2013年10月28日月曜日

入(い)るを計って出(いず)るを制す(2)

  10月14日のコラムで関税障壁が国内価格を不当に高止まりさせその負担が実質的に給与を低くしていると書いたが、この件について10月21日付日本経済新聞が特集記事を書いていた。それによると「聖域の農作物重要5項目」で家計の「隠れた負担」が1人当り年間2万4千円に上り4人家族なら9万6千円余りになると試算している。5項目とは「コメ、小麦、砂糖、牛肉豚肉、牛乳・乳製品」で消費税率の3%引き上げによる1世帯(年収800万円未満)の負担増が5~9万円だから「隠れた負担」の方が多いことになる。TPP問題に対する視点をこれまでのような「生産者視点」ばかりでなく「消費者視点」も加えて総合的に判断し国として利益が最大になるような交渉を進めるべきで、産業保護はその後別途考慮したらよい。デフレ脱却には家計の所得増大が必須の条件であり、我国喫緊の課題は何をおいても「デフレ脱却」にあることを国民全体で共有すべきである。

同じコラムで医療費にも触れた。これについても日経が「消費増税と医療・年金改革 ③医療費40兆円時代(25.10.23)」で傾聴すべき記事を書いており、医療費膨張を①イノベーション②高齢者数の増大の2大要因に集約して危機的状況を詳述している。
病院へ行って気づくのは再診料は大概500円程度(1割負担)なのに検査が入ると一挙に2000円1万円と跳ね上がる事だ。結局医療費が高いのは「検査料」と「薬代」なんだというのが実感である。この実感に医療費問題を解く鍵があるように思う。
医療機器産業と製薬産業は巨大産業である。あの世界のGEが経営危機から脱するのに医療機器に活路を求めたことを見てもそれは明らかだろう(ちなみに2012年のGE売上高に占める医療機器は12.3%約1.8兆円である)。30年前までは検査といってもレントゲンと血液検査程度で超音波が珍しかった。それが今ではCTもMRIも普通になり機器の進歩は止まるところがない。問題はそれを医療現場がどんな『思想』でどこまで採用するかということである。とりわけ高齢者医療との関係は重要になってくると思う。

今『思想』という言葉を使ったが高齢者医療はもはや『思想』の問題であり根本的な発想転換が求められているのではないか。それについては吉本隆明の次の言葉が示唆に富んでいる。「老人の持っている肉体的衰え、惚けというか精神的衰えは、どちらも単独ではないんです。精神科の医師に言わせれば、老人はみんな精神的に病んでいる。その病は精神的な衰えなのか、肉体的な衰えなのか判断しにくい。逆に言うと、老人の病気あるいは病的な状態や肉体的な衰えの治療は、整形外科的な療法でも精神的な療法のどちらでもいいんです(老いの超え方・朝日新聞刊)」。
最近テニス肘の治療で鍼灸整骨院のマッサージを受けて考えさせられた。病院の「3分間診療」に比べてこちらは最低でも15分から20分は施療が受けられ、その間治療のことから愚痴、自慢話まで辛抱強く患者に接してくれる。吉本の言に従えば老人の病には少なからず精神的な要素が絡まっているとみて間違いないことになるが我国の医療体系はそのような「高齢者の病」に対応しきれていない。それに対して接骨院は高齢者のニーズに可なり応えているようで、もし病院へ行けば検査なども含めて相当な医療費が発生するかもしれない「高齢者の病」を150円(1回の受診料)で済ませてくれていると見てもいい側面が強くある。最近整形外科学会が中心になって接骨院の健康保険「受領委任」請求を違法とし接骨院でのマッサージの健康保険適用除外を求める動きがあるが、マッサージを受けている高齢者が病院や診療所に移ればどれ程の『医療費膨張』に繋がるか彼らは考えたことがあるのだろうか。

