2012年3月26日月曜日

骨董と年金

むかし愛ちょっとまえ金いま命 という川柳がある。言い得て妙である。若いとき女、中年で習い事、年とって造作と庭いじり、を三大道楽として昔の金持ちは戒めたという。尤もである。

 道楽といえば骨董が最たるものであろうが先日「国際稀覯本フェア」に行ってきた。骨董と稀覯本は異なるが大雑把に言えば本の骨董品が「稀覯本」になるのだろうか。京都の「勧業館みやこめっせ」で3月23日から3日間行われたこの催しは26のブースに分かれてそれぞれ専門の逸品を展示し好事家の垂涎を誘っていた。私の趣味で選んだ特選は「『雀の国廻』(御伽草子〝雀の発心〟後半部分)土佐光久(中尾松泉堂950万円)」と「『青樓美人会姿鏡 全三冊』勝川春章・北尾重政画、蔦屋重三郎・山崎金兵衛版(思文閣650万円)」の2品と八木書房の漱石や谷崎等文人の書画・直筆原稿類になる。とにかく2時間倦むことなく楽しんだ。
 美術品や骨董を見ると「骨董はいじるものである、美術は鑑賞するものである」という小林秀雄の言葉を思う。もとより貧乏なるが故に、買って手元に置いて玩味する、という趣向ははなから放棄しているが、美術品にしろ骨董にしろ買い求める人がいるから市場があるのであって、スポンサーがなければこうした世界は成り立たない。せちがらい昨今、これ位の余裕は残しておきたいものである。

 ところで「金のあるところに金は集まる」ようである。貧乏人が金儲けを企んだり持ちつけない金を持ってもロクな事は無い、と相場は決まっている。AIJ問題をこのような表現をすると不謹慎と責められるかもしれないが、もともと金儲けの素質の無い人が勉強もせずに「元社保庁出身の大物官僚ご推薦」という『お墨付き』に目が眩んだ今回の騒動は骨董の世界とは異なって余りに『薄汚い』様子が窺える。小林秀雄の「真贋」に「(博物館の鑑定書の付いた贋物を持ってきた人に)近頃鑑定書にもニセが多いというと了解して帰ったそうである」とあるように、自分の金で真贋の修羅場をくぐっている人は「高い授業料」を払って『鑑識眼』を磨くのである。

 断言するがAIJに関する疑惑は可なり以前から『公然の秘密』になっていたはずである。しかし西山事件の西山さんのような信念の硬骨漢がマスコミにも官僚にもいなかった結末である、と。

 岡崎公園から南座まで歩いてにしん蕎麦で一杯呑んで、贅沢なひと時であった。

2012年3月19日月曜日

健康院と楽古学

世の中に有りそうで無いもの―「健康院」と「楽古学」もそのうちの一つだろう。

 幼少の頃から病弱で、それをいいことに肉体を鍛錬するとかスポーツに挑戦するとかとは一切係わりなく60歳を超えて数年、ある日突然「禁煙」に成功した。怠惰な日常を繰り返していた肉体はほとんど「経年疲労」の限界に達していたに違いないから、もし禁煙していなければ現在の私は無かった可能性が高いと思う。禁煙の効果は抜群で体調が一変、そうなると「欲」がでてくるもので虚弱な肉体をせめて標準に、スポーツも何かひとつくらいは人並みにやってみたいという願望が芽生えてきた。
 そこで困ったのが病気で無い私の身体を検査して、体力を向上させる運動のメニューや体力相応のスポーツを選んでくれる施設がどこにも無いことだった。無茶をしてきているから筋力も骨年齢も相当平均より劣化しているに違いない。そんな体力の私にテニスは無理だろうか。など、病気ではないが決して健康とはいえない私の体力維持、更に向上を図るような相談に乗ってくれるところが我国にはまったく無いのだ。

 11日の「日経・今どき健康学」で中村雅美江戸川大教授が「健康院」を提唱していた。社会保障改革が叫ばれている今、医療費増大を防ぐことは重要な課題である。健康ではないが病気でもない人を病気にさせない―「予防」と、健康な人を健康な状態に維持することは高齢化の進行していく我国が喫緊に取り組むべき施策であり「健康院」は十分検討に値するものだと思うがいかがだろうか。

 さて世は挙げて美術展ブームである。にもかかわらず日本の古美術を正しく理解して楽しむ能力・技術を体系的に学ぶ―いわば「楽古学」とでも呼べるようなものが無い。考古学や古文書学はあるが専門的過ぎて一般には敷居が高く又分野が狭い。屏風、掛け軸、絵巻物、錦絵や草双紙など日本古美術といわれるものの多くは絵画的要素と文字的要素が渾然一体となっている。今この「文字」が判読できて理解できる人口は極めて限られている。展覧会でどんなに優れた美術品を目にしても文字的理解が伴っていないから楽しみは半減いやそれ以上に損なわれている。これは大げさに言えば『文化の世代的断絶』である。

