2013年5月27日月曜日

江戸を見直す

 私の友人で何の前触れもなく突然「膵臓がんの末期です。余命半年でしょう。」と診断、宣告された男がいる。絶望する彼に日頃昵懇の地元商店街理事長が「騙されたと思って…」と紹介したのが漢方と鍼・マッサージの施術師であった。それから9ヶ月、1回が10万円を超える保険の利かない高額な治療だったが見事全快して、例年の同窓会に元気な姿を見せた。

 明治維新はそれまでの日本文化を全否定して西欧文明化=近代化に邁進した。医学もその例外ではなかった。結核や伝染病などの感染症が国民病であった時代は西洋医学が威力を発揮し不治の病と言われた結核も克服された。しかし高度成長を経て先進国の仲間入りを果たし成熟段階に達した現在、生活習慣病が主体の治療体制を整えることが求められる中で、西洋医学一辺倒のあり方に疑問が投げかけられている。医薬品の高機能化、検査器具の高度化と高価格化、治療の機械化など治療の細分化・精密化と医療費の高騰は、費用対効果の面から又患者のQOLクオリティ・オブ・ライフ面からも医療のあり方に再考が求められている。
 今進められている日本経済再興の最大の問題点―農業も同様である。200年以上に亘って郷農や地方の篤志家が蓄積してきた「日本農法」を完全無視して新たに西洋農法による日本農業を開発しようとして明治政府が開設した「農事試験場(後の東大農学部)」。招聘された外国人お雇い技師は酪農の専門家であったし研究員は農業とは無縁の武士階級の人たちであったから米作主体の日本農業の開発拠点としての農業試験場の体裁を整えるまでには相当な迷走期間があったようだ。しかしその名残は今も少なからず残っているようで大規模・単作農法など米国流の大規模農業が唯一の解決策であるかのような現在の方向性には少なからず疑問を感じる。
 
 こうした明治維新以来の我国のあり方に中村真一郎がその著「江戸漢詩」で文化面からの疑問を呈している。「一体に、明治維新によって、日本は近代に突入したというのは、経済史、政治史的には一応、常識であるとしても、都市市民の感受性の歴史、文化史のうえでは、江戸後期の文明の爛熟と頽廃は、ロココ以来のフランス王政末期のそれや、あるいは同じフランスの今世紀の第三共和制末期の状態にも比するべく、そして、維新を境として西南諸藩から入京して来た、若い地方人たちはこの近代的感覚の頂点に達した旧江戸文明の担い手たちを、江戸から追放することで、感覚のうえでは、より古風な甚だ堅実、素朴、禁欲的、男尊女卑的な気風を、新しい東京の街にゆきわたらせることによって、感覚の歴史を逆転させることになった(p14)」。江戸・京都・大阪などの都市部で西欧諸国に比すとも劣らない発展を遂げていた文化の程度が、後進の地方武士階級が政府の要職を占めたために、100年以上後戻りして古い儒教的道徳や価値観で国の運営が行われるようになったことは、今から思うと誠に残念な勿体無いことであったと言える。また現在成長戦力として「女性の活用」が叫ばれているがこれについても「近世後期における学芸の普及は、多くの女性の知識人をも生み出すに至った。たとえば諸藩の奥向に仕える女中たちは、採用に際して音曲などと同様に、学問の試験を受けたのだし、知識階級や富裕な家庭の娘達が、専門の学者について学ぶというのは、一般の風潮となった。/開明的官僚であった老中、阿部正弘の福山藩では、初等教育において夙に西洋風の男女共学の実験が行われていたし、教養の一致はおのずと男女平等の気風を、知識人の間に拡げていった(p221)」と記している。

