であり、一旦倒産させた上で発電関連資産を含む資産売却や人員整理、人件費等の合理化を徹底して、送電事業に特化した企業として企業再生し長期に亘って債務返済に取り組むべきである。地域独占の既得権を共有してきた他地域電力会社の費用負担も想定されるがその際も消費者に負担が及ばないことが必須の要件であり、電力各社の累積内部留保の取り崩しなどで対処されるべきである。

 料金改定は今回の1回限りでは済まない。現体制が続く限り繰り返し料金改定される可能性のあることを覚悟しておく必要がある。

2012年4月23日月曜日

つれづれに

水温む、とか、山笑う、とかいう常套句がしみじみと心にしみ入る季節になってきた。同様に、何気ない日常の無聊にフト手に取った川柳が人生の機微を見事に写し取っていてほのぼのと感じ入るときの嬉しさも捨てがたいものがある。

 「本降りに なって出ていく 雨宿り」/チェッ、降ってきやがった、暫くここで雨宿りだ、と若い衆の声。でも若気の短気はものの5分も待っていられない。面倒くせぇ、と飛び出していく気配。雨足は最前よりずっと激しくなっている。
 古川柳には味なものがある(カッコ内は前句、小学館・日本古典文学全集による)。「模様から 先きへ女の 年がより(うちばなりけり 々 )」/渋く上品に落着いた服装をするのが老婦人の教養とされた。だから肉体の老化より着物の模様が細かく地味になるという指摘。「三十振袖」「四十白粉」などと顰蹙をかったものである。
 色っぽいのもある。「年寄りが ないでさいさい ねだが落(くるひこそすれ  々 )」/核家族が主になってしまった今では考えられないが、昔は新婚といえども同居する親兄弟や家族を気にして存分に夜を楽しむことができなかった。たまたま夫婦きりの新生活を始めた若夫婦を「(夜が激しいから)床が落ちるぞ」とひやかしているのである。
 「くまの皮 見て女房の ぎりをいい(はずみ社(こそ)すれ 々 )」/お世話になっている主家へ挨拶に伺う。ご主人はご立派な熊の毛皮を敷いていらっしゃる。黒く艶々とした剛毛の熊の皮を見た男は「そうそう、女房もよろしくと申しておりました」。
 艶笑川柳も現代ものになると少々品が落ちる。「死にたいわ にの字を取って欲しい後家」。
 古川柳を読んで感心するのは江戸庶民の教養の豊かさである。「阿房宮(あぼうきゅう) 今は虚(うつけ)の 名に成りて(使い捨てたる金の惜しさよ)」/万里の長城を築いた秦の始皇帝は1万人を入れるという阿房宮を造ったほどの絶大な権力を誇ったが僅か三代で潰えてしまった。そして今に残っているのは馬鹿の別名「あほう(阿房)」だけである。

 江戸の粋―小唄を最後に記しておこう。「羽織かくして、 袖ひきとめて、 どうでもけふは行かんすかと、/言ひつつ立って檽子窓(れんじまど)、 障子ほそめに引きあけて、/あれ見やしゃんせ、 この雪に」。帰るという客の羽織を隠して袖に縋りついても出て行こうとする。あきらめ風に檽子窓の障子をそっと開けると雪がちらついている。纏綿たる情緒である。

2012年4月16日月曜日

遼と真央と翔

ゴルフの石川遼とフィギアスケートの浅田真央の不振が続いている。1992年のバルセロナオリンピック競泳女子200m平泳ぎで金メダルを史上最年少(14歳6日)で獲得した岩崎恭子のようにジュニア期に活躍した選手がその後伸び悩む例が少なくない。何故なのだろうか。
 
女子シングル史上初となる3回転アクセルに成功(ISU非公認)した浅田真央がトリノオリンピックへの出場を期待されたがISUの定めた「五輪前年の6月30日までに15歳」という年齢制限に87日足りず代表資格を得られなかった。この措置について賛否両論あるが私は賛成派である。フィギアスケートという競技の場合特にそうかもしれないが、体重の軽い子供の身体が優位に働く傾向があると考えているか。肉体が幼いジュニア時期に驚異的な記録を上げた選手が成人の肉体に成長した後以前同様のレベルに到達できない例を繰り返し見てくると、その間に因果関係があるのではないか、一定以上のレベルに到達した技術・技能を幼い肉体から成人の肉体へ移し変える過程が必要なのではないか、そう考えているのだ。ところが選手はそれに気付かず結果が伴わないうちにジレンマに陥り才能を埋もらせてしまう。指導者もこのことに気付いていないかコーチング技術がない。
日ハムの中田翔はこの時期をうまく乗り越えた。超高校級スラッガーと期待されながら2年間は泣かず飛ばずでいたが3年目の昨年目覚しい活躍、そして今年は押しも押されぬ中心選手に成長した。翔の晴れ姿を見るのは嬉しい。
苦しむ遼と真央、乗り越えた翔。スポーツ医学等関係者の奮起を望む。

