2013年9月30日月曜日

老いを生きる(四)

 前回に続いて「吉本隆明著・老いの超え方(朝日新聞社)」をベースに話を進める(〈 〉内は頁数)。
スウェーデンは(略)「わが国が誇れるのは老いて身体が不自由になっても、ゆで卵の硬さを言う自由を保証していることだ」と言います〈211〉。スウェーデンでは、人間の生活の基本は食べることと排泄することと眠ることで、そこが自立できないと、精神のリハビリにかなり影響を及ぼすという考え方がしっかりと踏まえられている。そのため、人と物と金をケアにたくさんかけています。それが人間の自立というか、尊厳というものの根本にあるという思想が制度的に保証されています。(略)スイスで心臓手術をすると、3日目からリハビリを開始するそうです。つまり、1日延びると人間の生理機能は衰えるという思想があるので、心臓手術をしたおばあちゃんが三日後にビフテキを食べさせられるそうです。(略)そして1週間後には、リハビリ専門病棟、病棟といっても周りにきれいな花が咲いていて、散歩道があって、非常に美しくて、嫌でも出て行きたくなるような環境を作る。どんなにハードな手術をしても、身体機能のリハビリは最優先であるということです〈86〉。

来年度からの消費税増税の決否が10月早々にも下されそうだが社会保障改革も同時に進められるに違いない。スウェーデンやスイスとの格差はますます拡大するだろうがこれは我が国の社会保障が独自の理念に基づいて構築されたというよりも、戦後英国が掲げた「ゆりかごから墓場まで」という社会保障のスローガンに盲従した「官僚の机上プラン」で情緒的にスタートしたせいである。そうでなければサンピアやグリーンピアなどの「はこもの」施設の無駄遣いや年金記録問題など起ころうはずもない。こうした顧客(国民)志向のない社会保障の精神は病院経営にも如実に現れている。

今の(病院の)管理機構は(略)医師は理事会に管理されて、看護師さんは医者に管理され、患者は看護師さんを介して管理されるというふうになっています。でも、第一義的には患者の利害得失、病状、自由・不自由、そういうことを考える管理機構でないと嘘だと思います。/そうすると、今はほとんどできていない。理事ないし理事長の利害から発して全部ができていて、患者はそこに入っている、留置されていると例えるのが一番例えやすいのです。(略)患者、つまり管理されている人間の健康や利害、自由さを第一位とする管理機構に変えればいい。〈108〉。なにも病院が理想的な社会であって欲しいとは言わないけれど、「管理される人の利益を第一とする」というふうなことを推し進めても、それが必ずしも管理している側の不利益にはならないんです。(略)長い目で見れば、そういう病院に一番お客さんが集まるんだと。そうでなければ、科学や情報が発達すればするほど、なおさら管理が厳しくなるということになってしまうから〈166〉。

こうした病院で治療を受ける患者は不満で精神的に参ってしまう。「老人はにぶいとおもっているから駄目なんです。僕に言わせると普通の人より鋭敏なんだから、『もう少しですよ、頑張れ』なんて言い方したらアウト。そうではなくて『こうすればこうなる、次の段階に行くにはこうしなければなりません』というように小さな目標のようなものを言ってくれればやるんですよ〈44〉」。では理念とは。「人間の生涯で大切なことは二つしかない。一つは老人を経済的に安定させて、少なくとも世話をしてくれる人を雇えるくらいの余裕を持たせる。/もう一つは妊娠した女の人に十分な休暇と給料を与えて十分な子育てができる。この二つが実現できたら歴史は終わり〈217〉」。

非難を恐れずに極言すれば、「団塊の世代の保証がピークをすぎる2030年~2040年を見据えた実現可能性のある計画」を『理念』を持って国民に訴える情熱と度胸のあるリーダーが出てきて欲しい。

2013年9月23日月曜日

老いを生きる(三)

 吉本隆明の「老いの超え方(朝日新聞社)」は老いを思想として捉えており教えられることが多い。以下は「老い」と「死」に関する抜粋である。

 『老い』と『衰え』は、本質的には関係ないと考えてもいいんじゃないでしょうか。しかし、老いている本人にとっては『老い』と『衰え』が切り離せない問題になる。(p215)。老齢者は身体の運動性が鈍くなっていると若い人はおもっていて、それは一見常識的のようにみえるが、大いなる誤解である。老齢者は意思し、身体の行動を起こすことのあいだの『背理』が大きくなっているのだ。言い換えるにこの意味では老齢者は『超人間』なのだ。これを洞察できないと老齢者と若者との差異はひどくなるばかりだ(p125)。老齢化とは肉体と精神のバランスが崩れることなんですね。(p118)。老人の持っている肉体的衰え、惚けというか精神的衰えは、どちらも単独ではないんです。精神科の医師に言わせれば、老人はみんな精神的に病んでいる。その病は精神的な衰えなのか、肉体的な衰えなのか判断しにくい。逆に言うと、老人の病気あるいは病的な状態や肉体的な衰えの治療は、整形外科的な療法でも精神的な療法のどちらでもいいんです(p119)。
 