極めて専門的に分化した西洋医学中心の我国の医療体系は高齢者医療に適しておらず、家庭医療専門医問題も含めて再考するべきだと思う。

2013年10月21日月曜日

アメリカ流グローバル化の限界

 ドヴォルザークのアメリカを描いた「新世界」は最もポピュラーなクラシックであるが19世紀、旧時代の因習―既得権者(教会など)を保護する規制でがんじがらめにされていた西欧社会から見れば米国はまさしく新世界だったろう。旧世界とのしがらみが一切ない新大陸で一から自らの手で築き上げる米国は「民主主義と資本主義の実験場」として格好の新天地だった。二つの世界大戦を経て繁栄を謳歌した米国は唯一の基軸国として世界の経済と文化をリードしてきた。それは民主主義と資本主義の最も成功した証(あか)しであり『米国流』はグローバル化の奔流となって21世紀の世界を席捲した。
 ところが今、その米国で民主主義が機能不全に陥っている。米政府の債務上限引き上げ問題をめぐって民主党共和党両党が国益を無視して党略優先の政争を繰り広げたために米国債務がデフォルトに陥る瀬戸際に追い込まれるに至ったのだが何とか来年の2月までは小康を保つことで事なきを得た。建国以来民主主義の優等生として機能してきた米国が一体どうしたのだろうか。

 2008年のリーマンショックを引き金とした金融危機で米国流資本主義は終焉した。一方で「世界の警察」として米国流民主主義を振りかざしてきた米国の世界戦略はベトナム、イラクと頓挫を重ね要の中東戦略も思うに任せない現状では債務問題も与ってもはやその影響力に昔日の面影はない。
我が国はデフレ脱却を目指して「アベノミクス」を安倍首相は展開しているが、その基本的志向は「米国流資本主義の後追い」という傾向が極めて強い。成長戦略のうち規制緩和は成長産業への資源移動を円滑に行う上で不可欠であるが労働力の流動化は再考を要するのではないか。
 労働力の流動化は「個人の自由な働き方を認め、企業が雇いやすくなるような制度改革」と言われているが実際は雇用を景気のショックアブソバーとして取り扱っている『米国流』の色彩が濃いものだ。即ち不景気になると雇用を減少させ人件費を削減することで企業経営を身軽にして景気対応を機敏に行うことで景気回復を早期に実現する制度になっている。
 ではその米国の労働市場の現実はどうなっているのか。リーマンショックで一気に悪化した雇用情勢は徐々に回復傾向(本年8月現在失業率7.3%)にあるがFRB(米連邦準備理事会)は雇用の長期目標を「失業率6%」としている。これに対して我国の失業率は直近で4%前後に収まっている。賃金はどうかといえば「We are the 99%」のスローガンに代表される「ウォール街を占拠せよ」に見られるように僅か1%の富裕層に富が集中する『極端な格差の拡大』が続いている。

 グローバル化が進む中で企業の生き残りは重要な問題である。しかしその先の国のあり方が「高い失業率と極端な格差、そして健康保険もない国」であるとしたら、我々の選択は正しいのだろうか。そもそも企業の存在価値はどこにあるのか。「有用な価値(商品)を創造し社会的厚生を高める」から企業は有用だ、という考え方がある一方「雇用の提供」に企業存在の最重要価値を認める人たちもいる。
 今企業の提供する商品に本質的価値はあるのだろうか。最も代表的な商品である自動車は環境問題が異常さを増す現在、Co2排出を考えれば「個的移動」から「集団移動」にシフトするべきであろう。テレビは4Kテレビに活路を見出そうとしているが今のコンテンツでは存在価値は限りなくゼロに近い。原発は廃棄物処理に根本的な解決策のない現状では価値判断以前の商品と断定して良い。
 企業の存在価値は「雇用の提供」にこそあるのではないか。

 「米国流民主主義と資本主義」をモデルとしたグローバル化はこれまでのように無条件に是認するのではなく、各国がその歴史と文化を包含した独自モデルを再構築する時期にさしかかっていると認識すべきである。

