2013年12月30日月曜日

靖国を考える

阿部首相の不用意で突発的な靖国参拝が物議を醸している。この洞察力のなさは彼がこのまま暴走を続けるようなら命取りにもなりかねない。特定秘密保護法で50%を割り込んだ支持率が靖国で40%、来年の消費増税で35%も微妙になり、もし年央に115円以下の予期せぬ円安が出来(しゅったい)するようなことがあれば30%も割り込む危険性をはらんでいる。

さて靖国はふたつの視点から考える必要がある。ひとつは「戦没者の慰霊は善か」でありもうひとつは「靖国がそれにふさわしい施設かどうか」という視点である。更に靖国については対外的視点と国内問題としての是非の両面から検討されるべきである。

第2次世界大戦に連なる維新以来の数度の戦争で国のために命を落とされた戦没者を悼みその御霊を慰霊する行為は誰憚ることのない『善』であり、中韓も首相は当然のこと天皇の参拝に関しても78年のA級戦犯合祀までは無関心であった。
問題は『靖国』にある。明治2年(1869)に明治政府が戊辰戦争の戦没者慰霊のために建立した「東京鎮魂社」が、その後幾度も『正統性』について検証の機会がありながら今日まで我国戦没者慰霊の唯一の施設として有り続けたことが今日の靖国問題の根本である。明治政府を形成した「尊王倒幕」勢力は「廃仏毀釈」という文化破壊を通じて「神道」を『国教』に準じる地位に位置づけた。2001年のターリバンによるアフガニスタンのバーミヤン仏教遺跡の破壊は世界的な批判を浴びた『蛮行』であったが廃仏毀釈はそれ以上の文化破壊であった。その象徴的存在が「靖国」であり、戦前陸海軍両省の共同管理により国家神道の精神的支柱にまで登りつめた。そして戦後1978年、当時の宮司の独断でA級戦犯の合祀を強行し今日に及んでいる。A級戦犯は先の戦争の主導的戦争責任者であり、72年日中国交正常化時の「日本の戦略戦争は一部の軍国主義者によるもので一般の日本国民は被害者である」とした中国の国内向けの説得の基盤となる存在であるから、日本の政治指導者たる首相が「公式参拝」すれば戦争責任に対する暗黙の了解事項が揺らぎかねないことになる。また本年10月3日ケリー米国務長官とヘーゲル米国防長官が来日した際、東京の「千鳥ケ淵戦没者墓苑」を訪れ献花したこともこうした日中の戦没者慰霊に関する了解事項を考慮したものとして象徴的である。更に天皇の参拝が75年以降途絶えていることも「靖国」の正統性について重大な影響を与えている。
靖国を最も保護し庇護する保守系右派の人たちはこの天皇不参拝をどう説明するのだろうか。

靖国についてのもうひとつの視点―国内的事情を考えてみると国内には仏教を始めキリスト教など多くの宗教が存在し信者がいる。当然戦没者にも神道以外の宗教を信仰していた人も少なくない。戦没者でありながら西郷隆盛など時の政府にとって反対勢力とみなされた人々も祀られていない。合祀の問題も含めて「靖国」が『我国の戦没者慰霊施設として適格かどうか』という正統性については大いに疑問がある。
我が国の要人が米国アーリントン墓地へ献花するように外国の国賓や要人が我が国戦没者への慰霊と献花を何の蟠りもなく行える施設を建立すべきであり、それは同時にわが国国民の総意に基く施設でなければならない。そのような施設を造ることができれば保守系右派の人たちの精神的支柱である天皇も安心して参拝できる施設になるはずである。


「明治維新」についてもこの辺りできちんと評価するべき時期に来ているのではないか。廃仏毀釈は当然のことながら、150年近くの間営々と進めてきた「近代化=西欧化・米国化」はオーム真理教地下鉄サリン事件と3.11東日本大震災・福島原発事故で決定的に否定されたのであり、リーマンショックによる金融危機は米国式資本主義・民主主義の終焉を告げていることを銘記するべきである。

2013年12月23日月曜日

便利さと贅沢

 最近ショックなことが三つあった。「グルチャ殺人事件」「ヘリコプター配送」そして「日本語では無理だと思ってフランス語訳の『好色一代男』を買った」という女性のはなしである。

 グルチャというのは今はやりのLINEのアプリで、決められたグループ内でチャットするものだが中・高校生の間で爆発的に流行しているという。メールを開くと即時それが送信側に分かるようになっているため送られた方はスグ返信しないと「無視」ととられることが多い。そのため参加しているメンバーが多くなると絶えず送信―返信を繰り返す必要があり、勉強や健康にも影響が出ているらしい。7月新聞を賑わした「広島16歳少女殺人事件」はこのグルチャが原因だった。16歳の少女同士がチャットで「殺す」「死ね」と興奮してやり取りするのに10人近いメンバーが加勢し、バーチャル世界のはずがいつの間にかリアルに転換、仲間はずれされた少女が山中に呼び出されて集団暴行を受け、殺人―死体遺棄事件にまで進展した。我々世代には理解の及ばない世界だが、思春期の多感で敏感な『極めて視野の狭い』年代の子供たちは親などグループ外の人とのコミュニケーションから隔絶されると、簡単に仲間はずれ、イジメ、暴行に走る危険性が高いと専門家は伝えている。
ヘリコプター配送は、インターネット小売り最大手の米アマゾン・ドット・コムが小型無人ヘリコプターを利用して商品を配送する計画をしている、というのだ。注文から配送まで30分以内を目指し2015年にサービスを始められるようにしたいとしている。ヘリコプターは最大2.3キログラム程度の荷物を運ぶことができ、同社が扱う商品の86%が対象になって物流センターから10マイル(約16キロメートル)以内に住む利用者を対象にするという。
最後の「好色一代男」をフランス語訳で買ったというのは中村真一郎の小説「仮面と欲望」の中の話なのだが、決してありえないことではない。それというのも最近は樋口一葉や二葉亭四迷は勿論のこと森鴎外や漱石までもが現代語訳が出るご時世になっているから、小説の女主人公のようにハーフのインテリでフランス語が堪能なら原文(日本語の古文)は読めなくてもフランス語訳で「好色一代男」を楽しむという選択肢は十分あり得る話である。

この三つの出来事或いは事件に共通しているのは「便利さと引き換えに何かを失っている」ことを誰も指摘していないことだ。グルチャについて言えば、文字特に『日本語の書き言葉』という極めて不完全な道具を使いこなすための学習をなおざりにして、短文で会話が成立すると仮定したグルチャというツールをインターネット上に解放している『危うさ』を誰も批判しない。ヘリコプター配送についていえば、今でもネット通販はほとんど翌日配達が常態化しているのにそれ以上の『早さ』が何故必要なのか。大資本の圧倒的な物量と組織力で街の商店はシャッター商店街へ追い詰められているのに…。フランス語訳で日本の古典を読む話は、我国国語教育の根本的な欠陥の結果であり、このままでは母国語でさえ深く考えることができないために―英語では十分な思索などできるはずもなく―『理解力』と『創造力』の決定的に劣った人間ばかりになってグローバル化する世界の中で競争にもならない『劣化国家』に落ちぶれてしまうに違いない。
便利さを無批判に追求した究極こそ『原発』ではないのか。もういい加減に「便利さ」「効率性」一辺倒の選択から脱却しようではないか。

最近私は近所の書店で本を買うようにしている。インターネットでなく大型書店で実物を手にとって買っていたが近所の書店をこれ以上減らさないためにささやかな貢献をしようと思ってである。本の届くのに2、3日かかるがそれ位の我慢は何でもない。

晴れた日曜日の昼下がり、フラッと近所の書店へ行って文庫本でも買って、行きつけの喫茶店でパラパラと斜め読みする『贅沢』を失いたくないからである。

2013年12月16日月曜日

日本昔ばなし

先日行きつけの喫茶店でこんな話を聞いた。5歳の孫を預けられた女性が「おばあちゃん、何か他にないの?」と今風のマンガCDを見終わった孫にせがまれて「日本昔ばなし」を見せようとした。「こんなんイヤや」と最初は興味を示さなかったがものの数分もしないうちに黙々と見るようになって、気がつくと3時間近くも経っていたという。
今風の動画のマンガは画面が細密で色彩も豊かだしストーリー展開にスピード感があるから子どもにとって魅力的なのだろう。しかしそれは「受身の楽しさ」で、一方的に与えられる面白さを経験しているのだと思う。ところが「日本昔ばなし」は古臭い絵柄で色彩も単調、話の内容も徳目(道徳)をテーマにした単純なものだ。徳目は日頃大人たち―両親や先生それにキビシイおばあちゃん―に口やかましく躾けられたが素直に納得できないでいたもの、それがお話でゆっくり語りかけられると心の中で会話が発生し自問自答しているうちにすーっと理解できるようになった。日頃の疑問が解けてみると今まで退屈だったものが結構面白い。そこで次のお話次のお話と見たくなったというのが真相ではないか。押し付けでなく双方向の会話を経て納得できたことがスムースな受け入れにつながったに違いない。
大体道徳などというものは「移ろいやすい」ものだ。50年ほど前『清貧』という言葉があったが今や死語に近い。不正をして贅沢をするよりもひとに迷惑をかけずつましく貧しさに甘んじて生きる方が『美徳』である、という時代があった。でも時代の都合に合わないものはいくら押付けようとして受け入れられなくなってしまう運命にあるのだ。

今月2日文科省の有識者会議が、現在正式教科でない小中学校の「道徳の時間」を「特別の教科(仮称)」に格上げし、検定教科書の使用を求める報告書をまとめた。文科省は中教審の議論を踏まえて2015年度の教科化を目指す、という小さな記事が目に付いた。ニーチェが「あることが〈善い〉とか〈悪い〉とか言う評価はその価値判断を語る者を分析しないと意味がない」と言っているが、特定秘密保護法といい安倍首相は一体何を目指しているのだろう。もし戦前の「儒教的道徳」を教科として教えることで今の我国に国民的アイデンティティを植え付けようとしているのだとしたら大変な誤解をしている。戦前の道徳教育が効果を発揮したのは教科単独の成果ではない。家父長制という家族制度があったうえに儒教思想を漢詩や論語など文化として日常的に受け入れる環境があった。娯楽も今ほど多くなく、映画(芸術作品は別にして)、歌舞伎や文楽、浪花節でもすべて儒教的色彩の濃いものだった。諸々のものが相乗的に作用して「道徳」が教科として成立していたのだ。こうした事情を安倍首相はまったく考慮していない。

安倍首相はグローバル化の時勢を捉えてTPP交渉に精力的に取組み英語教育を小学校の早い時期に繰り上げる試みも進めている。一方で武田薬品工業の次期社長が始めて外国人になり世界的に大企業の多くが「タックスヘイブン」を求めて無国籍化しているという一連の傾向もありグローバル化のもとでは「国民国家」という枠組みが最早成立しないという時代の趨勢を表している。
特定秘密保護法や道徳教育の制度化をTPP交渉や英語教育の早期化・充実化と同時に進めようとしている安倍首相は混乱しているし矛盾している。それは時代認識の洞察が浅いことと国家経営の哲学が定まっていないことに起因しているからに他ならない。

フーコーは「これまでの権力は『排除する』『抑圧する』『隠蔽する』『取り締まる』などの否定的な用語で考えられてきた」と語っているが、特定秘密保護法はまさに古い権力むき出しの法律である。

直近の共同通信の世論調査で安倍内閣の支持率がはじめて50%を割り込んで内閣成立以来最低になったという。改めて言おう、「自民党よ、驕る勿れ!」と。

2013年12月9日月曜日

仮面と欲望

 「もしその使い方を知るなら、老年(セネックス)は快楽に満ちている(p282)」というセネカの言葉で終わる中村真一郎の「仮面と欲望(中央公論社)」を読んだ。南欧の女優と日本人男性とのハーフである60歳の女性と70歳で現役国際経済コンサルタントの男性の恋愛を往復書簡形式で書き綴ったこの作品は「愛のなかの性、セックスのなかの愛、現代日本文学がはじめて描きえた崇高で過激なポルノグラフィー」である。(この小説が作者74歳の作品であるように川端康成の「眠れる美女」、谷崎潤一郎の「鍵」「瘋癲老人日記」など何故か我国の文学者は老年期に過激な性描写のある名作を書いている。興味ある傾向ではある)。

 読み始めてスグ「未経験の少年は、若い同年輩の娘と性的交渉を持つことには、ぼく自身も経験があるんだが、何か本能的タブーを感じ(p117)」という件に出会ったとき、性欲の暴発を持て余しながらもプラトニックな恋に終わった我が青春の懊悩を懐かしく思い出された。
 この小説はポルノグラフィーだがこんな記述も随所にある。
本当の勇気は必要に応じて臆病にもなれる人のものなのかも知れません(p174)。
「二人の夫を持つ妻」という、(略)離婚をしないカトリックの国のラテン型の女性のあいだではありふれた生き方なのかしら(p147)。
これは近代の日本人に宗教的習慣が失われ、自分の行為を、一定期間をおいて、反省するために瞑想する、というようなことがなくなり、又、神または仏が自分を見ているという、外から強制的に良心を監視するものの存在を意識しなくなったこととも関係があるのでしょうが(p242)、

だが何といってもこの小説の魅力は上質な官能描写にある。
まず最初に報告しておきますが、ぼくは七十歳を過ぎて、ようやく女性の乳房の美しさに気が付きました。その形、その柔らかさと硬さ、その息づかい、乳首が頭をもたげて行く動きの微妙さ、その色の夕空の刻々の移り行きに似た変化など。/これは、ぼくの欲望がようやく沈潜し、愛の行為のさなかでも、幾分かの冷静さを保てるようになった証拠でしょう(p269)。
相手の女性―妻であれ恋人であれ―を心から愛おしみ丁寧に触れ合って歳月を重ねた男性のみが感じ取れる発見であり、「生活という日常」に埋没しないためにこうした『発見』を積み重ねる賢明さを備えたカップルだけに与えられる豊穣な歓びである。
そして作者は最後に老年期の心得もちゃんと用意している。「尤も七十歳のぼくにとって、このあなたの乳房に触れながら、浅い眠りのなかを意識の徨っている状態は、あるいは近い死の前触れ、あの世の生活の予行演習のようなものかとも思われます。死との和解の感情は老年を自ら受け入れる心の傾向でしょうか。/一方で、この頃、時々、ぼくがいきなり引きずりこまれる、あの暗黒の地獄の意識も、また死の予徴でしょうか。この平和と、この孤独との、老人特有の精神現象が、古代の人類に、天国と地獄という、彼岸のふたつの領域を夢見させたに違いありません(p270)」。

主人公の男性は70歳である。しかし現在の我国ではまだまだ『若輩』であり今後の可能性も少なくない。そこで北斎の次の言葉をはなむけにしてこのカップルのこれからの幸せを祈ろう、勿論現実の我々への励みとしても。

自分は6歳から物の形を写す癖があった。50歳から多数絵図を描いてきたが、70歳までのものは取るに足らず、73歳でやや生き物や植物のことが分かり、さらに研鑽し、90歳で奥義をきわめ、100歳で神の域、それを越えて描く一点一画はまさに生きているものであろう。長生きの人は私の言葉が妄言でないことをどうか見届けてほしい。

2013年12月2日月曜日

〝老人科〟が必要なわけ

「〈正常〉を救え」という本が精神科医の間で話題になっている。過剰診療、過剰投与で本来正常な患者を異常に導入してしまう精神科の現状への警告の書であるらしい。しかしこれは何も精神科に限った現象ではなく我国医療界全体を覆っている悪弊ではないのか。「とにかく病名を付けて、検査し、投薬し、手術する」『出来高払い』のシステムでは利益至上主義にはしる経営者は畢竟「過剰診療、過剰投与」による診療報酬の極大化を図って当然である。

 ここ数年、高齢者の健康と病について考えるようになって現在の西洋医学中心の我国医療制度は高齢者医療には根本的に適していないのではないかと思うようになった。
老人の持っている肉体的衰え、惚けというか精神的衰えは、どちらも単独ではないんです。精神科の医師に言わせれば、老人はみんな精神的に病んでいる。その病は精神的な衰えなのか、肉体的な衰えなのか判断しにくい。逆に言うと、老人の病気あるいは病的な状態や肉体的な衰えの治療は、整形外科的な療法でも精神的な療法のどちらでもいいんです(吉本隆明著「老いの超え方」朝日新聞社刊より)。
 吉本のこの言葉は老人の体験を重ねた人の貴重な実感だが、医者ではないからたまたま整形外科と精神科を持ち出しているだけで、要は今の極端に分科し専門科した西洋医学では老人の病に対応できないということを言いたかったのだと思う。

 「とにかく病名を付ける」という作業は「分類」であろう。しかし複雑化し多様化した現在の文明段階では「分類」という古典的な手法に馴染まない現実も多く発生している。そうした傾向が経済や政治の世界で起こると既存の経済学や政治学で対応しきれないで『混乱』し、「非伝統的手法」の「量的金融緩和」となり「出口戦略」を見出せずに漂流する結果となったり、原子力発電は「廃棄物処理方法」のないまま見切り発車して10万年後の人類に「負の負担」を背負い込ませる愚行となる。
古典主義の学問は、存在と理性のこの一致の確信から、生命をくみあげていた。(略)存在するものは分類できるし、分類は理性の働きである。古典主義の学問では、分類や図式化をとおして、存在と理性とがはっきりと結び合っていた。(略)生命の力は、「機能」という、これまた目に見えない力のアレンジメントをとおして、知覚と行動のパターンとなって、表にあらわれてくる。しかし、それ自体はかたちももたず、生存の意志となって、生命体を突き動かしている。分類する能力にたけた、古典的博物学の理性には、この不気味な力をとらえることはできなかった。生命の学は、新しいタイプの知性を必要としていた。こうして、古い博物学の壮大な体系を食い破って、その中から、近代の生物学が誕生してきたのである(「森のバロック」中沢新一著・講談社学術文庫より)。

 我国の平均寿命が男女共に70歳を超えたのは1971年、75歳を超えたのは1986年であるから本当の意味での高齢社会はせいぜい3040年に過ぎない。高齢者の医療にたづさわってきた医療現場の医師たちがこれまでの「専門化した医療体系」では対処しきれないと感じたとしても「老人科」ができるには時期尚早かもしれない。しかしそれにしても「高齢者医療を新たな総合的診療科」として学際的に捉えようという取組みはほとんど進捗していない。そしてそのことが高齢者医療費の高騰を招いているにもかかわらず、である。


 「自然というものは、広大無辺のもので、その中から科学の方法に適した現象を抜き出して調べる。それでそういう方法に適した面が発達するのである(「科学の方法」岩波新書)」という中谷宇吉郎が警告した『科学の限界』が半世紀以上経った今でも医学界に厳然と『岩盤』として存在している。規制改革の必要性の説かれる所以である。

2013年11月25日月曜日

グリード(強欲)

「人間の権力に対する闘いは、忘却に対する記憶の闘いだ(「小説の経験・大江健三郎著(朝日文芸文庫)より」。これはチェコ生れのフランスの作家ミラン・クンデラの英訳から大江氏が引用した言葉だが、今、国会で紛糾している「特定秘密情報保護法」の公開解禁期限を60年とする案はクンデラのいう「人間の権力に対する闘い」を蔑ろにしている。政府のいう「防衛と外交」の情報を国益のために秘密情報として保護することをたとえ『是』とするにしても、その情報が保護された当時疑問を感じ蟠りを抱いて情報公開後に権力側を糾弾し『正義と公正』を実現するために辛抱強く『闘い』を継続しようとする『国民の権利』を抹殺してしまうおそれがある。何故なら例え当時30歳代だったとしても60年という期間は人間の生命の限界を超えることが多いから「忘却に対する記憶の闘い」を実現する可能性を極めて低くしてしまうからだ。
 アベノミクスの影に潜んでいると懸念されていた安倍政権の右傾化への『危険な疑惑』が不意打ち的に「あぶりだされる」傾向が急速に露呈している。再度云う、「自民党よ、驕るなかれ!」と。

 アメリカの株高が続いている。先週は一時16000ドルを超え史上最高値をつけたが『バブル』が懸念される。失業率はFRBの目標値を上回って高止まりしているうえ消費支出も弱含んだままでありファンダメンタルズが株高の裏付けとなる数値に至っていない。FRBの次期議長がQE3(量的金融緩和)を当面縮小しないというメッセージを発信したことを市場が好感して「消去法的」にアメリカ株が買われているに過ぎない。EU危機はいまだ解決の目処が立たず新興国経済は減速したまま、日本もデフレ脱却に確実な一歩を踏み出したとはとても言えない状況。このような沈滞した世界経済の中でシェールガス革命などもあって国内回帰が進む製造業にわずかな光明が見えるアメリカ経済が唯一好材料と取られた結果の株高。いつ底割れしても不思議はない。
 ほんの少し前まで、新興国経済が先進国経済―とりわけアメリカ経済の減速には影響されず独立して成長を続け世界経済を牽引するだろうと「デカップリング」論がもてはやされていたが、僅か数年でそれが「幻想」であったことを思い知らされている。そもそも新興国経済は人口ボーナスを梃子としてこれまで先進国が辿ったような順調な成長が可能なのだろうか。
 20世紀、世界経済のプレーヤーは極端に言えば日本を含めてたかだか7~8ヶ国でありその限られた数カ国が世界の資源とエネルギーを使いたいだけ使うことができた、環境問題を気にせずに。ところが今、プレーヤーはG20まで膨らみ更に増加すること必至である。限られた資源を20ヶ国以上がしのぎを削って奪い合う状況は「先進7~8ヶ国の独占時代」とは様相を全く異にしている。たとえ人口ボーナスがあったとしても先進国独占時代と同様の成長を謳歌することを望むのは無理なのではないか。
 先進国の成長は民主主義、資本主義、法の支配、市民社会といった制度が繁栄を支えてきた、といわれている(しかしそれも資源とエネルギーの制約がなかったことを割り引いて考える必要がある)。先進国が200年~400年かかって構築したそれら制度を、新興国が40年足らずで後追いして、成長のための制度として使いこなすことが可能なのだろうか。

 ニーアル・ファーガソンは「劣化国家」という著作で新興国が先進国との格差を急速に解消し中国やインドがアメリカを追い越すであろうという「大いなる再収斂」に関して制度的制約から疑問を呈している。又歴史学者川北稔は「資源・エネルギーの制約が持続的成長を前提とした世界経済に根本的な転換を促しているのではないか(25.11.20日経・夕刊P18「世界資本主義の行方」より)」と警鐘を鳴らしている。


 グローバル化という世界史的パラダイムシフトを過去の延長線上に引き据える、先進国に都合のいい考え方は根本的に修正を求められている。

2013年11月18日月曜日

人生後期と読書

小説を読む楽しみの最大のものは、やはりいかにも長い小説を読みとおすということであるように思います。(略)(源氏物語に挑戦して読み終えたとき)人生の大切な出来事がひとつ終わったという気持ちになったものです(「小説の経験・朝日文芸文庫」より)。
 
