2012年11月26日月曜日

落ち葉焼(た)く

 朝公園へ行ってみると逍遥路が落葉で埋め尽くされていた。昨日の雨が紅(黄)葉を散らしてしまったのだ。今年は夏の晩から秋、冬と季節が足早に移ったせいで紅(黄)葉が素晴らしかった。とりわけ朝の濡れた光に照り映える紅や黄の葉は昼間の数倍美しい。太陽は早朝の清澄な湿った光から刻々と潤いを失い中天に昇る頃にはすっかり乾いた光に変わってしまう。だから同じ木々も朝と昼では粧いが異なる。紅(黄)葉も新緑も早朝のたたずまいが一番だ。

 落葉を踏みしめて歩いていると何となくメランコリックな気分に襲われるのはどうしてだろう。感情の吐露たる詩歌の歴史をたどってみると万葉集(759年頃成立)には憂愁とか哀しといった内的な主観で秋をとらえている歌は少ない。それが古今集(905年奏上)になるとすっかり様相が変わり「秋来ぬと 目にはさやかに見えねども 風のおとにぞおどろかれぬる(藤原敏行)」のような内面的に季節を感じる歌が多くなる。この変化は遣唐使の持ち帰った「白氏文集」の影響が大きい。唐の白居易(772~846)によるこの漢詩文集は平安貴族の必修歌集となり有名な「長恨歌」は源氏物語に大きな影響を与えている。集中の「王十八の山に帰るを送り 仙遊寺に寄題す」にある「林間に酒を煖(あたた)めて紅葉を焼(た)き 石上に詩を題して 青苔を掃(はら)う」の一節は特に有名で平家物語など多くの文学作品に現れている。古今集はやがて「古今伝授」の形で日本人の季節感に強く影響を与えるようになる。
 明治になってヴェルレーヌの「秋の日のヴィオロンの ためいきの身に染みて ひたぶるにうら悲し(落葉・上田敏訳)」が人口に膾炙し、更に堀辰雄の「風立ちぬ、いざ生きめやも」の詩句などが相乗効果となって『秋=憂鬱、もの哀しい』のイメージが定着したようだ。

 毎年この季節になると公園の『落葉掃き』をしている。大変ですね、とひとは声をかけてくれるがやってみれば分かる、結構楽しいものだ。お金持ちの「愉しみ」ともいう広い庭の落葉掃きの楽しさなど一生味わえないと思っていた。ところが今の公園の近くに住むようになったお蔭で思わぬ恩恵を受けることになったが自分の庭ではないから好きな時に掃けばいいというわけにはいかない。落葉の風情を楽しんでいる人も多いのだから病葉が少し邪魔になって汚れが目立つようになった頃合を見計らって拾ってやる。そのタイミングがなかなか難しい。
 いずれにしてもボランティアというものは強制されてやるものではない。好きな時に好きなようにやる、嫌ならいつ止めてもいい。今日辛度かったら明日やればいい。ボランティアはそんなものだと思う。

 来週になったら逍遥路の落葉掃きをしようか。

2012年11月19日月曜日

巨悪

  石原慎太郎氏には驚かされる、齢80にして新党立ち上げとは!
勿論彼の場合はこれまで都知事という現場にいたのだから一般の80歳とは異なるが、それにしてもすごい馬力だ。しかし今回の決起は彼の独自の思惑なのだろうか。議員として大臣を又東京都知事を4期も務めた彼が何を今更野党の党首として一議員の身に甘んじるのだろうか。彼の言葉に従えば、第三極の糾合大同団結による政界再編成が狙いかもしれないがその場合、彼は細川内閣のように連立の総理大臣にならなければスグにでも引退するのではないだろうか。

