2013年8月26日月曜日

老いを生きる

 暑い!今年の暑さは異常だ。仕事がなければわざわざこんな日に外に出かけることはないだろう。冷房の利いた部屋のソファに寝そべってテレビでも見て1日過ごすに違いない。猛暑日が続いているから1日が2日、3日になって気がついたらすっかり筋肉が落ち歩行に支障が出る、しかしそれに気づけばいいが知らないうちに悪化して…、老化はこんな風に侵食してくるのだろう。
 テニスクラブのメンバーで元インターハイ選手だった人がいる。実業団でも活躍していた彼が突然重篤な病に罹り1ヶ月程入院したことがあった。入院して10日は寝たきりだったのでリハビリをうけたが最初は立つこともままならなかったという。勿論歩行など論外で、復帰した今でも筋肉は元に戻っていない。
知らないうちに筋肉が衰え老いが進行してしまう。正座ができなくなるのも太腿の筋肉が関係しているが、そんな老いの兆候を科学的に検査し対応策をプログラム化して「健康に老いる」指導をしてくれる施設がない。江戸川大学の中村雅美教授が提案される健康な高齢者の健康維持を目的とした『健康院』の必要性はますます高まっている。専門的な知識がないために間違った方法でランニングやウォーキングをして膝を痛める例に見るように『健康院』があれば高齢者の「健康寿命」を伸長して「高齢者医療費の増大」を相当抑制できると思う。テレビに広告が溢れている「健康補助食品」市場が年間1兆円近い規模にまで膨れ上がっているのもつまるところ「確信のもてる健康維持策」のない不安が根底にあるからで、健康な高齢者の「健康維持指導」は早急に対応が求められる施策だと思う。

 高齢化が進んで健康寿命が伸びて…、しかし「生」は「享受」されているのだろうか。高齢化がこんなに進む以前、長生きする人のタイプに「画家などの芸術家」や「政治家」が多かった。それに田舎へ行くと「好い顔」をしたお百姓さんによく出会った。こうしてみるといずれも「生涯現役」の人たちだ。ところが今の高齢者の多くは無理やり「定年」という制度で現役を退けられ仕事を失っている。

 「天命に安んじ、詩酒を楽しみ、人を愛し自然を愛する」生き方が一方の理想型であるとするならば、生きることは人生を楽しむことにある。もう一方で「生涯現役」として「仕事」をすることも人生を充実したものにする。しかし現実は企業社会から引退しているとなればどうすればいいのか。仕事というのは企業社会に固有のものなのか。仕事とは他人の役に立つこと、とは考えられないか。他人の役に立ちながら他人(社会)との繋がりを保つ、それを仕事と考えられないか。企業社会で商品やサービスを生み出して他人の役に立っていたが、それ以外の方法で他人の役に立つ形はないのか。すぐに思い浮かぶのは「ヴォランティア」だがNPO活動という形もあろう。どのような展開をするかは始まったばかりの高齢社会に生きる高齢者一人ひとりがこれから模索することだろう。勿論人生の楽しみ方も。
 今までは「健康で長生き」ばかりがクローズアップされていたがこれからは「生きて何をするか」が問われる段階に高齢社会が成熟して来た、と思っている。

 われ遺書を厭(い)み墳墓をにくむ。死して徒に人の涙を請(こ)はんより、生きながらにして吾寧ろ鴉をまねぎ、汚れたる脊髄の端々をついばましめん。/(略)わが亡骸(なきがら)にためらふ事なく食入りて、死の中(うち)に死し、魂失せし古びし肉に、蛆虫よ、われに問へ、猶も悩みのありやなしやと。(シャアル・ボオドレエル「死のよろこび」抜粋・永井荷風訳・珊瑚集より)

2013年8月19日月曜日

お盆に思うこと

  お盆になると妻がお祀りと接待をしてくれる。仏花はお盆用のちょっと豪華なもの―蓮の花とホウズキ、槇の葉が加えてある―でお水も大振りの水椀にたっぷり水をたたえ蓮の葉を浮かべて槇の葉が添えてある。中央には「薩摩芋、茄子、ホウズキ、胡瓜、桃」のお供えがある。毎朝「おけそくさん(小餅)」を左右に2個づつお供えして最近は日替わりで「お迎え団子、おはぎ、お送り団子」が別につくようになった。さしずめおけそくさんが主食で団子がスイーツなのか。昼食はそうめんが多い。夕食は仏さん用の小ぶりの朱の膳に同じ朱の小椀をー今日は揚げと葱のヌタ、長芋ニンジン牛蒡の煮物、梅干と赤蕪のお漬物、茄子と南瓜の味噌汁と白ご飯の5品を左右にお供えして接待する。これを4日間、黙々と続ける妻には才能があるのだろうが感心する。こうして今年も恙無く、お迎えしお送りすることができた。「ご苦労さん、ありがとう」。
 普段はお花を洗ってお水を替え線香を立てて朝参りをするだけだがそれでも毎日仏さんにお念仏を唱える。
 このように私の生活には仏さん―ご先祖は確たる位置を占めている。生きてはいらっしゃらないから普通の「存在」ではないが生者と死者という「隔たり」ほど遠くはない。加えてこれまで何人もの親族血族の死を身近に見送ってきたから「死―死者」は特別なことではない。まして死を「穢れ」などと感じたことはない。