これは大江健三郎の言葉だが私も今年はじめてこの「楽しみ・よろこび」を経験することができた。中村真一郎の「頼山陽とその時代」を読破したのだ。A5版細字上下2段組み本文総頁数644頁の大部なものだがこれは小説ではなく頼山陽についての評伝風エッセーで彼の成長の過程と著述(「日本外史」など)とを編年体で語りつつ、師友や弟子たちの「漢詩」をアンソロジー的に網羅した大作である。もしここ6~7年の漢詩と古文の読書歴が無ければとても手に負えない難物であった。
60歳を過ぎて今までのような乱読を改め系統立てて読書をしようと思い立ち、振り返ってみて「森鴎外」を余りに読んでいないのに気づき鴎外から始めた。そして何故か「西行」を古典のとっかかりにした。漢詩は岩波文庫で始めたが当時NHKで放映されていた「漢詩紀行」を見、司会の「石川忠久」を知りNHKライブラリーにある彼の「漢詩をよむシリーズ」を読んで一挙に親しむことができた。漢詩に限らず新分野に挑戦するとき入門書と自分に適したシリーズ(全集)というものが必要で私の場合は日本の古典は「小学館・新版日本古典文学全集」が読みやすく「光文社・古典新訳文庫」が無ければカントやニーチェは理解することなしに人生を終えたに違いない。同様に「万葉秀歌・斎藤茂吉著(岩波新書)」という名著を読まなかったら万葉集の面白さを知るのがもっと遅くなっていただろうし万葉集になじめたことがその後の古典への興味を促してくれた。入門書とは別に優れた「書評集」を知ることは「悪書」に冒されない最善策であり「快楽としての読書・海外篇・丸谷才一著(ちくま文庫)」は私の偏った読書領域を限りなく広げてくれた。
このような過程を経て永井荷風の「下谷叢話」に至り相当手古摺りながらも読みきったことが一つの転機となった。これは荷風の外祖父鷲津毅堂や大窪詩仏、大沼沈山といった江戸後期漢詩人たちの群像を鴎外の史伝に倣って描いたものだがこの作品がなければ「頼山陽と…」に行き着くことはなかった。荷風と中村の作品に接することで江戸後期の漢詩人たちの作品の完成度の高さと同胞故の微妙な感情の一致―李杜に代表される中国の漢詩とは趣を異にする―を知り併せてこの時代の文化が西欧のそれと比較して何ら遜色のない程度にまで発展していたことを思い知らされる発端となった。同時にそれは60歳を過ぎてからの読書の総決算として「明治維新」の再評価に繋がり、今日に及ぶ「西欧化」への根本的な疑問を抱かせる契機に転じることになった。

人生後期における読書については「小説の経験」にある次の二人の言葉が心に残っている。「そこ(これまでのキャリア)に、照らしあわせながら、あらためて文学の基本的なそれも大切なところを押さえた眺めを、新しい心と感覚でたどってみたい。そうすることで自分の隠退後の人生の必要なものをかちとりうるような気がする」。外交官だった友人が隠退するに際して「文学再入門」を大江さんに頼んだ時の言葉だが障害児を抱えながら懸命に生きてきた主婦の次の言葉も印象的だ。「子供の世話にかまけてなにも深いことは考えず、追い立てられるようにして生きてくるうちに、それでも不思議なことですけど、いまならトルストイのことがよくわかるのじゃないか、それだけの心と身体の経験はかさねているのじゃないか、という気がしますから……」。
「頼山陽と…」を読んだことが弾みになって、発刊当時の「読みたい」がそのうち「読まねばならない」に変わり30年以上宿題になっていた小林秀雄の「本居宣長」を読むことができたのも大きな収穫であった。「やまと心」と「ものの哀れ」を「古事記伝」と「紫文要領」などを通じて説き起こした本居宣長を描いた小林畢生の名作は「究極の言語論」であり今後の私の読書と思索に最大限の影響を与えるものに違いないがこれについてはおいおい触れていきたい。


隠退後の人生の必要なもの、を、いまならよくわかるだけの心と身体の経験をかさねている「老いたる人たち」に読んで欲しい。今日を「終わりの始まり」として。

2013年11月11日月曜日

食育

 先のコラムで株式市場の久し振りの活況(2兆円超)をアベノミクスの成長戦略に関する市場の評価の表れではないかと書いた。ところが先週続々と期待を裏切る政府の姿勢が報道され市況は一挙に冷え込み7日(木)には1兆7千億円を割り込んでしまった。直接の引き金は「薬(一般用医薬品・大衆薬)ネット販売」の規制緩和に逆行する禁止・制限を柱とする新たなルールの発表だったろうが、それ以外にも「コメの減反補助金の支給對象をプロ農家に絞る方向が一転全農家に配る方針に転換しそう」や会計検査院の「12年度決算の税金のムダ遣い過去3番目の4900億円」など財政規律の緩みを示す発表もあった。「国家公務員給与の平均約7.8%減額特例措置の14年度以降へ延長しない方針」などは財政規律の緩み以外の何物でもなく国民感情を顧みない愚挙と批判を浴びること必至だろうし、最高裁判決に基づく「婚外子の資産相続に関する格差規定を削除する民法改正」も見送られそうな情勢、「1票の格差是正」を命じた最高裁判決に対する姿勢も三権分立を蔑ろにしていると見られても仕方ない対処が続いている。これでは既得権益層を護送する「古い自民党」への後退と受け取られても致し方なく市場が見放す結果となるのも当然である。
 「自民党よ驕るなかれ!」、という国民の批判は地方選挙からじわじわと表れるに違いない。

 子どもたちが豊かな人間性をはぐくみ、生きる力を身に付けていくためには、何よりも「食」が重要である。今、改めて、食育を、生きる上での基本であって、知育、徳育及び体育の基礎となるべきものと位置付けるとともに、様々な経験を通じて「食」に関する知識と「食」を選択する力を習得し、健全な食生活を実践することができる人間を育てる食育を推進することが求められている。もとより、食育はあらゆる世代の国民に必要なものであるが、子どもたちに対する食育は、心身の成長及び人格の形成に大きな影響を及ぼし、生涯にわたって健全な心と身体を培い豊かな人間性をはぐくんでいく基礎となるものである。
 これは平成17年に施行された「食育基本法」の前文からの引用である。「『食』に関する知識と『食』を選択する力を習得し、健全な食生活を実践することができる人間を育て」という行文は今世情を賑わせている「メニュー偽装」騒動への警鐘そのものではないか。

 30年ほど前「中食」という新語が生まれた。私の先輩の造語なのだが、それまで外食と内食(家庭での普通の食事)という言葉はあったが既に一般化していたデパ地下や惣菜屋さんでおかずや弁当を買って帰って家で食する習慣に対応する言葉が無かったのを上手く表現したものとしてマスコミに重宝された。その後バブルが崩壊し低価格を売りものとする外食産業の隆盛を迎え「内、中、外」食の区別や食生活全般が混乱した状態で今日に至り、行き着いたところが「メニュー偽装」となってしまった。
平均的な4人家族の可処分所得を300万円としエンゲル係数を20%として1日当たりの食費を算出すると約1700円になる。普段の食事を倹約して週に1度の外食を想定するとセイゼイ1000円から1300円が1人の予算になるが回転寿司やファミレスの価格設定はズバリこれに当てはまり飛躍的な成長の原因をうかがい知ることができる。しかしそれはあくまでも内食の延長として捉えられるべきもので、奥様方のホテルランチはヘソ繰りを足さないと無理なランクになる。いずれにしても一昔前、我々が「ご馳走」と呼んでいた本物の食材をふんだんに使った「ハレの食事としての外食」には予算がかなり不足している。メニュー偽装は起こるべくして起こったものかもしれない。


子供たちが学校で食育を学習する環境を大人は整える責任がある。内食、中食と外食のメリハリを付ける食習慣こそ「健全な食生活」の第一歩なのではないか。

2013年11月4日月曜日

年金生活者と「隠れた負担」

  9月初旬から低迷(売買高が2兆円以下)が続いていた株式市場が昨週水曜日から3日連続2兆円を超す活況を呈した。これはアベノミクスの成長戦略如何を静観していた投資家が一応の評価を与えた結果と読んでいいかもしれない。とすれば安倍首相の長期安定政権の可能性は高く、来年4月には消費税は8%に、再来年10月には10%に増税されるのはほぼ確実だし、アベノミクスが順調に進めばその頃には物価は2%程度に上昇しているに違いない。ということは今の収入から7%近く可処分所得が減ることを覚悟する必要がある。これは年金生活者には相当キツイ現実である。
 先のコラムで農作物重要5項目の関税障壁による「隠れた負担」が1人当り年間2万4千円になることを示したが、国民年金だけの夫婦2人の高齢者世帯には年金支給月額約5万4千円のほぼ1ヶ月分に当たるから生易しい負担ではない。エンゲル係数(消費支出に占める食費の割合)は高齢者ほど高く70歳以上世帯では26%超を占めておりこれは50代までの平均(21.5%程度)に比べると5%も高いから食料品の「隠れた負担」は高齢者には極めてキビシイ負担になる。加えて消費支出のうち食料品や水道光熱費などの「基礎的支出」の割合が高齢者の場合70%近くあって節約の余地が少ないから余計「隠れた負担」の影響は大きい(ちなみに50代までの基礎的支出は50%以下である)。基礎的支出には食料費、水道光熱費のほか住居費や医療費、交通・通信など規制の強い分野の支出が多いから「隠れた負担」は農作物重要5項目による2万4千円を超えていることは間違いない。
 景気が良くなっても収入の増えることが期待できない高齢者は「隠れた負担」をキビシク監視する必要がある。

 ホテルのメニュー偽装も「隠れた負担」と言えないか。名門と謳われたホテルが長年にわたって客を欺いてきたのだから許せない裏切りだが我々消費者に問題はないだろうか。
 偽装を詳しく見ると①産地偽装(九条ねぎ、津軽地鶏、沖縄まーさん豚)②料理法や食材の偽装(手捏ねハンバーグ、自家菜園野菜)に大別できそうだ。また食材とは別に「苺とチョコのシュー・ア・ラ・モード手作りチョコソースと合わせて」とか「レトワール風オードブル ホテル菜園の無農薬サラダを添えて」などという過剰な修飾コピーも目立っている。
 
 人間誰しも飢えは苦しい、飢えがしのげたら美味しいものが食べたいと思うし舌が肥えたら有名な店の上等なものが食べたくなるのは人情だ。しかし根底には「食べ物は粗末にしてはならない、勿体無い」という規範があるはずだ。今回の騒動にこうした素朴な食に対する欲望や規範は働いているだろうか、そう問い掛けをしてみると次元が全く異なったところで動いているような気がする。
 旨いかどうかは自分の舌で判断するものだ。ところが今回の騒動はどうもそうではないような気配を感じる。ブランド食材と職人技を思わせる調理法や耳障りのいいキャッチコピーは「旨さを強制」する装置だし消費者はそれによって「旨さの付加価値の保証」が提示されたように受け取っているフシがある。舌で判断する前に提供するホテル側に「保証書」の提示を求めることで安心している。裏返して言えば「自分の舌」に自信がないとも言える。
 こう考えてくると今回の騒動はホテル側も消費者の方も「食べ物を粗末にした」結果ではないかと思えてくる。どんな有名店のメニューでも自分の舌で味わい評価してこそ「食への畏敬と憧憬」があると言えるし、提供側は「食べ物で欺く」という「不遜な態度」では「食に従事するもののプライド」など微塵もないと批判されても反論できまい。

 偽装されたメニューも間違いなく「隠された負担」である。監視の目が離せない。

2013年10月28日月曜日

入(い)るを計って出(いず)るを制す(2)

  10月14日のコラムで関税障壁が国内価格を不当に高止まりさせその負担が実質的に給与を低くしていると書いたが、この件について10月21日付日本経済新聞が特集記事を書いていた。それによると「聖域の農作物重要5項目」で家計の「隠れた負担」が1人当り年間2万4千円に上り4人家族なら9万6千円余りになると試算している。5項目とは「コメ、小麦、砂糖、牛肉豚肉、牛乳・乳製品」で消費税率の3%引き上げによる1世帯(年収800万円未満)の負担増が5~9万円だから「隠れた負担」の方が多いことになる。TPP問題に対する視点をこれまでのような「生産者視点」ばかりでなく「消費者視点」も加えて総合的に判断し国として利益が最大になるような交渉を進めるべきで、産業保護はその後別途考慮したらよい。デフレ脱却には家計の所得増大が必須の条件であり、我国喫緊の課題は何をおいても「デフレ脱却」にあることを国民全体で共有すべきである。

同じコラムで医療費にも触れた。これについても日経が「消費増税と医療・年金改革 ③医療費40兆円時代(25.10.23)」で傾聴すべき記事を書いており、医療費膨張を①イノベーション②高齢者数の増大の2大要因に集約して危機的状況を詳述している。
病院へ行って気づくのは再診料は大概500円程度(1割負担)なのに検査が入ると一挙に2000円1万円と跳ね上がる事だ。結局医療費が高いのは「検査料」と「薬代」なんだというのが実感である。この実感に医療費問題を解く鍵があるように思う。
医療機器産業と製薬産業は巨大産業である。あの世界のGEが経営危機から脱するのに医療機器に活路を求めたことを見てもそれは明らかだろう(ちなみに2012年のGE売上高に占める医療機器は12.3%約1.8兆円である)。30年前までは検査といってもレントゲンと血液検査程度で超音波が珍しかった。それが今ではCTもMRIも普通になり機器の進歩は止まるところがない。問題はそれを医療現場がどんな『思想』でどこまで採用するかということである。とりわけ高齢者医療との関係は重要になってくると思う。

今『思想』という言葉を使ったが高齢者医療はもはや『思想』の問題であり根本的な発想転換が求められているのではないか。それについては吉本隆明の次の言葉が示唆に富んでいる。「老人の持っている肉体的衰え、惚けというか精神的衰えは、どちらも単独ではないんです。精神科の医師に言わせれば、老人はみんな精神的に病んでいる。その病は精神的な衰えなのか、肉体的な衰えなのか判断しにくい。逆に言うと、老人の病気あるいは病的な状態や肉体的な衰えの治療は、整形外科的な療法でも精神的な療法のどちらでもいいんです(老いの超え方・朝日新聞刊)」。
最近テニス肘の治療で鍼灸整骨院のマッサージを受けて考えさせられた。病院の「3分間診療」に比べてこちらは最低でも15分から20分は施療が受けられ、その間治療のことから愚痴、自慢話まで辛抱強く患者に接してくれる。吉本の言に従えば老人の病には少なからず精神的な要素が絡まっているとみて間違いないことになるが我国の医療体系はそのような「高齢者の病」に対応しきれていない。それに対して接骨院は高齢者のニーズに可なり応えているようで、もし病院へ行けば検査なども含めて相当な医療費が発生するかもしれない「高齢者の病」を150円(1回の受診料)で済ませてくれていると見てもいい側面が強くある。最近整形外科学会が中心になって接骨院の健康保険「受領委任」請求を違法とし接骨院でのマッサージの健康保険適用除外を求める動きがあるが、マッサージを受けている高齢者が病院や診療所に移ればどれ程の『医療費膨張』に繋がるか彼らは考えたことがあるのだろうか。

極めて専門的に分化した西洋医学中心の我国の医療体系は高齢者医療に適しておらず、家庭医療専門医問題も含めて再考するべきだと思う。

2013年10月21日月曜日

アメリカ流グローバル化の限界

 ドヴォルザークのアメリカを描いた「新世界」は最もポピュラーなクラシックであるが19世紀、旧時代の因習―既得権者(教会など)を保護する規制でがんじがらめにされていた西欧社会から見れば米国はまさしく新世界だったろう。旧世界とのしがらみが一切ない新大陸で一から自らの手で築き上げる米国は「民主主義と資本主義の実験場」として格好の新天地だった。二つの世界大戦を経て繁栄を謳歌した米国は唯一の基軸国として世界の経済と文化をリードしてきた。それは民主主義と資本主義の最も成功した証(あか)しであり『米国流』はグローバル化の奔流となって21世紀の世界を席捲した。
 ところが今、その米国で民主主義が機能不全に陥っている。米政府の債務上限引き上げ問題をめぐって民主党共和党両党が国益を無視して党略優先の政争を繰り広げたために米国債務がデフォルトに陥る瀬戸際に追い込まれるに至ったのだが何とか来年の2月までは小康を保つことで事なきを得た。建国以来民主主義の優等生として機能してきた米国が一体どうしたのだろうか。

 2008年のリーマンショックを引き金とした金融危機で米国流資本主義は終焉した。一方で「世界の警察」として米国流民主主義を振りかざしてきた米国の世界戦略はベトナム、イラクと頓挫を重ね要の中東戦略も思うに任せない現状では債務問題も与ってもはやその影響力に昔日の面影はない。
我が国はデフレ脱却を目指して「アベノミクス」を安倍首相は展開しているが、その基本的志向は「米国流資本主義の後追い」という傾向が極めて強い。成長戦略のうち規制緩和は成長産業への資源移動を円滑に行う上で不可欠であるが労働力の流動化は再考を要するのではないか。
 労働力の流動化は「個人の自由な働き方を認め、企業が雇いやすくなるような制度改革」と言われているが実際は雇用を景気のショックアブソバーとして取り扱っている『米国流』の色彩が濃いものだ。即ち不景気になると雇用を減少させ人件費を削減することで企業経営を身軽にして景気対応を機敏に行うことで景気回復を早期に実現する制度になっている。
 ではその米国の労働市場の現実はどうなっているのか。リーマンショックで一気に悪化した雇用情勢は徐々に回復傾向(本年8月現在失業率7.3%)にあるがFRB(米連邦準備理事会)は雇用の長期目標を「失業率6%」としている。これに対して我国の失業率は直近で4%前後に収まっている。賃金はどうかといえば「We are the 99%」のスローガンに代表される「ウォール街を占拠せよ」に見られるように僅か1%の富裕層に富が集中する『極端な格差の拡大』が続いている。

 グローバル化が進む中で企業の生き残りは重要な問題である。しかしその先の国のあり方が「高い失業率と極端な格差、そして健康保険もない国」であるとしたら、我々の選択は正しいのだろうか。そもそも企業の存在価値はどこにあるのか。「有用な価値(商品)を創造し社会的厚生を高める」から企業は有用だ、という考え方がある一方「雇用の提供」に企業存在の最重要価値を認める人たちもいる。
 今企業の提供する商品に本質的価値はあるのだろうか。最も代表的な商品である自動車は環境問題が異常さを増す現在、Co2排出を考えれば「個的移動」から「集団移動」にシフトするべきであろう。テレビは4Kテレビに活路を見出そうとしているが今のコンテンツでは存在価値は限りなくゼロに近い。原発は廃棄物処理に根本的な解決策のない現状では価値判断以前の商品と断定して良い。
 企業の存在価値は「雇用の提供」にこそあるのではないか。

 「米国流民主主義と資本主義」をモデルとしたグローバル化はこれまでのように無条件に是認するのではなく、各国がその歴史と文化を包含した独自モデルを再構築する時期にさしかかっていると認識すべきである。

2013年10月14日月曜日

入(い)るを計って出(いず)るを制す

  働く人の給与が下がり続けている。民間給与実態調査(国税庁・1年を通じて勤務した給与所得者)によると平成9年の年収467万3千円が平成23年には409万円まで、58万円13%以上減少している。アベノミクスを通じて安倍首相は産業界に賃上げを要請しているが、内部留保が250兆円以上に積み上がっているにもかかわらず一向に積極投資に打って出ることができないでいる経営者がおいそれと賃上げに踏み切るとは思えない。

一方でいよいよTPP(環太平洋経済連携協定)が年内妥結を目指して本格交渉に入っているが『聖域』の取り扱いをめぐって産業界の抵抗が続いている。その聖域論争なるものの報道に接するたびに強く違和感を覚えるのはその全てが「生産者」サイドの論議に終始していることで、消費者の利益がほとんど考慮されていない。
コメの関税は778%というおよそ常識外れに設定されているので実質輸入禁止になっているようなものだから国産米の価格が相当高めに誘導されており我々消費者は高いお米を買わされている。どれくらい高いかというと諸説あって2倍とも3倍とも言われているが、今低めの2倍として我が家の場合を考えてみると、1ヶ月5Kg2000円クラスのものを3度買っているので月間の購入金額が6000円から3000円に減少することになる。これを逆に考えると給料が3000円分上がったのと同じことになる。
医療費も『聖域』のひとつだ。現在の医療制度の多くは「医師会」と政治・行政の妥協で今日に至っているが「医師会」はどちらかといえば「個人開業医」の団体という色合いが強かったから、個人開業医に有利な制度として設計された。もし今日の状況に即応した制度に改めることができたら―個人開業医に有利な制度(税制等)を是正できたら―「医療費」は少なからず低下させられると専門家は言っている。医療費改革の大きなツールであるカルテの電子化も個人開業医の抵抗が強いせいで実施が遅れていると言われているからここにも医療費低減の『シード』がある。生活保護費3.7兆円(2012年)の半分近くを占めている医療扶助の歪みを是正することでも相当額の医療費が削減できる。その他ジェネリック薬の活用促進等も有り「医療費」の合理化余地は少なくない。もしこれらの改革が全てできれば「健康保険料」の低減も実現可能になるから、その分実質的に給与を高めることができることになる。
教育にも『岩盤規制』がある。NHKの大河ドラマ「八重の桜」では新島襄と熊本バンドの確執が面白おかしく描かれているが、学校の本質が「自治」にあることを再認識させられる。現状は大阪維新の会など一部の勢力によって教育委員会から地方の首長に管理運営の主導権が移されようとしており全くの逆行である。それでなくても教育内容から指導方法に至るまで文科省の規制でがんじがらめになっており、教師や学校の工夫や合理化が著しく阻害されている。いい例が幼保の一体化で無駄な規制で待機児童問題の解決が一向に進捗しない。電子教科書が現実味を帯びてきている今、工夫次第で「教育の質的向上・効率化」が可能なのだが文科省の規制がそれを阻んでおり塾代など無駄な出費を強いられている。規制改革で自由な教育環境を整えることができれば無駄が省けて実質的な賃金上昇を齎すことが可能になろう。

働く人の給与が上がることは願ってもないことだが、出費を抑えることで実質的に賃金を高める工夫も忘れてはならない。その為には、既得権者の利益を保護している『岩盤規制』を打破することが必須であり、そうした意味でTPPは「良い外圧」になる可能性が高い。

タクシー会社はいくつか倒産したかもしれないが、規制改革が進んでおれば今頃「安いタクシー」で我々消費者は利益を享受しているはずだ、と私は考える。

2013年10月7日月曜日

「頼山陽とその時代」を読む

 中村真一郎の「頼山陽とその時代」を読んだ。A5版細字2段組本文総頁644ページの大作である。京都府立図書館所蔵のため返却期限の関係もあって3月から半年、断続的に8週間を要して読了した。1日当り12~13頁の読書量に過ぎないから威張れたものではないがよく読めたと思う。というのも読書好きではあるが長編が苦手であったので「戦争と平和」も「大菩薩峠」も、ましてプルーストの「失われた時を求めて」など思いもよらない私がこのような長編を読めたのは、この著作が山陽の史伝的エッセーであり半分近くが漢詩とその訓み下し文なので途切れ途切れに読んでもさして内容の理解の妨げにならないものであり、興味が継続したのは『江戸漢詩』を読みたいと願っていたからである。

