2014年2月24日月曜日

阿る

 「まず既成事実がつくられました。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては『じゃあなたは電気が足りなくなってもいいんですね』『夏場にエアコンが使えなくてもいいんですね』という脅しが向けられます。原発に疑問を呈する人々には、『非現実的な夢想家』というレッテルが貼られていきます。(……)原子力発電を推進する人々の主張した『現実を見なさい』という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な『便宜』に過ぎなかった。それを彼らは『現実』という言葉に置き換え、論理をすり替えたのです(村上春樹のカタルーニャでのスピーチからの引用)」。/村上が耐えがたく思っているのは、「原子力発電の停止→電力不足」という、完全な誤りとは言わないまでも、極めて限定されたメノトミーを、あたかも動かしがたい「現実」であるかのように振りかざす言論にほかならない(立木康介著『露出せよ、と現代文明は言う』河出書房新社)より」。

 原子力規制委員会は適合性審査の最終段階に入った先行10基を2基ほどに絞って夏頃までには稼働再開の可否の結論を出したい意向を明らかにした。これは政府自民党の電力の安定供給と電力経費の高騰によるGDPへの悪影響を一刻も早く解消したいという強い意向に対応したものと受け取る人も少なくない。しかし本当に原子力は安価で安定的なのだろうか。今出だされている発電コストで原子力が6円であるとか9円であるとか言われているのは、設置地方への補助金であるとか震災費用や廃炉費用などをコスト外の特別費用として計算しているからで、一旦今回のような過酷事故に遭遇すれば10兆円20兆円という莫大な費用が発生する上に再稼働への工程は予測不能なほど長期間に及ぶ。東日本大震災によって明らかになったことは、原子力発電は決して安価ではないし安定供給でもないということだった。にもかかわらず原子力規制委員会が、南海トラフや各種の大地震の甚大な被害予測が発表される中で、再稼働の審査を拙速に完了させようとするのは、安倍政権への「阿(おもね)り」ではないのか。

 最近、衆参のねじれが解消して圧倒的な勢力を誇る安倍政権に対して各方面から「阿る」姿勢が鮮明になっており、又安倍首相も権力を奢った発言が目につくようになってきた。なかでもNHKの籾井新会長や経営委員の百田氏らの発言は安倍首相へすり寄った発言ととられてもしようがなかろう。問題はNHKという巨大言論メディア(敢えて公営放送といわない)のトップが時の権力への批判精神を放棄したような発言や評価の定まっていない歴史認識について一方的な発言を繰り返すことにあり大きな危険性を感じる。他のことなら別にしても、これらはマスコミ存立の根本問題に関わる最重要の視点ではないか。
 安倍首相にしても、集団的自衛権に関する憲法解釈について閣議決定を国会論議より優先するとの発言を憚らないのは、立法府たる国会と行政府たる内閣の権力分立を著しくはき違えた発言としておよそ容認できない暴言である。
 籾井会長の責任問題は厳しく追及されるべきであり、阿部首相の議会軽視発言にも国会の厳しい論議が求められる。


 孟子に「易姓革命(えきせいかくめい)」という考え方がある。「もし王がまともな政治をしないのなら、王である資格はない。王とは名ばかりの匹夫にすぎない。人民や社会のために、そんな匹夫は、追放するなり殺すなりしなければならない」という思想だ(加藤徹著「漢文力」より)。民意が選んだ総理だが、彼が匹夫であるかどうか、厳しい監視の目を失わないようにしなければならない。その監視役の最たるものが「メディア」であるのだから新会長が適任であるかどうかは明らかであろう。

