2013年11月25日月曜日

グリード(強欲)

「人間の権力に対する闘いは、忘却に対する記憶の闘いだ(「小説の経験・大江健三郎著(朝日文芸文庫)より」。これはチェコ生れのフランスの作家ミラン・クンデラの英訳から大江氏が引用した言葉だが、今、国会で紛糾している「特定秘密情報保護法」の公開解禁期限を60年とする案はクンデラのいう「人間の権力に対する闘い」を蔑ろにしている。政府のいう「防衛と外交」の情報を国益のために秘密情報として保護することをたとえ『是』とするにしても、その情報が保護された当時疑問を感じ蟠りを抱いて情報公開後に権力側を糾弾し『正義と公正』を実現するために辛抱強く『闘い』を継続しようとする『国民の権利』を抹殺してしまうおそれがある。何故なら例え当時30歳代だったとしても60年という期間は人間の生命の限界を超えることが多いから「忘却に対する記憶の闘い」を実現する可能性を極めて低くしてしまうからだ。
 アベノミクスの影に潜んでいると懸念されていた安倍政権の右傾化への『危険な疑惑』が不意打ち的に「あぶりだされる」傾向が急速に露呈している。再度云う、「自民党よ、驕るなかれ!」と。

 アメリカの株高が続いている。先週は一時16000ドルを超え史上最高値をつけたが『バブル』が懸念される。失業率はFRBの目標値を上回って高止まりしているうえ消費支出も弱含んだままでありファンダメンタルズが株高の裏付けとなる数値に至っていない。FRBの次期議長がQE3(量的金融緩和)を当面縮小しないというメッセージを発信したことを市場が好感して「消去法的」にアメリカ株が買われているに過ぎない。EU危機はいまだ解決の目処が立たず新興国経済は減速したまま、日本もデフレ脱却に確実な一歩を踏み出したとはとても言えない状況。このような沈滞した世界経済の中でシェールガス革命などもあって国内回帰が進む製造業にわずかな光明が見えるアメリカ経済が唯一好材料と取られた結果の株高。いつ底割れしても不思議はない。
 ほんの少し前まで、新興国経済が先進国経済―とりわけアメリカ経済の減速には影響されず独立して成長を続け世界経済を牽引するだろうと「デカップリング」論がもてはやされていたが、僅か数年でそれが「幻想」であったことを思い知らされている。そもそも新興国経済は人口ボーナスを梃子としてこれまで先進国が辿ったような順調な成長が可能なのだろうか。
 20世紀、世界経済のプレーヤーは極端に言えば日本を含めてたかだか7~8ヶ国でありその限られた数カ国が世界の資源とエネルギーを使いたいだけ使うことができた、環境問題を気にせずに。ところが今、プレーヤーはG20まで膨らみ更に増加すること必至である。限られた資源を20ヶ国以上がしのぎを削って奪い合う状況は「先進7~8ヶ国の独占時代」とは様相を全く異にしている。たとえ人口ボーナスがあったとしても先進国独占時代と同様の成長を謳歌することを望むのは無理なのではないか。
 先進国の成長は民主主義、資本主義、法の支配、市民社会といった制度が繁栄を支えてきた、といわれている(しかしそれも資源とエネルギーの制約がなかったことを割り引いて考える必要がある)。先進国が200年~400年かかって構築したそれら制度を、新興国が40年足らずで後追いして、成長のための制度として使いこなすことが可能なのだろうか。

 ニーアル・ファーガソンは「劣化国家」という著作で新興国が先進国との格差を急速に解消し中国やインドがアメリカを追い越すであろうという「大いなる再収斂」に関して制度的制約から疑問を呈している。又歴史学者川北稔は「資源・エネルギーの制約が持続的成長を前提とした世界経済に根本的な転換を促しているのではないか(25.11.20日経・夕刊P18「世界資本主義の行方」より)」と警鐘を鳴らしている。