 高齢になって病院へ行ったとき「歳のせいですね」と医師に言われた時ほど腹立たしいことはない。本人も「衰えた」という自覚は十分にあるが「老い」とは思いたくない気持ちがどこかにある。そんな繊細な気持ちを踏みにじる無神経な言葉を吉本は見事に反論してくれている。高齢者は「『超人間』なのだ」という意識が社会に浸透すれば高齢者と世間のギクシャクした一面は払拭されるに違いない。

 (ボーヴォワールは「老い」という著作の中で)じぶんが死に対する悲しみをいくぶんか和らげられるようになったのは、死を世界における不在だと考えられるようになってからだといっています。たとえば自分たちは日々不在を体験している。かって友達であった人がなくなっているとき、かって父親や母親であったとか肉親であった人がなくなって、今や不在である。(略)このように考えてゆくと、人間の存在が世界における不在を絶えず体験しながら生きているようなものだ。そして不在がすべてをおおいつくしたとき、それが死なんだと考えるようになって、じぶんは「死」とか「老い」とかに対する恐怖や悲しみを和らげられるようになったと言っています(p263)。(フーコーは)健康を基準にして、次にやってくるのが病気であり、その果てに考えられるのは死である、というようにひとりでに思い込まされている。(略)しかし本当はそうではないのではないか。死というのは何かといえば、病というものと、人間の生きるということを底辺とする三角形を考えるとその頂点に死が絶えずあって、そこから絶えず照らし出されることによって、われわれは生きているという言い方をしています。だから死はいわば生の意味を分析する最大の分析者なのだ。(略)死というものを頂点として、そこから照らしだされた人間の生きるということ、それから病気というものの原理を考えてゆくと、そこで人間の生は十分に照らしだされるのだという言い方をしています(p264)。死を迎える心構えというのは、これは自分はまだ経験していないことだし、また、もっと言いますと、わかりきったことなんですが、自分の死というものは自分のものではないんです。(略)自分の葬式は簡単にしてくれとか、(略)そんなことは余計な心配だと思います。死は他人のものなんだから、他人がどうしようが、そんなことは僕が何か言うべきことに属さないと思っているわけです(P266)。

 「終活(死への記録と死後の諸々の処分)」が少し前持て囃されたとき、違和感を持った。死が生の延長であり自分のものであるという考え方が底流に有りそれに我慢がならなかったのだ、ということがこの書を読むことで理解できたのは望外の喜びであった。

2013年9月16日月曜日

オリンピックと行政改革

 2020年オリンピックの開催地が東京に決定した。直前、福島原発汚染水の漏洩が危機的に報じられたため暗雲が立ち込めたが、最終プレゼンで安倍総理が「港湾内0.3平方キロメートル内に完全にコントロールできています」という「絶対安全宣言」をしたことが功を奏し大差で開催地に決まった。しかし、安倍総理の安全宣言は真実なのだろうか。東電に代わって国が直接対策に乗り出すようだがそれで本当に事故収束は可能なのだろうか。
歳のせいか悪い方へ悪い方へと思案が向いてしまう昨今、開催はしたけれど原発事故は収束せず不安が広まり有力選手をはじめ多くの選手にボイコットされ、広い競技場に僅かな選手が低調な競技をしている図が思い浮かぶ。まさかそんなことはめったにないと思うが、国際公約をしたからはどんなことがあっても守って欲しい。一向に進まなかった震災復興がこのことで一気呵成に進むことになれば、こんな結構なことはない。ぜひそうなって欲しい。

その明くる月曜日、思いもかけず私の周囲で震災に絡んだ事件が明らかになった。1年ほど前、近くの公園に「災害用マンホールトイレ」の施設ができた。昨年9月(と記憶している)に完成したのに、施設使用のための案内掲示版にはカバーがかかったまま放置されているうえ地元住民への利用説明会が開かれた気配もない。いくらなんでもおかしいと公園管理事務所に問い合わせると上下水道局の管理だという。早速電話すると担当者は「今維持管理担当部署への引継ぎを行っています」という。そんなはずはない。ヤマカンで「あなた、これは東北大震災復興予算の流用案件でしょう」と少々『強面(こわもて)口調』で詰問するとあっさり「そうです」と認めたではないか。
聞いた内容から類推するとこうなる。復興予算流用案件として予算を取った「京都市上下水道局下水道部設計課」が設計施工して業者に発注、完成して完了確認後業者から設計課に施設は引き渡されたが、以降維持管理担当部署への引継ぎはなされず放置されたまま今日に至っている。
復興予算流用が問題なのは言うまでもないがマスコミの伝える他の案件に比べればこの施設ままだマシな方だろう。しかし通常の予算でない、棚ボタ予算でチェック体制もいい加減なのか、使ってしまえばお役人は「仕事をした」ことになるのだろう。何百万円(まさか何千マン円ということはないだろう)か知らないが国民の血税を「使わせて戴いた」という意識は微塵もなく、緊急避難用施設にもかかわらず利用者たる地元住民への利用説明会も行われず放置されていたのだ。