2014年2月17日月曜日

老いらくの管見

  羽生結弦選手がソチ冬季五輪で日本人初の金メダルを獲得した。弱冠19歳の彼のどこに強さがあったのだろう。
彼にあってほかの選手に無いものは何かを考えてみた。「3.11東日本大震災」がそれではないだろうか。宮城県仙台市出身の彼は競技生活断念を考えるほどの苦悩を経験した。そして復興のためにできる自分の最大限の表現が世界の頂点を極めることであると『決意』して再スタートを切ったその底には大自然の不条理な脅威に対する激しい憤りをも秘めていたかもしれない。それは競技生活を通じて獲得できる根性や精神的な強さを超えた強固なもの、人間存在に関わる強靭さになっていたのではないか。
一方『我々側』は、グローバル競争に打ち勝つためには安価な電力が不可欠である、とか、為替の経常収支の赤字化を防ぐためには化石燃料輸入増大による輸入過剰を抑制する必要があるなど「経済至上主義的観点」から「安全な原発の再稼働」を早急に実現しようとしている。しかし原発が停止したからといって経済は停滞ないしはマイナス成長に陥っているか。むしろ反対にデフレは後退し緩やかなプラス成長に向かっているではないか。アベノミクスのせいだというかもしれないが、それだけで片付けていいものだろうか。
3.11東日本大震災という未曾有の惨事をプラスに転じて金メダルを獲た『弱冠19歳』に我々は大いに学ぶべきである。

人間70歳を超えると発想が自由になり見えていなかったことが見えたり、今までとは全く別な見方ができたりしてくる。若い人の自由な発想、とよく言うが若いうちは学ぶことが多く学習したことに縛られてむしろ保守的になりがちなこともある。とりわけ「勉強のよくできる」若者にその傾向が強く優秀な官僚もその種のタイプであることが多いようだ。
アメリカ型資本主義をグローバル化と称して世界標準にしようという試みが我が国でも強くすすめられているが本当にそれは正しい道なのだろうか。本場アメリカでは99%の人たちが「拡大した格差」のもとで7%近い失業に苦しんでいる。リーマンショックによる金融危機から脱出するために「非伝統的量的金融緩和」を行ってアメリカ景気は上向きつつあるが、過剰資本を引き上げられた新興国は不透明な経済状況に追い込まれている。こうしたアメリカの自分勝手な振る舞いによる世界的経済不安は戦後度々繰り返されてきた。「老いらくの管見(小さな管から覗いたような年寄りの狭い偏ったものの見方)」を言わせてもらえば、戦力と経済力に物を言わせてアメリカは自分のことだけを考えて身勝手な行動をとってきたのだ。
例えば、第2次世界大戦で本土を壊滅的に破壊されなかったというアドバンテージが無かったら、金本位制から脱却して何の裏付けもなく「基軸通貨ドル」を無尽蔵に創出できる体制をつくれたアドバンテージが無かったら、第2次世界大戦をはじめとして冷戦、朝鮮戦争、ヴェトナム戦争などの『戦争特需』というアドバンテージが無かったら、アメリカ経済は『模範となるような経済成果』を産み出す経済システムであっただろうか。
世界恐慌から回復を果たしたとして評価の高いルーズベルト大統領のニュー・ディール政策が成功を収めたのは第2次世界大戦という軍需の増大がアメリカ経済を牽引した結果であるという見方があるように、第2次世界大戦でヨーロッパをはじめ日本などが壊滅的損害を受けた「供給力の絶対的な不足状況」のなかで唯一供給力に打撃を受けなかったアメリカが「売り手市場」で過剰な利益を蓄積できた有利さは誰が考えても明白であろう。


冷戦が終結して唯一の覇権国として君臨したアメリカを、賞賛しそのシステムを無批判に「模範」として受け入れることからそろそろ卒業して、冷静に多様に検証する賢明さが求められている。