 グローバル化という世界史的パラダイムシフトを過去の延長線上に引き据える、先進国に都合のいい考え方は根本的に修正を求められている。

2013年11月18日月曜日

人生後期と読書

小説を読む楽しみの最大のものは、やはりいかにも長い小説を読みとおすということであるように思います。(略)(源氏物語に挑戦して読み終えたとき)人生の大切な出来事がひとつ終わったという気持ちになったものです(「小説の経験・朝日文芸文庫」より)。
 
これは大江健三郎の言葉だが私も今年はじめてこの「楽しみ・よろこび」を経験することができた。中村真一郎の「頼山陽とその時代」を読破したのだ。A5版細字上下2段組み本文総頁数644頁の大部なものだがこれは小説ではなく頼山陽についての評伝風エッセーで彼の成長の過程と著述(「日本外史」など)とを編年体で語りつつ、師友や弟子たちの「漢詩」をアンソロジー的に網羅した大作である。もしここ6~7年の漢詩と古文の読書歴が無ければとても手に負えない難物であった。
60歳を過ぎて今までのような乱読を改め系統立てて読書をしようと思い立ち、振り返ってみて「森鴎外」を余りに読んでいないのに気づき鴎外から始めた。そして何故か「西行」を古典のとっかかりにした。漢詩は岩波文庫で始めたが当時NHKで放映されていた「漢詩紀行」を見、司会の「石川忠久」を知りNHKライブラリーにある彼の「漢詩をよむシリーズ」を読んで一挙に親しむことができた。漢詩に限らず新分野に挑戦するとき入門書と自分に適したシリーズ(全集)というものが必要で私の場合は日本の古典は「小学館・新版日本古典文学全集」が読みやすく「光文社・古典新訳文庫」が無ければカントやニーチェは理解することなしに人生を終えたに違いない。同様に「万葉秀歌・斎藤茂吉著(岩波新書)」という名著を読まなかったら万葉集の面白さを知るのがもっと遅くなっていただろうし万葉集になじめたことがその後の古典への興味を促してくれた。入門書とは別に優れた「書評集」を知ることは「悪書」に冒されない最善策であり「快楽としての読書・海外篇・丸谷才一著(ちくま文庫)」は私の偏った読書領域を限りなく広げてくれた。
このような過程を経て永井荷風の「下谷叢話」に至り相当手古摺りながらも読みきったことが一つの転機となった。これは荷風の外祖父鷲津毅堂や大窪詩仏、大沼沈山といった江戸後期漢詩人たちの群像を鴎外の史伝に倣って描いたものだがこの作品がなければ「頼山陽と…」に行き着くことはなかった。荷風と中村の作品に接することで江戸後期の漢詩人たちの作品の完成度の高さと同胞故の微妙な感情の一致―李杜に代表される中国の漢詩とは趣を異にする―を知り併せてこの時代の文化が西欧のそれと比較して何ら遜色のない程度にまで発展していたことを思い知らされる発端となった。同時にそれは60歳を過ぎてからの読書の総決算として「明治維新」の再評価に繋がり、今日に及ぶ「西欧化」への根本的な疑問を抱かせる契機に転じることになった。

人生後期における読書については「小説の経験」にある次の二人の言葉が心に残っている。「そこ(これまでのキャリア)に、照らしあわせながら、あらためて文学の基本的なそれも大切なところを押さえた眺めを、新しい心と感覚でたどってみたい。そうすることで自分の隠退後の人生の必要なものをかちとりうるような気がする」。外交官だった友人が隠退するに際して「文学再入門」を大江さんに頼んだ時の言葉だが障害児を抱えながら懸命に生きてきた主婦の次の言葉も印象的だ。「子供の世話にかまけてなにも深いことは考えず、追い立てられるようにして生きてくるうちに、それでも不思議なことですけど、いまならトルストイのことがよくわかるのじゃないか、それだけの心と身体の経験はかさねているのじゃないか、という気がしますから……」。
「頼山陽と…」を読んだことが弾みになって、発刊当時の「読みたい」がそのうち「読まねばならない」に変わり30年以上宿題になっていた小林秀雄の「本居宣長」を読むことができたのも大きな収穫であった。「やまと心」と「ものの哀れ」を「古事記伝」と「紫文要領」などを通じて説き起こした本居宣長を描いた小林畢生の名作は「究極の言語論」であり今後の私の読書と思索に最大限の影響を与えるものに違いないがこれについてはおいおい触れていきたい。