 ここ数年、 鴎外、荷風を集中して読み進んできて江戸後期の漢詩の完成度が相当高いことを知り、又その系列を牽く漱石の漢詩が本場中国の学者から頗る高い評価を得ていると我国現代漢学者の筆頭吉川幸次郎氏が伝えているのを読み、攻めてみようと思い立った。荷風の「下谷叢話」中村真一郎の「江戸漢詩」等を読むうちに李杜に代表される漢詩とはいささか趣を異にする、同じ日本人であるが故の微妙な感情の一致があってズンズンとその魅力に惹かれていった。その過程で出会った「頼山陽」という名にかすかな記憶があった。幼い頃、父や叔父など大人たちが山陽の名を口にしていたし、戦前の絶対的天皇観との関係にも興味があった。そんなこともあって岩波文庫「頼山陽詩選」の解説でこの書を知ってどうしても読んでみたくなり挑戦を試み、青息吐息ながら読み終えたという次第である。
 国民作家司馬遼太郎の影響もあって維新ものが大人気であるが彼ら維新の若者のバイブル的存在が山陽の「日本外史」であったこと、尊王倒幕史観を幕末の我が国に定着させたのが外史であり、倒幕運動の思想的支柱であった吉田松陰が山陽の弟子―森田節斎の第一の弟子であったこと、など幕末、維新、そして明治から戦前までのその絶大な影響力が戦後の僅か70年の間にかくも雲散霧消してしまった原因はどこにあるのか。今我々が日常的に使っている「敵は本能寺にあり」という常套句が山陽の漢詩「本能寺」の「吾が敵は正に本能寺に在り」に由来していることを知るにつけ山陽と、併せて江戸漢詩の再評価を願わずにはいられない。
 読了して作中に紹介された200人を超える江戸漢詩人等のなかで「柏木如亭」のリリシズムに最も強く惹かれた。

 ところで最近同世代の友人知人の多くが本が読めなくなったと嘆いている。そして大概が目がかすむなどと眼のせいにしているがそれは間違いだと思う。目が悪ければ天眼鏡―今はルーペという―を使えばいいので慣れればなんの不都合もない。そうではなくて好奇心が無くなったり興味のあるテーマが見つからないのだ。そしてもうひとつ、体力減退による集中力劣化が大きに災いしている、これは自信を持って言える。7~8年前まで私は体重が52Kgもない虚弱体質であった。ところが64歳の時に煙草を止めて、テニスを始めストレッチや身体の鍛錬に努めるようになって急速に体力が強化され体重も今では58Kg前後にまで増えた。こうなるまでの私は本好きではあったが一度に15分位しか続けて読むことができなかった。そのせいもあって長編が苦手だったのだが、とにかく机に向かって30分も1時間も肉体を維持するだけの体力がなかったから、小学校の通信簿にはいつも「落ち着きがない」と注書きされていた。結婚して妻と映画に行ったとき「ゴソゴソしないでじっと見て下さい」と叱られたりもした。とにかく身体を同じ姿勢に保持するということは想像以上に体力を要するもので、だから読書するにも相当『体力』が必要なのだが普通の人はそれに気づいていない。

 体力を保持して好奇心を失わず、読書も続けて、老いを楽しみたい。

2013年9月30日月曜日

老いを生きる(四)

 前回に続いて「吉本隆明著・老いの超え方(朝日新聞社)」をベースに話を進める(〈 〉内は頁数)。
スウェーデンは(略)「わが国が誇れるのは老いて身体が不自由になっても、ゆで卵の硬さを言う自由を保証していることだ」と言います〈211〉。スウェーデンでは、人間の生活の基本は食べることと排泄することと眠ることで、そこが自立できないと、精神のリハビリにかなり影響を及ぼすという考え方がしっかりと踏まえられている。そのため、人と物と金をケアにたくさんかけています。それが人間の自立というか、尊厳というものの根本にあるという思想が制度的に保証されています。(略)スイスで心臓手術をすると、3日目からリハビリを開始するそうです。つまり、1日延びると人間の生理機能は衰えるという思想があるので、心臓手術をしたおばあちゃんが三日後にビフテキを食べさせられるそうです。(略)そして1週間後には、リハビリ専門病棟、病棟といっても周りにきれいな花が咲いていて、散歩道があって、非常に美しくて、嫌でも出て行きたくなるような環境を作る。どんなにハードな手術をしても、身体機能のリハビリは最優先であるということです〈86〉。

来年度からの消費税増税の決否が10月早々にも下されそうだが社会保障改革も同時に進められるに違いない。スウェーデンやスイスとの格差はますます拡大するだろうがこれは我が国の社会保障が独自の理念に基づいて構築されたというよりも、戦後英国が掲げた「ゆりかごから墓場まで」という社会保障のスローガンに盲従した「官僚の机上プラン」で情緒的にスタートしたせいである。そうでなければサンピアやグリーンピアなどの「はこもの」施設の無駄遣いや年金記録問題など起ころうはずもない。こうした顧客(国民)志向のない社会保障の精神は病院経営にも如実に現れている。

今の(病院の)管理機構は(略)医師は理事会に管理されて、看護師さんは医者に管理され、患者は看護師さんを介して管理されるというふうになっています。でも、第一義的には患者の利害得失、病状、自由・不自由、そういうことを考える管理機構でないと嘘だと思います。/そうすると、今はほとんどできていない。理事ないし理事長の利害から発して全部ができていて、患者はそこに入っている、留置されていると例えるのが一番例えやすいのです。(略)患者、つまり管理されている人間の健康や利害、自由さを第一位とする管理機構に変えればいい。〈108〉。なにも病院が理想的な社会であって欲しいとは言わないけれど、「管理される人の利益を第一とする」というふうなことを推し進めても、それが必ずしも管理している側の不利益にはならないんです。(略)長い目で見れば、そういう病院に一番お客さんが集まるんだと。そうでなければ、科学や情報が発達すればするほど、なおさら管理が厳しくなるということになってしまうから〈166〉。

こうした病院で治療を受ける患者は不満で精神的に参ってしまう。「老人はにぶいとおもっているから駄目なんです。僕に言わせると普通の人より鋭敏なんだから、『もう少しですよ、頑張れ』なんて言い方したらアウト。そうではなくて『こうすればこうなる、次の段階に行くにはこうしなければなりません』というように小さな目標のようなものを言ってくれればやるんですよ〈44〉」。では理念とは。「人間の生涯で大切なことは二つしかない。一つは老人を経済的に安定させて、少なくとも世話をしてくれる人を雇えるくらいの余裕を持たせる。/もう一つは妊娠した女の人に十分な休暇と給料を与えて十分な子育てができる。この二つが実現できたら歴史は終わり〈217〉」。

非難を恐れずに極言すれば、「団塊の世代の保証がピークをすぎる2030年~2040年を見据えた実現可能性のある計画」を『理念』を持って国民に訴える情熱と度胸のあるリーダーが出てきて欲しい。

2013年9月23日月曜日

老いを生きる(三)

 吉本隆明の「老いの超え方(朝日新聞社)」は老いを思想として捉えており教えられることが多い。以下は「老い」と「死」に関する抜粋である。

 『老い』と『衰え』は、本質的には関係ないと考えてもいいんじゃないでしょうか。しかし、老いている本人にとっては『老い』と『衰え』が切り離せない問題になる。(p215)。老齢者は身体の運動性が鈍くなっていると若い人はおもっていて、それは一見常識的のようにみえるが、大いなる誤解である。老齢者は意思し、身体の行動を起こすことのあいだの『背理』が大きくなっているのだ。言い換えるにこの意味では老齢者は『超人間』なのだ。これを洞察できないと老齢者と若者との差異はひどくなるばかりだ(p125)。老齢化とは肉体と精神のバランスが崩れることなんですね。(p118)。老人の持っている肉体的衰え、惚けというか精神的衰えは、どちらも単独ではないんです。精神科の医師に言わせれば、老人はみんな精神的に病んでいる。その病は精神的な衰えなのか、肉体的な衰えなのか判断しにくい。逆に言うと、老人の病気あるいは病的な状態や肉体的な衰えの治療は、整形外科的な療法でも精神的な療法のどちらでもいいんです(p119)。
 
 高齢になって病院へ行ったとき「歳のせいですね」と医師に言われた時ほど腹立たしいことはない。本人も「衰えた」という自覚は十分にあるが「老い」とは思いたくない気持ちがどこかにある。そんな繊細な気持ちを踏みにじる無神経な言葉を吉本は見事に反論してくれている。高齢者は「『超人間』なのだ」という意識が社会に浸透すれば高齢者と世間のギクシャクした一面は払拭されるに違いない。

 (ボーヴォワールは「老い」という著作の中で)じぶんが死に対する悲しみをいくぶんか和らげられるようになったのは、死を世界における不在だと考えられるようになってからだといっています。たとえば自分たちは日々不在を体験している。かって友達であった人がなくなっているとき、かって父親や母親であったとか肉親であった人がなくなって、今や不在である。(略)このように考えてゆくと、人間の存在が世界における不在を絶えず体験しながら生きているようなものだ。そして不在がすべてをおおいつくしたとき、それが死なんだと考えるようになって、じぶんは「死」とか「老い」とかに対する恐怖や悲しみを和らげられるようになったと言っています(p263)。(フーコーは)健康を基準にして、次にやってくるのが病気であり、その果てに考えられるのは死である、というようにひとりでに思い込まされている。(略)しかし本当はそうではないのではないか。死というのは何かといえば、病というものと、人間の生きるということを底辺とする三角形を考えるとその頂点に死が絶えずあって、そこから絶えず照らし出されることによって、われわれは生きているという言い方をしています。だから死はいわば生の意味を分析する最大の分析者なのだ。(略)死というものを頂点として、そこから照らしだされた人間の生きるということ、それから病気というものの原理を考えてゆくと、そこで人間の生は十分に照らしだされるのだという言い方をしています(p264)。死を迎える心構えというのは、これは自分はまだ経験していないことだし、また、もっと言いますと、わかりきったことなんですが、自分の死というものは自分のものではないんです。(略)自分の葬式は簡単にしてくれとか、(略)そんなことは余計な心配だと思います。死は他人のものなんだから、他人がどうしようが、そんなことは僕が何か言うべきことに属さないと思っているわけです(P266)。

 「終活(死への記録と死後の諸々の処分)」が少し前持て囃されたとき、違和感を持った。死が生の延長であり自分のものであるという考え方が底流に有りそれに我慢がならなかったのだ、ということがこの書を読むことで理解できたのは望外の喜びであった。

2013年9月16日月曜日

オリンピックと行政改革

 2020年オリンピックの開催地が東京に決定した。直前、福島原発汚染水の漏洩が危機的に報じられたため暗雲が立ち込めたが、最終プレゼンで安倍総理が「港湾内0.3平方キロメートル内に完全にコントロールできています」という「絶対安全宣言」をしたことが功を奏し大差で開催地に決まった。しかし、安倍総理の安全宣言は真実なのだろうか。東電に代わって国が直接対策に乗り出すようだがそれで本当に事故収束は可能なのだろうか。
歳のせいか悪い方へ悪い方へと思案が向いてしまう昨今、開催はしたけれど原発事故は収束せず不安が広まり有力選手をはじめ多くの選手にボイコットされ、広い競技場に僅かな選手が低調な競技をしている図が思い浮かぶ。まさかそんなことはめったにないと思うが、国際公約をしたからはどんなことがあっても守って欲しい。一向に進まなかった震災復興がこのことで一気呵成に進むことになれば、こんな結構なことはない。ぜひそうなって欲しい。

その明くる月曜日、思いもかけず私の周囲で震災に絡んだ事件が明らかになった。1年ほど前、近くの公園に「災害用マンホールトイレ」の施設ができた。昨年9月(と記憶している)に完成したのに、施設使用のための案内掲示版にはカバーがかかったまま放置されているうえ地元住民への利用説明会が開かれた気配もない。いくらなんでもおかしいと公園管理事務所に問い合わせると上下水道局の管理だという。早速電話すると担当者は「今維持管理担当部署への引継ぎを行っています」という。そんなはずはない。ヤマカンで「あなた、これは東北大震災復興予算の流用案件でしょう」と少々『強面(こわもて)口調』で詰問するとあっさり「そうです」と認めたではないか。
聞いた内容から類推するとこうなる。復興予算流用案件として予算を取った「京都市上下水道局下水道部設計課」が設計施工して業者に発注、完成して完了確認後業者から設計課に施設は引き渡されたが、以降維持管理担当部署への引継ぎはなされず放置されたまま今日に至っている。
復興予算流用が問題なのは言うまでもないがマスコミの伝える他の案件に比べればこの施設ままだマシな方だろう。しかし通常の予算でない、棚ボタ予算でチェック体制もいい加減なのか、使ってしまえばお役人は「仕事をした」ことになるのだろう。何百万円(まさか何千マン円ということはないだろう)か知らないが国民の血税を「使わせて戴いた」という意識は微塵もなく、緊急避難用施設にもかかわらず利用者たる地元住民への利用説明会も行われず放置されていたのだ。

さてその公園だがゴミ拾いを初めて8年近くになる、その間いろいろあって最近やっと分かってきたのだがこの公園の管理系統は複雑多岐に亘っている。公園の半分を占める有料野球場を含む北部分は「京都市体育協会(文化市民局スポーツ振興室)」が管理し現在メンテナンスを「近建ビル管理㈱」へ業務委託されている。南半分は「北部みどり管理事務所(建設局)」が担当部局である。他に西京土木事務所(建設局、周辺道路管理)、自転車政策室(建設局、周辺道路上の放置自転車担当)、先の下水道部、防火危機管理室(行財政局、広域避難場所の掲示板管理)。加えて警察と消防もそれぞれの緊急時には絡んでくるし、隣接の桂川中学校、川岡東小学校は最大の利用者である小中学生の指導教育を行っている。
この複雑な管理系統を把握している部署はあるのだろうか。そしてこれらの担当部署の相互連携はとれているのだろうか。ちなみに公園開設以来近隣住民が毎朝行ってきたゴミ拾いは小中学校の協力があって今では週数回のゴミ拾いで済むように改善されている。

行政改革の必要なところは身近にいくらでもある。それを愚直にひとつひとつツブシテいけば、この国はもっと少ない費用(税金)で効率的に運営できるはずだ。

2013年9月9日月曜日

情報とどう向き合うか

  本を読むことは、自分の頭ではなく、他人の頭で考えることだ。
 悪書は知性を毒し、精神をそこなう。
 なんとも刺激的なアフォリズム(格言)だが、これは19世紀の哲学者ショーペンハウアーの「読書について(光文社古典新訳文庫)」にある言葉だ。更にこんなふうに続いている。
 他人の考えをぎっしり詰め込まれた精神は、明晰な洞察力をことごとく失い、いまにも全面崩壊しそうだ。/悪書は役に立たないばかりでなく、はっきり有害なのだ。/多読に走るべきではない。精神が代用品に慣れて(略)自分の頭で考えて歩むべき道から遠ざかってしまわないようにするためだ。(略)読書のために、現実世界から目をそらすことがあってはならない。
 
 情報化時代のただ中にあって我々は情報の洪水に溺れそうになっている。メディアも多彩で新聞・雑誌・テレビ・ラジオをはじめとして書籍(本)、教科書、チラシ、フリーペーパー更に仕事上の各種の印刷物などもある。最近はIT情報も多く、インターネットにメール、フェースブックやLINEなどのSNS情報の交換にゲームと情報だらけである。
 印刷物がそれまでの聖職者や政治家、学者などの一部の限られた人のものから一般化し雑誌や新聞の発行もあって今と様相は異なるが、ショーペンハウアーの時代も情報過多の時代であった。そんななかで情報に流されないためにはどうすればよいかを彼なりに示唆したのが最初の言葉になったのである。
情報を選択して「いい情報」だけを見るようにしなさい、というのが彼の教えであろう。しかしどうして取捨選択をすればいいのか、
 それについて彼はこんなふうに言っている。「良識や正しい判断、場をわきまえた実際的行動の点で、学のない多くの人のほうがすぐれている。学のない人は、経験や会話、わずかな読書によって外から得たささやかな知識を、自分の考えの支配下において吸収する」。少々失礼な表現だが要するに、知識を鵜呑みにせずに「自分の頭で考えなさい」と言っているのだ。

 彼は更にこんなことも言っている。思想家は(略)たくさん読まねばならないが、(略)自分の思想体系に同化させ、有機的に関連ずけた全体を、ますます増大する壮大な洞察の支配下におくことができる。∥思想体系がないと、何事に対しても公正な関心を寄せることができず、そのため本を読んでも、なにも身につかない。なにひとつ記憶にとどめておけないのだ。
 テレビに出てくるコメンテーターなど「物識りタレント」が『知ったかぶり』で振りかざす知識に信用が置けないのは彼らに専門的な『思想体系』がないから『知識のツギハギ』であることが我々にも見え見えだからに違いない。
 彼の言葉の中で最も現代にあてはまるのが次の文章だ。「ルソーは『新エロイーズ』の序文に〈名誉心ある者なら、自分が書いた文章の下に署名する〉と書いている。この逆も言える、すなわち〈自分の書いた文章の下に署名しないのは名誉心なき者だ〉。(略)少なくとも名誉心をもつ者なら、名誉にかけて責任を取るべきだし、名誉心のかけらもない輩すなわち匿名・偽名による発言は、無効にすべきだ」。ネット時代を見越したような言葉ではないか。

 饒舌な者は、なにも語らない/愚鈍と無作法はたちどころに広まる。/無知は人間の品位を落とす。しかし人格の下落がはじまるのは、無知な人間が金持ちになったときだ。/誰だって、判断するより、むしろ信じたい(セネカ)。
 彼のアフォリズムは止まるところを知らない。

2013年9月2日月曜日

老いを生きる(続)

 渡辺淳一の話題作「愛ふたたび」を読んでみたいと図書館に予約したところ何と予約順位110位!私は滅多にベストセラーを読まないからこれがどれ程の人気振りか分からないが、決して低い方ではないだろう。ということはこの小説のテーマがそれだけ時代性を持っているということになる。その内容とは。73歳の医師「気楽堂」国分隆一郎が亡妻の面影を持つ40代半ばの女性弁護士と恋に落ちる。しかし彼はもう男性機能を喪失している。どうすれば愛を成就できるのか、その時性愛はどんな形をとるのか。シニア男性の苦悩と歓喜を渾身の熟達の筆で描く渡辺淳一の表現がナマナマしすぎることが災いして連載打ち切りになったことも一層話題を盛り上げた。
 
 わが国では何故か「年寄りの性欲」は否定されてきた。みっともないと軽蔑され「茶飲み友達」が好もしいと言われてきた。しかし高齢化が進展し健康でリッチなシニアが増え、しかも彼らは現役を離れてストレスから解放されているから中年男性よりかえって元気がいい。一方「年寄り」と呼ぶのが失礼なほど若々しくて魅力的で行動的なシニア女性が溢れている。これだけ条件が整えば恋愛や性愛の新しい形が現れても不思議はない。鴨川近くの風俗街では以前から「シニア割引」があって結構需要があるらしいがそんな歪んだものでなく、夫婦が、又シニアカップルが新しい愛の形を育んでもいいではないか。渡辺淳一はそんな「夢心」を挑戦的に訴えたかったのだろう。

 J・アタリが「21世紀の歴史」の中で「21世紀は暇つぶしと保険の時代である」と警告している。昨今のスマホ全盛をみると「一億総暇つぶし」は確実に現実化していることを思い知らされる。若い人たちのゲームとフェースブックやLINEを通じた「友達ごっこ」に熱中する姿はあまりに危うい。しかし若い人ばかりではない。テレビにコマーシャルが溢れる「高齢者向け保険商品」は『人類の経験したことのない高齢社会の不安』を象徴していないか。高齢化が進んで平均寿命が伸び健康志向が異常に高まる一方で万一病気に罹った時の備え、死後子供たちに迷惑をかけたくない、という高齢者の不安に保険と健康補助食品が見事に応えているようにみえる。
 しかし「不安」というのは「不安のもと」が正確に把握できないから生じるので、医療保険なら医療費の概算が分かっておれば自分なりの対応ができるはずだ。ところが「疾病別医療費概算」的な資料が公的にはないのだ。区役所の窓口へ行っても病院へ行ってもない。社会保険診療報酬支払基金や国民健康保険団体連合会がどうしてデータを公開しないのか。もうひとつ、健康保険の「高額療養費支給制度」をどうしてもっと分かり易く国民に広報しないのか。私の知人が重篤な病気になったとき、病院から制度のことを教えて貰って初めて知ったと言っていた。元気な時に知っていたらあんな高い保険に入っていなかったのに、とも嘆いていた。ちなみに、70歳以上の医療費は同制度によって「外来なら月額12,000円、入院なら月額44,400円」が支払限度になっている。
 では疾病別の医療費は大体どれくらいなのだろうか。最も高額なものは「くも膜下出血、日額約4万6千円、治療日数約100日、治療費総額460万円」、ついで「白血病、5万8千円52日300万円」になっている。しかし先の高額療養費支給制度を使えばくも膜下出血は23万円弱(44400/30=1500×100=15万円+食費約8万円)で済む。この方式によれば脳内出血30万円、乳がん5万4千円の負担になる(医療費データは「オリックス生命データファイル」による)。
 
 老いを「自分らしく」生きる工夫をしたい。

2013年8月26日月曜日

老いを生きる

 暑い!今年の暑さは異常だ。仕事がなければわざわざこんな日に外に出かけることはないだろう。冷房の利いた部屋のソファに寝そべってテレビでも見て1日過ごすに違いない。猛暑日が続いているから1日が2日、3日になって気がついたらすっかり筋肉が落ち歩行に支障が出る、しかしそれに気づけばいいが知らないうちに悪化して…、老化はこんな風に侵食してくるのだろう。
 テニスクラブのメンバーで元インターハイ選手だった人がいる。実業団でも活躍していた彼が突然重篤な病に罹り1ヶ月程入院したことがあった。入院して10日は寝たきりだったのでリハビリをうけたが最初は立つこともままならなかったという。勿論歩行など論外で、復帰した今でも筋肉は元に戻っていない。
知らないうちに筋肉が衰え老いが進行してしまう。正座ができなくなるのも太腿の筋肉が関係しているが、そんな老いの兆候を科学的に検査し対応策をプログラム化して「健康に老いる」指導をしてくれる施設がない。江戸川大学の中村雅美教授が提案される健康な高齢者の健康維持を目的とした『健康院』の必要性はますます高まっている。専門的な知識がないために間違った方法でランニングやウォーキングをして膝を痛める例に見るように『健康院』があれば高齢者の「健康寿命」を伸長して「高齢者医療費の増大」を相当抑制できると思う。テレビに広告が溢れている「健康補助食品」市場が年間1兆円近い規模にまで膨れ上がっているのもつまるところ「確信のもてる健康維持策」のない不安が根底にあるからで、健康な高齢者の「健康維持指導」は早急に対応が求められる施策だと思う。