2014年2月10日月曜日

医療費を考える一視点

 「現代のベートーヴェン」佐村河内守氏のゴーストライター事件は「メニュー偽装」と根は同じなのではないか。音楽そのものでなく情報で厚塗りされ感動を強制された『商品としてのタレント』を有難がる風潮もとうとうここまで来たか、の感がある。「盲目の名ピアニスト」やら英国の新人発掘番組で彗星のごとく現れた「地味な風貌からは想像もできない魅惑の美声」スーザン・ボイルまで『大衆の渇望』は止まるところがない。餃子の王将・社長殺人事件を「追悼餃子」で同情を装う風で茶化してしまう『大衆』は何を求めているのだろう。他人の評価でなく自分の判断で『選択』する賢さと逞しさが望まれる。

 閑却。高齢化による医療費の増大が問題視されている。当然各方面で専門的な論議が尽くされているが患者の立場からの意見は余りない。
 価格を無視して消費するのは「医療」くらいのものだ。今の診療は「出来高払い」で患者は治療費を事前に把握することができない。何故これを『おかしい』と思わないのだろう。
数年前頭痛がして総合病院で診察を受けたとき「MRIを撮ってみましょう」と医師から申出でを受け即座にお断りした。そんな大げさなものでないと思っていたからで、案の定頭痛は数日して治まった。多分風邪のせいだったのだろう。この場合は別として病院や医院で患者にはほとんど選択肢がない、いわば医師の『おまかせメニュー』なのだ。緊急な手術を要する場合を除いて治療方法は複数あるはずだ。今でも手術は相当丁寧な「インフォームド・コンセント」があり患者と立会人が納得したうえで手術に進むが、それと同様の医師と患者の納得と同意を求める手続きが通常の診療の場合もあっていいのではないか。とりわけ高齢者の「病い」は今ある診療科体系に複数関係する場合や診療科に馴染まないものもあるように思うから、複数の診療メニューを医師と患者で検討、納得する過程があっていい。勿論その場合メニュー毎の概算診療費も提示される必要があるのは言うまでもない。
レセプトの電子化と公開・共有を早急に行って、治療の標準化と価格表の作成が望まれる。
 
 医療は大雑把に「患者」と「病院・医院」と「医薬品・治療機器」メーカーで構成されている。患者は消費者(需要家)であるが病院・医院は「治療の供給者」であると同時に「医薬品」などの需要家でもある。医薬品・治療機器メーカーは「供給者」である。医療という市場におけるそれぞれの立場を考えると、患者は健康保険組合などの組織もあるが概して「弱い消費者」の立場にある。病院・医院は医療の提供者としては患者より「強い立場」だが医薬品や治療機器の需要家としてみれば大抵の場合「弱者」になる。
 医薬品産業の国内売上高は約9兆円、医療機器産業は約2兆円である。医薬品のメーカーは武田薬品の1.5兆円をトップに上位10社が3千億円以上の売上高が有り医療機器メーカーもテルモ、オリンパスの約4千億円を筆頭に上位10社は500億円以上の売上高を有している。これに比べて民間医療機関の年平均医業収益高は13.5億円に過ぎない。医療機器の多くは世界のトップ3(GE、フィップス、シーメンス)が牛耳っておりGEの売上高は凡そ18兆円にも上る。これでは勝負にならない。完全に価格交渉はメーカー主導であるから病院は「高い買い物」をさせられているに違いない。

 医療費高騰は医薬品、治療機器の需要家と供給者の規模の差からくる価格交渉力の優劣が齎す(病院・医院の)仕入れ価格の高止まりによる部分が相当大きく影響していると見て間違いなかろう。その高コスト体質にメスを入れず、それを前提として『官製価格体系』である「診療報酬」が役所で決められ今回もまた「初診料120円上乗せ」という形で消費者(一般市民)にシワ寄せされてしまった。


 我が国の行政は維新の「富国強兵・殖産興業」以来『生産者志向』である。医療市場を『顧客志向』で再設計しない限り「医療費高騰」は抑えられないであろう。

2014年2月3日月曜日

西経90度と東経90度

楽天・田中将大投手のヤンキース入団が決まった。7年契約年棒総額15500万ドル(約160億円)は年棒23億円になりまさにアメリカンドリームである。しかし最大にして最高の『アメリカンドリーム』は「アメリカ合衆国」そのものであったかもしれない。