隠退後の人生の必要なもの、を、いまならよくわかるだけの心と身体の経験をかさねている「老いたる人たち」に読んで欲しい。今日を「終わりの始まり」として。

2013年11月11日月曜日

食育

 先のコラムで株式市場の久し振りの活況(2兆円超)をアベノミクスの成長戦略に関する市場の評価の表れではないかと書いた。ところが先週続々と期待を裏切る政府の姿勢が報道され市況は一挙に冷え込み7日(木)には1兆7千億円を割り込んでしまった。直接の引き金は「薬(一般用医薬品・大衆薬)ネット販売」の規制緩和に逆行する禁止・制限を柱とする新たなルールの発表だったろうが、それ以外にも「コメの減反補助金の支給對象をプロ農家に絞る方向が一転全農家に配る方針に転換しそう」や会計検査院の「12年度決算の税金のムダ遣い過去3番目の4900億円」など財政規律の緩みを示す発表もあった。「国家公務員給与の平均約7.8%減額特例措置の14年度以降へ延長しない方針」などは財政規律の緩み以外の何物でもなく国民感情を顧みない愚挙と批判を浴びること必至だろうし、最高裁判決に基づく「婚外子の資産相続に関する格差規定を削除する民法改正」も見送られそうな情勢、「1票の格差是正」を命じた最高裁判決に対する姿勢も三権分立を蔑ろにしていると見られても仕方ない対処が続いている。これでは既得権益層を護送する「古い自民党」への後退と受け取られても致し方なく市場が見放す結果となるのも当然である。
 「自民党よ驕るなかれ!」、という国民の批判は地方選挙からじわじわと表れるに違いない。

 子どもたちが豊かな人間性をはぐくみ、生きる力を身に付けていくためには、何よりも「食」が重要である。今、改めて、食育を、生きる上での基本であって、知育、徳育及び体育の基礎となるべきものと位置付けるとともに、様々な経験を通じて「食」に関する知識と「食」を選択する力を習得し、健全な食生活を実践することができる人間を育てる食育を推進することが求められている。もとより、食育はあらゆる世代の国民に必要なものであるが、子どもたちに対する食育は、心身の成長及び人格の形成に大きな影響を及ぼし、生涯にわたって健全な心と身体を培い豊かな人間性をはぐくんでいく基礎となるものである。
 これは平成17年に施行された「食育基本法」の前文からの引用である。「『食』に関する知識と『食』を選択する力を習得し、健全な食生活を実践することができる人間を育て」という行文は今世情を賑わせている「メニュー偽装」騒動への警鐘そのものではないか。

 30年ほど前「中食」という新語が生まれた。私の先輩の造語なのだが、それまで外食と内食(家庭での普通の食事)という言葉はあったが既に一般化していたデパ地下や惣菜屋さんでおかずや弁当を買って帰って家で食する習慣に対応する言葉が無かったのを上手く表現したものとしてマスコミに重宝された。その後バブルが崩壊し低価格を売りものとする外食産業の隆盛を迎え「内、中、外」食の区別や食生活全般が混乱した状態で今日に至り、行き着いたところが「メニュー偽装」となってしまった。
平均的な4人家族の可処分所得を300万円としエンゲル係数を20%として1日当たりの食費を算出すると約1700円になる。普段の食事を倹約して週に1度の外食を想定するとセイゼイ1000円から1300円が1人の予算になるが回転寿司やファミレスの価格設定はズバリこれに当てはまり飛躍的な成長の原因をうかがい知ることができる。しかしそれはあくまでも内食の延長として捉えられるべきもので、奥様方のホテルランチはヘソ繰りを足さないと無理なランクになる。いずれにしても一昔前、我々が「ご馳走」と呼んでいた本物の食材をふんだんに使った「ハレの食事としての外食」には予算がかなり不足している。メニュー偽装は起こるべくして起こったものかもしれない。


