2014年5月26日月曜日

集団的自衛権を考える

 自衛隊員の集団見合いテレビが報じていた。「国防男子」人気も与ってか100人の自衛隊員に1500人近い女性の応募があったという。彼女たちは口々に「カッコいい」と云い災害救助活動に見える使命感に燃える働きに賞賛をおしまなかった。しかし彼女たちは彼らが「兵士」であることを忘れていないか。アメリカ国籍の船が攻撃を受け乗船している日本人母子を救出すべく要請に応じて出動した自衛隊員は敵方の攻撃に応戦しなければならない。敵方の攻撃は味方を殺傷するが自衛隊員の反撃も相手方を殺すこともある。集団的自衛権の容認と云うことはそういうことも意味している。
 
 政府開発援助(ODA)は経済協力開発機構(OECD)で国民総所得(GNI)の0.7%を援助額の目標値としてい。ちなみに2011年の日本のODA対GNI比は0.18%で経済援助委員会(DAC)加盟国23カ国中21位である。かって我国は援助額世界1位であった。1989年から2000年がその期間に当るがGNI比率は最高で0.32%に過ぎなかった。2005年からは減少を続け2007年以降は0.2%を切っている。外交は有力な「防衛力」であり大雑把に云えば「なかまの國を増やす」努力といえる。中国は国内の多くの人民の犠牲の上とはいえ貧困国や低開発国の援助を活発化している。
 日本では、世論が政府に対して大きな影響力を持つが、議会や法廷といった正式な制度を通じてではなく、主として非公式かつ伝統的ルートを通じて影響力が行使される。(略)(たとえば日本のように)言論や出版の自由は名目上存在するが、ニュース・メディアのカルテル化―日本の記者クラブは、ジャーナリストが国の怒りを買う報道をした場合、組織全体あるいは個人に対して罰を科する―ために、また広告の利用しにくさや国営放送制度や教科書の検定制度が原因で、(世論の影響力は)制限されている。(略)一般に選挙はかなり形式的なものででしかなく、実際は終身雇用の国家官僚が統治しているチャルマーズ・ジョンソン著・鈴木主税訳「アメリカ帝国への報復」より
 欧米諸国の報道ぶりの中で懸念されるのは、安倍政権を形容する上で「現状変革者(リビジョニスト)」との表現をとることがあることだ。(略)現状変革主義と云う表現は通常、主として中国、ロシア、イランなど冷戦後の米国が主導してきた西側政治秩序に変更を求める勢力に対して使用される。その同じ用語を欧米メディアが安倍政権に対して使用しているという意味は、深刻にとらえられてしかるべきではないか。安倍政権の政策を現状変革とみなす視点が広がれば、従来日本に寄せていた信頼感を国際社会が持ち得なくなることが危惧される(2014.5.23「日経経済教室・集団的自衛権を考える/酒井啓子千葉大教授」より)。
 以上3つの主張は我国の常識と世界の常識が著しく異なっていることを教えてくれる。国内メディアに偏った情報に、頼る危険性である。
 
  集団的自衛権に関する論議に欠けている視点がひとつある。同盟国が信頼できるかと云う根本的な問題である。『平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した(憲法前文より)』同盟相手国として、集団的自衛権を容認するにふさわしいのかと云う視点である。さし当っての同盟相手であるアメリカと云う國は、ベトナム戦争に介入・泥沼化、湾岸戦争を主導、「大量破壊兵器を保有する」としてフセインのイラクに不法攻撃、したアメリカ、世界最大の武器輸出国であるアメリカ、しかも我国に『原爆投下』したアメリカである。その『公正と信義』が信頼できるだろうか。
 多極化し不透明な世界情勢のなかで「何が公正」かが益々判断しずらくなっている今、何故『一歩』を踏み出すのか。はなはだ疑問を感じる。
 
 NHK朝ドラ「花子とアン」のなかで「君死に給もうこと勿れ」と詠われているがその後にこうつづいている。「すめらみことは戦ひにおほみずから出でまさね(現人神はご自身では戦われはしない)」と。