却説。若い彼らを眩しく見詰めざるを得ない高齢期。かといって「アンチエイジング」で老いに抗う醜悪さを晒す愚も厭わしい。そんな危うさを戒めるような言葉があった。
疾病と老耄とはかえって人生の苦を救う方便だと思っている。(略)老いと病とは人生に倦みつかれた卑怯者を徐々に死の門に至らしめる平坦なる道であろう。天地自然の理法は、頗妙である。(永井荷風「正宗谷崎両氏の批評に答う」より)

老いを高みから眺めると「可笑しみ」に満ちている。それをそれとして認める余裕がまだ無い。生まれて初めて食中りに罹り経験の無い「痛み」に怯んで先端医療特約を見直す周章狼狽。まだまだ荷風山人の域には程遠いふつつか者であります。

2012年4月9日月曜日

それっきり!でいいんですか

NTT西日本のCM「それっきりIT篇」が面白い。伊武雅刀扮する中小企業の社長がIT導入後セキュリティの更新やアフターケアを“それっきり!”で放置したままでいるのを井上真央に「それっきりITでいいんですか」と窘められる構成になっているのだが、このCMを見て苦笑している人も多いのではないか。「それっきりIT」は決して珍しくない現象なのだ。たとえば先日あった“J-ALERT”の誤作動などその典型だ。
 J-ALERTとは「消防庁が整備した全国瞬時警報システムの通称です。津波や地震など対処に時間的余裕のない事態が発生した場合に、通信衛星を用いて国(消防庁)から情報を送信し、市町村の同報系防災行政無線を自動起動するなどして、住民に緊急情報を瞬時に伝達する(HPより)」もので2007年から運用開始され5年に1度の定期点検が義務付けられている。
ところが5日行われた北朝鮮が予告している「人工衛星」打上げに対応した沖縄県26市町村を対象とした伝達試験で那覇市や浦添市など7つの市町村無線が起動しないトラブルが発生した。J-ALERT導入時にどのような点検が行われたのか、5年に1回の定期点検は確実に行われていたのか、多分「それっきり!」かそれに近い状態であったに違いない。

 国や行政の仕組みには「それっきり!」が極めて多く年金はその代表例であろう。社保庁の乱脈運営など点検が適切に行われていたら防げたであろうし、AIJ問題にしても投資運用業務が2006年の法改正で従来の許可制から登録制に変更されたときに投資顧問会社の定期検査を厳重に行う体制を構築しておけば今回のような事件の起こる可能性は相当低かったはずである。

 行政もそうだが企業でITや年金・健康保険関連の事故が多いのはその業務が本来の企業活動とは異なっているとして軽視されている傾向が強いからだ。メガバンクのシステム障害が多発するのも役員の中にIT業務を理解する人材が不足していることによるといっても強ち間違っていない。
年金財政が国を揺るがし年金による倒産が現実化する現在、IT活用によるイノベーションがグローバル経済下での企業存続を左右する現在、社会保障とITを国と企業の中心業務として見直す時期にきていることを知るべきである。

 郊外に造成された「巨大団地」も「それっきり!」になるのだろうか。

2012年4月2日月曜日

学校秀才

プロ野球が開幕した。日本ハムの斉藤佑樹投手が入団2年目にして初の開幕投手、自身初の完投勝利を収めた一方でライバルの楽天・田中将大投手は初開幕投手の栄を担いながら6回5失点で敗戦投手になった。「持っているんじゃなくて背負っているんです」という斉藤に対してマー君は「情けない、恥ずかしい」とうなだれていた、という。斉藤投手には往年の広島・長谷川良平投手のような「小さな大投手」になって欲しい、長谷川は167cm56kgしかなかったが広島一筋で通算14年197勝(208敗)も上げた大投手なのだ。それにしても野球は面白い。誰が考えても田中マー君の方が断然有利で斉藤ユーちゃんにとって過酷な予告・開幕投手指名という条件の中で結果は見事に予想を覆されるものとなってしまった。
今年は大波乱がありそうだ。

 閑話休題。このコラムを始めたのが2006年4月であるから丁度丸6年、数えて7年目になる。今回で332回だからほとんど毎週書いていたことになる。原動力となっているのは「読書」だ。漢文古文をはじめとした文学から経済、科学まで幅広く読んだ。そして、何を書くか、より、如何に書くか、が大事だと思うようになった。書くとは削ることだ、と覚った。それは鴎外、荷風を徹底的に読み込んだお陰であり一葉、二葉亭などの明治文学に親しんだことによる。彼らは一様に「書き方」にこだわっている。そのための『蓄積』がすばらしい。その意味で「蓄積」を始めたのが遅かったと悔やんでいる。

 書くことは方向を示すことでありある意味で結論を出すことだと思う。高学歴社会になって「解説上手」が溢れている、しかし彼らには「自分としての結論」がない。『学校秀才(学校で得た知識はあるが行動力に乏しく知識を実生活に生かせない)』ばかりが増えているようで寂しい。