 高齢化が進んで健康寿命が伸びて…、しかし「生」は「享受」されているのだろうか。高齢化がこんなに進む以前、長生きする人のタイプに「画家などの芸術家」や「政治家」が多かった。それに田舎へ行くと「好い顔」をしたお百姓さんによく出会った。こうしてみるといずれも「生涯現役」の人たちだ。ところが今の高齢者の多くは無理やり「定年」という制度で現役を退けられ仕事を失っている。

 「天命に安んじ、詩酒を楽しみ、人を愛し自然を愛する」生き方が一方の理想型であるとするならば、生きることは人生を楽しむことにある。もう一方で「生涯現役」として「仕事」をすることも人生を充実したものにする。しかし現実は企業社会から引退しているとなればどうすればいいのか。仕事というのは企業社会に固有のものなのか。仕事とは他人の役に立つこと、とは考えられないか。他人の役に立ちながら他人(社会)との繋がりを保つ、それを仕事と考えられないか。企業社会で商品やサービスを生み出して他人の役に立っていたが、それ以外の方法で他人の役に立つ形はないのか。すぐに思い浮かぶのは「ヴォランティア」だがNPO活動という形もあろう。どのような展開をするかは始まったばかりの高齢社会に生きる高齢者一人ひとりがこれから模索することだろう。勿論人生の楽しみ方も。
 今までは「健康で長生き」ばかりがクローズアップされていたがこれからは「生きて何をするか」が問われる段階に高齢社会が成熟して来た、と思っている。

 われ遺書を厭(い)み墳墓をにくむ。死して徒に人の涙を請(こ)はんより、生きながらにして吾寧ろ鴉をまねぎ、汚れたる脊髄の端々をついばましめん。/(略)わが亡骸(なきがら)にためらふ事なく食入りて、死の中(うち)に死し、魂失せし古びし肉に、蛆虫よ、われに問へ、猶も悩みのありやなしやと。(シャアル・ボオドレエル「死のよろこび」抜粋・永井荷風訳・珊瑚集より)

2013年8月19日月曜日

お盆に思うこと

  お盆になると妻がお祀りと接待をしてくれる。仏花はお盆用のちょっと豪華なもの―蓮の花とホウズキ、槇の葉が加えてある―でお水も大振りの水椀にたっぷり水をたたえ蓮の葉を浮かべて槇の葉が添えてある。中央には「薩摩芋、茄子、ホウズキ、胡瓜、桃」のお供えがある。毎朝「おけそくさん(小餅)」を左右に2個づつお供えして最近は日替わりで「お迎え団子、おはぎ、お送り団子」が別につくようになった。さしずめおけそくさんが主食で団子がスイーツなのか。昼食はそうめんが多い。夕食は仏さん用の小ぶりの朱の膳に同じ朱の小椀をー今日は揚げと葱のヌタ、長芋ニンジン牛蒡の煮物、梅干と赤蕪のお漬物、茄子と南瓜の味噌汁と白ご飯の5品を左右にお供えして接待する。これを4日間、黙々と続ける妻には才能があるのだろうが感心する。こうして今年も恙無く、お迎えしお送りすることができた。「ご苦労さん、ありがとう」。
 普段はお花を洗ってお水を替え線香を立てて朝参りをするだけだがそれでも毎日仏さんにお念仏を唱える。
 このように私の生活には仏さん―ご先祖は確たる位置を占めている。生きてはいらっしゃらないから普通の「存在」ではないが生者と死者という「隔たり」ほど遠くはない。加えてこれまで何人もの親族血族の死を身近に見送ってきたから「死―死者」は特別なことではない。まして死を「穢れ」などと感じたことはない。

 医術の進歩、保険商品の拡充とその広告を見ていて、そしてテレビに溢れる保健補助食品の広告を見ていると、「死」に対する『嫌悪感』『恐怖心』が異常に増幅されているように感じる。とにかく「死を遠ざけよう、関わらずにおこう、見ないでおこう」という気配を濃厚に感じる。
 で、それで、延命された生命は祝福されているのか、といえば全くそうでない。
 言い古されたことだが「死を考えることが生を充実させる」という根本に立ち返って、我々は「死」と真剣に向き合う必要があるのではないか。漢詩人を「天命に安んじ、悠々として詩酒を楽しみ、人を愛し自然を愛しつづけた」と評することが多いが、「天命に安んじ」が人間の「生への姿勢」のあるべき基本だとすれば、現代における「天命」とはどのようなものか。自己も含めて「生と死」を近いものにする工夫をしなければ、とご先祖を送って考えた。

 福永武彦の「告別」にこんな件がある。「アフリカの土人たちは仮面をつくった。彼等は常に恐れていたし、仮面はそれらの恐れを、生まれながらの本能的な恐れを、避けるための最も有効な武器だった。彼等は猛獣を恐れ、収穫をおびやかす自然の猛威を恐れ、他の種族を恐れ、病を恐れ、死を恐れた。しかし彼等が最も恐れたものは死だろう。死は形もなく襲って来るのだ。そこで彼等は死者のための仮面であるバコタをつくった。バコタをかぶる者は、形ある死、彼等野蛮人が眼に見ることの出来る死だった。/仮面は、それを自らかぶる者にとってと、それを見詰めている者にとってとでは、別個の意味があるに違いない。バコタをかぶる者は、その間に彼自らが死者であり祖先であることを意識する。彼はその時ひと度死ぬわけだ。また彼を見詰める者にとっては、この怪物は即ち最も確実な未来、――死を意味した。そして死を見るたびに、彼等はその絶対的な魔力が、自分たちに乗り移るのを感じたに違いない。従ってバコタを見ることは、或いは死者を祀る祭式を行うことは、彼等にとって生を充実させ、より健康に明日の生活を迎えるための、悦ばしい儀式をなしていた。彼等は笑い、踊った」。

 文明人の我々よりも彼ら野蛮人の方が豊かに感じられるのは、私の僻目(ひがめ)か。

2013年8月12日月曜日

相撲協会や柔道連盟で何故不祥事が起こったか

 日本相撲協会、全日本柔道連盟で不祥事が相次いで起った。しかし自助努力での再建はならず監督官庁たる文科省や総務省の勧告があってやっと組織の立て直しが行われそうな状態だが、何故最も日本的なスポーツ界で「潔さ」の微塵もない無様なことになったのだろうか。
 
 戦後日本の大きな節目は「バブルの崩壊」だった。そしてこれは単なる経済社会の出来事ではなく日本社会全体の大転換点でもあった。
 戦後の荒廃から僅か10年で「もはや戦後ではない」という復興を成し遂げ、以来73年まで平均9.1%、74年~90年は平均4.2%という高度成長を達成した。しかし91年2月のバブル崩壊から2012年の間0.9%という低成長とデフレが続いている。こうした経済の動きの下で「戦前世代から戦後世代へ」という大転換が起こった。私は1941年生まれだが戦後の新教育制度の全過程の階段を昇った最初の世代になる。1924年以前に生まれ終戦までに教育を終えている人たちが戦前世代(従って65歳で第1線を退くのは1990年前後になる)で、25年~40年生まれの人たちは過渡期世代になろう。戦前世代が優勢だった60年70年代を経て80年代には企業上層部で戦前世代から戦後世代への入れ替えが進んだ。戦後世代が優勢になっても新入社員の再教育再訓練によって戦前思想は力を保ったが、80年代後半になると企業社会での覇権は戦後世代に移行した。従ってバブル崩壊は戦前世代の完全な撤退期に重なっていたと見てよかろう。

 戦前の日本人の価値体系は儒教によって与えられていた。これに反して戦後は自由主義、個人主義を道徳価値の支柱とする教育が行われ、これはアメリカ流の理想を日本の子供に植え付ける意図で遂行され、儒教を基とした家庭の重要性と国家への忠誠を強調する旧教育とは対立し、個人主義は利己主義を助長する結果を招いた。
 戦前教育と戦後教育のもうひとつの大きな相違点は漢文(と漢文読み下し文)教育の採用不採用にある。日本語は、感情面を「やまと言葉」で論理面を「漢字と漢文」で、という二つの側面を併せ持った体系になっている。ところが戦後教育は漢字を極端(2000字程度)に制限し漢文(漢文読み下し文)教育を日本語教育から排除した。これでは日本人の「論理的思考能力」が劣化して当然である。
 儒教的倫理観の欠如は地域のコミュニティー機能の低下や親殺し、親の育児放棄や子殺しとなって表れている。言語の論理機能の劣化は創造性の弱化や専門性の低下に繋がる。そのひとつの例証としてノーベル賞受賞者が島津製作所の田中耕一さんとiPS細胞の山中伸弥教授以外に戦後教育を受けた人から出る可能性が少ないと見られているところにも窺われる。デフレの原因が「イノベーション力の劣化」にあるとすれば論理能力の低下は少なからず影響しているに違いない。
 儒教思想の一典型である「武士道(新渡戸稲造著)」の次の一節にも不祥事の一因がみえる。「あらゆる種類の仕事に対して報酬を与える現代の制度は、武士道の信奉者の間には行われなかった。金銭なく価格なくしてのみ為され得る仕事のある事を、武士道は信じた。(略)価値がないからではない、評価し得ざるが故であった。(略)蓋し賃金及び俸給はその結果が具体的なる、把握し得べき、量定し得べき仕事に対してのみ支払はれ得る。(略)量定し得ざるものであるから、価値の外見的尺度たる貨幣を用ふるに適しないのである。弟子が一年中或る季節に金品を師に贈ることは慣例上認められたが、之は支払いではなくして献げ物であった。(略)自尊心の強き師も、事実喜んで之を受けたのである」。

 相撲界、柔道界でも世代交代は起こっているから指導層に儒教的価値観が無くても仕方がない。組織改革を自力で行うことができないのは、現状認識力と問題析出力の欠如と問題解決する綜合力の欠落という「論理能力」の劣化以外の何ものでもないであろう。
(この稿は「なぜ日本は行き詰ったか・森嶋通夫著」を参考にしています)

2013年8月5日月曜日

老いとソクラテス

 奇跡が起こった!公園にゴミが無い!8年間ゴミ拾いをしているがこの広い公園にひとつのゴミも落ちていないなんて!夏休みになると中央の四阿(あずまや)で中学生が一晩中宴会をやってペットボトルや空き缶やたこ焼きの食べカスや菓子の包み紙やらタバコの吸殻やらが山ほど散らかしてあるのが当たり前だったのに、今朝はどこにもゴミが無い。
 昨年の夏休み前、学校に相談しよう、子供たちにごみ捨てをしないように指導して貰おう、公園が出来てから30年近く毎朝地域の大人たちがゴミを拾い続けてきたけれども、一向に子供たちにゴミ捨てという悪い習慣を改めようという気配が感じられない。ならば学校とも協力して子供たちに働きかけなければ子供たちは変わらない。そう考えて小学校と中学校の教頭先生に事情を話し協力を仰いだ。
 変化が表れ始めたのは今年の4月頃だった。ゴミが減ってゴミ拾いが週2~3回で済むようになった。7月になって急激に少なくなって、そして2013年8月2日、ついに公園からゴミが消えた!
  
 学校の教育力、未だ健在!このことが一番嬉しい。何かと批判の多い昨今だが、現場は生きている、そう思えることが嬉しい。先生頑張れ!!

 閑話休題。年をとって最も難しいことは「知らないことを知らない」ということではないかと最近思うようになった。70歳を過ぎて少しはキャリアがあって年齢が顔に出るようになると、若い人には何でも知っているように映るのかもしれない。あれこれ訊ねられるが無才無徳の老書生、知らないことの方が多い。以前は知っているつもりだったが最近になって自分の知識が間違っているのではないかと危ぶむ事柄も少なくない。そんな状態なのに訊ねられるとツイ知ったか振りであやふやな知識を広げてみたりいい加減に誤魔化してしまうことが何度もあった。しかし、もう、知らないことは知らないとハッキリ言おう、そう思うようになった。
 若いうちは何でも分かっていると思っていた。分かったつもりになっていたことも多かった。自信満々だったし勉強もした。しかし世の変遷は激しく価値観の変動も半端じゃなかった。ものには裏と表がある、見方を変えれば真逆になることも少なくない。分かったつもりでいたけれども本当は間違っていたり、その底に別の意味もあった、ということが結構多かった。情報化が進んで「物識り」が増えたけれども、モノを知っているだけではほとんど価値がないというのが若き日を振り返っての私の反省である。
 
 そういえば「ソクラテスの弁明(引用は「光文社古典新訳文庫」による)」のなかでソクラテスがこんなことを言っている。「私はこの人よりも知恵があるようだ。つまり、私は、知らないことを、知らないと思っているという点で。」「あの恥ずべき無知、つまり、知らないものを知っていると思っている状態」と。   
弁明のかいもなくソクラテスは死刑に処されるのだが彼の死についての考え方は高齢時代の我々に「生命についての潔さ」を教えてくれると思うので引用しておこう。
 死を恐れるということは、皆さん、知恵がないのにあると思いこむことに他ならないからです。それは、知らないことについて知っていると思うことなのですから。死というものを誰一人知らないわけですし、死が人間にとってあらゆる善いことのうちで最大のものかもしれないのに、そうかどうかも知らないのですから。人々はかえって、最大の悪だとよく知っているつもりで恐れているのです。

 老いた代償に、道理が分かってくる側面もある。

2013年7月29日月曜日

猟奇殺人事件

  猟奇殺人事件という言葉があった。「一般的に通常の殺人に比較して、常軌を逸している異常な殺人」として三面記事を賑わしていたが最近は死語扱いでほとんど使われない。しかし「呉・16歳女性集団リンチ殺人事件、八尾市61歳女性丸刈り全身打撲殺人事件、大阪元資産家姉妹衰弱孤独死事件」など最近の殺人事件や変死事件は皆「常軌を逸した異常な事件」ばかりであり「猟奇事件」でない殺人の方が珍しくなっている。『猟奇』が当たり前になった異常な時代が『今』なのだろうか。
 
 呉の事件はインターネットで繋がった「緩い友人」たちの事件らしく当事者の16歳女性同士以外は緊密な交際はなかったと報じられている。私はインターネット上での「付き合い」は原則として人間的なコミュニケーションとは捉えていない。写真や動画も用いられるが通常は短文―文字による意思の遣り取りで構成されているものであるからコミュニケーションとして成立するためには文字(書きことば)がコミュニケーションツールとして機能していることが前提となっている。しかし現在の日本語の書き言葉は非常に不完全なものである。日本語は感情生活を日本語[ヤマトコトバ]で書いて、知的生活をシナ語あるいは漢文で表現する体系になっている。つまり思考を論理的展開したり人間性の洞察について明晰・簡明に表現するためには漢語を使い漢文、漢文訓読体の文体で論理的な学問や政治の公的文章を書いてきたのだが、戦後漢字を著しく制限し漢文、漢文訓読体を国語から排除してしまったために自分の意思や感情を正確に相手に伝えるのが非常に困難な、不完全な書きことばのまま今日に至っている。書き言葉自体が不完全なものである上に「短文(50字~100字以下)」で相手に伝えようとするのだから土台無理な相談である。こうした致命的な欠陥があるにもかかわらずその遣り取りでコミュニケーションが成立すると勘違いしてツイッターやフェイスブック、LINEで友人として繋がっている積りでいる。限界を理解してその範囲内で「娯楽か軽い遊び」として利用すればまだ救われるが、政治家までもが有効なツールとして認識し政治的信条を訴える手段として活用するに至っては正気の沙汰とは思えない。
  メディアも真剣に警鐘を鳴らすべきではないか。

 八尾の事件は高齢者の孤独のもたらす病理的色彩が濃い。核家族化と地域コミュニケーションの劣化が進展した結果、低所得の高齢者は孤立する傾向が強い。年老いて他人から見離されるほど寂しいことはない。そんな心細い状態にいる老人に優しく声をかけてくれる同年輩の友人ができれば頼る気持ちはどうしても強くなる。頼った相手から金銭的な相談を持ちかけられたら何とかしようとつい無理をして借金をする。しかしいつまでも続くわけがないからタチの悪い金に手を出してしまうと暴力沙汰になることもあろう。
 この事件は決して特殊なケースでなくこのような事件はこれからいくらでもでてくることが予想される。もし持ち家の独居高齢者ならスキに乗じて押し掛け同居から金銭トラブルに発展することも可能性として十分考えられる。関係当局は今から真剣に対策を講じる必要がある。

 古来人間は孤独に真剣に向き合って友情をきづき、隣人愛、肉親愛を育て男女の愛に生きてきた。裏切られ傷ついてもそれを乗り越えて善い関係を求めてきた。50字や100字の遣り取りでそんな深い関係が構築できるはずもないことに気づくべきだ。そして高齢者を取り巻く「可能性の高い危険性」にはいち早く対策を講じて欲しい。

 孤独に向き合って、傷ついて、それでも人間が好きだ!といえる生き方をして欲しい。

2013年7月22日月曜日

母親の眼

 いじめによる生徒の自殺が頻発しているが気掛かりなのは「親の存在」が極めて希薄なことだ。報道後子供の名誉回復を願って懸命に努力する姿に心打たれるのは勿論だがそこに至るまでの親や周りの人たちと彼や彼女との交わりや接点がほとんど見えない。
 子供は親の眼、兄弟姉妹の眼から近所の眼、友人の眼に包まれて育ちやがて学校に入って先生の眼、学校の眼に評価されて成人していく。我々の子供の頃は親や近所の存在が学校と同等あるいはそれ以上に大きかったように記憶しているが現在の子供を見つめる眼は以前より少なく、しかも同じような眼になってきているように思うのは私だけだろうか。

 私の小学4年からの担任は女の先生で学校でたばかりの音楽が専攻の方だった。この先生がえらく私の音楽の才能を買ってくださりある時父親に「清英君にヴァイオリンを習わせてあげてくれませんか」と申し出ていただいたことがあった。これに対して父は「鍛冶屋の跡取りですからその必要はありません」とニベもなく断ってしまった。今にして思えばこの短い指ではとてもヴァイオリンの名手にはなれなかったろうから父親の判断は適切だったのだが、当時は残念でならなかった。
 母親も劇的な判断を下したことがあった。幼少の頃から病弱だったが学齢期近くになって小児結核を患った。たまたまペニシリンの日本解禁と重なって事なきを得たがそれで収まらず再発。今度はストレプトマイシンが開発されそれに助けられた。そんなことがあったから小学校に上がってからも体育は見学、運動会もお遊戯くらいしか参加できなかった。そんな虚弱体質の私に母は3年の夏からの水泳の授業に参加を命じたのだ。当然父や周りは反対したがとりわけ溺愛してくれていた祖母は猛反対だった。それまで祖母に口答えすらしたことのなかった母だがこの時ばかりは敢然と自説を通した。今の私の健康はこの水泳の授業から始まったと言っても過言ではないから母の決断は私にとって偉業であった。

 私の幼年期を例にとったが昔はどの家庭も似たようなものだったのではないか。父親はまだその頃残骸のあった「家」の論理を色濃く帯びた「父の威厳」を示し、母親はめったに我を見せなかったがここという時には「母性」を貫いたように思う。
 戦後これまでの歴史は「家の崩壊と核家族化の加速」であったから私の幼年期をそのまま当てはめることはできないが、父親の影響力は極度に衰えた。同時に母親の父親化も進行して結局子供にとって「母親の眼」が弱まったように感じる。そしてすべての眼が「学校の眼」に収斂しているのではないか。子供の可能性は多様であるにもかかわらず「価値基準の幅」が極めて狭いために進路が「単線化」してしまい、そのことが『子供の逃げ場』を奪い取り『究極の選択』に走らせるのではないか。

 「いい学校へ行っていい会社に入る」というモデルはもう通用しない。ダイバーシティー(多様性)が企業成長の要である、などとお題目としては叫ばれながら一向に「男性中心の社会システム」に変化の兆しが見られないし女性の能力は「活用」のレベルで停滞したままでとても協働までは進んでいない。今最も必要なのは「母親の眼」だと思う。『母親がシンボル化して示すのは、無条件の愛であり、私は愛されているのだという経験、しかも、私が素直で行儀がよく、役に立つからというのではなく、母親の子どもであり、母親の愛と庇護を必要としているからこそ愛されているのだという経験である。(フロム著「愛と性と母権制」より)』という功利や効率性とは別次元の眼差し=価値観が求められているのであり、そのことが取りも直さず社会の活性化につながるのだということに気づくべきである。

 学歴が母性を弱めたとすれば、皮肉なことである。

2013年7月15日月曜日

同時代性の共有

 ここしばらく「雇用」について考えている。労働市場の流動化、だとか自由な働き方の追求だとか言って「日本型雇用慣行」の見直しが進められ、また一方で大学の職業能力育成の向上や失業者や若年層の職業訓練の充実を公的機関で、という要請も強くなっている。
「いい学校へ行って、いい会社に就職して、豊かな老後を」というモデルが危うくなっている。いい会社に入って、年功序列で段々に給料が上がっていって、終身雇用の安定した中でローンを組んで持ち家を手に入れて、退職金でローンを清算して手元に残った僅かな蓄えと年金で老後を夫婦で楽しみたい、そんなモデルが否定される時代だ。
欧米先進国は景気対策として「解雇」で労働力を調整するが日本は残業代などを削減して給料を調整することでコスト削減を図り「雇用」は守る。こうした日本型雇用慣行がグローバル時代の世界的競争力を弱める結果につながっているといわれる。
雇用に関連する種々の論議が繰り返される中で、正規雇用が抑えられ非正規雇用が加速度的に増加して格差が拡大し「雇用者所得=サラリーマンの給料」は相当減少した。
終身雇用が否定され年功序列が崩れて成果主義に移行したという今、若者はどんな生涯設計を描いているのだろうか。企業の人材育成力が劣化したなかで個人のキャリア形成はどのように行なっていけばいいのだろうか。

日本型雇用慣行から欧米型の移動を前提とする流動化した労働市場への移行を当然のように社会の仕組みが変えられようとしているが、本当にそれでいいのだろうか。流動化雇用システムで最も成功している米国でも失業率は常時6%以上ある上に世界で最大の格差国である。企業の競争力は高まるかもしれないが個人にとって幸せと言えるだろうか。そんな疑問を皆が抱いているに違いない。『日本型雇用の真実・石水喜夫著(ちくま新書)』はそんな疑問に正面から取り組んだ労作であり私の疑問に見事に応えてくれた石水氏には『同時代性』を共有している同志のような親近感を感じた。この書を読めば、一方的に日本型雇用慣行を否定するのではなく、又競争力の劣化やデフレの長期化を雇用問題のみに求めるのではなく多面的に再検討する必要性があることが分かる。

