2012年12月24日月曜日

貴(あて)ということ

冬至、冬の真盛り、寒さに凍れる毎日がつづく。それでもあと二ヶ月も我慢すればわずかに残った公園の常緑樹の葉陰から「ほゝき、ほゝきい」と幼鶯の鳴き声が聞こえ出す。そして十日もすればすっかり上手になって「ほけきょう、ほけきょう」とおとな鶯の囀りに変わる、と枯れ枝にポツポツと浅緑が芽吹いて春の近づきを知る。
鶯の鳴き声を「法喜、法喜」「法華経、法華経」と表したひとがいる。折口信夫の「死者の書」にあるのだが、奈良時代の古代語を駆使し古代の習俗や古代びとのものの考え方を芯に据えて展開する物語は千三百年余の時空を超えて我々を奈良朝の雅の世界に招じ入れてくれる。
継母の持統天皇に疎まれ謀殺せられた大津皇子の霊に恋した藤原南家郎女(中将姫)が蓮の糸で皇子の衣を織り上げ俤のきみを慕いながら入水死する、というこの小説は古代がたりの文体と相まって『無比(解説・川村二郎の言)』の作品となっている。

踏み越えても這入れ相に見える石垣だが、大昔交わされた誓ひで、目に見えぬ鬼神(モノ)から、人間に到るまで、あれが形だけでもある限り、入り込まぬ事になってゐる。こんな約束が、人と鬼神(モノ)との間にあって後、村々の人は、石城(シキ)の中に、ゆったりと棲むことが出来る様になった。(新潮文庫p82)
何を仰せられまする。以前から、何一つお教へなど申したことがおざりませうか。目下の者が、目上のお方さまに、お教え申すと言うやうな考へは、神様がお聞き届けになにません。教える者は目上、ならふ者は目下、と此が、神の代からの掟でおざりまする。(同p86)
何しろ、嫋女(タワヤメ)は国の宝じやでなう。出来ることなら、人の物にはせず、神の物にしておきたいところぢやが、(同p115)
大昔から、暦は聖の与る道と考へて来た。其で、男女は唯、長老(トネ)の言ふがまゝに、時の来又去った事を教はって、村や、家の行事を進めて行くばかりであった。(同p133)
世の中になし遂げられぬものゝあると言ふことを、あて人は知らぬのであった。(同p143)
つひに一度、ものを考へた事もないのが、此国のあて人の娘であった。磨かれぬ智慧を抱いたまゝ、何も知らず思はずに、過ぎて行った幾百年、幾万の貴い女性の間に、蓮(ハチス)の花がぽっちりと、莟(つぼみ)を擡(モタ)げたやうに、物を考へることを知り初めた郎女であった。(同p95)

知ること、考えることの危うさを折口信夫は「死者の書」に込めたのだろうか。

赤ちゃん―の「赤」は何もない無垢を表している―いわば古代のあて(貴)人と同じ状態にある赤ちゃんを今の、大人の論理で虐待する親。古代の長老は「神の物」にしたいと崇めていたものを。

2012年12月17日月曜日

今こそソフトパワー(4)

  北朝鮮がミサイル実験を強行した。すると翌日中国空軍機が尖閣上空の領空を侵犯したがこれは北朝鮮にメンツを潰された中国政府が国民の批判を逸らす為に起こした示威行為とみるのが単純だが当を得ているのではないか。
経済力を背景とした中国の権威主義的な外交政策は、尖閣諸島のみならず南シナ海の領有権をめぐるフィリピン、ベトナムとの対立激化、黄海での領有権をめぐる中韓対立、更に中国と良好な関係を保っていたミャンマー政府の中国離れなど再考を迫られている。
目を国内に転ずると所得格差を表す「ジニ係数」が警戒ラインを大幅に超え社会不安につながる『危険ライン』とされる0.6も突破するという状況に至っており不満分子の暴動は年間20万件を超えている。こした影響を受けてか2013年の昇給見通しは9.5%と予測され(人事・組織コンサルティング大手ヘイコンサルティンググループによる)これは物価上昇率の約3倍にも相当する。その一方で12年7月の失業率は8.05%と高止まりしており特に都市部の大学を卒業したばかりの労働者の失業率は16.4%と超高率になっている。
国内情勢が制御可能範囲を超えるかもしれない不安を抱えているにもかかわらず2012年度の国防費は前年度比11.2%増の6702億7400万元(約8兆7000億円)と増加傾向に一向に歯止めがかからない。こうした状況は一定して日本の軍国主義復活に対する不安を提起してきた中国に同調してきた東南アジア諸国を中国に対する恐怖をかきたて逆に日本の過去の侵略被害の記憶を打ち消し日本の再軍備への支持に変化させる結果を招いている。