 鴎外や荷風などを読んで「文化の断絶」を痛感した。明治維新を境界線として、いやひょっとしたら「戦後」を境としてそれ以前の文化が読めない、分からない状態がある。同じ事情が中国にも韓国にもある。それが僅か240年足らずの歴史(=蓄積)しか持たない米国に敵わない原因ではないか、最近強くそう考えている。

2012年3月26日月曜日

骨董と年金

むかし愛ちょっとまえ金いま命 という川柳がある。言い得て妙である。若いとき女、中年で習い事、年とって造作と庭いじり、を三大道楽として昔の金持ちは戒めたという。尤もである。

 道楽といえば骨董が最たるものであろうが先日「国際稀覯本フェア」に行ってきた。骨董と稀覯本は異なるが大雑把に言えば本の骨董品が「稀覯本」になるのだろうか。京都の「勧業館みやこめっせ」で3月23日から3日間行われたこの催しは26のブースに分かれてそれぞれ専門の逸品を展示し好事家の垂涎を誘っていた。私の趣味で選んだ特選は「『雀の国廻』(御伽草子〝雀の発心〟後半部分)土佐光久(中尾松泉堂950万円)」と「『青樓美人会姿鏡 全三冊』勝川春章・北尾重政画、蔦屋重三郎・山崎金兵衛版(思文閣650万円)」の2品と八木書房の漱石や谷崎等文人の書画・直筆原稿類になる。とにかく2時間倦むことなく楽しんだ。
 美術品や骨董を見ると「骨董はいじるものである、美術は鑑賞するものである」という小林秀雄の言葉を思う。もとより貧乏なるが故に、買って手元に置いて玩味する、という趣向ははなから放棄しているが、美術品にしろ骨董にしろ買い求める人がいるから市場があるのであって、スポンサーがなければこうした世界は成り立たない。せちがらい昨今、これ位の余裕は残しておきたいものである。

 ところで「金のあるところに金は集まる」ようである。貧乏人が金儲けを企んだり持ちつけない金を持ってもロクな事は無い、と相場は決まっている。AIJ問題をこのような表現をすると不謹慎と責められるかもしれないが、もともと金儲けの素質の無い人が勉強もせずに「元社保庁出身の大物官僚ご推薦」という『お墨付き』に目が眩んだ今回の騒動は骨董の世界とは異なって余りに『薄汚い』様子が窺える。小林秀雄の「真贋」に「(博物館の鑑定書の付いた贋物を持ってきた人に)近頃鑑定書にもニセが多いというと了解して帰ったそうである」とあるように、自分の金で真贋の修羅場をくぐっている人は「高い授業料」を払って『鑑識眼』を磨くのである。

 断言するがAIJに関する疑惑は可なり以前から『公然の秘密』になっていたはずである。しかし西山事件の西山さんのような信念の硬骨漢がマスコミにも官僚にもいなかった結末である、と。

 岡崎公園から南座まで歩いてにしん蕎麦で一杯呑んで、贅沢なひと時であった。

2012年3月19日月曜日

健康院と楽古学

世の中に有りそうで無いもの―「健康院」と「楽古学」もそのうちの一つだろう。

 幼少の頃から病弱で、それをいいことに肉体を鍛錬するとかスポーツに挑戦するとかとは一切係わりなく60歳を超えて数年、ある日突然「禁煙」に成功した。怠惰な日常を繰り返していた肉体はほとんど「経年疲労」の限界に達していたに違いないから、もし禁煙していなければ現在の私は無かった可能性が高いと思う。禁煙の効果は抜群で体調が一変、そうなると「欲」がでてくるもので虚弱な肉体をせめて標準に、スポーツも何かひとつくらいは人並みにやってみたいという願望が芽生えてきた。
 そこで困ったのが病気で無い私の身体を検査して、体力を向上させる運動のメニューや体力相応のスポーツを選んでくれる施設がどこにも無いことだった。無茶をしてきているから筋力も骨年齢も相当平均より劣化しているに違いない。そんな体力の私にテニスは無理だろうか。など、病気ではないが決して健康とはいえない私の体力維持、更に向上を図るような相談に乗ってくれるところが我国にはまったく無いのだ。

 11日の「日経・今どき健康学」で中村雅美江戸川大教授が「健康院」を提唱していた。社会保障改革が叫ばれている今、医療費増大を防ぐことは重要な課題である。健康ではないが病気でもない人を病気にさせない―「予防」と、健康な人を健康な状態に維持することは高齢化の進行していく我国が喫緊に取り組むべき施策であり「健康院」は十分検討に値するものだと思うがいかがだろうか。

 さて世は挙げて美術展ブームである。にもかかわらず日本の古美術を正しく理解して楽しむ能力・技術を体系的に学ぶ―いわば「楽古学」とでも呼べるようなものが無い。考古学や古文書学はあるが専門的過ぎて一般には敷居が高く又分野が狭い。屏風、掛け軸、絵巻物、錦絵や草双紙など日本古美術といわれるものの多くは絵画的要素と文字的要素が渾然一体となっている。今この「文字」が判読できて理解できる人口は極めて限られている。展覧会でどんなに優れた美術品を目にしても文字的理解が伴っていないから楽しみは半減いやそれ以上に損なわれている。これは大げさに言えば『文化の世代的断絶』である。