我が国のデフレは20年の長きに亘って経済を蝕んできた。原因は複雑に錯綜しているがそのうちの一つに「イノベーション力の劣化」があるのではないか。ロボット型掃除機や羽なし扇風機など目新しい電化製品は日本製でないしそもそも情報化時代の基幹製品であるPCもスマホも外国発祥の製品である。
我が国の女性活用は世界の最低レベルにあることは繰り返し警告されてきたが一向に政治も企業も改革を実現しようとしない。労働力の減少が経済停滞の最大の原因と指摘されながら、世の中の半分を占めている「性」がほとんど生かされていない。男性中心のシステムが機能しなくなっているから我が国のイノベーション力が劣化しているのではないか。男性と女性が協働できる社会にならなければ日本は活性化しないのではないか。
そんな問題意識を持った私に「快楽としての読書[海外篇]・丸谷才一著(ちくま文庫)」は『愛と性と母権制・フロム著』を教えてくれた。フロムの「男女協働」の提案は今最も『同時代性』がある。

コラムを書いて今日で400回になる。2006年4月がスタートだから7年と少しになるがこの間多くの本を読んだ。書く事がこんなに読むことにつながっているとは思わなかった。読んで、書いて、見て、そしてまた書いて読んで。そんな繰り返しの中で『同時代性』を共有する多くの人に出会った。沈潜し熟考している優れた先人や同時代人に畏敬の念を抱く。
書く事が楽しくなっている。

2013年7月8日月曜日

成長戦略と女性

 アベノミクスの第三の矢―成長戦略の中心戦略として「女性の活用」を掲げている。しかしそれは少子高齢化による労働力不足を解決するための便法という色合いが濃い。そうではなくて現在の混沌とした状況を解決するためにはこれまでのような男性中心のシステムでは対応が不可能なのだという文明史的必然として受け止める必要がある。グローバル化した世界経済は先進国のデフレ傾向と新興国の成長鈍化に加えて地球温暖化の危機的状況という未知の領域に陥っているうえに日本経済のデフレ脱却も含めてイノベーション力の劣化は世界経済の活力再生は過去の延長線上にはないという発想の転換を迫られている。更に経済のグローバル化は国益の錯綜を招き世界の平和的均衡をさえ危うくしている。
 
 スイスの文化人類学者バハオーフェンは古代の最低次の段階と人間のこれまでの発達の最高段階たる父権制段階との中間に母権制社会があったと説いている。彼によれば歴史は前合理的な母性的世界から合理的な父権制的世界へと発展を遂げるが、しかし同時にそれは自由と平等からヒエラルキーと不平等へと至る歴史でもある、と述べている。父権制では、父親が法、理性、両親およびヒエラルキー的社会組織の原理の代表者として統治する。父権制的社会構造は支配機構の外的強制を最も効果的に補完し階級社会の安定のために有効に働く、幸福よりも義務に重きを置き権威に対する従順さを生み出すことによって社会を支える最も重要な支柱として機能してきた。義務の履行および成功が生活上の中心的な動因となり、幸福や生活の享受は副次的な役割しか果たしていない。このような態度は、最も強力な生産力の一つとなって巨大な経済的文化的成果を生み出した。
 しかし今、このような父権制社会が大きな曲折点を迎えている。

 では母性的なものの本質とは何か。胎児を育むうちに、女性は男性より早くみずからの自我の限界を超えて愛の配慮を他の存在に及ぼし、己の精神に備わる一切の創造力を異なる存在の養育や美化に発揮できるようになる。他者に対する愛、養育、責任意識、これが母親の創造するものである。母性的愛こそ、あらゆる愛とあらゆる利他主義が生まれるもととなる種子である。しかし、それだけではない。母性的愛を基礎として、普遍的人間主義が発達する。母親は子どもを愛する。だが、それは、子どもが子どもなるが故であって、子どもがあれこれの条件を満たしたり期待に応えたりするがゆえにではない。母親は子どもたちを分け隔てなく愛する。こうして子どもたちはお互いが同等であることを知るようになる。それは、子どもたちの中心的な絆が母親との絆だからである。子を産む母性だからこそ、あらゆる人間を兄弟姉妹とみなす普遍的な友愛意識が生まれる。母系中心的文化の根底にある原理は自由と平等、幸福と生の無条件的肯定にある。(以上はフロム著「愛と性と母権制」による)。

 父権による統御と資本の論理による文明は成長の限界を迎えているのではないか。考えてみれば世のなかの半数を占めるもうひとつの「性」の力が等しく生かされていない世界は持てる能力の半分を「死蔵」していることになる。「男性と女性の関係を本質的に対等な人間と人間の関係として捉え、男性と女性が各々の特性を認め合い互いに相手を支配することなく関係し合える状況に到達することを目標とするべきであり、父権制の原理と母権制の原理の特徴を究明して、この両方の原理の『総合化』によって人類の未来の可能性を託したい」というフロムの提言は、今最も傾聴すべきものではなかろうか。

 アベノミクスが単なる労働力の補完という皮相な観点で女性活用を行うなら成長戦略は必ず失敗するに違いない。

2013年7月1日月曜日

政治家の失言はなぜ多いか

 吉田茂の「バカヤロー解散」池田勇人の「貧乏人は麦を食え」など昔の政治家は『放言』をしたが今の政治家は『失言、問題発言』を繰り返している。彼我の差はどこにあるのか。もしボキャブラリー不足が原因なら教養の問題で政治家に求めるのは筋違いだが日本語教育に問題があったとすれば底が深い。今や政治家の95%は戦後教育で育った人たちであるから戦後の日本語教育と戦前までの教育にどんな違いがあるのか検討する価値がありそうだ。

 日本語(書きことば、以下同じ)の語彙体系は和語、漢語、外来語、混種語で成り立っている。明治期の代表的辞書「言海」のキ部を例に取ると和語454語、漢語635語、和漢熟語140語、外来語15語、混種語12語となっている。和語と漢語の言葉の働きはどのような分担になっているのか。
 日本人は、その感情生活を日本語[ヤマトコトバ]で書いて、知的生活をシナ語、あるいは漢文で表現してきた。つまり思考を論理的展開したり人間性の洞察について明晰・簡明に表現する語彙を漢語に頼って来た。例えばヤマトコトバで「みとめる(認)」は一つしか言葉がないところを、認知、認可、認定、認識と漢語は多様に区別できる。日本人はこれらの精細な意味区別をヤマトコトバで行う工夫をせずに、輸入品である漢語(つまり漢文)に頼って語彙を拡大し、精密化し、それを消化して使いこなしてきた。つまり和語だけの体系は精確な意味区別を一語としては把握し確立することができない体系なのだ。
 同様に文章においても和文系の文体と漢文、漢文訓読体の文体を使い分け、和文系の文体(今我々が一般に使っている文章もこの系統に連なるのだが)で優しい心、自然を感受する心、情意を表現し「古今集」以下の和歌集や「源氏物語」を代表とする物語を生み出した。一方漢文、漢文訓読体の文体では明晰、簡明を要する論理的な学問や政治の公的文章を書いてきた。つまりこの二つの文体が日本人の心をはたらかせる車の両輪として機能してきたことになる。
 しかし中国語と日本語の間にはアクセントを含めて母音や子音の発音に大きな差があったので同音で意味のちがう単語(同音異義語)や異音同意語が発生したがその煩雑さを「振り仮名・ルビ」を発明することで解消した。
 その他、漢字の訓(よ)みも多様であった。例えば「弔」は「とむらう、いたむ・あわれむ、つる・つるす」とあったが今では「とむらう」に限定されつつある。字体も今一般に使っている新字とは別に旧字体・源字(康煕字典体)があったし、字形も楷書、行書、草書などを使い分けていたのが今では楷書以外は特殊な場合を除いて使わなくなっている。
 
 このように多様であった日本語の体系が明治中期からの100年、特に戦後の言語政策によって「日本語の書き言葉の『揺ぎ・揺動fluctuation―豊富な選択肢』」を無くし一つの書き方へ収斂させようとする傾向が推進されてきた。漢字を極めて少数(2000字前後)に制限し字体と訓(よ)みを可能な限り一つに収斂するように図り振り仮名の使用を原則禁止した。最も問題なのは日本語の両輪であった論理的機能を担う「漢文、漢文訓読体」を日本語教育の体系から排除してしまったことであろう。

 政治とは国という組織を運用する義務を背負う行為である。そのためには現実を「じっと見つめて、手にとって集め、選び出し、言葉を選び、言葉の筋を立て、論理へ、理性へ、」と展開する必要がある。こうした作業を「ロゴス」と呼ぶから「政治はロゴスである」と言っていい。今の政治家には日本語の両輪であった論理機能担当の「漢文、漢文訓読体」を使いこなせず「言葉の筋を立て、論理へ」展開できないからロゴスが欠け失言が頻発、政治が機能しないのだ。
 政治に留まらず経済の停滞も企業家のロゴス欠落が原因ではないかと危惧している。
(本稿は大野晋著「日本語の教室」、今野真二著「百年前の日本語」を参考にしています)。

2013年6月24日月曜日

丸谷才一編・花柳小説傑作選(講談社文芸文庫)

花柳小説とは「花柳界を舞台とする小説だけではなく、バーのマダム、女給が一働きも二働きもする小説も、私娼が暗い陰から現れる小説も含める」と丸谷は簡単に定義づけている。しかし丸谷は彼らしくこうも付け加えている。「日本の近代社会には西洋の社交界に相当するものは成り立たないまま来ている。しかし、芸妓が加わっている宴会には、にせにもせよ、一種の市民社会が一時的に成り立っていて、機知のある議論の応酬、男と女また男同士の出会い、交渉が生まれていた」と。ラインナップは「吉行淳之介、瀬戸内晴美、島村洋子、大岡昇平、永井龍男、丹羽文雄、里見弴、志賀直哉、永井荷風、織田秋声、佐藤春夫」といずれも名人上手であるから、短編であることも与って名文が揃っている。こうしたアンソロジーは名文を味わうと同時に「名文中の名句」を蒐集するのも大きな楽しみである。

 「しかし、その話は甚だしく退屈だった。彼女が物語を引き寄せて掬い上げるとき、たくさんのものが指の間からこぼれ落ちているにちがいなかった。異常である筈の物語に、私の予想できる範囲からはみ出すところが少しもなかった。(吉行「寝台の舟」より)」。男娼の過去語りを聞いた主人公の気持ちだが、我々も経験する『退屈さ』を見事に表現している。
 井上ひさしの「極刑」の次の一節はどうだろう。「人間を肯定してどこが悪い?なぜ、『よい』と『悪い』は、good とungoodで表現されるのか、どうしてunbadやbadでないか解るか。もっと抽象度を上げて言えば、人間は、goodを基準にということは肯定を基準に、『よい』『悪い』を表現するわけだよ。だからungoodはあるがunbadはないんだな。幸と不幸にしてもそうだ。幸という肯定的な状態を基準にして、幸ならざる否定的な状態を不幸と称する。つまり人間の基準はあくまでも肯定にあるんだよ。言語の成り立ちそのものの中に、人間は人生の明るい面を見るようにしながら生きていくのだという向日性のメッセージが含まれているわけだ。な、植田、人間否定の芝居からお互いそろそろ卒業しようや」。
 里見弴の「妻を買う経験」は本書中の白眉であるが―彼の小説はほとんど読んでいなかったが間違いなく名文家中の名文家であることを知った―そのうちから選んでみよう。「興奮の脱殻/彼の心を粗笨(そほん)にし、彼の貞操を猥(みだら)らにして(或る鉱山を手に入れた)/初めて手足が自分のものであったことに気づいたように感じた/総ての過去を「いい学問をした」という概念に一と括りにして、その上に今の己を矜持している人の話し方が常にそうであるように、一時の貧窮を語る彼の言葉さえ、内容に似ず、あまりに景気がよくなり過ぎたりした」。言葉の選び方作り方、文章に緊張感が漲る。
 最後に荷風の「妾宅」から。「『ふぜい』とは何ぞ。芸術的洗練を経たる空想家の心にのみ味わわるべき、言語に言い表し得ぬ複雑豊富なる美感の満足ではないか。しかもそれは軽く淡く快き半音下ったマイナーの調子のものである」「(コノワタは)苦味いとも辛いとも酸っぱいとも、到底一言では言ひ現し方のないこの奇妙な食物の味わいを(略)文明の極地に沈湎した人間は、是非にもこういう食物を愛好するようになってしまわなければならぬ。芸術はついに国家と相容れざるに至って初めて尊く、食物は衛生と背戻(はいれい)するに及んで真の味わいを生ずるのだ」。

 荷風という作家は死後急速に表舞台から姿を消し去ったような印象だが、荷風伝であるとか荷風研究といった書物は未だに多い、という不思議な存在である。それは多分彼が物書きだけでなくジャーナリストや出版に携わる人たちをも魅了してやまない巧緻極まる魅力的な文章を書いているからであろう。こんなIT時代だからこそ「書きことば」の訓練を根底から考え直さなければならないのではないか、このアンソロジーはそんな感懐を抱かせる一冊であった。

2013年6月17日月曜日

科学報道のあり方について(再考)

和歌山県の串本に釣り船と泊まりの仮小屋を持って釣り三昧を楽しんでいた友人がいる。ところが東北大震災以後、南海トラフの被害想定データが次々と公表になり危険が喧伝されたためすべてを手放してしまった。最近久し振りに串本へ行ってみると駅前の賑わいがすっかり影を潜めていてショックを受けたと語っていた。公表に関わっている政府や省庁、マスコミはこうした事態が全国各地で起こっているかも知れない、ということを検証しているのだろうか。
 一方で地震の「安全宣言」をした地震学者が宣言後に大地震が起こり被害を被った地元民から訴えられ有罪になったイタリアの例もある。
 
2011年の3.11東北大震災以降地震報道がすっかり様変わりした。地震学の権威が根底から失墜した反動かそれ以前の比較的安全に傾斜した報道と打って変わって、想定される最大被害を前面に出して防災減災の緊要性を訴える。メディアの報道姿勢は関係機関の公表データを垂れ流すばかりで、検証や批判がほとんどない。従って科学の知識のない一般市民は拠り所のない不安に追い込まれるばかりで串本のような結果を招いている。政治はこれに乗じて「国土強靭化計画」などとまたぞろ「土建国家」の再来を目論んで選挙利用しようとする。

我々はまだ『科学万能』という幻想を捨てきれないでいるのか。東北大震災で証明されたように『津波の予想』も『原発の安全性』も今の科学では保証できないではないか。「ビルの屋上からティッシュペーパーを落とした場合、どこに着地するかの予想は今の科学では不可能だ」と中谷宇吉郎は科学の限界を諭している。それでは科学とはどんなものなのだろうか。『科学の方法(岩波文庫)』で彼は凡そ次のように述べている。
自然科学は、自然の本態と、その中にある法則を探求する学問である。しかし科学というものには、本来限界があって、広い意味での再現可能の現象を、自然界から抜き出して、それを統計的に究明していく、そういう性質の学問なのである。加えて自然現象は非常に複雑なもので、われわれはその実態を決して知ることができない。複雑だということは、単に要素が多いということだけではない。分析と綜合の方法がきく範囲が狭く、その奥に、従来の科学の方法では扱えない領域が、広く残されているということである。従ってその中から、われわれが自分の生活に利用し得るような知識を抜き出していくのである。科学は自然の実態を探るとはいうものの、けっきょく広い意味での人間の利益に役だつように見た自然の姿が、すなわち科学の眼で見た自然の実態なのである。幸いにして自然界には、再現可能の原則が、近似的に成立する現象が多いので、そういう現象が、科学の對象として、取り上げられている。その再現可能の原則が近似的にあてはまる現象の一つの特質は、「安定」な性質である。ところが破壊現象では、極微の弱点が重要な要素として、現象を支配する。前の定義でいえば、不安定な現象である。こういう不安定な現象は、現在の科学では、その本質上、取り扱いかねる現象である。
科学を考える急所は問題の出し方にある。問題の出し方といえば、もちろん人間が出すのである。それで自然科学といっても、けっきょくは自然だけの科学ではないので、人間との連なりの上において存在する学問なのである。自然というものは、広大無辺のもので、その中から科学の方法に適した現象を抜き出して調べる。それでそういう方法に適した面が発達するのである。自然科学は、人間が自然の中から、現在の科学の方法によって、抜き出した自然像である。自然そのものは、もっと複雑でかつ深いものである。従って自然科学の将来は、まだまだ永久に発展していくべき性質のものであろう。
 
 地震は不安定な現象であり本来科学に馴染みにくい領域にある。いくつもの『限定と仮定』の付く学問である。メディアはその限定と仮定を読み解いて市民を啓蒙する責務を負っているのである。

2013年6月10日月曜日

今年の阪神は何故強いのか

 私の友人で生粋の東京人(実は逗子人)でありながら筋金入りの虎キチがいる。今年開幕前、彼にこんなメールを送った。「今年の阪神は要注意です。チームに本物のシン(芯)ができたからです。大躍進を恐れています。健闘を祈る!」。彼からの返信はこうあった。「イエイエ、おたくの巨人にはかないませんよ、今年も巨人の優勝でしょう」。
 首位を巨人と併走しセリーグ・ペナントレースを突っ走る阪神の好調を彼はどう見ているのだろう。巷間言われているように、西岡、福留などの補強の成功と超高校生ルーキー藤波投手の加入をその主因と考えているのだろうか。確かにそれも好調の一因だろうがもっと別のところにも原因があるというのが私の見方だが、その前に為末大の「勝利へのセオリー」を聞いてみよう。

 NHK・BS1で放映されている「為末大の勝利へのセオリー」。為末大がスポーツを戦略面から読み解く新感覚ドキュメントだが5月26日の「つなぐ力 大阪ガス陸上部コーチ 朝原宣治」でこんなことを言っていた。「日本陸上・短距離界は長い低迷に喘いでいた。五輪や世界陸上の決勝へ進出できれば上出来、と考えられていたから結果が最下位の8位であっても当然視されていた世代。それが末續(200M)為末(400Mハードル)の時代になって、頑張ればなんとかメダルに手が届くぞ、というレベルに達した。その集大成が北京五輪での『男子4×100Mリレー』の銅メダルである。バトンタッチを修練すればリレーのメダルは可能性があるとの信念でバトンタッチの技術を研鑽し、アンダーハンドパスという究極の選択で銅メダルが獲得できたのだ。そして現在の「桐生世代」になった。彼らは初めから世界レベルを視野に捉えて競技する世代である。このようにして、日本陸上・短距離界は三世代にわたってひとつづつ「意識の壁」を乗り越えてきて今日がある。ジャマイカが五輪の決勝に5人、6人ものファイナリストを送り込むのは彼らに『9秒の意識の壁』がないからだ。スポーツは肉体面、技術面も大事だがある程度のレベルに達すると『意識の壁』をどう切り崩していくかも大事な要素になってくる」。

 阪神はここ10年以上、金本、新井や下柳、矢野といった移籍組を中心戦力としてペナントを戦ってきた。チームのシンも彼ら移籍組が務めたが彼らの活躍が直接チームの底上げにつながることはなかった。今年、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で鳥谷、能見の両選手が大活躍した。とりわけ鳥谷選手は輝いていた。これをみて、「生えぬきのチームのシン」ができたと感じた。「本物のチームのシン」ができたことで選手の力が収斂しチーム力がアップする。迷いの無くなった若手は練習に方向性が出てレベルアップが加速するかもしれない。
 新人で入団しプロ生活を阪神で始め育った選手にとって不安なのは「今の練習で一流にのし上がれるだろうか」という疑念である。例え金本選手が大活躍しても彼はよそのチームで育った人だから自分の喜びに直結しない。むしろ生えぬき選手に抜きん出て移籍組が活躍すればするほど、自分の今が正しいかどうか、不安の方が大きいかも知れない。しかし生えぬきの鳥谷や能見がWBCメンバーの中で遜色のない、いや目立って活躍したとなれば「阪神方式」の正当性が証明されたことになる。
 阪神の選手の心の中に長い間、シコリとなってわだかまっていた阪神方式への不安という『意識の壁』が払拭されたのだ。プロになるような選手はある意味で天才といえるのだから、為末さんのいう『意識の壁』を如何に切り崩していくかが選手として大成する重要な要素になる。それは陸上競技も野球も同じだと思う。
 
 今年はもう巨人と阪神のマッチレースだ。このままデッドヒートを演じれば巨人ファン阪神ファンにとってはたまらない一年になる。

2013年6月3日月曜日

傍目八目(25.6)

 シャープが「4K」テレビを65万円(60型)で売り出し起死回生を図るらしい。「4K」テレビというのは解像度が現在の薄型テレビ(フルハイビジョンHD)の約4倍あり画像が格段にキレイなテレビで次期主力機種であるという。しかしもしシャープ(日本の家電業界も含めて)が「4K」テレビで業績回復を願っているとしたら可能性は極めて低いと思う。薄型テレビは地デジ移行という国の電波行政の一大転換が「外圧」になったから仕方なしに、別に必要もないのに無理やり買い替えさせられた側面が強い。機器は良くなったが内容(番組)は旧態依然、というよりもむしろ面白くなくなっているから視聴時間は以前より減少している。テレビがそこにあるだけで「娯楽」になった時代はとっくに終わっている、今や情報メディアのひとつに過ぎない。見るべき番組もないのに馬鹿でかい、インテリアまがいのテレビを65万円も出して購買する「もの好き」がどれほどいるであろうか。
現在の放送体制のもとでテレビが爆発的に売れるということはほとんど考えられない。テレビを情報メディアとして根本的に見直す以外にテレビが家電の主力商品になることはないと断言する。

史上最高齢の80歳で世界最高峰のエベレスト登頂に成功した三浦雄一郎さんの偉業を讃えて「三浦賞」を創設しようという動きが政府筋にあるらしい。高齢者の挑戦や活躍を表彰するものだというが、如何なものか。正直言ってマスコミ、特にテレビが大騒ぎするほど一般市民は熱狂していない、極めて冷静である。
この度の登頂行の報道に初めて接したとき、何と傍迷惑な!と思った。三浦氏が特別な体力と能力を持っていることは間違いない。しかし今回の登頂に関しては何十人という若い人たちの援助があってはじめて可能な事業であった。実現に向けた裏方さんを含めれば数百人の協力があったことは間違いない。三浦氏でなくても同程度の力を有した人であれば「偉業」は成し遂げられた、と感じた人は少なくないのではないか。「一将功成って万骨枯る」という古い俚諺が思い浮かぶ。
大体「年寄り」は『挑戦』などしない。人類の経験したことのない「高齢人生」にあるのだから既存の価値基準を超越したところで生き方を模索せねばならず、これまでの延長線上で高齢者を見ることがかえって「失礼になる」こともある。ましてや選挙目当ての人気取りなど以ての外である。

密教の聖典に「理趣経」という経文があり、男女の性的オルガスムによる魂の救済を説いているという。知識人はこの経典の思想を研究していたし、一般人も信仰によってこの趣旨を説かれて、その肉体的快楽を通しての真理への到達という思想に慣れ親しんでいた。
これは中村真一郎の評論集「私の古典(王朝の文学・『色好み』の変遷)」にある挿話だが、更にこんな記述もある。
「医心方」という当時の宮中で用いられていた医学概説書の「房内篇」にセックスについてこう書かれている。「中国の陰陽思想によってセックスを男が女から生命的エネルギーを吸収する行為であるとし、男は一日に十一回、それも異なる女と交わるのが、健康上、理想的とされる。(略)こうした考え方はセックスが健康管理であって、今日のスポーツに相当するのだろう」。
源氏物語などの王朝文学に表れる貴族階級の貴人の「乱交」とも思える放縦な性交渉の裏に、こんな宗教的医学的常識があったということは、新鮮な驚きである。