 ところでここにきて『橋下維新の会』の支持率が急落している。一時は10%を超えて民主党をも凌駕しようかという勢いのあったものが直近の調査では2%前後に低迷している。その原因のひとつに石原氏の存在を上げるのは無理筋であろうか。知事時代の両者の接触はほとんど維新の会の支持率に影響はなくむしろ石原氏が橋下氏にすり寄る様子にもうかがえたが、知事を辞任し新党設立に動き出した途端にマスコミは一斉に「第三極大同団結」をはやし立て一挙に「維新人気」は埋没してしまった。知事を離れた石原氏は持ち前の奔放磊落さが表に出て橋下氏との器の大きさというか人間的な深みの差がテレビの画面上に映し出され橋下氏はかすんでしまった。

 石原氏の動静が「橋下人気凋落」の外的要因だとすれば「週刊朝日事件」は人々の心にひそむ『ドス黒い澱(おり)』に深く『負の共鳴現象』を引き起こした。橋下氏の出自に被差別部落の影をにおわせ人格を否定するような特集記事を掲載した週刊朝日は陳謝と朝日出版社社長の辞任、編集長の降格解任による幕引きを図ったがこの経過は余りにもスラスラスラと進み過ぎ、の感がある。それまでのネガティブキャンペーンも相当エゲツナカッタが最後の一線は超えなかった。そのせいか橋下人気にほとんど影響はなかった。そこで硬派の朝日・読売・日経グループ週刊朝日が想像を絶する露骨な人権差別の人格否定特集を掲載するという暴挙に出た。表面的には朝日の責任を追及し部落差別の不当性をとなえても、50才前の世代以降の年配者たちは今だに「差別意識」を拭えていない。抑えても抑えても差別意識は残っている。朝日の記事はその許容しがたい深層意識に微妙に効果を与えるのに成功した、のではないか。選挙民の半数近くの層の橋下維新の会への『熱狂』に冷水を浴びせたのは間違いない。
 
そして石原新党の立ち上げに呼応するかのような野田首相の解散宣言。一挙に選挙モードに突入した政界地図に日本維新の会は第三極の一隅に10何分1かの位置を占めるまでに落ちぶれた。

 石原新党、週刊朝日事件、野田首相解散宣言。この3つの不自然な流れを意図的に操作して「橋下維新の会」の勢力剥奪を企図した誰かがいたとしたら。
 『巨悪』は存在するのだろうか。

2012年11月12日月曜日

今こそソフトパワー(3)

  8日開幕した中国の第18回共産党大会で胡錦濤総書記が「2020年までに1人当たりの国民所得を倍増する」という目標を掲げた。違和感を感じる控えめな目標ではないだろうか。

2010年に日本を抜いて世界第2位の経済大国に成長した中国は2020年から2025年にはアメリカを超えて世界第1位になるとまことしやかに伝えられている。もしそうなら2011年に5400米ドルだった1人当りGDPは1万ドルを超えて15000ドル、3倍に近い数字になっていなければおかしい計算になる。
中国が1位になるという想定を受け入れてその時の世界経済を考えてみると米国と中国が世界経済の40%近い比率を占めることになる。少し前の『G7(8)』は今や『G20』の時代になっており新興国隆盛の情勢を踏まえると今後は30カ国以上の国々が優勢な世界経済のプレイヤーとなるに違いない。『資源の有限性』という厳然たる事実を考えると米中2国で資源の独占が許されるとは到底思えない。
また中国がこれまで成長のエンジンとしてきた「人口ボーナス」はすでに転換点を越え2020年には「人口オーナス」の状況に至っている。人口、生産性、イノベーションが成長の3要素だとすれば人口増加の望めない中で成長を遂げるには生産性の向上とイノベーションが必須となるが現状の中国経済の状態はそれには程遠い状況にある。加えて総書記の活動報告にもあるように中国国内の腐敗と格差の拡大に対する不満は年間10万件を超える集団抗議行動として顕在化しておりそれを解消せずに成長を達成することは不可能である。

「中国の鄧小平の実行した四つの近代化は『工業、農業、国防、科学技術』であった。中国はこれには成功したと言えようが、情報の近代化を実現できるかがこれからの中国指導者の課題である。(24.11.4毎日「時代の風・中西寛」)」。中西氏の言うようにこれからの中国は情報化によるサービス産業の育成が重要になってくるが為政者はこの段階を着実に実行できるであろうか。