 読めて漢文・古文の素養と美術鑑賞力を培う―『楽古学(らっこがく)』を勧める所以である。

2012年3月12日月曜日

貴と賤と

最近しみじみと「先輩に恵まれた」と思い返すことがある。
社会人になって間もない頃先輩から与えられた苦言忠言は甘やかされて育った身にとって大変ありがたかった、それ故生活規範や人生訓になって今に続いている。
 たとえばその一、酒を飲んだ明くる日は這ってでも会社に出て来い、はどんな時に与えられたかはご想像の通りで若い頃は守るのに相当苦労した。その二は、デリバリー・イズザ・ファースト(納期が第一)で「ほう(報告)・れん(連絡)・そう(相談)」と共にビジネスマンなら身に沁みているはず。その三はこんな風に語りかけられた。「市村君なぁ、賢愚、貧富は生まれ育ちでどうにもならない一線があるが、貴と賤は本人次第で律することができるものだよ。」と。今から思うとこれまで何度も一線を踏み外しそうなときがあったが、その都度この先輩の言葉を心に甦らせてやってきた。かといってそれが全うできていたかは判断に苦しむところではあるが。

 貴賤に関してちょっと気になる文章がある。永井荷風の「ひかげの花」の一節である。私娼の私生児として生まれた娘(おたみ)が女髪結いに養女に出される。娘は髪結いの出入先の塚山という御妾さんにひどく可愛がられるがそのうち髪結いに男ができ駆け落ちをしてしまう。身寄りの無いのを不憫に思った塚山さんの妾宅に引き取られたおたみは娘のように大事にされる。その後関東大震災で離れ離れになった娘はいつか母同様に私娼に身を落とす。ある時私娼狩りがあり娘は警察に検挙されてしまう。たまたま新聞で娘の名を知った塚山さんは弁護士を通じて放免の手続きをしてやる。(以下同書より)
 塚山は孤児に等しいおたみの身の上に対して同情はしているが、しかし進んでこれを訓戒したり教導したりする心はなく、むしろ冷静な興味を以ってその変化に富んだ生涯を傍観しようとするだけである。(略)おたみが正しい職業について、あるいは貧苦に陥り、あるいはまた成功して虚栄の念に齷齪するよりも、溝(どぶ)川を流れる芥のような、無智放埓な生活を送っている方が、かえってその人には幸福であるのかも知れない。道徳的干渉をなすよりも、唯些少の金銭を与えて折々の災難を救ってやるのが最もよくその人を理解した方法であると考えていたのである。

 光市母子殺人事件や生活保護不正受給などの報道に接して人間の見方の一様でないことを思う。

2012年3月5日月曜日

追憶ナショナル・ブランド

28日パナソニックは津賀一宏専務が社長に昇格、大坪社長、中村会長はそれぞれ会長と相談役になる人事を発表した。これに先立ってテレビ事業の縮小、合併した三洋の白物家電事業の売却を決定するとともに今3月期7800億円の赤字決算になると発表している。今回の人事でパナソニックは電工、三洋とのグループ統合に目処がついたことで経営陣を刷新し、テレビ事業の建て直しと環境・エネルギー分野への事業構造転換を急ぐ姿勢を鮮明にした。
 しかしこれは表向きの事情であって、実情はグローバル展開する中で韓国等の新興勢力にテレビや白物家電の分野で太刀打ちできなかったために同分野から撤退せざるを得なかったことへの責任人事の意味合いが強い。

 今から30年前、我が家の電気製品はほとんどナショナル製品だった。「まちの小さな電器屋さん」が繁々と訪問してくれ家内の電気製品に不具合があると小まめに調整してくれるので、ひとひねりした機能を付加して「使い勝手が良く」少し価格が高いナショナル製品をついつい買ってしまうという繰り返しをしているうちナショナル・ブランドで埋め尽くされていたのだ。生家が鉄工所で「モーターの日立」「機械の東芝」という父の影響を受け松下製品は「後出しのマネ製品」という固定観念を刷り込まれていた私だったが、いつのまにかナショナル・ファンにされていた。
 その「ナショナル信仰」にカゲリが出たのは「ワープロ」がきっかけだったように思う。シャープの「書院」が全盛のなか敢えて「まちの小さな電器屋さん」の勧めでナショナルのワープロを購入した結果は見事失敗だった。丁度この頃、バブルが弾けたと記憶している。爾来長い長いデフレの時代が続いている、そして我が家からナショナルが姿を消した。成熟した電化製品の多くでメーカー間の品質差が消滅し価格だけで製品を選択することが常態化したからである。

 パナソニックに限らず日本の家電メーカーすべてがグローバル展開に失敗したのは何故か。その答えは自動車産業―とりわけ日産とスズキがいち早く始めた取り組みの中にありそうだが、長年日本経済を牽引してきた日本の家電メーカーがこのままで終わるはずが無いと強く信じている。