 医術の進歩、保険商品の拡充とその広告を見ていて、そしてテレビに溢れる保健補助食品の広告を見ていると、「死」に対する『嫌悪感』『恐怖心』が異常に増幅されているように感じる。とにかく「死を遠ざけよう、関わらずにおこう、見ないでおこう」という気配を濃厚に感じる。
 で、それで、延命された生命は祝福されているのか、といえば全くそうでない。
 言い古されたことだが「死を考えることが生を充実させる」という根本に立ち返って、我々は「死」と真剣に向き合う必要があるのではないか。漢詩人を「天命に安んじ、悠々として詩酒を楽しみ、人を愛し自然を愛しつづけた」と評することが多いが、「天命に安んじ」が人間の「生への姿勢」のあるべき基本だとすれば、現代における「天命」とはどのようなものか。自己も含めて「生と死」を近いものにする工夫をしなければ、とご先祖を送って考えた。

 福永武彦の「告別」にこんな件がある。「アフリカの土人たちは仮面をつくった。彼等は常に恐れていたし、仮面はそれらの恐れを、生まれながらの本能的な恐れを、避けるための最も有効な武器だった。彼等は猛獣を恐れ、収穫をおびやかす自然の猛威を恐れ、他の種族を恐れ、病を恐れ、死を恐れた。しかし彼等が最も恐れたものは死だろう。死は形もなく襲って来るのだ。そこで彼等は死者のための仮面であるバコタをつくった。バコタをかぶる者は、形ある死、彼等野蛮人が眼に見ることの出来る死だった。/仮面は、それを自らかぶる者にとってと、それを見詰めている者にとってとでは、別個の意味があるに違いない。バコタをかぶる者は、その間に彼自らが死者であり祖先であることを意識する。彼はその時ひと度死ぬわけだ。また彼を見詰める者にとっては、この怪物は即ち最も確実な未来、――死を意味した。そして死を見るたびに、彼等はその絶対的な魔力が、自分たちに乗り移るのを感じたに違いない。従ってバコタを見ることは、或いは死者を祀る祭式を行うことは、彼等にとって生を充実させ、より健康に明日の生活を迎えるための、悦ばしい儀式をなしていた。彼等は笑い、踊った」。

 文明人の我々よりも彼ら野蛮人の方が豊かに感じられるのは、私の僻目(ひがめ)か。

2013年8月12日月曜日

相撲協会や柔道連盟で何故不祥事が起こったか

 日本相撲協会、全日本柔道連盟で不祥事が相次いで起った。しかし自助努力での再建はならず監督官庁たる文科省や総務省の勧告があってやっと組織の立て直しが行われそうな状態だが、何故最も日本的なスポーツ界で「潔さ」の微塵もない無様なことになったのだろうか。
 
 戦後日本の大きな節目は「バブルの崩壊」だった。そしてこれは単なる経済社会の出来事ではなく日本社会全体の大転換点でもあった。
 戦後の荒廃から僅か10年で「もはや戦後ではない」という復興を成し遂げ、以来73年まで平均9.1%、74年~90年は平均4.2%という高度成長を達成した。しかし91年2月のバブル崩壊から2012年の間0.9%という低成長とデフレが続いている。こうした経済の動きの下で「戦前世代から戦後世代へ」という大転換が起こった。私は1941年生まれだが戦後の新教育制度の全過程の階段を昇った最初の世代になる。1924年以前に生まれ終戦までに教育を終えている人たちが戦前世代(従って65歳で第1線を退くのは1990年前後になる)で、25年~40年生まれの人たちは過渡期世代になろう。戦前世代が優勢だった60年70年代を経て80年代には企業上層部で戦前世代から戦後世代への入れ替えが進んだ。戦後世代が優勢になっても新入社員の再教育再訓練によって戦前思想は力を保ったが、80年代後半になると企業社会での覇権は戦後世代に移行した。従ってバブル崩壊は戦前世代の完全な撤退期に重なっていたと見てよかろう。