経営学に「スパン・オブ・コントロール(管理の限界)」という考え方がある。「ひとの管理できる人数は7~9人が限界である」として管理組織を構成していく。国家の経営を企業のそれになぞらえる事に無理があることは承知のうえで、国家経営の人口規模はどのあたりが限界なのだろうかと考えてみる。人種の坩堝といわれながら活力を失わずに辛うじて成長を続けるアメリカは格好のモデルケースといえるだろう。そのアメリカは今3億1千2百万人弱の人口である。先日の大統領選挙の結果をみても統一を保てるギリギリの限界のように感じる。とすれば13億人を超える中国は「国家の人口管理の限界=3億人」を4倍近く超えていることになる。

 胡錦濤総書記をはじめ中国為政者は「13億人の国家経営」に緊迫した危機感を抱いている。「所得倍増計画」はその表れと感じたのは私だけだろうか。

2012年11月5日月曜日

灯火親しむ

今「森鴎外の『うた日記』」という本を読んでいる。先日図書館に行った折にフト書架を見るとこの本が目につき借りてきたものである。どうしてこの本が気になったのだろう?森鴎外の愛読者であること、作者の岡井隆が短歌には無案内な私でも知っている著名な歌人であることが大きく影響したことは間違いない。しかしそれだけではない。まず背表紙のタイトルの字体と配置のバランスが良かった、装幀が上品で重厚であった、手触りや重さも心地よかった。そうした『総体』が長年の読書経験からきている『目利き力』に直感的に訴えるものがあってこの本を借りようと決めたのだろう。

 予想に違わずいい本に出会えた。鴎外の「うた日記」の解読、といえば堅苦しいが詩歌の背景、(漢語)詩の読み解き、岡井氏の感じ方と評価、特に本職の歌人の立場から『文豪・森鴎外』の詩歌を評点するところが面白いし矜持を感じる。「うた日記」というのは鴎外が日露戦争に軍医として出征した日日の思いを託した詩歌をまとめたもので、短歌、俳句、近代詩、漢詩と広いジャンルに亘っている。通り一遍の読みでは分からない、また漢(語)詩では読み方や語句の意味も定かでないものもあり、深く掘り下げて読み解いてくれる作者の語り口は滋味深い。
 いい本には作中の参考文献に優れたものがありその後の読書の大きな支援になることがあるが、今回も「大野晋著・日本語の教室・岩波新書」と「小島憲之著・ことばの重み(鴎外の謎を解く漢語)・講談社学術文庫」を紹介してもらった。すぐに読みたくなり早速購入して前書は既に読み終え後書も本書(うた日記)と並行して読んでいる。ともに言葉についての本だが教えられるところが多く玩味がある。

 最近「電子書籍(以下電子と略す)」が隆盛になってきたが『本との偶然の出会い』がないから今のところ二の足を踏んでいる。しかし辞書や百科事典のように全部ではなく一部を資料として使用する類のものには適しているだろう。雑誌も電子の方が面白いものが作れそうだしエンターテインメントとして読む小説や漫画もどんどん電子化していくに違いない。しかし傍線を引いたり付箋を貼って奮闘しながら挑戦する「専門書」は本としてこれからも存在していくと思う。最も適さないのは「詩」と「絵本」か。特に「詩」は言葉だけでなく書き方も重要な要素であるから質感も含めて本の形が望ましい。
 電子で最も期待されるのが教科書だ。本の教科書をただ移し換えたようなものでなく情報を多層化した多重構造の電子の作れる環境が整えば全く新しい教科書を生み出すことができる。それは学校経営にも大転換を齎す可能性を秘めているが、そのためには「文科省検定」や「学習指導要領」などの『規制撤廃』が前提となる。

 灯火親しむ―の候である。今年も「紙の本」を楽しもう。