 最近我家に「エコナビ」のついたパナソニック冷蔵庫が入った。

2012年2月27日月曜日

想 滴滴

おそるべき 君等の乳房 夏来る/
 西東三鬼(1900~62)のこの句に接したときその鮮烈な感覚に圧倒された。そしてこの句が昭和21年、終戦の翌年に作られたことを知って更に驚きが増した。昼光の照り盛った白々とした砂埃にまみれた真夏の瓦礫の荒れ野、そこに猥雑に繰り広げられる雑多な闇市の人混みの中を、双の腕を裸に剥きだし原色のケバケバしいアメリカ製らしき薄衣を翻し男どもを睥睨しながら闊歩するパンパンと呼ばれる数人の女性たちは乳房の谷間をこれ見よがしに曝している、こんな光景がこの句に定着した。
 それから何年かしてボオドレール(1821~67)の「悪の華・美しい船」にであった。
 頸(うなじ)は 太く 圓(まろ)らかに 肩 むつくりと肥り膩(じし)、/異様(ことざま)ながら優雅なる頭を擧げて誇らしげ。/悠々と また 昂然と/道行く きみの貴(あて)すがた、気位高き童女(わらわめ)よ。∥玉蟲色の衣の覆ふ 胸 たかだかと盛り上り、/乳房のあたり 誇らしく、譬へば 楯の 光彩を/陸離と放つ如くなる/色鮮やかに膨らめる 飾戸棚の鏡板(鈴木信太郎訳)。
 何という符合か。ボオドレールが詩人たちのバイブル的存在であれば西東三鬼がこの詩を読んでいないとは考え難い。だからと言って西東三鬼の句が剽窃というのでは決してない。両者の創作の現場が全く異なることを考えた時、天才のインスピレーションの暗合に文学的高みの面白さを限りなく感じ入るのである。

 ボオドレールで言えば「パリの憂鬱・窓(訳・同)」にからんである詩人を想起する。寺山修司(1935~83)は詩人・劇作家で演劇実験室「天井桟敷」を主宰した私と同世代の寵児的存在であった。まだ市民権を得るに至っていなかった『競馬』を山口瞳とともに文化的香りを混入することで後のブームの先鞭をつけたことでも一時代を画した。彼が死の数年前(1980年)に起こした「覗きの現行犯(実際は住居侵入罪)」で逮捕されるという不可解な行動は彼の生涯の不明の残滓として多くの人の心に蟠っている。
 「蝋燭の光に照らされた窓ほど、深遠で、神秘的で、豊かで暗鬱で、輝かしい物は他にはない。白日の下に見ることの出きるものは、常に、硝子窓の向う側で起っている事柄ほど、興味をそそりはしない。この暗い、或いはまばゆい穴の中に、生が息づき、生が夢み、生が悶えている。」この詩句は永井荷風の「ふらんす物語・祭りの夜がたり」に直接引用された。そして荷風は更にこう続ける。「自分はどうしても、あの窓の中を覗きたい。窓の中に這入りたい。どんな危険をもいとわないと思った。好奇心ほど恐ろしいものはないよ。」と。
 ボオドレールと永井荷風は寺山修司の不分明な暗部に少なからぬ光を当ててくれる。

 古稀を超えるまで死について実感することは無かった。しかし読書の娯しさを今にして知るに至り、読みたい書物の多さと残されているかも知れない時間を計ってみるとき、はじめて生きることの尊さを慮るに至ったのである。
嗚呼時既ニ遅シ哉否哉。

2012年2月20日月曜日

和製漢語とカタカナ語

新任の最高裁判事・大橋正春氏の就任挨拶をどうとらえればいいのだろうか。「一つ一つの事件を誠実に扱っていきたい」13日に開かれた記者会見でこう述べている。最高裁で裁かれる事件は憲法判断に委ねられるものや死刑判決について最終決定を下す場合がほとんどだ。人の命を生かすか否かという重い判決を行うにあたって『扱う』という言葉遣いはそぐわないのではないか、この記事を読んだ時違和感を強く感じた。広辞苑によれば「扱う」という言葉は幅広い意味内容を有しており、現在最も一般的に使われているのは「とりまとめる。とりさばく。処理する。担当する」であり「使う。操作する。使いこなす」がそれに次ごう。他に「気を使う。心配する。世話をする」「もてなす。処遇する」「うわさする。取り沙汰する」等の意味にも使われている。言葉遣いは微妙で繊細なものだが判事の抱負には「とりさばく。処理する」という響きが強い、と感じるのは神経質すぎるか。

 言葉遣いで国会を騒がした「GKB47」はどういう過程でできたものなのだろうか。ご承知の通り内閣府が自殺対策強化月間の標語として採用した「あなたもGKB47宣言!」で使われた言葉でゲートキーパーGateKeeperは門番という英語に自殺しそうな悩みを抱えた人の話を聞く医師や支援者という意味をもたせベーシックBasicに国民全体へ浸透するようにという願いをもたせた和製英語である。勿論人気アイドルグループAKB48をもじっている。既に不謹慎ということで使用撤回されているのでここで重ねて批判しないが一般的風潮として「カタカナ語」の氾濫は目に余るものがある。

