2014年6月30日月曜日

納得の仕方

 日常生活の中で溢れるばかりの情報に接しているとうまく納得できないでいつまで経っても喉に突き刺さった魚骨のように落ち着きの悪い問題があるものだ。「従軍慰安婦問題」はそうした種類の最たるもので一向に始末をつけられないまま引き摺ってきていた。証明する史料―公的文書がないから「軍隊による強制連行」はなかった、従って(軍の関与した)「従軍慰安婦問題」はなかった、と結論づけられると「そうは言い切れないだろう」と違和感を感じてしまう。
 そんな消化不良の状態が続くなかでフト「これは朝鮮人慰安婦だけの問題なのだろうか」と考えたとき、さーっと霧が晴れるように納得する道すじをつけることができるようになった(慰安婦問題は戦前の問題なので現在の北朝鮮にも該当する人たちがいないとは言えないと考えこの稿では敢えて朝鮮・朝鮮人と表記する)。
 
 我国には昭和33年(1958年)まで「公娼制度」があった。私が永年住んでいた西陣にも有名な「五番町」があったからよく覚えている。五番町だけでなく全国各地に公娼街ありまた未公認の私娼窟も少なくなかった。明治維新から日清日露の戦争を経て台湾や朝鮮半島に、そして大陸に進出するようになり、東南アジアにも勢力を伸ばすようになって内地(日本)からの移住者が続々と増えていった。当然売春はあったと想像できるが「私営の娼家」が経営されていただろう。雇われていた多く娼婦のなかには内地から徴集された女性も含まれていたに違いない。そのうち15年戦争(1931年の満州事変から1945年の太平洋戦争の終戦まで)が始まり1941年大東亜戦争に突入する頃から様相は一変したと想像する
 「従軍慰安婦」とされた人たちの総数は数万あるいは十万人以上とされているが、これだけの人数が奴隷狩りのようにして徴集されたとは考えにくい。娼家の経営や女性の徴集は女衒・業者と呼ばれるプロが行い、彼らは甘言、誘拐、暴力、人身売買などさまざまな手口を駆使したから、内地同様外地にも貧窮する家庭の婦女子が多く送り込まれたことであろう。15年戦争がつづくなか大東亜戦争が過酷度を深めるに従って娼家の経営困難になり軍の関与が必要になる事態があったであろうことも想像できるが、軍が表立って女性徴集することはありえず業者に依拠しただろう。女衒・業者といった非合法的実力行使を辞さない集団は社会の基底部を支える下層労働力の調達機構として機能してきたことは歴史的事実であるが(そして福島原発事故の初期過酷時処理作業にも又この調達機構が機能したに違いない)、彼らの活動の主要な内容は史料には残されないしもとよりカムアウトして告発型の「証言」をするわけもない。
 
 娼婦として植民地や戦地の娼家で働かされた女性たちは公的な場で語る言葉をもっていない(奪われている)のだが、そのことにはまた自分の過去についての恥の意識やその他の自己抑圧が幾重にも塗り込められていて、彼女たちの経験は彼女たち自身によってさえ(あるいは彼女たち自身によってこそ、というべきかもしれないが)歴史の闇に封じ込められてきた。これが「従軍慰安婦」についてのこれまでの「歴史」だったのだ、と安丸良夫は「『従軍慰安婦問題』と歴史家の仕事」で語っている。
 「証言」は信頼できない、強制連行は事実ではなく「従軍慰安婦」は公娼制のもとでの売春婦にほかならない矮小化するのは、「従軍慰安婦」問題というひとかたまりの問題のなかから強制連行の有無だけを取り出して問題の全体にすりかえることに他ならない。ましてこの問題をまるで「朝鮮人」に限定されたもののように、多くの同胞―日本人の貧窮した女性を問題の前景から消し去ってしまうことは、恥やその他の自己抑制によって言葉を奪われている彼女たちの存在を歴史から葬むってしまうことに異ならず、その結果この問題が他人事でなく「日本人ひとりひとりの問題である」という事実を我々から忘れさせてしまうことになるのだ。
 
 日常の情報に埋没してしまうことになんら危機意識を持たない―『鈍感』さが、「従軍慰安婦問題」同様今回の「都議セクハラやじ問題」につながったのは間違いない。(この稿は安丸良夫の『歴史学の方法としての思想史』や前掲の論文を参考にしています)。