子供たちが学校で食育を学習する環境を大人は整える責任がある。内食、中食と外食のメリハリを付ける食習慣こそ「健全な食生活」の第一歩なのではないか。

2013年11月4日月曜日

年金生活者と「隠れた負担」

  9月初旬から低迷(売買高が2兆円以下)が続いていた株式市場が昨週水曜日から3日連続2兆円を超す活況を呈した。これはアベノミクスの成長戦略如何を静観していた投資家が一応の評価を与えた結果と読んでいいかもしれない。とすれば安倍首相の長期安定政権の可能性は高く、来年4月には消費税は8%に、再来年10月には10%に増税されるのはほぼ確実だし、アベノミクスが順調に進めばその頃には物価は2%程度に上昇しているに違いない。ということは今の収入から7%近く可処分所得が減ることを覚悟する必要がある。これは年金生活者には相当キツイ現実である。
 先のコラムで農作物重要5項目の関税障壁による「隠れた負担」が1人当り年間2万4千円になることを示したが、国民年金だけの夫婦2人の高齢者世帯には年金支給月額約5万4千円のほぼ1ヶ月分に当たるから生易しい負担ではない。エンゲル係数(消費支出に占める食費の割合)は高齢者ほど高く70歳以上世帯では26%超を占めておりこれは50代までの平均(21.5%程度)に比べると5%も高いから食料品の「隠れた負担」は高齢者には極めてキビシイ負担になる。加えて消費支出のうち食料品や水道光熱費などの「基礎的支出」の割合が高齢者の場合70%近くあって節約の余地が少ないから余計「隠れた負担」の影響は大きい(ちなみに50代までの基礎的支出は50%以下である)。基礎的支出には食料費、水道光熱費のほか住居費や医療費、交通・通信など規制の強い分野の支出が多いから「隠れた負担」は農作物重要5項目による2万4千円を超えていることは間違いない。
 景気が良くなっても収入の増えることが期待できない高齢者は「隠れた負担」をキビシク監視する必要がある。

 ホテルのメニュー偽装も「隠れた負担」と言えないか。名門と謳われたホテルが長年にわたって客を欺いてきたのだから許せない裏切りだが我々消費者に問題はないだろうか。
 偽装を詳しく見ると①産地偽装(九条ねぎ、津軽地鶏、沖縄まーさん豚)②料理法や食材の偽装(手捏ねハンバーグ、自家菜園野菜)に大別できそうだ。また食材とは別に「苺とチョコのシュー・ア・ラ・モード手作りチョコソースと合わせて」とか「レトワール風オードブル ホテル菜園の無農薬サラダを添えて」などという過剰な修飾コピーも目立っている。
 
 人間誰しも飢えは苦しい、飢えがしのげたら美味しいものが食べたいと思うし舌が肥えたら有名な店の上等なものが食べたくなるのは人情だ。しかし根底には「食べ物は粗末にしてはならない、勿体無い」という規範があるはずだ。今回の騒動にこうした素朴な食に対する欲望や規範は働いているだろうか、そう問い掛けをしてみると次元が全く異なったところで動いているような気がする。
 旨いかどうかは自分の舌で判断するものだ。ところが今回の騒動はどうもそうではないような気配を感じる。ブランド食材と職人技を思わせる調理法や耳障りのいいキャッチコピーは「旨さを強制」する装置だし消費者はそれによって「旨さの付加価値の保証」が提示されたように受け取っているフシがある。舌で判断する前に提供するホテル側に「保証書」の提示を求めることで安心している。裏返して言えば「自分の舌」に自信がないとも言える。
 こう考えてくると今回の騒動はホテル側も消費者の方も「食べ物を粗末にした」結果ではないかと思えてくる。どんな有名店のメニューでも自分の舌で味わい評価してこそ「食への畏敬と憧憬」があると言えるし、提供側は「食べ物で欺く」という「不遜な態度」では「食に従事するもののプライド」など微塵もないと批判されても反論できまい。

 偽装されたメニューも間違いなく「隠された負担」である。監視の目が離せない。