 明治維新に始まった外来思想や技術の移入に際して先人は外来語を日本語化するについて涙ぐましい苦労をしている。本来の意味を正しく理解し、受け入れ易く誤解が無いように新しく造語するか既存の語を転用したりして造られた和製漢語は、文化、文明、民族、思想、法律、意識、階級、進化、運動、野球など漢字でできた近代的な概念語の大半が中国韓国などアジア各国で使われていることをみても、先人の苦闘の努力が如何に優れていたかを証明している。

 安易にカタカナ語を多用する風潮と最近の日本人の言葉の軽薄さは表裏の関係にあるように思えてならない。

2012年2月13日月曜日

かかりつけ医

風邪をひいてしまった。というよりも風邪気味であったところへ食あたりが加わって一挙に重篤化して寝込んでしまった、というのが正確なところだ。土曜日の朝、嘔吐感におそわれ黒い胃液と生臭い未消化物を吐き出した。朝食にトーストとバナナを牛乳で流し込もうとしたが、パンの耳が食道を通過する時激しい痛みを感じた。ソファにへたり込んで一日動けないでいたが体温は37.2度以上にはならなかった。全身を倦怠感が覆い、胃を絞り上げられるような痛みが断続的に続く。こんな経験は一度も無い、何かが今までと違う。ひょっとしたらインフルエンザではないかという不安がよぎる。食い意地が張っているのか「いやしんぼ」の私なのに昼食も夕食も全く食慾が湧かない。「いらない」と夕食を断ると「初めてね」と妻が驚く。「病院行ってみたら」娘がインフルを気遣っている。
 
 月曜の朝病院へ行くとインフル流行のせいか患者の数が一通りでなく随分待たされた。30歳代の医師は問診、触診、エコー診断を的確に経た後「軽い食中りですね。インフルの心配はありません。柔らかいものを少しだけ摂って4、5日安静にして下さい」と診断してくれた。
「食中り」。考えもしない病名だった。頑健ではなかったが胃腸だけは強く宿酔以外は嘔吐の経験がない。家族皆同じものを食していたのだから私ひとりが食中りしたのはやはり体力が弱っていたのだろう。こんな場合以前なら間違いなく病院へ行っていたのだが65歳を過ぎた頃からその習慣を改めた。日頃から体力増強に努めもし体調に異変を来たしても食事、睡眠と水分の小まめな摂取で自然治癒を図り薬は売薬で済ますようにした。今回も葛根湯、バファリン、セルベール整胃錠を服用したが全く効かなかった。
 
近所にあるいくつかの医院から「かかりつけ医」を見つけようと思う。「医者と患者」という堅苦しい、私が子供の頃の『えらいお医者さん先生』ではなく、医療に精しい近所の友人、といった存在のひとを見つけよう。仲良くなってちょっとしたことでも気軽に相談できる『良好な関係』を築こう。「早期検診」で大病を予防するのが年相応の健康法だろう。素人の生兵法ならぬ医療知識は役立たずなことを思い知らされた。

医療改革も「かかりつけ医」で止めてほしい。

2012年2月6日月曜日

荷風の死

佐藤春夫はその著「小説永井荷風伝」のなかで荷風の死について次のように書いている。「荷風はその社会的地位にも似ず、医者にもかかって居らず、また看病のための一人も無く夜中に死んでいたため、警察ではこれを一種の変死体として取り調べている(略)荷風が医者にもかからず、看病人をも頼んでいなかったと聞いた時、わたしはこれを自然死を利用した自殺行為ではないかと考えはじめた。(略)軽い咳や、頭痛などにさえ杞憂したあの先生が、今日老躯をいたわって医者に見せることもせぬばかりか、万一にそなえて看病人ひとり頼まぬばかりか、更に近隣の一品料理などへ出かけて何の油を使っているとも知れない安テンドンなどを残さず貪っていたと伝えられるのを聞いては、これがただ例の食いしん坊以上、むしろ自然死による覚悟の自殺を企てていたものとしか、わたくしには考えられないのである。(略)たとい巨万の富を擁していても、これを一銭も使わなければ窮死と同じである。」

 この文を読んだ時「高齢者の孤独死」を考えた。とりわけ東日本大震災の仮設住宅で暮らす高齢者に強く思いを致した。行政は民生委員や地域包括支援センターなどセーフティネットを用意しているしボランティアによる地域援護の取り組みもあるが、そうした制度と高齢者の関係が温もりのある緊密なものになっているとは云いがたい。まして酷寒の東北の仮設住宅が水道など水周りや暖房設備に不都合があり凍結によって生活に支障を来たすような「行き届いた配慮」が感じられない状態では「棄民の孤独感」に襲われても無理はない。
 ひもじい、寒い、「しんどい」「もうええわ」。心が弱ればセーフティネットへのアクセスにも手を伸ばせなくなる。こうした状態で死んでいく人は荷風の『自然死を利用した自殺行為』と何等変わるところが無いのではないか。