さてその公園だがゴミ拾いを初めて8年近くになる、その間いろいろあって最近やっと分かってきたのだがこの公園の管理系統は複雑多岐に亘っている。公園の半分を占める有料野球場を含む北部分は「京都市体育協会(文化市民局スポーツ振興室)」が管理し現在メンテナンスを「近建ビル管理㈱」へ業務委託されている。南半分は「北部みどり管理事務所(建設局)」が担当部局である。他に西京土木事務所(建設局、周辺道路管理)、自転車政策室(建設局、周辺道路上の放置自転車担当)、先の下水道部、防火危機管理室(行財政局、広域避難場所の掲示板管理)。加えて警察と消防もそれぞれの緊急時には絡んでくるし、隣接の桂川中学校、川岡東小学校は最大の利用者である小中学生の指導教育を行っている。
この複雑な管理系統を把握している部署はあるのだろうか。そしてこれらの担当部署の相互連携はとれているのだろうか。ちなみに公園開設以来近隣住民が毎朝行ってきたゴミ拾いは小中学校の協力があって今では週数回のゴミ拾いで済むように改善されている。

行政改革の必要なところは身近にいくらでもある。それを愚直にひとつひとつツブシテいけば、この国はもっと少ない費用(税金)で効率的に運営できるはずだ。

2013年9月9日月曜日

情報とどう向き合うか

  本を読むことは、自分の頭ではなく、他人の頭で考えることだ。
 悪書は知性を毒し、精神をそこなう。
 なんとも刺激的なアフォリズム(格言)だが、これは19世紀の哲学者ショーペンハウアーの「読書について(光文社古典新訳文庫)」にある言葉だ。更にこんなふうに続いている。
 他人の考えをぎっしり詰め込まれた精神は、明晰な洞察力をことごとく失い、いまにも全面崩壊しそうだ。/悪書は役に立たないばかりでなく、はっきり有害なのだ。/多読に走るべきではない。精神が代用品に慣れて(略)自分の頭で考えて歩むべき道から遠ざかってしまわないようにするためだ。(略)読書のために、現実世界から目をそらすことがあってはならない。
 
 情報化時代のただ中にあって我々は情報の洪水に溺れそうになっている。メディアも多彩で新聞・雑誌・テレビ・ラジオをはじめとして書籍(本)、教科書、チラシ、フリーペーパー更に仕事上の各種の印刷物などもある。最近はIT情報も多く、インターネットにメール、フェースブックやLINEなどのSNS情報の交換にゲームと情報だらけである。
 印刷物がそれまでの聖職者や政治家、学者などの一部の限られた人のものから一般化し雑誌や新聞の発行もあって今と様相は異なるが、ショーペンハウアーの時代も情報過多の時代であった。そんななかで情報に流されないためにはどうすればよいかを彼なりに示唆したのが最初の言葉になったのである。
情報を選択して「いい情報」だけを見るようにしなさい、というのが彼の教えであろう。しかしどうして取捨選択をすればいいのか、
 それについて彼はこんなふうに言っている。「良識や正しい判断、場をわきまえた実際的行動の点で、学のない多くの人のほうがすぐれている。学のない人は、経験や会話、わずかな読書によって外から得たささやかな知識を、自分の考えの支配下において吸収する」。少々失礼な表現だが要するに、知識を鵜呑みにせずに「自分の頭で考えなさい」と言っているのだ。