 国粋主義的復古趣味ではない「日本文化」の見直しが必要な時代である。

2013年5月20日月曜日

私ご遠慮いたします

 我が国の億万長者は100万人とも200万人とも言われている。最近のある統計では140万人になっていたがそのうちの80%を高齢者が占めている。今仮に高齢者の億万長者で厚生年金受給者が100万人だとするとその年金額は1年で2兆円を超える。厚生年金の平均支給額は年間200万円超であるから月額18万円程度の年金支給がなくても億万長者の彼等は生活に困るということはないであろう。もし彼らが「私、年金の支給をご遠慮いたします」と言ってくれれば国の財政にとって大変有難いことになる。年間の税収約40兆円社会保障費合計約26兆円だから社会保障費の1割弱税収の5%が節減できるのだから影響は大きい。財政再建が喫緊の課題になっている現在、どうして日本経団連などの財界大物が提案しないのか不思議でならない。
 考えてみて欲しい、年金は積立方式ではなく「賦課方式」なのだ。現役の若い人達が年金を負担してくれているのだ。総所得(雇用所得や財産所得などに年金所得を加えたもの)の平均年額は65~70歳世帯458万円、70~75歳世帯429万円なのに対して30~34歳世帯は477万円になっていることを知れば上の提案は決して無理押しでないことが分かろう。更に医療費に目を転じると国民医療費全体(10年度)に占める高齢者の医療費は65歳以上分が55.4%、うち後期高齢者(75歳以上)分が33.3%に達している。ある試算によると50年度には65歳以上の医療費がほぼ4分の3を占めるようになると予測している(データは2013.5.17日経「経済教室・小塩隆士一橋大教授」より)。
 年金・医療費をなど高齢者は出来る人から既得権を放棄することを考える時期に来ているのではないか、「私ご遠慮いたします」と。

 若者の失業が世界的に問題になっている。ILO(国際労働機構)の13年見込みによると若年層(15~24歳)失業率は12.6%と全年齢の6.0%を大幅に上回っておりなかでも中東、北アフリカ、EUは20%を超えて深刻化している。EUは金融危機から脱するための緊縮財政が求められているから失業中の若者の不満は国を混乱に陥れる恐れさえある(財政再建に迫られている我が国も決して他人事ではない)。
 我が国の若年層の失業率は12年8.2%で世界平均より低いが国内の全年齢4.3%を大幅に上回る。加えて失業期間が10ヶ月以上に長期化しているから事態は深刻だ。これに非正規雇用者の35%(これはOECD加盟国中韓国イタリアに次いで3番目に高い)を加えると実に半分近い若者が不安定低所得な雇用状態に置かれていることになる。彼等は教育や訓練を受ける機会に恵まれないから職務遂行能力が著しく毀損される恐れがあり長い目で見れば我が国の労働生産性が劣化することは間違いない。グローバル化が進展し製造業中心から頭脳労働中心のサービス産業に産業構造を変革しなければならない我が国にとって著しい問題である。根本的な対策を早期に講じる必要がある。
 安倍政権の成長戦略の一つとして「限定型正社員」の創設を打ち出しているがこれを現在の正社員にも適用を広げるべきだ。正社員は仕事の中身、勤務地、労働時間が無限定な職務を負っている。そのため長時間労働が常態化しそれによる疲労が創造性の欠落を招き日本企業の独創性イノベーション力の貧しさにつながり国際競争力の減退を招いている。
 そこで提案だが「現在の正社員」の職務をジョブ・ディスクリプション(職務記述書)で限定化を図り残業時間を削除し、取り除かれ掬い上げられた労働時間と職務を「ワークシェアリング」して若者に分与してはどうか。連合などの組織労働者、とりわけ国労や自治労の公務員が率先して取り組んで欲しい、「お役所仕事」はとなりの仕事も分からない程職務が分離・確立しているのだから。
 連合の皆さん「私、定時勤務を超える仕事を、ご遠慮いたします」と申し出てくれませんか。