 将来推計人口の発表があって高齢化率が2060年には40%にせまりそうだと伝えている。もし予測通りなら現行の社会保障制度は存続が危ぶまれる事態に至る可能性が高い。しかしそのことと寿命が延びて80歳90歳という長寿の時代が来たことを国民すべてで喜びあうことは別次元のことでないのか。

 古来『不老長寿』は人間究極の願望であった。それを素直に喜べない社会は幸せとは呼べない。

2012年1月30日月曜日

検察とドリームキラー

朝刊のスポーツ欄を開けると『ドリームキラー』というヘッドラインが目についた。直感的に「JR福知山線脱線事故・検察控訴断念」が思い浮かんだ。勿論スポーツ面であるから記事は全く関連の無いものだったが、読み進むうちにこれはあながち無関係ではないのではないかと思うようになった。
 
スポーツの世界で記録更新を阻むものは、肉体より自らの頭の中に設けてしまう「壁」の方が大きいらしい。日本男子陸上100mでいまだに10秒を超えられないのも、日本人の身体能力の限界はそこらあたりだと思い込む「壁」を選手が勝手に作ってしまっていることによるらしい。野球でその壁を崩したのが野茂投手だった。メジャーに比較すれば日本のプロ野球はマイナー級だと長い間思われていたのを彼が挑戦者としてその壁を破ってからは続々と日本選手がメジャーへ行き、立派に通用することを証明した。錦織圭が全豪オープンでベスト8入りした男子プロテニスはこれから展望が開けてくる可能性が高い(2012.1.27日経「アナザービュー」武智幸徳より)。

 乗客106人が死亡したJR福知山線脱線事故で、業務上過失致死傷罪に問われたJR西日本の山崎正夫・前社長(68)に対する神戸地裁の無罪判決(11日)について、神戸地検は24日控訴を断念する方針を固めた、と報じられたとき、いわゆる「検察の刑事裁判有罪率100%神話」を強く感じた。こうした「控訴断念」を繰り返す検察のあり方は『100%の壁』を身勝手に「ドリームキラー」にしていないか。現在の法体系が法人を刑法犯に問うことが極めて難しい内容であることを前提として『100%の壁』を突破できない故に控訴断念を当然としてきた検察は、法人が法の制定時代と社会的存在として全く異なる「多様性と実在性を深化」させた現状に法を整合させる努力を放棄したとして断罪されても致し方あるまい。まして本件は愛する家族を不条理に奪われた多くの人たちの怨念を如何にして解きほぐすかという意味合いもあると思われるだけに、1審をもって「控訴断念」では被害者は悔やみても余りあるに違いない。裁判員制度や検察審査会の改革があっても検察は「裁判の専門家による私物化」を改める姿勢を一向に見せないのは残念だ。

 政治には絶望しかない、というドリームキラーは超克できるだろうか。

2012年1月23日月曜日

野球の殿堂

2012年の野球殿堂入り選手等の発表があって北別府、津田の広島投手勢の名が華々しく報じられているが同時に殿堂入りした故・大本修氏について豊田泰光氏が日経「チェンジアップ」に紹介しているのを読んで己の不明を愧じた。発表時の記事では『バット素材の研究に従事した』とのみ報じられていたが豊田氏によればとてもそれだけの人ではなかったようだ。

 芝浦工大の学長まで務めた大本氏の専門は電気工学であったが「金属バットの安全基準」の策定等に尽力されたことが表彰対象になった。しかし「金属はあくまで木の代替物」が氏の信条で安全性を考慮して金属バットの反発力抑制に指導力を発揮された。木への愛着はやがて国産アイダモ(バットの素材)の保護育成に発展し豊田氏も協力を惜しまなかった。ところがプロ野球選手のバットは国産アイダモから『球のはじきが良い』北米産の輸入材が主力を占めるようになりそのうえスイングスピードを手軽に上げるためにバットを極端に乾燥させ軽くする傾向が強くなった。その結果バットが折れやすくなり「使い捨て」の風潮が一般になる。大本氏の亡くなる前の仕事は「折れやすいバットへの対応」となっていた。
 易きを求める選手の風潮とそれに阿(おもね)る業界の儲け主義は野球機構の助長も手伝って野球を大味なものにしてしまった。ラビットボールを大リーグと同じ世界標準に改めた昨年のゲームに緊迫した白熱戦が多くなったのを見ても用具の改善余地はまだまだあるように思える。野球人気の復活のためにも大本氏の殿堂入りを期に再考を求めたい。

 ところで、もし「政治の殿堂」があったとしたら野田佳彦首相は殿堂入りを果たすだろうか。「ネバーネバーネバーネバーギブアップ」と消費税増税を不退転の決意として声高に叫ぶばかりでその先にある『国のかたち』が全く見えてこない彼の政治姿勢に国民は早くも危うさを感じ始めている。「事の勝敗はその事に当たる人物の如何に因る。(略)人物の如何とは、即ち誠実の有無、正義観の強弱をさすのである。信念の如何を謂うのである」、「冬日の窓」で永井荷風のいう正義観が野田首相に殆んど感じられないのは残念である。
  