五月雨や 大河を前に 家二軒 (蕪村)
立て縣て 蛍這いけり 草箒  (漱石)

2013年5月27日月曜日

江戸を見直す

 私の友人で何の前触れもなく突然「膵臓がんの末期です。余命半年でしょう。」と診断、宣告された男がいる。絶望する彼に日頃昵懇の地元商店街理事長が「騙されたと思って…」と紹介したのが漢方と鍼・マッサージの施術師であった。それから9ヶ月、1回が10万円を超える保険の利かない高額な治療だったが見事全快して、例年の同窓会に元気な姿を見せた。

 明治維新はそれまでの日本文化を全否定して西欧文明化=近代化に邁進した。医学もその例外ではなかった。結核や伝染病などの感染症が国民病であった時代は西洋医学が威力を発揮し不治の病と言われた結核も克服された。しかし高度成長を経て先進国の仲間入りを果たし成熟段階に達した現在、生活習慣病が主体の治療体制を整えることが求められる中で、西洋医学一辺倒のあり方に疑問が投げかけられている。医薬品の高機能化、検査器具の高度化と高価格化、治療の機械化など治療の細分化・精密化と医療費の高騰は、費用対効果の面から又患者のQOLクオリティ・オブ・ライフ面からも医療のあり方に再考が求められている。
 今進められている日本経済再興の最大の問題点―農業も同様である。200年以上に亘って郷農や地方の篤志家が蓄積してきた「日本農法」を完全無視して新たに西洋農法による日本農業を開発しようとして明治政府が開設した「農事試験場(後の東大農学部)」。招聘された外国人お雇い技師は酪農の専門家であったし研究員は農業とは無縁の武士階級の人たちであったから米作主体の日本農業の開発拠点としての農業試験場の体裁を整えるまでには相当な迷走期間があったようだ。しかしその名残は今も少なからず残っているようで大規模・単作農法など米国流の大規模農業が唯一の解決策であるかのような現在の方向性には少なからず疑問を感じる。
 
 こうした明治維新以来の我国のあり方に中村真一郎がその著「江戸漢詩」で文化面からの疑問を呈している。「一体に、明治維新によって、日本は近代に突入したというのは、経済史、政治史的には一応、常識であるとしても、都市市民の感受性の歴史、文化史のうえでは、江戸後期の文明の爛熟と頽廃は、ロココ以来のフランス王政末期のそれや、あるいは同じフランスの今世紀の第三共和制末期の状態にも比するべく、そして、維新を境として西南諸藩から入京して来た、若い地方人たちはこの近代的感覚の頂点に達した旧江戸文明の担い手たちを、江戸から追放することで、感覚のうえでは、より古風な甚だ堅実、素朴、禁欲的、男尊女卑的な気風を、新しい東京の街にゆきわたらせることによって、感覚の歴史を逆転させることになった(p14)」。江戸・京都・大阪などの都市部で西欧諸国に比すとも劣らない発展を遂げていた文化の程度が、後進の地方武士階級が政府の要職を占めたために、100年以上後戻りして古い儒教的道徳や価値観で国の運営が行われるようになったことは、今から思うと誠に残念な勿体無いことであったと言える。また現在成長戦力として「女性の活用」が叫ばれているがこれについても「近世後期における学芸の普及は、多くの女性の知識人をも生み出すに至った。たとえば諸藩の奥向に仕える女中たちは、採用に際して音曲などと同様に、学問の試験を受けたのだし、知識階級や富裕な家庭の娘達が、専門の学者について学ぶというのは、一般の風潮となった。/開明的官僚であった老中、阿部正弘の福山藩では、初等教育において夙に西洋風の男女共学の実験が行われていたし、教養の一致はおのずと男女平等の気風を、知識人の間に拡げていった(p221)」と記している。

 国粋主義的復古趣味ではない「日本文化」の見直しが必要な時代である。

2013年5月20日月曜日

私ご遠慮いたします

 我が国の億万長者は100万人とも200万人とも言われている。最近のある統計では140万人になっていたがそのうちの80%を高齢者が占めている。今仮に高齢者の億万長者で厚生年金受給者が100万人だとするとその年金額は1年で2兆円を超える。厚生年金の平均支給額は年間200万円超であるから月額18万円程度の年金支給がなくても億万長者の彼等は生活に困るということはないであろう。もし彼らが「私、年金の支給をご遠慮いたします」と言ってくれれば国の財政にとって大変有難いことになる。年間の税収約40兆円社会保障費合計約26兆円だから社会保障費の1割弱税収の5%が節減できるのだから影響は大きい。財政再建が喫緊の課題になっている現在、どうして日本経団連などの財界大物が提案しないのか不思議でならない。
 考えてみて欲しい、年金は積立方式ではなく「賦課方式」なのだ。現役の若い人達が年金を負担してくれているのだ。総所得(雇用所得や財産所得などに年金所得を加えたもの)の平均年額は65~70歳世帯458万円、70~75歳世帯429万円なのに対して30~34歳世帯は477万円になっていることを知れば上の提案は決して無理押しでないことが分かろう。更に医療費に目を転じると国民医療費全体(10年度)に占める高齢者の医療費は65歳以上分が55.4%、うち後期高齢者(75歳以上)分が33.3%に達している。ある試算によると50年度には65歳以上の医療費がほぼ4分の3を占めるようになると予測している(データは2013.5.17日経「経済教室・小塩隆士一橋大教授」より)。
 年金・医療費をなど高齢者は出来る人から既得権を放棄することを考える時期に来ているのではないか、「私ご遠慮いたします」と。

 若者の失業が世界的に問題になっている。ILO(国際労働機構)の13年見込みによると若年層(15~24歳)失業率は12.6%と全年齢の6.0%を大幅に上回っておりなかでも中東、北アフリカ、EUは20%を超えて深刻化している。EUは金融危機から脱するための緊縮財政が求められているから失業中の若者の不満は国を混乱に陥れる恐れさえある(財政再建に迫られている我が国も決して他人事ではない)。
 我が国の若年層の失業率は12年8.2%で世界平均より低いが国内の全年齢4.3%を大幅に上回る。加えて失業期間が10ヶ月以上に長期化しているから事態は深刻だ。これに非正規雇用者の35%(これはOECD加盟国中韓国イタリアに次いで3番目に高い)を加えると実に半分近い若者が不安定低所得な雇用状態に置かれていることになる。彼等は教育や訓練を受ける機会に恵まれないから職務遂行能力が著しく毀損される恐れがあり長い目で見れば我が国の労働生産性が劣化することは間違いない。グローバル化が進展し製造業中心から頭脳労働中心のサービス産業に産業構造を変革しなければならない我が国にとって著しい問題である。根本的な対策を早期に講じる必要がある。
 安倍政権の成長戦略の一つとして「限定型正社員」の創設を打ち出しているがこれを現在の正社員にも適用を広げるべきだ。正社員は仕事の中身、勤務地、労働時間が無限定な職務を負っている。そのため長時間労働が常態化しそれによる疲労が創造性の欠落を招き日本企業の独創性イノベーション力の貧しさにつながり国際競争力の減退を招いている。
 そこで提案だが「現在の正社員」の職務をジョブ・ディスクリプション(職務記述書)で限定化を図り残業時間を削除し、取り除かれ掬い上げられた労働時間と職務を「ワークシェアリング」して若者に分与してはどうか。連合などの組織労働者、とりわけ国労や自治労の公務員が率先して取り組んで欲しい、「お役所仕事」はとなりの仕事も分からない程職務が分離・確立しているのだから。
 連合の皆さん「私、定時勤務を超える仕事を、ご遠慮いたします」と申し出てくれませんか。

2013年5月13日月曜日

私の中央銀行論

 黒田日銀による「異次元の金融緩和」が行われアベノミクスに弾みがついた。米欧につづいて我が国も超金融緩和に踏み込んだことで先進国はすべて従来の中央銀行では考えられなかった「非伝統的金融緩和」を実施したことになる。極めて専門性の高い金融理論の知識のない我々はこうした状況をどう理解すればよいのか。
 
 20世紀は「戦争の世紀」だった。世紀初頭の第1次世界大戦と紀央の第2次世界大戦、そして冷戦とその終焉が世紀末に及び大きな戦争だけで世紀を通観することができるがそれ以外にも絶えることなく世界各地で地域紛争が戦われていたのだから正に20世紀は戦争の世紀であったといえる。この間英国が基軸国から転落しその後を襲った米国の基軸国としての世界制覇、そして冷戦のための経済戦争に疲弊した社会主義国ソ連邦の消滅と世界の勢力地図は激しく変貌した。
 戦争の経済は「戦費と戦後復興資金」の調達という厖大な資金を中央政府が市場から吸い上げる「大きな政府」の経済である。このため市場で流通する財・サービスと流通資金量は絶えず不均衡な状態に陥る危険性をはらんでいた。流通資金量は何かを引き金に突然流通する財・サービスより不足し物価騰貴する可能性があったから中央銀行は「インフレ」の危険性に細心の注意で臨む必要があった。中央銀行に求められたのは「物価の番人」として「インフレ」を招かない機能であった。
 20世紀最大の金融的パラダイムシフトは「ニクソン・ショック」による金本位制の終結であろう。金(銀)への兌換性が保持されることによって流通資金量の創出が金(銀)の保有量によって制限されていたものが基軸国アメリカの金本位制の放棄によって規制のタガが外されてしまった。事実これ以降アメリカの流通資金の創出は基軸国の立場を利用した、ある意味「野放図」なものとなっていった。そしてこのことが今起こっている金融緩和の伏線になっている。

 冷戦終結以後21世紀は戦争に変わって経済のグローバル化に伴う「世界市場の拡大」が世界経済の攪乱要因として顕在化した。アメリカを中心としたG5やG7の先進国主導の経済体制は終焉し現在の混沌とした「Gゼロ」の世界経済体制に変貌した。
グローバル化の特徴は、世界経済が耐えず「供給過剰」の状態にさらされることであり、とりわけ工業製品はその傾向が強い。我が国や韓国、また現在の中国等の新興国の例を見ても明らかなように、世界市場に新規参入する後進国はまず「工業化」するからである。工業は多くの場合「資源消費型産業」である。資源は有限であり、その有限の資源をG5であったりG7という限られた国で利用できていた「先進国有利」の状態が崩壊してG20の競争状態に突入している。新規参入国は今後益々増加し続けるであろうから工業製品の供給過剰状態は21世紀の「定常的特徴」として受け入れなければならない。この状態を金融面から見ると「市場に流通する資金量」が流通する財・サービスに比して絶えず「不足」する傾向にあると考えられる。
グローバル化による工業製品の「世界的供給過剰」を解消するために不足する流通資金を世界の市場で流通している「ドル、ユーロ、円」を投入することで均衡を図る、こうした過程が現在先進国の行っている「非伝統的金融緩和」の実態ではないだろうか。

 中央銀行、特に先進国中央銀行の20世紀と21世紀における機能の変化―インフレ抑制のための「物価の番人」から非伝統的金融緩和による「世界市場への流通資金の供給者」への変化を、私はこう理解したのだが……。

2013年5月6日月曜日

人はなぜ勉強するのか《続》

では人はなぜ勉強をするのか。
 山極教授はこう言っている。「科学という学問は友達を作り、自分の思考を磨くものであるはずだ。」「ときには異なる知識や違う能力をもつ人々がチームを組み、役割を分担して目標達成に挑む。その際は、自分が抜き出ることより、それぞれの能力を生かして助け合うことが必要になってくる。(略)個人の競争ではなく、チームワークが良い結果につながるのである。」「科学は文化や宗教の壁を越えて常識を作る。それはこれまで科学の道を志した人々の無数の問いによって更新されてきた。その世界は功名心ではなく、新しい発見と事実に基づいて未知の扉を開けたいという謙虚な心によって支えられてきた。」こう述べたあと教授は次のように結論をいう。「科学は世界の見方を共有して友を作り、平和をもたらす大きな力になる。」と。
 グローバル化し複雑化した現代では、異なる学問領域の協業や複数の国家が連携して取り組まなければ解決しない問題がほとんどである。こうした背景を認識すると山極教授の言葉がにわかに現実味を帯びてくる。科学の知識を生かして競争に勝ち、多くの報酬を個人的に得るというこれまでの成功のイメージが実は可能性が薄いことなのだということが実感できるであろう。
 余談だが科学を政治に置き換えると「政治は世界の見方を共有して同士を作り、平和をもたらす大きな力になる」となる。ところが現実の政治は選挙のたびに異なる同士で政党を作り、選挙に勝つために世界の見方を共有しない政党に移ることが平気で行われているから、「政治が機能しない」ことになる。そもそも政治は学問とは無縁なのかもしれないが。
 
 なぜ学問(勉強)をするのか、という問いの究極の答えは「ひとを愛するため」と私は考えている。社会心理学者のエーリッヒ・フロムの語る愛はスバリ私の考えを代弁してくれている。「近親相姦は、子宮のぬくもりと安全性の象徴であり、大人の自立とは裏腹の臍の緒依存の象徴である。人は「知らない人」を愛することができてはじめて、自分自身を認識することができ、別の人間の核心に自分自身を関係づけることができてはじめて、ひとりの人間としての自分を経験することができる。(略)「知らない人」、自分と違う社会的背景をもった人を愛することができない限り、性的な意味ではなく性格学的な意味では、今でも近親相姦を行っていることになる。人種偏見や民族主義的偏見は、現代文明における近親相姦的要素の現れである。われわれは、一人ひとりが知らない人のことを兄弟のように考え、感じ、受け容れることができるようになってはじめて、近親相姦を克服したことになるのである(「愛と性と母権制」p60)」。
 人はひとりでは生きていけない、他人の間で生きていくしかない。他人は自分とは異なった考え方をしている。従って異なった考え方を理解することが即ち「生きていく」ことにつながる。学問は「物事の考え方、およびそのための用具と訓練」であるから学問を学ぶことは異なった考え方を理解できる力になる。大事なことは「用具と訓練」という表現である。ひとつの学問を身に付け、そのための用具を手に入れて考え方の訓練をするということを具体的に説明するとこうなる。私は経済学を勉強した。経済学という考え方とそのツールを手に入れたわけだが、あらゆる現象や事柄を「経済学の眼=用具」で理解するには相当の訓練が必要になる。大学で経済学を学んだだけでは経済学を習得したことにはならないのである。マックス・ウェーバーがわざわざ「用具と訓練」を付け加えているのはこういう意味である。勉強をしたい、学問を追求したいという「抑え難い欲求」は誰にでも一度はあったはずだが挫折し「勉強嫌い」になる原因は訓練に耐え乗り越えることができないところにある。
 フロムがいうように知らない人を愛し「知らない人のことを兄弟のように考え、感じ、受け容れる」にはその人の考え方を理解する必要があり、そのためには訓練が必要なのだが挫折してしまうことが多い。すると「大人の自立とは裏腹な近親相姦的な子宮のぬくもりに包まれた安全な臍の緒依存」に頼ってしまうことになる。昨今の社会情勢を見ると自分でない人(たとえそれが我が子であっても肉親であろうが)、「知らない人」を愛せないで苦しみ悩んでいる人のいかに多いかが分かる。それがひいては、人種偏見や民族主義的偏見に結びついて不幸な戦争に発展することも少なくないのである。

 人はなぜ勉強するのか。それは、人を愛するためである、と私は考える。

2013年4月29日月曜日

人はなぜ勉強するのか

  新入生が「5月病」にかかる時期になってきた。そこで「人はなぜ勉強をするのか」について考えてみよう。

 何時だったか関西お笑い芸人の放談番組があってそのうちの一人が「勉強なんかせんでもエエ!生きていくには知恵があったらええんや!」と言っていたのを記憶している。MCの芸人の「そうでんなぁ」に一同大喝采で番組は終わったのだが、もしこの言葉を子ども達が鵜呑みにしてしまったら困ったことになるのでこのことから考えてみよう。というのも意外と多くの人がこれと同じ考えを持っているからだ。
 人はいろいろな情報を収集しながら生きている。情報の量は厖大でバラバラでは使いにくいからある「固まり」として捉える方が勝手がいい。その固まりが「知識」でありそれが高次に体系づけられ深化したものが学問になる。固まりは歴史とか科学や文学などに分類される。学問が実際生活にどのように関与するかについてマックス・ウェーバーは「物事の考え方、およびそのための用具と訓練」であると言っている(「職業としての学問」から)。学問を初学的に再編したものが「教科」であり学校で勉強するのはこの教科である。人は情報や知識を習得する過程で便利のために自分に都合の良い「価値基準」をつくりだす。価値基準ができるとそれまでのように何でも習得するのではなく基準によって知識や情報を取捨選択するようになる。その取捨選択された知識と情報の体系が「知恵」である。従って知恵は個人的なものだと言えるし、選択されているから「偏り」があり「幅が狭い」。勉強するのはこの「偏り」をできるだけ排除し「狭さ」を広げるためであると言っていい。
 知恵だけでも生きていけるが、勉強をしたほうが偏りを少なく幅広く「物事を見、考える」ことができるようになる。勉強は決して無駄なものではない。

 学校へ行き勉強するのは「就職」のため、という考え方もある。それについては山極寿一京大教授が毎日新聞の「時代の嵐(2013.3.31)」に書いていることが参考になる。「高校生たちがもし、研究者という職業に憧れて科学をやろうと言うのなら、それは間違いだと私は思う。科学は職を得るために志すものではないからだ。新しい発見をしたい、未知の世界を見たい、常識を変えたいという気持ちが科学への興味を高めるのであって、科学が職業を約束するわけではない。」更にこう続けている。「ひょっとすると、大学入試をゴールとする小、中、高校を通じた受験勉強が、成績重視の競争意識を駆り立てているのかもしれない。出された問題の正解にいかに早くたどりつくかが成績を左右し、その競争に勝つことがいい進路と将来につながるという考えが蔓延している。いい成績は優秀な研究者の道を開き、個人に栄誉をもたらすとの錯覚を生み出してはいないだろうか」。
 世の中には多くの学校がある。小中高の初等中等教育を経て大学(院)で高等教育を受ける我が国の教育体系は過度に「単線化」している。そのために山極教授の言う「いい進路と将来につながるという考えが蔓延」する結果になっているのではないか。しかし実際は「いい進路を通じていい職業に就く」ための学校ラインと「研究し学問をする」ラインのふたつがある、と考えた方がいい。それは学校別でもあるし同じ学校の中にもある。そして今の我が国はどちらかといえば「職業に就く」ための学校の方が圧倒的に多いかもしれない。その証拠として世界標準の大学ランキングで上位に入る大学が数校に過ぎないという現実がある。
 学校へ行き勉強するのは就職のためだ、と考えるのも間違いではない。しかしそうでない勉強―学問をするのは、もっと別のことのため、だということを知る必要がある。《続》

2013年4月22日月曜日

教育の責任とは

 この時期、毎夜2時頃になると一旦眠りが途切れる。晩酌の酔い覚めと尿意のセイだと思うが胎内時計が冬型から春型に調整しているのかもしれない。その証拠にこの時期を過ぎると太陽が昇る時間(今なら5時過ぎ)に目覚めるようになる。勤めがあったときは明日を考えて無理にでももう一度眠ろうとしたものだが今は枕元の読みさしの本を好きなだけ読むこともある。こんなとき、しみじみ年金生活は有難いと思う。
 
 人間の体は実に良く出来ている。それに比べて世の中の仕組みはどうも旨くいってない。尖閣、竹島の領土問題や理不尽極まる「反日運動やデモ」で日中、日韓の関係がギクシャクしているのは両国の日本教育が原因だということは周知のところである。誤った歴史観(我が国にとって)や反日教育が今日の状況を生み出しているのであって、教育が政治権力に隷属し手段として使われることの悪弊は明らかだ。にもかかわらずまたぞろ我が国でも教育を権力の麾下に置こうとする動きが頭をもたげている。政府の教育再生実行会議が提言した教育委員会制度改革にある「教育長を自治体首長が直接任免できる」体制のことだ。
 そもそも教育委員会制度は戦前の軍国主義教育が我が国を第2次世界大戦へと突き進ませた根本的な原因であるという「反省」にたって戦後教育改革の重要な柱として導入したものである。教育の政治からの独立性を保証し権力のためでなく国民のための教育を実現する制度を目指した。そのため教育委員は公選制であったがいつの間にか首長の任命制に変えられた。そして教育長は委員の互選で決められていたのが今回の提言で教育長も首長の直接任免性に変更されるという。我国の初等中等教育は教科書も国の検定のもとにあるから(先進国で検定制をとっているのはドイツくらいでその他の国は自由採択か認定制をとっている)教材も教育行政も独立性を著しく損なわれることになる。
 
 今回の再生会議の提言は明らかに我が国初等中等教育の改悪である。が、現行の教育委員会制度がこのままでいいということではない。「教育ムラ」で委員会が占拠され閉鎖的密室的な教育行政に陥る危険性の高い現状を改め責任の所在を明確にするよう早急に改革されるべきである。
 現行の中央集権的教育制度は大まかにいって明治維新に形成されたがその前の江戸時代は藩別に藩校を設け特色ある武士教育を行っていたし、平民は地域の私塾や寺子屋(主に子ども)で教育を受けていた。こうした歴史は我が国固有のものでなく世界共通の傾向であり教育というものは本来自生的で地方分権的であるのが自然な形なのである。従って改革の方向性は「地方分権」であり、「教育行政の専門家集団」を育成し彼らが主導権を執る教育委員会を目指すべきである。政治からの独立性を担保することは当然だが教育の実行者と教育行政の峻別も重要な視点である。

 しかし、教育の責任とは何なのだろうか、そして教育委員会の責任とは。改めて国民相互の意思の共有化を図るとともにこれ以上公教育を劣化させないことが我が国再生の根本であると考える。

2013年4月15日月曜日

バブルの物語

 アベノミクスと日銀の黒田総裁による「異次元の金融緩和」の相乗効果で円安・株高が加速しているが、デフレ脱却に繋がるか注視していく必要がある。しかし一時1兆円を割り込んでいた東証1部の売買代金が連日3兆円を超え日経商品指数(17種平均)が150に近づく勢いを見せているのを見ると大いに期待が膨らむ。一方今の時点で「円安による物価高」を非難するマスコミの定見のなさに注文をつけておきたい。これは当然予想されていた「過程」であり、「過剰な円高」を解消して「通常のあるべき状態」に日本経済を引き戻し世界市場での「適正な競争」を実現するために避けて通れない「物価高」である。この試練を超えて日本経済の成長力を復活させなければ「デフレ脱却」は実現しない。視聴者受けを狙った「市民の味方」を装う愚かさをマスコミは恥ずべきである。