2013年5月13日月曜日

私の中央銀行論

 黒田日銀による「異次元の金融緩和」が行われアベノミクスに弾みがついた。米欧につづいて我が国も超金融緩和に踏み込んだことで先進国はすべて従来の中央銀行では考えられなかった「非伝統的金融緩和」を実施したことになる。極めて専門性の高い金融理論の知識のない我々はこうした状況をどう理解すればよいのか。
 
 20世紀は「戦争の世紀」だった。世紀初頭の第1次世界大戦と紀央の第2次世界大戦、そして冷戦とその終焉が世紀末に及び大きな戦争だけで世紀を通観することができるがそれ以外にも絶えることなく世界各地で地域紛争が戦われていたのだから正に20世紀は戦争の世紀であったといえる。この間英国が基軸国から転落しその後を襲った米国の基軸国としての世界制覇、そして冷戦のための経済戦争に疲弊した社会主義国ソ連邦の消滅と世界の勢力地図は激しく変貌した。
 戦争の経済は「戦費と戦後復興資金」の調達という厖大な資金を中央政府が市場から吸い上げる「大きな政府」の経済である。このため市場で流通する財・サービスと流通資金量は絶えず不均衡な状態に陥る危険性をはらんでいた。流通資金量は何かを引き金に突然流通する財・サービスより不足し物価騰貴する可能性があったから中央銀行は「インフレ」の危険性に細心の注意で臨む必要があった。中央銀行に求められたのは「物価の番人」として「インフレ」を招かない機能であった。
 20世紀最大の金融的パラダイムシフトは「ニクソン・ショック」による金本位制の終結であろう。金(銀)への兌換性が保持されることによって流通資金量の創出が金(銀)の保有量によって制限されていたものが基軸国アメリカの金本位制の放棄によって規制のタガが外されてしまった。事実これ以降アメリカの流通資金の創出は基軸国の立場を利用した、ある意味「野放図」なものとなっていった。そしてこのことが今起こっている金融緩和の伏線になっている。

 冷戦終結以後21世紀は戦争に変わって経済のグローバル化に伴う「世界市場の拡大」が世界経済の攪乱要因として顕在化した。アメリカを中心としたG5やG7の先進国主導の経済体制は終焉し現在の混沌とした「Gゼロ」の世界経済体制に変貌した。
グローバル化の特徴は、世界経済が耐えず「供給過剰」の状態にさらされることであり、とりわけ工業製品はその傾向が強い。我が国や韓国、また現在の中国等の新興国の例を見ても明らかなように、世界市場に新規参入する後進国はまず「工業化」するからである。工業は多くの場合「資源消費型産業」である。資源は有限であり、その有限の資源をG5であったりG7という限られた国で利用できていた「先進国有利」の状態が崩壊してG20の競争状態に突入している。新規参入国は今後益々増加し続けるであろうから工業製品の供給過剰状態は21世紀の「定常的特徴」として受け入れなければならない。この状態を金融面から見ると「市場に流通する資金量」が流通する財・サービスに比して絶えず「不足」する傾向にあると考えられる。
グローバル化による工業製品の「世界的供給過剰」を解消するために不足する流通資金を世界の市場で流通している「ドル、ユーロ、円」を投入することで均衡を図る、こうした過程が現在先進国の行っている「非伝統的金融緩和」の実態ではないだろうか。

 中央銀行、特に先進国中央銀行の20世紀と21世紀における機能の変化―インフレ抑制のための「物価の番人」から非伝統的金融緩和による「世界市場への流通資金の供給者」への変化を、私はこう理解したのだが……。