2013年10月14日月曜日

入(い)るを計って出(いず)るを制す

  働く人の給与が下がり続けている。民間給与実態調査(国税庁・1年を通じて勤務した給与所得者)によると平成9年の年収467万3千円が平成23年には409万円まで、58万円13%以上減少している。アベノミクスを通じて安倍首相は産業界に賃上げを要請しているが、内部留保が250兆円以上に積み上がっているにもかかわらず一向に積極投資に打って出ることができないでいる経営者がおいそれと賃上げに踏み切るとは思えない。

一方でいよいよTPP(環太平洋経済連携協定)が年内妥結を目指して本格交渉に入っているが『聖域』の取り扱いをめぐって産業界の抵抗が続いている。その聖域論争なるものの報道に接するたびに強く違和感を覚えるのはその全てが「生産者」サイドの論議に終始していることで、消費者の利益がほとんど考慮されていない。
コメの関税は778%というおよそ常識外れに設定されているので実質輸入禁止になっているようなものだから国産米の価格が相当高めに誘導されており我々消費者は高いお米を買わされている。どれくらい高いかというと諸説あって2倍とも3倍とも言われているが、今低めの2倍として我が家の場合を考えてみると、1ヶ月5Kg2000円クラスのものを3度買っているので月間の購入金額が6000円から3000円に減少することになる。これを逆に考えると給料が3000円分上がったのと同じことになる。
医療費も『聖域』のひとつだ。現在の医療制度の多くは「医師会」と政治・行政の妥協で今日に至っているが「医師会」はどちらかといえば「個人開業医」の団体という色合いが強かったから、個人開業医に有利な制度として設計された。もし今日の状況に即応した制度に改めることができたら―個人開業医に有利な制度(税制等)を是正できたら―「医療費」は少なからず低下させられると専門家は言っている。医療費改革の大きなツールであるカルテの電子化も個人開業医の抵抗が強いせいで実施が遅れていると言われているからここにも医療費低減の『シード』がある。生活保護費3.7兆円(2012年)の半分近くを占めている医療扶助の歪みを是正することでも相当額の医療費が削減できる。その他ジェネリック薬の活用促進等も有り「医療費」の合理化余地は少なくない。もしこれらの改革が全てできれば「健康保険料」の低減も実現可能になるから、その分実質的に給与を高めることができることになる。
教育にも『岩盤規制』がある。NHKの大河ドラマ「八重の桜」では新島襄と熊本バンドの確執が面白おかしく描かれているが、学校の本質が「自治」にあることを再認識させられる。現状は大阪維新の会など一部の勢力によって教育委員会から地方の首長に管理運営の主導権が移されようとしており全くの逆行である。それでなくても教育内容から指導方法に至るまで文科省の規制でがんじがらめになっており、教師や学校の工夫や合理化が著しく阻害されている。いい例が幼保の一体化で無駄な規制で待機児童問題の解決が一向に進捗しない。電子教科書が現実味を帯びてきている今、工夫次第で「教育の質的向上・効率化」が可能なのだが文科省の規制がそれを阻んでおり塾代など無駄な出費を強いられている。規制改革で自由な教育環境を整えることができれば無駄が省けて実質的な賃金上昇を齎すことが可能になろう。

働く人の給与が上がることは願ってもないことだが、出費を抑えることで実質的に賃金を高める工夫も忘れてはならない。その為には、既得権者の利益を保護している『岩盤規制』を打破することが必須であり、そうした意味でTPPは「良い外圧」になる可能性が高い。