10月から3回にわたって中国情勢を考えてきた。勿論それは経済を中心とした『中国一斑』にすぎないが、それにもかかわらず世上喧伝されている「中国脅威説」が根拠の薄いものでありむしろ中国共産党指導部の現体制維持の枠組みが相当困難な状況にい追い込まれていることを浮き彫りにしている。
「2025年には、いずれにせよ中国共産党の76年間にわたる権力に終止符が打たれるであろう」というジャック・アタリ「21世紀の歴史」(林昌宏訳作品社)の言葉はリアリティがあるし、更に「中国の軍事力を懸念する必要はない。なぜなら、中国は本当の意味で軍事大国ではないからだ。強大な海軍、空軍を持つには程遠い(2012.9.9毎日新聞「ジャック・アタリ/時代の風」)」という彼の発言は中国軍事力の見方に従来とは全く異なる視点を与えてくれる。

国内に抱えるマグマを増す矛盾、にもかかわらず対外的に威信を示さざるを得ないことからくる抑制不能な恒常的軍事費の増加傾向、拡大するGDPと1人当たりGDPの埋めることのできない乖離。
情報化とグローバル化が加速する世界情勢の中で、14億人の人口を一党独裁で制御することがいつまで可能なのだろうか。

安倍政権の10年後20年後を見据えた冷静で賢明な外交政策を期待する。

2012年12月10日月曜日

日本語の面白さ

 流行語大賞なるものが発表になった。今年も又お笑い芸人の一発ギャグが大賞を受けた。最近強く感じるのは芸人の人気や流行が臆面もない『仕組まれた』流れになっていることだ。若い人や子供がその流れに乗って人気が出ているように装われているが、それは仲間はずれを恐れての『追従』であって『熱狂』ではない。大賞を取った芸人が翌年消えてしまうのは至極当然のことになる。

 言葉に流行り廃りがあるのは古今を問わない。例えば今普通に使っている「です、であります」は江戸時代芸者や遊女の「職場言葉」であった。それが明治維新になって山手の言葉になった、その経緯はこうである。江戸時代諸藩の下屋敷のあった山手に維新政府の官僚や役人が地方(薩長土肥など)から移り住まうようになった。当然ながら彼らは芸者遊びや郭通いをしたがそこで使われている「です、であります」を彼らの共通語にしようと考えた、何故ならそれぞれお国訛りの強い方言だったから意思の疎通に齟齬を来たしていた、それを解消するために。やがて文部省に国語調査委員会が設置され標準語が制定され「です、であります」はめでたく標準語となり、今日に及んでいる。
 以上は新潮文庫「日本語の年輪・大野晋著」からの引用だが外にこんなことも書いてある。