2013年5月6日月曜日

人はなぜ勉強するのか《続》

では人はなぜ勉強をするのか。
 山極教授はこう言っている。「科学という学問は友達を作り、自分の思考を磨くものであるはずだ。」「ときには異なる知識や違う能力をもつ人々がチームを組み、役割を分担して目標達成に挑む。その際は、自分が抜き出ることより、それぞれの能力を生かして助け合うことが必要になってくる。(略)個人の競争ではなく、チームワークが良い結果につながるのである。」「科学は文化や宗教の壁を越えて常識を作る。それはこれまで科学の道を志した人々の無数の問いによって更新されてきた。その世界は功名心ではなく、新しい発見と事実に基づいて未知の扉を開けたいという謙虚な心によって支えられてきた。」こう述べたあと教授は次のように結論をいう。「科学は世界の見方を共有して友を作り、平和をもたらす大きな力になる。」と。
 グローバル化し複雑化した現代では、異なる学問領域の協業や複数の国家が連携して取り組まなければ解決しない問題がほとんどである。こうした背景を認識すると山極教授の言葉がにわかに現実味を帯びてくる。科学の知識を生かして競争に勝ち、多くの報酬を個人的に得るというこれまでの成功のイメージが実は可能性が薄いことなのだということが実感できるであろう。
 余談だが科学を政治に置き換えると「政治は世界の見方を共有して同士を作り、平和をもたらす大きな力になる」となる。ところが現実の政治は選挙のたびに異なる同士で政党を作り、選挙に勝つために世界の見方を共有しない政党に移ることが平気で行われているから、「政治が機能しない」ことになる。そもそも政治は学問とは無縁なのかもしれないが。
 
 なぜ学問(勉強)をするのか、という問いの究極の答えは「ひとを愛するため」と私は考えている。社会心理学者のエーリッヒ・フロムの語る愛はスバリ私の考えを代弁してくれている。「近親相姦は、子宮のぬくもりと安全性の象徴であり、大人の自立とは裏腹の臍の緒依存の象徴である。人は「知らない人」を愛することができてはじめて、自分自身を認識することができ、別の人間の核心に自分自身を関係づけることができてはじめて、ひとりの人間としての自分を経験することができる。(略)「知らない人」、自分と違う社会的背景をもった人を愛することができない限り、性的な意味ではなく性格学的な意味では、今でも近親相姦を行っていることになる。人種偏見や民族主義的偏見は、現代文明における近親相姦的要素の現れである。われわれは、一人ひとりが知らない人のことを兄弟のように考え、感じ、受け容れることができるようになってはじめて、近親相姦を克服したことになるのである(「愛と性と母権制」p60)」。
 人はひとりでは生きていけない、他人の間で生きていくしかない。他人は自分とは異なった考え方をしている。従って異なった考え方を理解することが即ち「生きていく」ことにつながる。学問は「物事の考え方、およびそのための用具と訓練」であるから学問を学ぶことは異なった考え方を理解できる力になる。大事なことは「用具と訓練」という表現である。ひとつの学問を身に付け、そのための用具を手に入れて考え方の訓練をするということを具体的に説明するとこうなる。私は経済学を勉強した。経済学という考え方とそのツールを手に入れたわけだが、あらゆる現象や事柄を「経済学の眼=用具」で理解するには相当の訓練が必要になる。大学で経済学を学んだだけでは経済学を習得したことにはならないのである。マックス・ウェーバーがわざわざ「用具と訓練」を付け加えているのはこういう意味である。勉強をしたい、学問を追求したいという「抑え難い欲求」は誰にでも一度はあったはずだが挫折し「勉強嫌い」になる原因は訓練に耐え乗り越えることができないところにある。
 フロムがいうように知らない人を愛し「知らない人のことを兄弟のように考え、感じ、受け容れる」にはその人の考え方を理解する必要があり、そのためには訓練が必要なのだが挫折してしまうことが多い。すると「大人の自立とは裏腹な近親相姦的な子宮のぬくもりに包まれた安全な臍の緒依存」に頼ってしまうことになる。昨今の社会情勢を見ると自分でない人(たとえそれが我が子であっても肉親であろうが)、「知らない人」を愛せないで苦しみ悩んでいる人のいかに多いかが分かる。それがひいては、人種偏見や民族主義的偏見に結びついて不幸な戦争に発展することも少なくないのである。

 人はなぜ勉強するのか。それは、人を愛するためである、と私は考える。