 読めて漢文・古文の素養と美術鑑賞力を培う―『楽古学(らっこがく)』を勧める所以である。

2012年3月12日月曜日

貴と賤と

最近しみじみと「先輩に恵まれた」と思い返すことがある。
社会人になって間もない頃先輩から与えられた苦言忠言は甘やかされて育った身にとって大変ありがたかった、それ故生活規範や人生訓になって今に続いている。
 たとえばその一、酒を飲んだ明くる日は這ってでも会社に出て来い、はどんな時に与えられたかはご想像の通りで若い頃は守るのに相当苦労した。その二は、デリバリー・イズザ・ファースト(納期が第一)で「ほう(報告)・れん(連絡)・そう(相談)」と共にビジネスマンなら身に沁みているはず。その三はこんな風に語りかけられた。「市村君なぁ、賢愚、貧富は生まれ育ちでどうにもならない一線があるが、貴と賤は本人次第で律することができるものだよ。」と。今から思うとこれまで何度も一線を踏み外しそうなときがあったが、その都度この先輩の言葉を心に甦らせてやってきた。かといってそれが全うできていたかは判断に苦しむところではあるが。

 貴賤に関してちょっと気になる文章がある。永井荷風の「ひかげの花」の一節である。私娼の私生児として生まれた娘(おたみ)が女髪結いに養女に出される。娘は髪結いの出入先の塚山という御妾さんにひどく可愛がられるがそのうち髪結いに男ができ駆け落ちをしてしまう。身寄りの無いのを不憫に思った塚山さんの妾宅に引き取られたおたみは娘のように大事にされる。その後関東大震災で離れ離れになった娘はいつか母同様に私娼に身を落とす。ある時私娼狩りがあり娘は警察に検挙されてしまう。たまたま新聞で娘の名を知った塚山さんは弁護士を通じて放免の手続きをしてやる。(以下同書より)
 塚山は孤児に等しいおたみの身の上に対して同情はしているが、しかし進んでこれを訓戒したり教導したりする心はなく、むしろ冷静な興味を以ってその変化に富んだ生涯を傍観しようとするだけである。(略)おたみが正しい職業について、あるいは貧苦に陥り、あるいはまた成功して虚栄の念に齷齪するよりも、溝(どぶ)川を流れる芥のような、無智放埓な生活を送っている方が、かえってその人には幸福であるのかも知れない。道徳的干渉をなすよりも、唯些少の金銭を与えて折々の災難を救ってやるのが最もよくその人を理解した方法であると考えていたのである。

 光市母子殺人事件や生活保護不正受給などの報道に接して人間の見方の一様でないことを思う。

2012年3月5日月曜日

追憶ナショナル・ブランド

28日パナソニックは津賀一宏専務が社長に昇格、大坪社長、中村会長はそれぞれ会長と相談役になる人事を発表した。これに先立ってテレビ事業の縮小、合併した三洋の白物家電事業の売却を決定するとともに今3月期7800億円の赤字決算になると発表している。今回の人事でパナソニックは電工、三洋とのグループ統合に目処がついたことで経営陣を刷新し、テレビ事業の建て直しと環境・エネルギー分野への事業構造転換を急ぐ姿勢を鮮明にした。
 しかしこれは表向きの事情であって、実情はグローバル展開する中で韓国等の新興勢力にテレビや白物家電の分野で太刀打ちできなかったために同分野から撤退せざるを得なかったことへの責任人事の意味合いが強い。

 今から30年前、我が家の電気製品はほとんどナショナル製品だった。「まちの小さな電器屋さん」が繁々と訪問してくれ家内の電気製品に不具合があると小まめに調整してくれるので、ひとひねりした機能を付加して「使い勝手が良く」少し価格が高いナショナル製品をついつい買ってしまうという繰り返しをしているうちナショナル・ブランドで埋め尽くされていたのだ。生家が鉄工所で「モーターの日立」「機械の東芝」という父の影響を受け松下製品は「後出しのマネ製品」という固定観念を刷り込まれていた私だったが、いつのまにかナショナル・ファンにされていた。
 その「ナショナル信仰」にカゲリが出たのは「ワープロ」がきっかけだったように思う。シャープの「書院」が全盛のなか敢えて「まちの小さな電器屋さん」の勧めでナショナルのワープロを購入した結果は見事失敗だった。丁度この頃、バブルが弾けたと記憶している。爾来長い長いデフレの時代が続いている、そして我が家からナショナルが姿を消した。成熟した電化製品の多くでメーカー間の品質差が消滅し価格だけで製品を選択することが常態化したからである。

 パナソニックに限らず日本の家電メーカーすべてがグローバル展開に失敗したのは何故か。その答えは自動車産業―とりわけ日産とスズキがいち早く始めた取り組みの中にありそうだが、長年日本経済を牽引してきた日本の家電メーカーがこのままで終わるはずが無いと強く信じている。

 最近我家に「エコナビ」のついたパナソニック冷蔵庫が入った。