 「正義観念の確立は民族の光栄を守る強力の武器である。これ無きところに平和の基礎は置き得ぬであろう。」荷風のこの言葉を政治家諸氏に伝えておきたい。

2012年1月16日月曜日

原発とメガバンク

「東電追加融資、4月にも実施―値上げ・原発再開が条件」という記事が10日の日本経済新聞に掲載されていた。内容の概略は以下の通り。
 ▼政府は福島第1原発の廃炉などの費用に充てるため、1兆円規模の公的資金を東電に資金注入した上で、運転資金として民間金融機関から1兆円規模を調達する計画を示した。▼主要金融機関は追加融資を4月にも実施する方向で調整に入る。融資の前提は東電の財務基盤の安定で、電力値上げや原子力発電所の再稼動が欠かせない。▼東電と賠償機構は2年後をメドに停止中の柏崎刈羽原発を再稼動させる方針を主要金融機関に示した。▼再稼動できるかは政府の判断に依存するだけに、主要金融機関は再稼動に向けて政府に働きかけを強める方針。▼主要金融機関が追加融資するには、既存の東電向け融資を「正常債権」に査定する必要がある。不良債権に査定することになる債権放棄や金利減免などの金融支援は実施しない方針。

 この記事の問題点は第1に東電と賠償機構が2年後をメドに停止中の柏崎刈羽原発を再稼動させる方針を主要金融機関に示したことであり値上げを前提とした融資条件にも疑問がある。更に東電向け融資を「正常債権」と査定するというメガバンクの考え方は奇異であり不良債権に査定することになる債権放棄や金利減免などの金融支援は実施しないとう方針は強欲であり傲慢である。

 値上げに関しては未だ政府認可は降りておらず総括原価方式の不都合や発送売電分離による合理化など根本的な電力事業の再構築に関しても何一つ解決を見ていない。にもかかわらずそれを前提条件にして4月の追加融資を検討するなど一般常識としてありえない。
 東電向けの既存融資を「正常債権」と見なし、不良債権に落とさないために債権放棄、金利減免には応じないというメガバンクの考え方は身勝手な自己矛盾である。
看過できないのは東電と賠償機構が2年後をメドに柏崎刈羽原発の再稼動をメガバンクに示したことであり再稼動を政府に働きかけるメガバンクの姿勢は国民の意志を全く無視している。

 メガバンクの論理は債権保全が全てであり、そのためには産業や国民生活に重大な影響を与える電力料金値上げも安全性の合理的な保証が担保されていない原発再稼動さえも当然であるとする、国民の犠牲を省みないメガバンクの姿勢には憤りさえ感じる。

 メガバンクよ驕る勿れ。

2012年1月9日月曜日

去年今年

久し振りに「紅白」を見ていて感じたことがあった。演歌に生彩がないのだ。「新しい演歌」が面白くないのだ。近来演歌が売れないと言われていたがこれじゃ仕方がないと思った。決まりきったテーマを手垢に汚れた演歌言葉と破調のないメロディで作られているから訴えるものが全く無い。かっての演歌は、例えば森進一の「おふくろさん」でも都はるみの「北の宿から」でも『新しかった』し時代を切り取っていた。琴線にふれる詩でありメロディであったから「レコード」も売れた。このままでは演歌が消えてしまう。

 うたた寝から眼覚めてテレビに目をやると「浜崎あゆみ」のカウントダウンコンサートのカウント前の場面だった。あゆが一言一言噛み締めるように言葉を選びながら一年を振り返り大震災を悼み、感謝し、新しい年への期待を語った。ビデオに採っていなかったのでその言葉をここに表すことができないのは残念だが心うつものがあった。聞き飽きた政治家の言葉とは異次元のものだった。

 初詣に上賀茂神社へ行った。本殿の入り口に行くと行列ができているので仕方なく並んで待つことにした。しかし合点がいかないので先頭へ行ってみると「御手洗(みたらし)」の順番待ちであることが知れた。そこで手水を飛ばして本殿へ行き参拝を済ましてフトあたりを見渡すとほとんどの人が神妙に「二拍二礼一礼」している。ちょっと異様な光景に写った。
こんなことは今までなかった。御手洗で口を漱ぎ手を清め参拝は二拍二礼一礼が正式な神社の参拝の仕方だとテレビで何度もやっていた。それを皆が知りそれに従っていたのに違いない。

 大量の情報が溢れている今の時代だ、こんなことは当たり前だろう。しかし知識は豊富にあっても実践に移されているものはその内の僅かなものだ。上賀茂神社で多くの人が作法通りにキチンと拝んでいたのは、お願いを叶えて貰いたいからであり無作法でバチが当たるのを懼れたからだろうか。
幾ら情報があっても、『継ぎ接(は)ぎだらけの知識』のままでその内から自分に都合にいいものだけを寄せ集めてひとりの人間の価値観ができているとしたらこれほど危険なことはない。しかし今の我国は政治家も企業家も職業人も、子どもでさえも皆そうなっていはしまいか。

年 末に掃き集めた公園の枯葉が元旦の朝グランド一面に撒き散らかしてあった。