 気が早いかもしれないが転ばぬ先の杖を慮って「バブル」について考えてみたい。テキストは「新版・バブルの物語(ジョン・K・ガルブレイス著 鈴木哲太郎訳)」である。
 「(バブルという)あらゆる金融上の革新は(略)資産を『てこ』とした(略)負債創造(が実体なのだが)それは(今まで何度も繰り返し行われてきた)やり方を変えただけのことであるにすぎない。これまでのあらゆる危機は、基礎となる支払手段に対して負債が危険なほど多すぎるようになったことに関連するものであった」。
 では何故こんな分かりきった愚かさが繰り返されるのか。「金融上の記憶というものは、せいぜいのところ20年しか続かないと想定すべきだ、ということである。或る大きな災厄の記憶が消え、前回の狂気が何らかの装いを変えて再来し、それが金融に関心を持つ人の心をとらえるに至る、というまでには通常20年を要する。またこの20年という期間は、新しい世代の人が舞台に登場し、その先輩たちがそうであったように、新世代の革新的な天才に感銘するに至る、というまでに普通要する期間である」。
 バブルを防ぐにはどうすればよいのか。「唯一の矯正策は高度の懐疑主義である。すなわち、あまりに明白な楽観ムードがあれば、それはおそらく愚かさの表れだと決めてかかるほどの懐疑主義、そしてまた、巨額な金の取得・利用・管理は知性とは無関係であると考えるほどの懐疑主義である」。具体的には「金と密接にかかわっている人たちは、ひとりよがりな行動や、ひどく過ちに陥りやすい行動をすることがありうる、さらにそういう行動をしがちである、ということである」。更に「興奮したムードが市場に拡がったり、投資の見通しが楽観ムードに包まれるような時や、特別な先見の明に基づく独特の機会があるという主張がなされるような時には、良識あるすべての人は渦中に入らない方がよい。これは警戒すべき時なのだ」。

 バブルと政府の関係はどうか。「アメリカにおいては、政府というものは自由企業・自由市場の敵であると考えるのが古典的な伝統になっていて、政府は傍観者である。ところが日本では、政府は資本主義的活動の―マルクスの用語を使えば―「執行委員会」である。安定を支え、投機の行き過ぎを予防するために、政府も一役買うだろうと考えられている」。

 「暴落の前には金融の天才がいるということはウォール街の最も古い通則であり、今後もこの通則が再発見されることになるであろう」。ガルブレイスの警告である。

2013年4月7日日曜日

競馬と騎手の関係

  先日京阪電車で。途中から私の隣にひとりの女性がフワリと座ったとき幽かに「樟脳」の匂いがした。アレは決して「タンスニゴン」ではなかったし、今はやりのウォークインクローゼットでなく洋服箪笥の抽き出しに重ねて仕舞われていた春物のブラウスとフレアスカートの樟脳の香りであったと思う。顔を上げて彼女を覗うのを憚ったので幾つくらいのどんなひとなのか知らないうちに降りていってしまったが、柔美な女性に思われて少しばかり嬉しい気分だった。

 春である、桜花賞の季節が又巡ってきた。今年は百花繚乱で大混戦が予想されている。こんな時は騎手に重きを置いて馬券を買ってみるのも面白い。
騎手を中心に競馬を見るようになったのは10年ほど前からであるがここ数年は福永祐一と浜中俊に注目していた。福永はご存知天才騎手福永洋一の息子さんだが一昨年やっと父の名声の重さを乗り越えてリーディングジョッキーになった。浜中も成長著しく昨年福永に変わって最多勝利を挙げたが残念なことにGⅠの勝ち鞍がなかった。しかし今年は早々にフェブラリーステークスをグレープブランデーで勝って幸先の良いスタートきっている。
 JRAのレース数は年間3400位であるが勝利数トップ20の騎手で勝ち鞍の約50%を占めている(2011年1647勝、2012年1690勝)。中央開催(東京・中山・京都・阪神)と同時に行われる地方の競馬場のいわゆる裏開催レースを除くと約2700レースになりトップ20の勝率は60%以上に跳ね上がる。桜花賞のようなGⅠレースの殆どは中央開催で行われ騎乗騎手の多くはトップ20のことが多いからGⅠレースをトップ20中心に勝ち馬検討を行っても決して無謀ではない。

 今年の桜花賞の特徴は例年(?)のことながら関東馬が18頭中6頭と少ないことで、従ってリーディング上位の蛯名、横山典、内田等に騎乗馬がない。もうひとつの攪乱要因はM.デムーロ騎手の急遽の参戦だ。短期免許を取得して5月5日まで騎乗することになったがタイミングが如何にも桜花賞狙いの感じがして不気味である。更に2010年怪我で長期離脱して以来低迷を続けていた武豊騎手がようやく本格復帰し先週も海外遠征をこなしていたから今年は目が離せない。
 有力馬をピックアップすると③クラウンロゼ(三浦皇成)⑥ローブティサージュ(秋山)⑬クロフネサプライズ(武豊)⑤ウインプリメーラ(和田竜二)⑭レッドオーヴァル(M.デムーロ)⑱メイショウマンボ(武幸四郎)⑮ナンシーシャイン(大野)⑯ジーニマジック(川田)にディープインパクトの異父妹⑫トーセンソレイユ(シュタルケ)が挙げられる。これ以外のトップ20騎手の騎乗馬では⑰コレクターアイテム(浜中)に注目。④サンブルエミューズは力不足と思うが岩田が怖い。

 今年の注目騎手は三浦皇成、川田将雅の若手に復活武豊騎手と考えているので最有力は③クラウンロゼ⑬クロフネサプライズ。次位が⑭レッドオーヴァル⑱メイショウマンボ。押えは⑥ローブティサージュ⑯ジーニマジック⑰コレクターアイテムに⑫トーセンソレイユを加える。混戦必至だからこれ以上手を広げるのは得策ではないが、やっぱり岩田は怖いか?

 それにしても外人騎手と地方競馬出身騎手は強い。中央競馬生え抜き騎手よ、頑張れ!

2013年4月1日月曜日

老を嘆くの辞

 横井也有(1702~1783)の「鶉衣(うずらころも)」は軽妙洒脱な筆致から俳文の名作とされている。そこにある「歎老辞(おいをなげくのじ)」も深刻にならず諧謔を混じえながら老いの真を訴えてくる。

 「老はわするべし、又老はわするべからず。二つの境まことに得がたしや」。70歳を超えてくると如才なさと怠惰と狡猾さが身に付き「年寄り」を上手に使い分けるようになる。都合のいい時だけ年寄りぶって、と家族に嫌味を言われることも少なくない。「若い人に好かれようと知ったふりをしても、耳が遠くなっているから聞き間違えたり、若者言葉が分からなくて頓珍漢なことをしてしまう」と也有は嘆く。又、芭蕉は五十一西鶴は五十二で死んでいるのに、病弱にもかかわらず私はもう五十三にもなってしまった、と自嘲しているがこの感覚は自分の両親よりも長生きした時の感懐と似たものだろう。

 ではどれ位が頃合かといえばこんな答えを用意している。「ねがわくば、人はよきほどのしまひあらばや。兼好がいひし四十たらずの物ずきは、なべてのうへには早過ぎたり。かの稀なりといひし七十まではいかがあるべき」。兼好法師が徒然草で言っている四十歳は早死すぎる、かと言って杜甫が古来稀なりとした七十歳は如何なものだろう、というのだ。
 徒然草第七段は次のような文になっている。「住み果てぬ世に、みにくき姿を待ちえて何かはせん。命長ければ辱(はじ)多し。長くとも四十(よそじ)に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。」   永久に住みおおせることのできぬこの世に、生きながらえて、みにくい自分の姿を迎えとって、何のかいがあろうか。命が長ければ、それだけ恥をかくことが多い。長くても四十に足らぬくらいで死んでゆくのこそ、見苦しくない生き方であろう。「そのほど過ぎぬれば、(略)ひたすら世をむさぼる心のみ深く、もののあわれを知らずなりゆくなん、あさましき。」その時期を過ぎてしまうと、(略)ただやたらに俗世間のあれこれをむさぼる心ばかりが深くなって、この世の情趣もわからなくなってゆくのは、まったくあさましいことである。(小学館新編日本古典文学全集44より)。
 杜甫の詩はこんな風である。「朝廷を退出すると毎日毎日春の衣を質に入れ、そのたびに曲江のほとりで泥酔している。酒の借金は普通のことで行く先々にできている。『人生七十古来稀なり』それというのも人生七十まで生きることが昔からめったにないから、今のうちに存分に楽しんでおきたいのだ」(「曲江二首」石川忠久訳)。

 歎老辞で最も注目したのは次の一節だ。「もし蓬莱の店をさがさんに、『不老の薬はうり切れたり、不死の薬ばかりあり』といはゞ、たとへ一銭に十袋うるとも、不老をはなれて何かせん。不死はなくとも不老あらば、十日なりとも足りぬべし」。不老不死は欲しいが「不老のない不死だけの薬」など一銭で十袋やると言われてもいやだ。不老なら例え十日の命でも十分だ、というのだ。

 医学の進歩と社会保障制度の充実で『不死』ではあるが杜甫の言うような「存分な人生の楽しみ」を堪能しているかどうか、はなはだ自信がない。

2013年3月25日月曜日

田舎漢

「福(さきはひ)の いかなる人か 黒髪の白くなるまで 妹(いも)が音(こえ)を聞く」自分は恋しい妻をもう亡くしたが、白髪になるまで二人とも健やかで、その妻の声を聞くことのできる人は何と幸せな人だろうか、羨ましいことだ。「吾背子(わがせこ)を 何処(いずく)行かめと さき竹の背向(そがひ)に宿(ね)しく 今し悔しも」私の夫がこのように、死んでいくなどとは思いもよらず、生前につれなくして、(割いた竹のように)後ろを向いて寝たりして、今となって私は悔しい。
どちらも万葉集巻七・挽歌に納められている老を詠った歌(作者不詳)だが、前の男性の観念的なのに比して後の女性の歌のなんと官能的なことか(現代語訳は斎藤茂吉)。

六十を過ぎて、もっと日本を知らなければと古文(日本の古典)と漢文を学ぶことにした。李白杜甫と読み進んでいくうちに日本人の漢詩も読んでみたいと「岩波文庫・漱石詩注」を手に取ってみた。これが思いの外好かった。伝わってくる感覚が漢人のものよりしっくりと馴染み漢字・漢語が分かり易いと感じた。次に本格的な日本漢詩人を読んでみようと頼山陽を選んだ。唯一「雲か山か呉か越か。水天髣髴青一髪。(天草洋に泊すより)」という人口に膾炙する聯を知っていたからだ。漢詩集だけでなく「中村真一郎・頼山陽とその時代」という著作を併せて読むことで彼の魅力を一層知ることができた。

その「頼山陽とその時代」にこんな一節があった。「ところで、この対等の男女関係という問題は、さらに『世代』の共通課題として、発展させていく必要がある。/また、彼の獲得した自由が、次の革命的世代のなかで、どのように変貌して行ったか。また、明治維新以後において、薩長の『田舎漢』たちの遅れた男女関係の意識が、新しい支配階級のものとして、時代の道徳を指導するに至って、もう一度、大幅に後退していった(p81)」。維新の薩長政府を「田舎漢」と蔑視する傾向は少なくない。次にあげるのは永井荷風の「谷崎潤一郎氏の作品」にある上田敏の谷崎賛辞の一部である。「敢えてここに郷土の精神という。(略)文明の匂ひが行渡ってる都会にも、深く染込んでゐるものだからである。(略)それが言語に身振に交際に風俗に自ら顕れて、所謂都雅の風を為してる。(略)移住民の一代や二代では、とても模倣し難いこの精神の後景となるものは、鋭い神経の活動に耐えうる心にして、始めて発見する事の出来る都会美の光景と人情である。(略)一国の文明を集中した地に生まれた庇蔭である。これは如何に智識を積まうと、観察を鋭くしようと、過去の文化の承継がない、無伝統の地方人に、ちょっくら模倣の出来ない藝である。」

我々は明治以降の西欧化を近代化と捉え進歩として賛美してきた。しかし「地下鉄サリン事件」と「3.11福島原発事故」はそれを無惨にも否定してしまった。江戸終焉時3000万人超の人口が2010年には1億2806万人にまで増加したがこれは都市による農村の収奪という犠牲がなければ実現しなかった。しかもその代償は「都市の破壊」であった。そして今、2060年に人口が8674万人に急減していくと予測されるに至り、それへの対応として今度は限界集落や無居住地区、人口半減地域を放置したまま「都市回帰」という形で農村を「破棄」しようとしている。

田舎漢の興した我が近現代は結局「都市破壊」と「農村破棄」に帰着してしまうのか。

2013年3月18日月曜日

国土を見直す

 ドライブ旅行で地方の中山間地を走っていて「えっ、こんなところに人が住んでいるの」と驚いたことがある。ポツンと一軒のこともあれば小さな集落のこともあった。一山越え二山越えてすっかり人影も途絶えひょっとして道に迷ったのではないかと不安に駆られながら進んで行くと突然視界が開け眼下に青々とした田んぼに包まれた集落が見えて感激したこともあった。

  何故こんな辺鄙なところに人が住んでいるのだろう。ここに人が住み着いたのは何時頃だろうか。
昨日今日ということはあるまい。かといって風雪に耐えた茅葺き屋根のたたずまいからは明治とも考え辛い。幕藩体制の落ち着いた江戸時代に起源を求めるのが無難なのではないか。しかしたとえ江戸時代だったとしても人里離れた場所に集落や村落が形づくられたについてはそれなりの事情があったに違いない。
 江戸時代は現在の47都道府県が250以上に分割されていたから人々は非常に狭い生活圏で一生を終えていた。それというのも「移動の自由」がなかったから自分の生まれた藩から他の土地へ出ることなど考えられなかったのだ。加えて職業選択の自由がなく「士農工商の厳格な身分制度」で縛られていたから現在の我々の常識は通用しない世界だったと想像できる。一方藩の経済は米産主体の農業が経済基盤を支えていたから絶えず天候に左右される不安定な経営を余儀なくされていた。藩経済安定のためには収量増大が必須でありそのための最も手近で確実な方法は「農地拡大」であった。従って「新田開発」はどの藩にとっても重要施策であったに違いない。最初は藩庁所在近くの開発容易な場所で農民の人夫役などで進められたが次第に荒地や遠い土地を開拓しなければならなくなる。この時期になると農民だけでは労働力の確保は困難になり罪人や浮浪人の強制労働で行われることも少なくなかったのではないか。
 もし現在のような自由が保証されていたら新田の多くは開発できていなかったかもしれない。
 
 限界集落といわれているような地域は現在の価値判断では存在理由がないと思われるかもしれない。しかしその土地が成り立ってきた背景や歴史を考えればそんなに簡単に結論をだせるものではない。無居住地区や人口半減地域の問題も経済効率性だけで軽々に判断してほしくない。切り捨てて『スマートシティ』とか『都市回帰』に置き換えるのは止めてほしい。世界の羨む日本の文化と歴史を「博物館」と観光地という「テーマパーク」に閉じ込めるような悲しい『行政判断』は下して欲しくないのだ。

 今70億人の世界人口が世紀末には100億人に人口爆発すると予測されている。当然食糧とエネルギーの不足は最重要問題であり加えて環境問題が複雑に絡んでくる。単純に現在の経済効率だけで「国土」をデザインすれば必ず後悔する時が来るだろうことは今の「我が国土」を見れば明らかである。

2013年3月11日月曜日

アベノミクスでデフレ脱却はなるか

 アベノミクスの効果か日経平均がリーマン前回復を果たし1万2283円(3月8日現在)をつけ円安も95円40銭まで進んでいる。政府の要請に応えて流通大手は賃上げを打ち出し自動車産業各社もボーナスの労組要求に満額回答を与えた。3本の矢のうち金融政策は予想を超えた効果を表しており財政、成長政策次第では20年に及ぶデフレからの脱却も現実味を帯びてくる。

ところがこうした期待に冷水を浴びせる事態が大きく報じられているにもかかわらずメディアは全くそのことに気づいていない。というよりも、ふたつの問題は別次元で相互に深い関連があるという認識がないのだ。それは「昨年の衆院選『違憲』」という東京高裁判決だ。2009年衆院選の「一票の格差・違憲判決」が2011年3月に最高裁から出されていたにもかかわらず強行された昨年末の衆院選に、高裁が僅か3ヶ月足らずで結論を出したということは違憲状態が議論の余地のない事態に至っていることを意味している。立法府の怠慢は三権分立の根幹に関わる重大な過誤と責められて当然である。

しかしこの判決は視点を変えれば日本国土の経営が『違憲』を招来するほど『歪(いびつ)な』形で行われている現実を訴えているのだがそれを指摘するメディアは皆無だ。折しも2020年オリンピック東京招致のIOC委員へのプレゼンが良好裡に進められ実現に向けて大きく前進している。もしこのまま開催ということになれば施設・インフラ整備に莫大な税金が注ぎ込まれ益々「東京圏とその他」の格差は拡大する。
何故デフレと「違憲の国土経営」に緊密な関係があるかについては企業の有価証券報告書を見れば一目瞭然だ。有価証券報告書の貸借対照表・資産の部に「有形固定資産/土地」という項目がある。企業は「資産」を最適活用して「付加価値」を極大化し利益を上げることが至上命題である。都心の目貫通りに本社ビルを所有しているにもかかわらずそれにふさわしい売上高や利益を生み出していなければ、株主から本社ビルを売却してもっと安い土地に移転するよう要求されるに違いない。
敗戦からの復興という使命を負っていた戦後の政府・官僚は効率性を上げるために首都圏偏重で開発を進めざるを得なかった一面は否めない。しかしある時点から、置き去りにしてきた首都圏以外の「地方」の経営的活用に転換しなければならなかったにもかかわらず膨大な「既得権(者)」の維持を当然視して地方を切り捨ててきたのだ。
デフレ解決の有力な方策のひとつが「規制緩和と構造改革」だが、これは供給面の円滑な新陳代謝を意味し、使命を終えた旧産業から新たな成長産業への資源の適正移転と未利用資源の有効活用によって実現される。国家の経営も企業と異ならない。旧産業に滞留する資産と人材を新産業に移転すると同時に「未利用資産」―例えば最近注目を集めているメタンハイドレードのようにこれまで全く知られていなかった資源を活用すると共に未利用の国土の有効活用もデフレ脱却の重要な課題であるという認識が不可欠である。週刊東洋経済が2050年未来予測として『人の住まない無居住化地域の増大』という警告を発し人口半減地域も拡大すると予測している。埼玉県と同じ広さの耕作放棄地もある。

東京圏一極繁栄という不合理・非効率な国土経営で日本全土からデフレを駆逐できるはずがない。

2013年3月4日月曜日

書評の魅力

 昨年亡くなった丸谷才一氏の事績の一つに書評がある。彼は書評をこう捉えている。「しかし紹介とか評価とかよりももっと次元の高い機能もある。それは対象である新刊本をきっかけにして見識と趣味を披露し、知性を刺激し、あはよくば生きる力を更新することである。つまり批評性。読者は、究極的にはその批評性の有無によってこの書評者が信用できるかどうかを判断するのだ。この場合一冊の新刊書をひもといて文明の動向を占ひ、一人の著者の資質と力量を判定しながら世界を眺望するといふ、話の構えの大きさが要求されるのは当然だらう(ちくま文庫「快楽としての読書・海外篇」p30)」。

 構えの大きな典型としてハヤカワ・ミステリを論じた次の一文は好例であろう。「ところで、あまり注目されていないことだけど、ハヤカワ・ミステリが日本文化に与えた大きな影響で、マルクス主義的な切り方ではどうしても切れないものがあるということを、はっきり示した、ということがあると思います。よく、探偵小説は市民社会を典型的に示す文学であって、共産主義社会では成立しないといわれますね。そのことからいえば実にあたりまえなんだけれども、これだけ面白くて華やかなものをマルキシズムで切ったところで何の意味もないと、日本のマルクス主義者 たちは心の底で思ったんじゃないでしょうか。(ちくま文庫「快楽としてのミステリ」p37)」。
海外推理小説書評の嚆矢にして大傑作「深夜の散歩―ミステリの愉しみ(ハヤカワ文庫)」にある中村真一郎の短編小説論は彼の見識を見事に表している。「短編は、それでは長編と、方法的にどこが違っているかというと、長編は人生そのものの姿を提出するやり方である。(これが、近代市民社会の発明である。だからあのギリシャ気狂いのピエール・ルイスは、「ギリシャになくて、近代にあるのは、タバコと小説(ロマン)である」といった訳だ。)ところが、短編では人生に立ち向かった作者の姿勢を見せる。目的は人生そのものでなく、人生の解釈であり要するに作者の精神である。だから、抒情詩に近いのである(p175)」。
 紹介の白眉は同じ「深夜の散歩」で丸谷の書いた「フィリップ・マーロウという男」だろう。レイモンド・チャンドラーのハードボイルド探偵小説の主人公フィリップ・マーロウの魅力を綴ったこの書評は次の箴言を一躍有名にした。「『あなたのようにしっかりした男がどうしてそんなに優しくなれるの?』と女に訊ねられたとき、こう答えるのである。『しっかりしていなかったら、生きていられない。優しくなれなかったら、生きている資格がない』(「プレイバック・清水俊雄訳」より)」は「タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない」として人口に膾炙しキザ男の口説き文句として定着したのだ。

 私はE・Qとペリー・メイスン、ディック・フランシスを偏愛したけれども同年代の多くの人たちはハヤカワ・ミステリを広く愛読したに違いない。ハヤカワ・ミステリの魅力の源泉はどこにあったのか。詩人・田村隆一が創刊時編集長であったことを知れば納得であろう。

 池澤夏樹が福永武彦の愛息であり福永が加田玲太郎の筆名で探偵小説を書いていた、など楽屋裏の話にも事欠かない「深夜の散歩」は福永武彦・中村真一郎・丸谷才一の共著になる稀代の名篇である。

2013年2月25日月曜日

人口問題を考える一視点

 少子高齢化がいよいよ抜き差しならない段階にきている。平成23年10月現在の日本人人口は1億2618万人となり前年に比べ20万2千人と大きく減少している。国立社会保障・人口問題研究所の人口推計による2060年の総人口は8673万7千人、生産年齢人口(15~64歳)は4418万3千人(総人口比50.9%)にまで減少すると予想している(平成23年の生産年齢人口は8130万3千人63.6%)。

 平成23年の合計特殊出生率(15~49歳までの女性の年齢別出生率を合計したもの)は1.39で出生数は1,050,698人となり第1次ベビーブーマー期(1947~1949)の約270万人に比べて約4割にまで減少している。しかしマスコミなどで人口問題が論じられる場合全く無視されている視点がある。妊娠中絶のことだ。厚労省の資料によると2000年代前半には30万人以上の人工妊娠中絶が行われていたが2010年(平成22年)はやや減少して212,665人になっている。平成22年の死亡者数は1,197,021人であるから単純に中絶数を出生数(1,071,304人)に加えると87000人弱の純増になり、出生率も人工中絶数を加えて再計算すると1.67になる。この出生率は1980年代後半とほぼ同じ水準で現在のカナダやオランダに相当する。今後25年~30年間の平均死亡数を毎年約140万人程度で推移すると仮定すると現在の出生数と中絶数を加えた約130万人との差は僅かに10万人になり、これは厚労省等の将来推計の示す『絶望的な』少子化傾向ではなく国が本気で少子化対策に取り組めば克服可能な数字である。
 