 彼は更にこんなことも言っている。思想家は(略)たくさん読まねばならないが、(略)自分の思想体系に同化させ、有機的に関連ずけた全体を、ますます増大する壮大な洞察の支配下におくことができる。∥思想体系がないと、何事に対しても公正な関心を寄せることができず、そのため本を読んでも、なにも身につかない。なにひとつ記憶にとどめておけないのだ。
 テレビに出てくるコメンテーターなど「物識りタレント」が『知ったかぶり』で振りかざす知識に信用が置けないのは彼らに専門的な『思想体系』がないから『知識のツギハギ』であることが我々にも見え見えだからに違いない。
 彼の言葉の中で最も現代にあてはまるのが次の文章だ。「ルソーは『新エロイーズ』の序文に〈名誉心ある者なら、自分が書いた文章の下に署名する〉と書いている。この逆も言える、すなわち〈自分の書いた文章の下に署名しないのは名誉心なき者だ〉。(略)少なくとも名誉心をもつ者なら、名誉にかけて責任を取るべきだし、名誉心のかけらもない輩すなわち匿名・偽名による発言は、無効にすべきだ」。ネット時代を見越したような言葉ではないか。

 饒舌な者は、なにも語らない/愚鈍と無作法はたちどころに広まる。/無知は人間の品位を落とす。しかし人格の下落がはじまるのは、無知な人間が金持ちになったときだ。/誰だって、判断するより、むしろ信じたい(セネカ)。
 彼のアフォリズムは止まるところを知らない。

2013年9月2日月曜日

老いを生きる(続)

 渡辺淳一の話題作「愛ふたたび」を読んでみたいと図書館に予約したところ何と予約順位110位!私は滅多にベストセラーを読まないからこれがどれ程の人気振りか分からないが、決して低い方ではないだろう。ということはこの小説のテーマがそれだけ時代性を持っているということになる。その内容とは。73歳の医師「気楽堂」国分隆一郎が亡妻の面影を持つ40代半ばの女性弁護士と恋に落ちる。しかし彼はもう男性機能を喪失している。どうすれば愛を成就できるのか、その時性愛はどんな形をとるのか。シニア男性の苦悩と歓喜を渾身の熟達の筆で描く渡辺淳一の表現がナマナマしすぎることが災いして連載打ち切りになったことも一層話題を盛り上げた。
 
 わが国では何故か「年寄りの性欲」は否定されてきた。みっともないと軽蔑され「茶飲み友達」が好もしいと言われてきた。しかし高齢化が進展し健康でリッチなシニアが増え、しかも彼らは現役を離れてストレスから解放されているから中年男性よりかえって元気がいい。一方「年寄り」と呼ぶのが失礼なほど若々しくて魅力的で行動的なシニア女性が溢れている。これだけ条件が整えば恋愛や性愛の新しい形が現れても不思議はない。鴨川近くの風俗街では以前から「シニア割引」があって結構需要があるらしいがそんな歪んだものでなく、夫婦が、又シニアカップルが新しい愛の形を育んでもいいではないか。渡辺淳一はそんな「夢心」を挑戦的に訴えたかったのだろう。

 J・アタリが「21世紀の歴史」の中で「21世紀は暇つぶしと保険の時代である」と警告している。昨今のスマホ全盛をみると「一億総暇つぶし」は確実に現実化していることを思い知らされる。若い人たちのゲームとフェースブックやLINEを通じた「友達ごっこ」に熱中する姿はあまりに危うい。しかし若い人ばかりではない。テレビにコマーシャルが溢れる「高齢者向け保険商品」は『人類の経験したことのない高齢社会の不安』を象徴していないか。高齢化が進んで平均寿命が伸び健康志向が異常に高まる一方で万一病気に罹った時の備え、死後子供たちに迷惑をかけたくない、という高齢者の不安に保険と健康補助食品が見事に応えているようにみえる。
 しかし「不安」というのは「不安のもと」が正確に把握できないから生じるので、医療保険なら医療費の概算が分かっておれば自分なりの対応ができるはずだ。ところが「疾病別医療費概算」的な資料が公的にはないのだ。区役所の窓口へ行っても病院へ行ってもない。社会保険診療報酬支払基金や国民健康保険団体連合会がどうしてデータを公開しないのか。もうひとつ、健康保険の「高額療養費支給制度」をどうしてもっと分かり易く国民に広報しないのか。私の知人が重篤な病気になったとき、病院から制度のことを教えて貰って初めて知ったと言っていた。元気な時に知っていたらあんな高い保険に入っていなかったのに、とも嘆いていた。ちなみに、70歳以上の医療費は同制度によって「外来なら月額12,000円、入院なら月額44,400円」が支払限度になっている。
 では疾病別の医療費は大体どれくらいなのだろうか。最も高額なものは「くも膜下出血、日額約4万6千円、治療日数約100日、治療費総額460万円」、ついで「白血病、5万8千円52日300万円」になっている。しかし先の高額療養費支給制度を使えばくも膜下出血は23万円弱(44400/30=1500×100=15万円+食費約8万円)で済む。この方式によれば脳内出血30万円、乳がん5万4千円の負担になる(医療費データは「オリックス生命データファイル」による)。
 
 老いを「自分らしく」生きる工夫をしたい。