2014年5月19日月曜日

黒い雨

 小学校5年だったと思うが定かではない、映画鑑賞で新藤兼人の『原爆の子』を観た。被爆の惨憺たる場面に衝撃を受け感想会で「あんなすごい場面がどうして撮れたんだろう」と発表した。すると映画館の館主の息子とその仲間の子が「あれはトリックや、本物と違う」(何にも知らん奴やなぁ)と言外に小馬鹿にしたようなニュアンスを含ませた発言した。しかし私は頑強に反論し本物説を主張した。後年、担任だった女先生の困惑した表情を懐かしく思い出す。
 
 一般被爆者の症状は、何ということもなく体がだるく重くなって、数日にして頭の毛が痛みもなくすっぽりと脱落し、歯もぐらぐら動きだして抜けてしまう。体がぐったりとなって死んでしまう。もし発病初期に体のだるさを感じたら、何よりも先ず休養して栄養を摂ることが肝腎である。無理を押して仕事をするものは、下手な植木屋が移植した松の木のように、次第に気力を失って生命を断って行く。(略)被爆を免れたつもりで広島から至極元気で帰郷して、一箇月か二箇月ぐらい根をつめて働いたものは、一週間か十日ぐらい床について死んでしまった(p11)。
 両手で顔を撫でると、左の手がぬらぬらする。両の掌を見ると、左の掌いちめんに青紫色の紙縒状のものが着いている。また撫でると、またべっとり付着する。/僕は顔をぶつけた覚えがなかったので不思議でならなかった。灰か埃が、垢のように縒れるのではないかと思った。また撫でようとすると、夫人が僕の手首を抑えた。/「駄目、撫でちゃいけません。薬をつけるまで、そっとして置きなさい。撫でると、手から黴菌が入ります(p51)。
 大勢の患者は病室に入りきれなくて廊下に溢れ、看護に来たものや人探しに来たものは足の踏場もない有様だ。しかもピカドン患者の熱は急速な伝染力を持っており、体質によっては無病であった看護人の方が、看護されている患者より先に死ぬことがある(p257)。
 保健婦たちと違って焼跡を歩きまわった救護班員は、高蓋村では二十一人のうち現地で一人死んで、帰ってきて原爆病で十一人が死んだ。焼跡を歩きまわったというだけでこの有様だ。来見村では十六人のうち、十五人が死んで一人生きている。仙養村では全部のものが亡くなった。(p279)。
 主人は被爆してから十日間くらい便秘しておりました。おしっこも少しずつしか出なくなっておりました。とにかく凄い爆弾だったらしくって、手首のところなんかべろっと剥げました。あれは透過光線と云うのだそうで、体の外側ばかりでなくて内臓にも作用することが分かりました(p337)。
 
 以上は井伏鱒二の「黒い雨(新潮文庫)」からの引用である。野間文芸賞昭和41年度受賞作品で広島原爆罹災者の体験談を題材にしている。すべてが誇張でなく被爆直後からの実録である。私たち世代は「第五福竜丸ビキニ環礁水爆実験被爆事故」も知っている。当時は「死の灰」ということが盛んに言われて「雨に濡れたらアカン。鼻血が出て毛が抜ける」と警告された。
 数日前から漫画「美味しんぼ」の福島原発事故に関する記述が問題視されている。漫画の内容についてあれこれ批判する積もりはさらさらない。そうではなくて、原爆のように瞬間的に莫大な量の放射線に被爆する症例と、チェルノブイリにみられる短時間の原子炉溶融による被爆と、福島原子力発電所のの場合の緩慢な原子炉溶融による被爆のそれぞれについて、科学的なデータ収集と検証を何故丁寧に行わないのか、という疑問なのだ。原爆も原発もほんの僅かばかりの知見に基づいた『拙速な見切り発車的な技術』の実用であって、原発は廃炉術すら実用化に至っていない未熟なものである。従って「被爆治療」はまだ端緒についたばかりで詳細は人類未踏の領域に属する「確たる知見」のほとんど無い「医療分野」と断言して間違いない。にもかかわらず、確立した科学的根拠なしに「安全宣言」する暴挙を何故指弾しないのか。
 