 人口問題を考える上で興味深い報道があった。「孤立無業者が162万人に上る」という東大の調査結果だ。20~59歳の働き盛りで未婚、無職の男女のうち、社会と接点のない人たち(無作為に選んだ2日間を1人か家族だけで過ごした)を「孤立無業者」と規定して2011年時点で調査した玄田有史・東大教授グループのまとめによるもので06年(112万人)に比べて4割以上増加している(2013.2.18日経による)。総務省の「社会生活基本調査」をベースに集計された未婚で仕事も通学もしていない人は孤立無業者を含めて256万人おり、景気低迷に伴う就職難やリストラ等の影響と分析している。
 
 2000年に介護保険制度が施行された。年老いた祖父母・親や病身の身内の面倒を見るのは家族の務めであると考えられていたそれまでの倫理観からすれば「介護の社会化」は大転換である。しかし戦後加速度的に進行した「核家族化」という社会変化はそうした従来の倫理観の維持を不可能にした。『出産と育児の社会化』は介護以上に倫理観を転換しなければならないであろう。しかし緊迫感を増した人口減少を食い止めるためには避けて通れない現実である。

 デフレ脱却を目指して大胆な経済施策が取られようとしている。しかし公共事業など旧来型で目先の短期効果を追うのではなく女性の社会参加や失業率調査の対象外として取り扱われている200万人近い孤立無業者の社会参加を促すような「確実に効果の見込める」施策を緻密に進めてもらいたい。女性の就業を可能にするために不可欠な「24時間保育」と「病児保育」など取り組むべき施策のメニューは多方面の専門家が既に提案している。
 国の将来を見据えて大胆に社会構造を改革する意思を本気で示す時だ。

2013年2月18日月曜日

体罰とサディズム

 桜宮バスケ部員自殺事件の外部監察チームと市教委の実態調査報告書が発表になったがこれを読むと今回の事件が単なる体罰問題ではないことが分かる。例えば「キャップテンを続けるか、普通部員になるか、下働きをするか」を選択させキャップテンを続けたいと返事した部員に「キャップテンをしたいということはシバかれてもエエのやな」と念押しした、という報告がある。数十回殴った行為も異常だが言葉による嗜虐行為も含めてもはや今回の体罰問題が「教育的範疇」で語られるものではなく『サディズム(嗜虐的性行為)』の一種として断罪されるべき問題だということを示唆している。
 剣道部員(他校の)虐待のビデオに映っている顧問の暴行も体罰の範疇をはるかに超えており、暴行が重ねられるに従って異常性が亢進していく様子がリアルに伝わってくる。加えてこのビデオが教える重大な問題は、これが公開の大会中の事件であり他の部員は当然のこと保護者も環視しており多分大会役員も注視しているはずだ、ということである。中学1年か2年の生徒が目に余る暴行を受けているのを誰も止めず注意すらしない映像は、体罰問題が学校、教育委員会などの教育関係者だけでなく保護者や行政も含めた広範囲なおとな社会の問題だということを表している。

 日本柔道オリンピック女子選手の監督及び柔道連盟への暴力・ハラスメントに関する嘆願騒動の取り扱いにも問題がある。嘆願書には「ハラスメント」とあったものがいつの間にかマスコミでは「パワーハラスメント」と言い換えられて報道された。しかし一部の関係者の言うように、オリンピックの強化選手に選ばれるレベルの選手は極限の肉体的苦痛を超越し身体的技術的に最高の到達点に達している。その彼女らが少々の暴力的指導に屈するとは到底思えず彼女らが本当に訴えたかったのは精神的な被虐であり耐えられないセクシャルハラスメントであろう、と常識的に判断できる。それを暴力とパワーハラスメントへの抗議として報道する姿勢に現在のマスコミの『歪んだ偽善性』を感じる。

  「サラリーマン馬券脱税事件」に対するマスコミの視点にも疑問を感じる。馬券による収入を「一時所得」とし課税對象額をハズレ馬券も含めた総購入資金を費用として計算した1.5億円ではなく配当金獲得馬券の直接購入資金のみを費用とした5.4億円を對象と認定して税額を決定したことに疑問を呈した報道がほとんどである。競馬ファンとしては至極当然の考え方であり課税当局の再考を是非お願いしたいが、そこで留まってはいけないのではないか。年収800万円のサラリーマンがその何十倍もの馬券を購入して『バクチ』をすることの異常性を問題にすべきではないのか。彼の場合は「現金」ではなくネット上の「バーチャルなお金」で馬券を扱っていたから『麻痺』していたのだろうが、彼のバクチ行為は極めて異常である。断罪されて当然である。そのことを訴えるメディアが皆無という事態は情けないでは済まされない。

  「セックスと暴力」と「賭博」は人間の本質的衝動でありながら近代社会においては厳しく管理されなければ社会秩序を危うくするとされている。それだけに事件や問題の深層に「セックスと暴力」が潜んでいることが多く、それへの対処を誤ると事件の真相解明につながらないことが多い。
 体罰問題をサディズムと捉えて論評するコメンテーターが出てこないものか。

2013年2月11日月曜日

もし、終戦日が陰鬱な冬日だったら

  もし、終戦日がみぞれ混じりの陰鬱な冬日だったら日本国の戦後復興はあんなに力強いものであっただろうか、時々そんなことを考える。突き抜けるような青空、炎熱の太陽がジリジリと照りつけカラッカラに乾いた何もない真空のような真夏日。敗戦を知らされたのがそんな日であったからなんども挫折しそうになっても「みんな同じように貧しかったじゃないか」と思い直して頑張ってこれたように思う。
 
 アベノミクスが市場に歓迎され株高円安が進行しているが一時の熱狂で終る危険性はないだろうか。戦後の復興は皆等しく「壊滅」というスタートラインに立っていたから達成された側面が否定できないと思っている。財閥は解体され政治家は追放になったうえに農地も解放された。旧体制は解体したと多くの国民は感じていたに違いない。アベノミクスはそこへの踏み込みが不足している。むしろ改革を先延ばしして既得権を擁護しようという意図が透けている。

 インフレ目標を掲げ物価の先高感を煽って消費を掻き立てようと目論んでいるが狙い通りに事が運ぶかどうかは極めて怪しい。「一億総中流」で大量消費を可能にしたのは終身雇用、年功序列の生涯賃金性度という裏付けがあったからだ。ローンを組んで未来が買えた。30年ローンで住宅を、5年ローンで自家用車を、クーラーもカラーテレビもローンで買った。しかし、今は大企業でも明日は分からない、成果主義で給料の見通しも立たない。派遣かパートで共働きしようと思っても保育園がない。銀行でローンを申し込んでも相手にしてくれない。「安心できる持続可能な年金・社会保障制度」で安定した将来を示せば『今の消費』が拡大するとアベノミクスは構想しているが、そこへ行き着くまでの『今と明日の生活』の見取り図が描けていない状態でローンを組んで未来を買うだろうか。

 総務省が1日発表した2012年12月の労働力調査によると、産業別就業者数で「製造業」が前年同月より35万人減って998万人となり1千万人を割り込んだ。1千万人割れは1961年6月以来51年ぶり、ピークは1992年10月の1603万人でそのときより4割も減少している、と報道された。しかしこの数字は実態とかけ離れている。中小企業金融円滑化法で延命されている企業があるからだ。中小企業の借入金返済の期限延長や条件緩和を通じて企業の倒産を防ぐ目的で導入されたこの法律が平成25年3月で最終延長の期限切れになり大量の企業が倒産するのではないかと懸念されている。倒産企業がどれほどの数になるか定かではないが深刻な事態が予想されているから倒産による失業者も少なくないに違いない。全産業就業者数6200万人の16%という数字が表立った製造業の雇用状況になるが実質的には更に低下しているとみるのが妥当であろう。しかしアベノミクスは製造業偏重の「成長戦略」という旧来型の傾向が強い。

 デフレ克服を最重要課題に掲げるアベノミクス。しかしバブル崩壊という「第二の戦後」からの脱却を目指すにしては覚悟が甘い。

2013年2月4日月曜日

生きることへの愛

  公園のゴミが激減した。近住のNさんが20年、引き継いだ私が8年毎日ゴミ袋1袋以上拾い続けたゴミがここ数週間ほとんど見られなくなったのだ。原因は近くの中学校と小学校の協力にある。捨て方に無邪気さがなく悪意を感じたので昨年の夏休み前、教頭に現場を見せて児童生徒に指導して欲しいと頼み込んだ。一度には改善されなかったが指導を繰り返して頂いた結果、今年になって見違えるようにごみ捨てが少なくなったのだ。
 もう一つ変化の見えるのが少年野球だ。暴力的なシゴキと威圧的な叱咤が長い間少年野球指導者の指導方法であったが最近はそうではない。子供達を集めて穏やかな口調で諄々と理詰めで指導する監督の姿をよく見るようになった。

 桜宮バスケ部員の自殺事件や日本柔道オリンピック候補女子選手の監督の暴力行為に対するJOCへの嘆願事件などスポーツ界での暴力事件が相次いで表面化している。しかしスポーツに関するこうした事例は日本固有の傾向であって、そもそもスポーツと暴力は対極にある。
 産業が高度に発達し、機能的分化が著しく進んだ現代社会では人生の重要な活動の中で興奮を示すことは、危険と見なされ、興奮は社会や国家によって極端に規制される。ところが、多くの余暇活動は、人間が直接、肉体的被害を被ることなく、実際の人間生活の中で生み出される興奮に近い状態を味わえる想像上の領域を提供してくれる(ノルベルト・アリエス他著「スポーツと文明化」p464大平章訳法政大学出版局)。
 余暇活動の中にスポーツが含まれることは自明であり、アリエスがいうように「肉体的被害を被ることなく興奮の疑似体験」をするのがスポーツであるならば、体罰や暴力的指導が当然視される環境は全面的に改められるべきであろう。「部活」という形態の見直しや選手とコーチ(監督)の対等な関係の構築など我が国スポーツ界の根本的改革が必要な時期に来ているのは間違いない。

 子供の死に関して衝撃を受けたニュースがあった。平成23年度に全国の小中高校から報告のあった児童生徒の自殺数が前年度より44人増えて200人になったと伝えられたのだ。内訳は高校生が157人(前年比45人増)中学校39人(同4人減)小学校4人(同3人増)。原因は不明が58%、父母の叱責12%進路問題10%で自殺は中学校で4人となっている。(これは警察庁発表の自殺数353人と大きな開きがある―集計期間が異なるが)。同じ頃大津中2いじめ自殺事件について第3者委員会が報告書をまとめた。自殺といじめに直接の因果関係を認めた画期的な内容になっている。
 高度に産業化し都市化した現在、「興奮は社会や国家によって極端に規制」されているから人間の内面に潜む「暴力や肉体的興奮」を如何に管理するかは個人にとっても集団にとっても重大な課題である。中途半端にしないで本質的な解決策を模索して欲しいと心から願う。
 
 生きることへの愛を、君たちにとって最高の希望への愛とせよ。君たちにとって最高の希望を、生きていることの最高の思想とせよ!(ニーチェ「ツァラトゥストラ」p95丘沢静也訳・光文社古典新訳文庫)。

2013年1月28日月曜日

古典新訳文庫

 古希を過ぎても頗る健康でいられるのが嬉しい。肉体(消化器系循環器系)だけでなく視覚聴覚味覚も正常に機能しているから会話が弾む、食事もうまいし酒が楽しい。何といっても本が読めるのが有難い。明るいところならルビも競馬新聞の馬柱もルーペなしで読んでいる。

 ところで最近やたらと「速読術」の広告が目に付くがどうして早く読みたいのだろう。『10分で一冊の本が読める』と謳っているがそれにどれほどの価値があるというのか。情報過多時代の情報処理能力アップで情報発信力もアップ!の惹句もある。受験やビジネスに有効、というのが狙いか。
  確かに情報過多である。しかし「好んで過多状態に追い込んでいる」面無きにしも非ず、といえないか。スマホが普及した最今とにかくスマホを手放さない、ゲームをしているのかもしれないが。テレビにインターネット、スマホにiTunes、新聞雑誌の紙媒体とこれだけメディアが多ければ情報が溢れるのも当然である。役所を見ていると夥しい印刷物で事務所が埋められている上に一日中PCのディスプレーを見ている。会議が多いから情報処理能力はビジネスマン必須に違いない。
 溢れる情報に浸っている彼らは、情報のない状態に耐えられるだろうか。質と価値に無頓着にただ情報に流されて安心していないだろうか。多くの人が警告しているように、情報源の選択と情報の価値判断が要求される時代である。

 速読術への疑問は「言葉の不完全性への畏れ」が感じられないからで、言い方を変えれば「書物への批判精神」が欠如しているように思うからだ。歳を重ねたせいだろうか「言葉」というものはつくづく厄介なものだと思う。余程細心に用いないと言葉に裏切られる。話し言葉は草稿のある演説を除けば刹那に発せられるもので練る暇がないから不完全で仕方ないが、推敲を重ねた文章でも完全ということは望みにくい。譬喩、陰喩、暗喩、アフォリズム(金言警句)と修辞を凝らして言葉の不完全性を補い言語の多重性を練り重ねて完全を期した「名文名作」でも緩みがあったり志向性が狙いと異なったりしていることがある。
 『確かな一冊』の『遅読』を併行してやってほしい、そう感じる。

 後悔していることがある。60年近い読書生活を通じて「分かったつもりで理解できていない」書物の余りに多いことだ。難解なものを読みこなすことが貴いかのように錯覚していたのかもしれないし、難解さを権威と混同していたフシもある。この歳になって見栄もハッタリも必要でなくなり残された時間で少しでも読書を楽しみたいと思うようになって、読み易い本を選ぶようになった。光文社古典新訳文庫でミルの「自由論」カントの「啓蒙とは何か」を読んでスッキリ収まるものがあった。新潮文庫の「反哲学入門(木田元著)」はこれまで理解できずにきた哲学の体系がスーッと頭に入った。
 
読書が楽しくなってきている。

2013年1月21日月曜日

豊かさの先に

 人類の歴史は「飢餓からの解放」の歴史であった。今でこそ「飽食の時代」などといわれているが我が国でもほんの50~60年前までは満足に食べることのできない人が少なくなかったし今でも世界中に10億人近い人が飢餓に苦しんでいる。
 歴史を人口的にみるときジャガイモのもたらした恩恵は大きい。穀類は生育が難しく収量に限界があってヨーロッパでは一般庶民の主食になることはほとんどなかった。有名なミレーの「落ち穂拾い」は農場に雇われた農夫たちが収穫後の農地に落ちている穀物を拾い集めている姿を描いたもので彼ら農夫に許された収量は一握の砂にも等しい乏しさであった。ところがジャガイモはどんな荒地でも、寒冷地でも収穫が可能であったのでジャガイモの普及は一般庶民の栄養状態を一挙に改善した。貧困層にとって家族数の適正維持は重要問題であったから「産児制限」は必須であったが今のように避妊器具の発達していなかった当時の避妊術は「間引き」か「性交中断」しかなかった。ジャガイモによる食糧事情の改善は貧困層にも恩恵を及ぼし爆発的な人口増加を実現、産業革命による「ヨーロッパの時代」を招来することになる。

 閑話休題。「大金持ちの貴族がお雇のメイドと結婚した。これによるGDP(国内総生産)への影響はいかに」という問題。正解は、GDPは減少する、である。メイドとして雇用されている間は「給与」が発生するからGDPに計上されるが結婚した後彼女の仕事は「無償の家内労働」となりGDPから抹消されるからである。
 2000年に施行された介護保険制度によってそれまで家族で面倒を見るのが当たり前とされていた「介護」が社会化され家内労働から生産・サービス財となって有償化されGDPの大きな一つの項目になった。
 太平洋上の人口5000人足らずの小さな島嶼国。自給自足と隣同士の融通で過不足なく生活している。年寄りや病人の面倒は勿論家族の務めである。国連がGDP統計を取ろうとしても島に市場がないからほとんどセロ。しかし住民は皆、満足して暮らしている。

 安倍政権になってデフレ脱却を旗印に相当強引に金融財政政策を展開し経済を成長させようとしている。しかし上述したようにGDPという尺度は幸福度を表すには万全とは言い難い指標だということを理解する必要がある。数字上は2%なり2.5%の成長を示しているが実感がないとか、大企業は儲けているが中小企業や一般庶民には恩恵が及んでいないとか、GDOへの不信感は根強い。
 
 食うに困らない年金生活者が多いにもかかわらず余生を楽しんでいるように見える年寄りは思いの外少ない。経済は「本当の幸せ」「満足のゆく生き方」を実現するためのひとつの要素であり物質的な豊かさは「選択肢」の幅を広げるに過ぎないことを彼らは実感している。

 遥かなる島嶼国は桃源郷か……。

2013年1月14日月曜日

阿呆と下手

 桜宮高校バスケットボール部員自殺事件の報道が繰り返される中でこんなことを考えていた。

 勉強ができないと「お前は阿呆やなぁ(馬鹿だなぁ)」と言われるがスポーツが出来ないからといってそうは言われない。バスケットが下手や、野球が下手だと言われる。しかし同じ勉強でも書、絵画、音楽は「字が下手、絵が下手、歌が下手だ」と評価される。語学もこの部類に入るかもしれない。思うに『下手』と評価される種類のものは上達のためのプログラムがあって修練を積めばある程度のレベルまで到達することが可能な範疇のものをいい一般には『技能』と呼ばれて『獲得』するものと考えられている。勉強はそうしたテクニカルなものの他に何かを合わせて習得する必要があり学問を『修める』と表現される。

 勉強のテクニカルな面だけを捉えてプログラミングし効果を上げたのが「学習塾」である。プログラムの内容と修練の度合いで到達度が高まっていく。『勉強の技能化』が学習塾であるから勉強(広く教育と言ったほうがより的確だが)に含まれている何かを捨てている。「何か」とは同窓会を思い出せば良い。恩師の優しさ厳しさや級友との友情、そして淡い恋心などで盛り上がる。それは「学校」という場で勉強することを通じて醸成されたもので、少年野球や学習塾では手に入れられないものである。
 部活は学校生活の一部だから技能を高める以外に考慮するものがあるはずなのだが彼の顧問はそれを忘れていた。だがそれは何も彼だけに限ったことでなく部活に携わる人やそれを見守る私たちも同様に考える必要がある。部活を廃止してクラブチームや地域チームに移行すべしという意見があるが「学校」を純化するためには有効な一方策かもしれない。

 政治家育成をプログラミングして有能な政治エリートを養成しようとしたのが「松下政経塾」だろうが今のところ成功しているとは言い難い。それはプログラムに誤りがあったのか「政治」が技能化するには適さない範疇のものかのどちらかだろうが、我国経済の発展段階や民主主義の成熟度を考えるとき「我国の政治家」は4、5年程度の塾課程で養成できるレベルのものではないといえるのではないか。

 最近「エリート待望論」が盛んだが不毛な議論に思える。20年に及ぶデフレ、広がる格差と閉塞感から脱却したいという渇望が底流にあり無理もないが時代がエリートになじまない段階にある。森鴎外の「独逸日記」を読むと軍医学習得のためにドイツに留学した彼が異国というハンデをものともせず当時の先端知識や技術・施設を貪欲に習得し、文学や音楽など幅広い文化を楽しみ学んでいく様子が克明に記されている。その一方で現地での人脈を構築し又乃木希典や北里柴三郎など後の日本を牽引していくエリートたちとの交流も密に積み重ねている。詳細を極める地名人名施設名などの記述はドイツ人を感嘆せしめた堪能なドイツ語力の賜物であろうが何より驚かされるのは日本国内と変わるところのない行動力であり英国で神経を病んだ漱石と大きく異なる。ドイツ留学を終えた鴎外たちエリート候補生は受け入れる官僚機構が後進国日本の躍進の機関として機能していたからエリートに成長していった。
 今の日本では政治も官僚機構も機能していないうえに産業界も規制が強く柔軟性も流動性もない。こんな状態ではエリートを受け入れる可能性はなくむしろ「出る杭は打たれる」に違いない。

 規制を撤廃して既得権層を排除し柔軟な社会に変革してこそエリートは生まれてくるのではないか。

2013年1月7日月曜日

何を犠牲にするかを考えよう

立や年 既に白髪の みどり子ぞ/吉川五明。還暦を迎えた正月の句ですが私にとって今年はそれから早一周りした当り年の正月です。

 年末年始見たテレビで印象に残っていることがあります。年末に放送された世界遺産条約採択40周年・NHK京都放送局開局80周年の記念番組「未来への叡智みつめて-京都からの提言」にあったものだと思いますが、「パリの人たちが一日に使えるお湯の量を規制している」ということと「京都市が建築物の高さを原則15米に制限している」の二つです。パリでは一日に利用できる湯量が200l(場所などで変動はあるようですが)に制限されていてしかも深夜電力を利用するように義務付けられているのです。また京都では今後新たに建てられるものや改修されるものは(これも場所や建物の種類によって差はありますが)原則15米に高さが制限されるようになるのです。
 フランスは原子力発電が欧州最大の国ですからまさかこんな制限が課されているとは考えてもいませんでしたが、実際は住居を探す時に備え付けの給湯タンクの大きさや使い勝手が重要なチェックポイントになっているようで驚きました。又京都の景観条例がここまで強化されているという認識はもっていませんでした。10年程前から制限が強化され建築業界や広告業界の強い反対にあってその進捗具合に懸念がもたれていたのですが市長をはじめ行政の粘り強い取り組みで今日に至ったのでしょう。
 京都市内のマンションの値段は高くなっているようです。でも30年も経てば京都のどこからでも「大文字の送り火」を拝めるようになることでしょう。比叡山も望めるでしょうし何より『大きな空』と『きれいな空気』が京都の市民皆のものになるはずです。豊富な文化財と恵まれた環境は間違いなく人々の『憧れ』になるでしょう。京都市民の『今の犠牲』が『未来の豊かさ』に繋がっていくのです。

 明治維新と第2次世界大戦敗戦という2つの大変革期を経て我々が求めてきたものが「地下鉄サリン事件」と「東日本大震災」で否定されたことは明らかです。サリン事件が『精神的否定』であるならば3.11は『物質的否定』です。疲弊し病んだ精神が「オーム真理教」というオカルト集団に否定され、物質面の究極の到達点としての象徴「原子力発電」が自然の脅威によって否定されたのです。
 にもかかわらず我々はまだ「過去との訣別」を受け入れることができずその延長線上に未来を託す以外に道を見いだせないでいます。過去の意味するものは?極言すれば『アメリカの繁栄という幻想』でしょう。歴史という過去のしがらみをもっていなかったアメリカで近代の理念―民主主義と資本主義―は最大限実現されました。その繁栄が今大きな変節点を迎えて呻吟しています。

 歴史をもっていた我々は何を犠牲にして繁栄を追い求めてきたのか?今の繁栄の中の何を犠牲にしてこれからの新しい時代を築こうとするのか。我々はそれを決断しなければならないのです。パリの人たちや京都市民がしたように。

 政権は変わったがそれを本当に新しい時代に繋ぐのは我々国民です。