タクシー会社はいくつか倒産したかもしれないが、規制改革が進んでおれば今頃「安いタクシー」で我々消費者は利益を享受しているはずだ、と私は考える。

2013年10月7日月曜日

「頼山陽とその時代」を読む

 中村真一郎の「頼山陽とその時代」を読んだ。A5版細字2段組本文総頁644ページの大作である。京都府立図書館所蔵のため返却期限の関係もあって3月から半年、断続的に8週間を要して読了した。1日当り12~13頁の読書量に過ぎないから威張れたものではないがよく読めたと思う。というのも読書好きではあるが長編が苦手であったので「戦争と平和」も「大菩薩峠」も、ましてプルーストの「失われた時を求めて」など思いもよらない私がこのような長編を読めたのは、この著作が山陽の史伝的エッセーであり半分近くが漢詩とその訓み下し文なので途切れ途切れに読んでもさして内容の理解の妨げにならないものであり、興味が継続したのは『江戸漢詩』を読みたいと願っていたからである。

 ここ数年、 鴎外、荷風を集中して読み進んできて江戸後期の漢詩の完成度が相当高いことを知り、又その系列を牽く漱石の漢詩が本場中国の学者から頗る高い評価を得ていると我国現代漢学者の筆頭吉川幸次郎氏が伝えているのを読み、攻めてみようと思い立った。荷風の「下谷叢話」中村真一郎の「江戸漢詩」等を読むうちに李杜に代表される漢詩とはいささか趣を異にする、同じ日本人であるが故の微妙な感情の一致があってズンズンとその魅力に惹かれていった。その過程で出会った「頼山陽」という名にかすかな記憶があった。幼い頃、父や叔父など大人たちが山陽の名を口にしていたし、戦前の絶対的天皇観との関係にも興味があった。そんなこともあって岩波文庫「頼山陽詩選」の解説でこの書を知ってどうしても読んでみたくなり挑戦を試み、青息吐息ながら読み終えたという次第である。
 国民作家司馬遼太郎の影響もあって維新ものが大人気であるが彼ら維新の若者のバイブル的存在が山陽の「日本外史」であったこと、尊王倒幕史観を幕末の我が国に定着させたのが外史であり、倒幕運動の思想的支柱であった吉田松陰が山陽の弟子―森田節斎の第一の弟子であったこと、など幕末、維新、そして明治から戦前までのその絶大な影響力が戦後の僅か70年の間にかくも雲散霧消してしまった原因はどこにあるのか。今我々が日常的に使っている「敵は本能寺にあり」という常套句が山陽の漢詩「本能寺」の「吾が敵は正に本能寺に在り」に由来していることを知るにつけ山陽と、併せて江戸漢詩の再評価を願わずにはいられない。
 読了して作中に紹介された200人を超える江戸漢詩人等のなかで「柏木如亭」のリリシズムに最も強く惹かれた。

 ところで最近同世代の友人知人の多くが本が読めなくなったと嘆いている。そして大概が目がかすむなどと眼のせいにしているがそれは間違いだと思う。目が悪ければ天眼鏡―今はルーペという―を使えばいいので慣れればなんの不都合もない。そうではなくて好奇心が無くなったり興味のあるテーマが見つからないのだ。そしてもうひとつ、体力減退による集中力劣化が大きに災いしている、これは自信を持って言える。7~8年前まで私は体重が52Kgもない虚弱体質であった。ところが64歳の時に煙草を止めて、テニスを始めストレッチや身体の鍛錬に努めるようになって急速に体力が強化され体重も今では58Kg前後にまで増えた。こうなるまでの私は本好きではあったが一度に15分位しか続けて読むことができなかった。そのせいもあって長編が苦手だったのだが、とにかく机に向かって30分も1時間も肉体を維持するだけの体力がなかったから、小学校の通信簿にはいつも「落ち着きがない」と注書きされていた。結婚して妻と映画に行ったとき「ゴソゴソしないでじっと見て下さい」と叱られたりもした。とにかく身体を同じ姿勢に保持するということは想像以上に体力を要するもので、だから読書するにも相当『体力』が必要なのだが普通の人はそれに気づいていない。

 体力を保持して好奇心を失わず、読書も続けて、老いを楽しみたい。