 原爆も原発も100年単位で何世紀にも亘って人類が謙虚に取り組むべき技術である。

2014年5月12日月曜日

見えない人間の肖像

 ポール・オースターの「孤独の発明(新潮文庫)」にこんな文章がある。
 「私の心を乱したのは(略)父が何の足跡も残していかなかったということ、その事実が私を愕然とさせたのだ。(略)父は非在の人間だった。(p11)」「自分自身の表面にとどまることによってのみ人生に耐えられる男(略)自分の表面を与えるだけで済ませてしまう(p26)」「人々が見ていたのは、本当の父ではなく、父が捏造した人物、(略)父自身は見えないままだった。(p28)」この表現は深刻である。そして「父は(略)妻帯者でも離婚者でもなかった。(略)だが父がその役割に向いていないことは明らかだ。夫となり父となる才能が、父には全面的に欠如していた(p30)」とタタミカケられると愕然とせずにいられなかった。そして改めてこの章(同書は二章で構成されている)のタイトル「見えない人間の肖像」を見て暗然たる思いに陥った。
 
 70歳を超えて、子どもたちも独立し仕事も離れて妻とふたり暮らしになってみると「夫として、父として」妻や子どもたちに十分なことをしてきただろうか?と不安を感じる。それこそ「夫として、父としての才能」に全面的に欠けていたのではないかという忸怩たる思いに駆られる。妻も二人の子どもも健康でいてくれるのは何よりだが、幸せでいてくれるだろうか?単調なふたり暮らしの毎日に妻は満足しているだろうかと考えるとはなはだ心許ない。
 京都では「学区(小学校)」がハバを利かせていて「○○学区」の誰それと呼ばれることがあったし、ちょっと前までは「屋号」で「××屋」さんで通用した。又「通り名」や「住所」は身内でよく使われ「千本のおっちゃん」とか単に「上京の」で済まされることも普通であった。それがいつからか「△△ちゃんのお父さん」「▲▲君のお母さん」になりそれと同時に「○○銀行の」や「△△製作所の」と勤務先や「市役所の」とか「(学校の)先生の」誰さんと呼ばれることが多くなっていた。こうした変化を仕方がないと受け入れていたが今となっては頗る不都合なことになっている。△△ちゃんであった子どもたちは成人し独立したし○○銀行はとっくに辞めているからだ。そういう呼び名でいた『自分』は今や『非在のひと』になっている。
 70歳を超えた今こそ『アイデンティティー』が必要なのだろう。「われわれ(自分)は、どこから来たか?どこへ行くか?そしていま、どこにいるのか」を認識し伝えることのできる存在であるかどうかが問われている。
 
 父や夫を「経営者」に置き換えるとどうだろうか。
 「父は(略)世界一の大金持ちになることを望んでいた。(略)金とは父にとって、自分を不可触の存在にするための手段だった。(略)それは、自分が世界から影響されずに済むということでもあるのだ。いいかえれば、快楽ではなく、防御という意味における富。金のない子供時代を送り、ゆえに世界の気まぐれに翻弄されつづけてきた父にとって、富という概念は逃避という概念と同義になっていた。(略)父は幸福を買おうとしていたのではない。不幸の不在を買おうとしていたのだ。(略)父は金を使うことを欲しなかった。金をもつこと、金がそこにあるのを味わうことを欲した。つまり不老不死の霊薬としてではなく、解毒剤としての金。(p90)」「個々の物はその機能においてのみ理解され、その値段によって評価された。それ自体の個性をもつ、本来的に意味ある事物として見られることは絶対になかった。(略)金という観点からしか世界を見なければ、つきつめて考えるなら、世界をまったく見ないことになってしまうのだ(p92)」。
 人間の労働が「機能においてのみ理解され」て『人件費』として「その値段によって評価」された結果、経済生活以外にも多くの価値をもっている『人間社会』が深刻な『格差社会(世界)』に成り果て我国も世界も混沌たる状況に陥っている。
 