腐敗せる旧世界との決別というのは、アメリカの建国神話の一つ、おそらくは最も重要な神話であった。自由と豊穣と道徳的向上の大地たるアメリカ合衆国は、シニカルな旧大陸諸国の下劣な抗争に関わりを持つことなく、ヨーロッパから独立して発展する道を選んだわけである(「帝国以後」エマニュエル・トッド著・藤原書店)。アメリカは若い国である。ヨーロッパのように罪を知らない、まだ穢れていない。なぜならば、罪のない悔い改めた清らかな人たちだけが、メイフラワー号で渡ってきて造った国だから、アメリカはイノセントである、という信念が、最初にあるわけです。(「世界文学を読みほどく」池澤夏樹著・新潮選書)
腐敗にまみれた旧世界(ヨーロッパの先進国)から脱出した清らかなアメリカ人が新天地で民主主義と資本主義という最先端の考え方と手法で豊かな社会を築いた―それがアメリカだ、という矜持が彼らの心の底に強くある。建国から僅か2世紀足らずで世界の超大国に上り詰めた原動力である。

20世紀はアメリカの世紀であった。共産主義の勃興と冷戦という試練も乗り越えて唯一の覇権国として『無尽蔵』とさえ思われる富を蓄積し世界を席巻した。そして圧倒的な戦力と経済力によって「アメリカ型の資本主義・民主主義」をグローバリズムとして世界に流布した。
20世紀にはいかなる国も、戦争によって、もしくは軍事力の増強のみによって、国力を増大させることに成功していない。仏、独、日、露は、このような企みで甚大な損失を蒙った。アメリカ合衆国は、極めて長い期間にわたって、旧世界の軍事的紛争に巻き込まれることを巧妙に拒んできたために、20世紀の勝利者になったのである(「帝国以後」)。
しかし2008年のリーマンショックに端を発した金融危機は世界経済に大転換をもたらした。先進大国G8による支配からG20が象徴する「無極化する世界」へと変貌したのだ。その結果世界の中心が西経90度(北アメリカ)から東経90度(アジア地区を中心としたユーラシア)へと180度転回する可能性が極めて高くなった。
ユーラシアから離れているという、中心をはずれ孤立したアメリカ合衆国の立場(略)平和になった世界の歴史は、かくも人口が多く、かくも狡知に長けたユーラシアに集中するかもしれない(「帝国以後」)。
しかしもし民主主義が至る所で勝利するなら、軍事大国としてのアメリカ合衆国は世界にとって無用のものとなり、他の民主主義国と同じ一つの民主主義国に過ぎないという事態に甘んじなければならなくなるという最終的パラドックスに、われわれはたどりつくのである。/このアメリカの無用性というものは、ワシントンの基本的不安の一つであり、アメリカ合衆国の対外政策を理解するための鍵の一つなのである(「帝国以後」)。

 新興国経済の不透明感が増している。それはグローバリズムという名のアメリカン・ローカルルールをそれぞれの国の歴史と文化に馴染ませる過程にさしかかっている兆しかもしれない。もしそうなら何故そうなったかを理解する必要が有り池澤の次の言葉は極めて示唆に富んでいる。「過去の事例を引用したうえで今を決められない。これが歴史がないということです。(略)法律と倫理、治安、セキュリティーを自前で賄わなければいけなかったという歴史がある。(略)ローカル・ルールで人を裁いてしまうという姿勢は、いまだに変わっていません、ハックルベリーフィンの頃から変わっていないのです(「世界文学を読みほどく」)」。


 世界がアメリカなしで生きられることを発見しつつあるその時に、アメリカは世界なしでは生きられないことに気付きつつある(「帝国以後」)。