 戦前の日本人の価値体系は儒教によって与えられていた。これに反して戦後は自由主義、個人主義を道徳価値の支柱とする教育が行われ、これはアメリカ流の理想を日本の子供に植え付ける意図で遂行され、儒教を基とした家庭の重要性と国家への忠誠を強調する旧教育とは対立し、個人主義は利己主義を助長する結果を招いた。
 戦前教育と戦後教育のもうひとつの大きな相違点は漢文(と漢文読み下し文)教育の採用不採用にある。日本語は、感情面を「やまと言葉」で論理面を「漢字と漢文」で、という二つの側面を併せ持った体系になっている。ところが戦後教育は漢字を極端(2000字程度)に制限し漢文(漢文読み下し文)教育を日本語教育から排除した。これでは日本人の「論理的思考能力」が劣化して当然である。
 儒教的倫理観の欠如は地域のコミュニティー機能の低下や親殺し、親の育児放棄や子殺しとなって表れている。言語の論理機能の劣化は創造性の弱化や専門性の低下に繋がる。そのひとつの例証としてノーベル賞受賞者が島津製作所の田中耕一さんとiPS細胞の山中伸弥教授以外に戦後教育を受けた人から出る可能性が少ないと見られているところにも窺われる。デフレの原因が「イノベーション力の劣化」にあるとすれば論理能力の低下は少なからず影響しているに違いない。
 儒教思想の一典型である「武士道(新渡戸稲造著)」の次の一節にも不祥事の一因がみえる。「あらゆる種類の仕事に対して報酬を与える現代の制度は、武士道の信奉者の間には行われなかった。金銭なく価格なくしてのみ為され得る仕事のある事を、武士道は信じた。(略)価値がないからではない、評価し得ざるが故であった。(略)蓋し賃金及び俸給はその結果が具体的なる、把握し得べき、量定し得べき仕事に対してのみ支払はれ得る。(略)量定し得ざるものであるから、価値の外見的尺度たる貨幣を用ふるに適しないのである。弟子が一年中或る季節に金品を師に贈ることは慣例上認められたが、之は支払いではなくして献げ物であった。(略)自尊心の強き師も、事実喜んで之を受けたのである」。

 相撲界、柔道界でも世代交代は起こっているから指導層に儒教的価値観が無くても仕方がない。組織改革を自力で行うことができないのは、現状認識力と問題析出力の欠如と問題解決する綜合力の欠落という「論理能力」の劣化以外の何ものでもないであろう。
(この稿は「なぜ日本は行き詰ったか・森嶋通夫著」を参考にしています)

2013年8月5日月曜日

老いとソクラテス

 奇跡が起こった!公園にゴミが無い!8年間ゴミ拾いをしているがこの広い公園にひとつのゴミも落ちていないなんて!夏休みになると中央の四阿(あずまや)で中学生が一晩中宴会をやってペットボトルや空き缶やたこ焼きの食べカスや菓子の包み紙やらタバコの吸殻やらが山ほど散らかしてあるのが当たり前だったのに、今朝はどこにもゴミが無い。
 昨年の夏休み前、学校に相談しよう、子供たちにごみ捨てをしないように指導して貰おう、公園が出来てから30年近く毎朝地域の大人たちがゴミを拾い続けてきたけれども、一向に子供たちにゴミ捨てという悪い習慣を改めようという気配が感じられない。ならば学校とも協力して子供たちに働きかけなければ子供たちは変わらない。そう考えて小学校と中学校の教頭先生に事情を話し協力を仰いだ。
 変化が表れ始めたのは今年の4月頃だった。ゴミが減ってゴミ拾いが週2~3回で済むようになった。7月になって急激に少なくなって、そして2013年8月2日、ついに公園からゴミが消えた!
  
 学校の教育力、未だ健在!このことが一番嬉しい。何かと批判の多い昨今だが、現場は生きている、そう思えることが嬉しい。先生頑張れ!!

 閑話休題。年をとって最も難しいことは「知らないことを知らない」ということではないかと最近思うようになった。70歳を過ぎて少しはキャリアがあって年齢が顔に出るようになると、若い人には何でも知っているように映るのかもしれない。あれこれ訊ねられるが無才無徳の老書生、知らないことの方が多い。以前は知っているつもりだったが最近になって自分の知識が間違っているのではないかと危ぶむ事柄も少なくない。そんな状態なのに訊ねられるとツイ知ったか振りであやふやな知識を広げてみたりいい加減に誤魔化してしまうことが何度もあった。しかし、もう、知らないことは知らないとハッキリ言おう、そう思うようになった。
 若いうちは何でも分かっていると思っていた。分かったつもりになっていたことも多かった。自信満々だったし勉強もした。しかし世の変遷は激しく価値観の変動も半端じゃなかった。ものには裏と表がある、見方を変えれば真逆になることも少なくない。分かったつもりでいたけれども本当は間違っていたり、その底に別の意味もあった、ということが結構多かった。情報化が進んで「物識り」が増えたけれども、モノを知っているだけではほとんど価値がないというのが若き日を振り返っての私の反省である。
 
 そういえば「ソクラテスの弁明(引用は「光文社古典新訳文庫」による)」のなかでソクラテスがこんなことを言っている。「私はこの人よりも知恵があるようだ。つまり、私は、知らないことを、知らないと思っているという点で。」「あの恥ずべき無知、つまり、知らないものを知っていると思っている状態」と。   
弁明のかいもなくソクラテスは死刑に処されるのだが彼の死についての考え方は高齢時代の我々に「生命についての潔さ」を教えてくれると思うので引用しておこう。
 死を恐れるということは、皆さん、知恵がないのにあると思いこむことに他ならないからです。それは、知らないことについて知っていると思うことなのですから。死というものを誰一人知らないわけですし、死が人間にとってあらゆる善いことのうちで最大のものかもしれないのに、そうかどうかも知らないのですから。人々はかえって、最大の悪だとよく知っているつもりで恐れているのです。

 老いた代償に、道理が分かってくる側面もある。