 「非在の人間」が増えれば増えるほど相手の見えない『不安な社会』になっていく。

2014年5月5日月曜日

地方分権を歴史的に考えてみる

 藩民の大部分は百姓たちで、彼らにしてみれば年貢を納める相手が藩から新政府に変わって、大した違いではなさそうだが、事実はやはり違いがあった。新政府に変わると、地租改正その他で地主の生活は苦しくなり、そうなると地主は小作人に圧力を加え、これまで以上に厳しく年貢を取り立てた。藩政時代には小作人を余り過酷に扱うと、小作人は一揆を起こしたり他藩へ逃亡したりした。そうなると藩主は責任を問われ、悪くすると藩の取り潰しにもなるから、それなりに藩は領民の百姓に手加減を用いた。しかし新政府の県知事は、中央集権の役人であるから、県民を保護しても功績にならず、もっぱら重税を課して機械的にそれを吸い上げるだけである。このように、中身は封建制度のままで表面だけが近代国家に移行した明治の庶民は、社会の下積みにされたまま、中世と近代の手枷足枷を二重にはめられて苦しまなければならなくなったわけだ。
 
 これは安岡章太郎の「歴史の温もり」からの一節である。徳川幕府設立当時の人口が凡そ1300万人だったものが明治維新政府発足時には3000万人を超えるまでに人口増加した。これは全国が300以上の藩に封ぜられ藩が経済安定のために新田開発や産業振興に努め、日本国土があまねく開発された結果である。割拠した武士集団の勝手に任せておけば肥沃で温暖な土地に集中したであろう人口が徳川幕府の圧倒的権力によって有無を言わさず国土全体に藩を設置したから「国土の均衡ある発展」が達成されたのである。こんな辺鄙なところにも人が住んでいるのかと驚かされるのも、こうした事情のなせる業であろう。
 明治維新以降経済の発展に従って、特に戦後の急速な工業化に伴った「都市の農村からの収奪」によって人口の大移動が起こり「都市化」が進展し、「東京(圏)一極集中」という「極度に歪んだ人口構成」に陥った状態が現在の我国の「国土経営のかたち」となっているのである。
 
 さてそこで問題は「現在から近未来の国土のあり方」である。少子高齢化によって人口が減少に転じ「限界集落」や「買い物難民」、更に近年は「巨大地震の津波被害による地盤沈下」なども加わって「国土経営」をどうするかが大きな問題になってきた。ところが「問題解決の視点」が「今ある都道府県制度」に固執しているから根本的な「国民的合意」を形成することを困難にしている。
 先に述べたように「今の国土形成のあり方」は徳川幕府の「幕藩体制」が基礎になっているから「現在から近未来の国土のあり方」を考える場合は「今ある都道府県制度」を一旦ゼロベースにして考える必要がある。
 最大の問題点は「東京(圏)一極集中」をどのように取り扱うか、であろう。昨今「一票の格差」で東京圏を主として都市住民が「不公平」を声高に訴えているがこれは問題の所在を根本的に誤った主張である。我々国民の権利義務は多岐に複雑に展開している。選挙権はそのほんの一部に過ぎない。都市化によって都市住民が享受している『恩恵』は衰退地域の地方住民の何倍にもなるであろう。仕事と高所得に恵まれていることなど枚挙に暇がないからそのいちいちを揚げる贅を省くが結論を言えば、恵まれいることは無視して選挙権に不満があるなら「満足できる地方に移ればよい」のである。
 権力によって無理矢理全国くまなく住むことを義務付けられていたのだから人の往来が自由になれば人の住まない地域ができるのは自然である。人が交わりを欲するのは当然だからコミュニティーを求めて「都市化」するのは必然であろう。しかし東京一極集中ではなく緩やかな都市化を全国的にすすめる必要がある。しかし将来の「絶対的食料不足」に備えるため人の住まなくなる地域の国土保全を如何に行うかも重要な観点である。
 
 明治維新以来の(政府)権力による「国土の不均衡な経営」の犠牲になってきた『地方の権利』を尊重した「国家経営」が「現在から近未来の国土のあり方」を検討する際の基本的な考え方にならなければならない。