 「おめかし」をするとは、美しくない人も美しいようにいろいろ手を加えることである。これは平安時代の最も高い美の範疇の一つとしての位置を占めていた「なまめかしい」からきている言葉だ。「なま」という言葉は、その状態や動作が、未熟であること、いい加減或いははっきりしないということを表す言葉であった。「めかし」というのは、「物がそのもの本来の様子に見える」ということと、「ほんものではないがほんもののように見える」ということの、二つの意味を持っている。これが結合した「なまめかしい」は、本当は十分な心づかいがされているにもかかわらず未熟のように見える、さりげなく、何でもないように見える。そんな慎ましやかな美しさを表しているのである。
 平安朝の宮廷で、「貴(あて)」と並んで最高の美の一つとして「なまめかしい―なんでもないような様子をしている」が重んじられていたことで、「日本の美意識」のひとつがこの時代に確立されていたことが知れる。
 また「うつくしい」という言葉は万葉集の時代には肉親的な親密な感情を表していた。美を表す言葉は、クハシ(細)、キヨラ(清)、ウツクシ(細小)、キレイ(清潔)と変遷し今に至っている。
こうしてみると日本人の美意識は、善なるもの豊かなものに対してよりも、清なるもの、潔なるもの、細かなものと同調する傾向が強いらしい。これに対して中国では「美」が「羊」が「大」なるもの、「麗」が大きな角を二本付けた立派な「鹿」の意味から転じたことを思うと、日中の美意識の違いが際立っているのが知れよう。

日本語は面白い、だけど軽々に操るものではない。

2012年12月3日月曜日

天と地

 11月30日の2つの記事に興味を惹かれた。
ひとつは「ハズレ馬券経費に認めず」という記事。競馬で得た所得を申告せず2009年までの3年間に計約5億7千万円の脱税をしたとして大阪地検が所得税法違反の罪で会社員の男を在宅起訴した、いうもの。年収800万円の男が市販の競馬予想ソフトに独自の計算式を入力し、3年間に約28億7千万円の馬券をインターネットで購入し約30億円の配当を獲得、差し引き約1億4千万円の純儲けを得た。しかし税務当局はハズレ馬券の購入費を経費と認めず、実際の当たり馬券の購入費のみが経費だとして利益を5億7千万円と判定した。少々分り難いが、1万円づつ100点の馬券を買い内1点が当たり100倍の配当があった場合、当たり馬券の購入費1万円が費用で差し引き99万円が儲けとして課税對象になる、というのが税務署の考えらしい。当然ながら一般の競馬ファンは100万円買って100万円の配当だからトントンと考えるからその差は著しい。サテ結末はどうなるのだろう。

 もうひとつは、過労死などで従業員が労災認定を受けた企業名を開示しないのは違法だとして市民団体代表が大阪労働局に起こした「不開示決定の取り消し」を求めた訴訟で、企業名が公表されると当該企業が社会的に『ブラック企業』という不当な否定的評価を受けることがあるので「不開示決定は適法」である、という判決を大阪高裁が下したというものだ。一審の大阪地裁が下した開示を命じた判決を大阪高裁が覆したのだ。「情報公開法は法人などの正当な利益を害する恐れがあるものを不開示情報と規定する」と指摘し「脳・心疾患による死亡で労災認定されただけでは過失や法令違反があることを意味しない」のに「社会的には『過労死』=『ブラック企業』という否定的評価を受け、信用が低下し利益が害される蓋然性が認められる」というのが判決理由になっている。原告の「全国過労死を考える家族の会」は「働く人の命が使い捨てにされる現状を改善して欲しい、納得がいかない」として上告する方針を明らかにしている。
 労働者の権利のうちで「労災認定」を受けるのは最もハードルの高いものになっている。石綿事案にみるようにいくつもの困難な条件をクリアしてやっと認定にたどりつくケースの多い労災認定で、山田裁判長のいうような可能性は果たしてどんな場合なのだろうか。具体性が極めて曖昧だ。それでなくても談合やダンピング、下請けいじめなどの公正取引法違反やインサイダー取引、偽装請負など企業倫理が低下している現在、法の力点は企業よりむしろ労働者側に置かれるべきではないのか。

 年収800万円の恵まれたサラリーマンの無分別なバクチ騒ぎと不遇な労働者の過労死、何という違いか。『働く』ということをもう一度考え直してみる必要がありそうだ。
 蛇足―マスコミが大きく取り上げたのはバクチ騒動の方だった。