2014年6月23日月曜日

ある先人への追憶

 先日友人Y君の奥から句集を頂戴した。中京(京都)の奥様方の小さな結社の句集なのだがその完成度の高さに驚かされた。最近友人知人の著作を戴く機会が多く句集も少なくないがそれらと比較してもこの句集のレベルは相当高い。しかしヨクヨク考えてみればなにも不思議なことでなく彼女らは30年から40年近く句作に精進しているのだから定年後始めてせいぜい15年足らずの人たちより上級なのは至極当然なのだ。この句集のもうひとつの優れたところは同人各人の句集の前書きに「句作の要諦」がさりげなく表されていることである。「ある日突然、登也先生に『Kさん、自分の生活している周囲のことに、気をつけて見たことがあるか』と聞かれました」「この頃やっと言葉が自分のものになった様な気がする」「『俳句はあたたかさや』が父の口癖だった」等々。俳句は写生であり、言葉を研鑽してレベルアップを図り、透徹した人間愛を育むことで句作に厚みと深みが備わってくる、と登也師は門人たちを指導したのであろう。今「人間愛」と書いたが「あたたかさ」は「愛」と等値ではない。「だから私は、孔子の『己の欲せざるところを人に施すこと勿れ』という言葉を、他者に対する東洋人の最も賢い触れ方であるように感ずる。他者を自己のように愛することはできない。我等の為し得る最善のことは、他者に対する冷酷さを抑制することである」という伊藤整の言葉(「近代日本における『愛』の虚偽」より)が「あたたかさ」に最もふさわしい、登也師の伝えたかった内容だろうと思う。
 
 登也(たかや)師というのはこの句会の創設者で平成7年に亡くなられているが私にとってかけがえのない先輩であり年の離れた友人でもあった(友人と呼ぶには偉すぎたが、親しく遊んでもらった高校生の頃「おっちゃん」と気安く呼ばせて頂いたので気分は「友人」であった)。彼―石本登也さんが脳梗塞で倒れたことを大分遅くになって知りお見舞いがてら訪なったとき、不自由な左手でものした書を頂き表装して今でも折々に見ることがあるが、とてもそんな状況で書かれたとは思えない見事なものだ。そして、その時この人の偉大さを知った。70歳を超えていつ、どんな病魔に襲われるか知れないが、そのときの身の処し方として彼の姿は最も上位において覚悟を模索している。
 私の高校時代は実家の「古い体質」への反抗の時期であり「逃避」を絶えず試みていた。そのとき暖かく受け容れていただいたのがY君の母君と「おっちゃん」であった。もしこのふたりの「逃げ場所」がなければ今日の私はなかったであろう。感謝している。私の知らない「厳しい」指導が行き届いていたからこそ門人に彼の教えが体現されているのだろう。いまにして彼の教えを仰げなかったことがうらめしい。
 
 ところで俳句の結社は800とも1000ともいわれて盛況だがこれは正岡子規におうところが大きい。しかし彼が「歌よみに与ふる書」で古今集批判を激烈に行ったが故に、そして明治維新の西欧文化の急激大胆な輸入と相俟って、江戸期以前の我国伝統文化が著しく排除・否定されてしまったは否めない。万葉集に偏重した和歌観によって古今、新古今集で完成された「和語」の系譜は省みられなくなったし、我国文学の正統である漢詩文もほとんど忘れ去られている。こうした風潮が「漢文訓み下し文」や「やまと言葉」の衰退をもたらし「文化の断絶」を招いているが、そのことを『危機』と捉えるメディアも少なくIT時代の「短文・思いつき文」が全盛である。そんな時代だからこそ「俳句」という「ことば磨きの文芸」が大いに見直されていい。
 
 「押小路句集」より私好みを数句。
 飛火野に夏至の太陽現るる/金屏に立ちて百寿の気迫かな(籔田洋子)
 能登の温泉に一族揃う去年今年(こぞことし)/遠くから白雨の脚の見えて来る(石本かなえ)
                                        ―合掌―

2014年6月16日月曜日

時事告々

 今週はトピックスが多かったのでアラカルト風に。
 まず当初から気にかかっていた「スタップ細胞騒動」について。論文問題で理化学研究所が設置した外部有識者による改革委員会12発生・再生科学総合研究センター(CDB)を「構造的な欠陥がある」として早急に解体を求める提言をまとめた
 スタップ細胞についての不正がマスコミを賑わすようになってからこの件のニュースを見るのを避けるようになった。見るのが辛かったし、どうか不正がないようにと祈っていた。何故かといえば、「職業倫理」があらゆる職業で荒廃してしまったなかで唯一「科学研究の分野」だけが「真理の追究」という一線で倫理が保たれていると信じていたからである。いや、信じていたかったのだ。しかし伝えられていることが事実なら「遊びを知らない研究一筋のお勉強好き秀才集団」が30歳前後の小娘にいいように『たぶらかされた』という何とも情けない「三面記事」的構図になってしまうではないか。「科学の純粋性」がいとも無残に汚されてしまうではないか。
 理研の解体的出直しを願う。
 
 大阪市教委、激しい暴力など問題のある行動を繰り返す児童生徒を各校から集め、専門的に指導する「個別指導教室」(仮称)を来年度から設置する方針を示した。教室は学校と別の場所に設け対象となる子供を通わせる。問題行動を5段階にレベル分けし、「極めて激しい暴力」「強盗、窃盗などの違法行為」「凶器の所持」など悪質性の高い2段階を対象とする。文部科学省などによると、2012年度の全国の小中高校での暴力行為発生件数は、児童生徒1000人あたり4.1件だが、大阪府内では9.5件に上り都道府県別で最多となっている。
 市教委は「排除」ではないといっているが、された方はそうは思わないだろう。対象児童・生徒は小学校高学年から中学生が大半であろうが、何故彼らがこうなったかを考えてみると、ここに至るまでの学校・教員の指導力低下のしわ寄せと言えないこともない。例えばAD/HD(注意欠陥/多動性障害)の子どもであるにもかかわらず「落ち着きのない」授業妨害をする児童であるとみなされて指導がなおざりになり学習欠陥、「落ちこぼれ」という結果になった子どももいるに違いない。
 実施までに慎重な検討が加えられることを切に願う。「教育格差」は「経済格差」の元凶である。
 
 安倍政権の成長戦略の重点施策として「農業改革」が打ち出されている。この件に関してマスコミなどがほとんど触れていない問題点がある。農協についてだが、(総合)農協の職員数(23年現在)が21.6万人に上りこれは専業農家戸数42.3万戸(24年現在)に対して51.1%にもなるのだ(兼業農家を含めた全農家数は150.4万戸で14.4%になる)。この比率は決して少ないとは言えまい、むしろ異常である。何故ここまで肥大化するのを防げなかったのか。この数字から見ても農業問題解決の大きなひとつが農協改革であることが分かる。もう一つの根本問題は「農地基本台帳」が昨年12月の農地法改正まで法的根拠があいまいなまま放置されていたことだ。農業問題の基礎データであるはずのものが何故放置されてきたのか理解に苦しむ。錯綜した歴史的な利害関係があるのだろうが「平成の検地」を妥協することなく行えればそれだけで問題解決の半ばは達成できたことになるのではないか。
 農業問題は農林水産省だけでなく国土交通省、法務省にまたがる広範なものである。省益を超えた解決を果たして農業を「競争力のある産業」に育てて欲しい。
 
 「笑っていいとも」の後番組「バイキング」が低視聴率にあえいでいる。案の定「お笑いタレント」の無極化がおこりテレビ離れがすすんでいるようだ。
 

2014年6月9日月曜日

平和の価値

 集団的自衛権とか原発再稼動とかキナ臭いことに世間はなっているようだが、あれほど『おどされた』にもかかわらず原発は無くても経済は順調に動いているし、いやむしろ「止まる前」より良くなったみたいで20年ももがいていた「デフレ」から何とか「脱却可能圏」に入ったようで喜ばしい限りだ。東アジアの緊張が高まっているからと云う理由で「集団的自衛権」行使を認めさせようと政府はあれこれ理屈を並べているが国民はどう思っているのだろう。よくよく考えてみると戦後70年、ひとりの戦死者も出していないということは『凄い』ことでそれは「戦争できなかった」結果であることは記憶しておいてよい。
 徳川幕藩体制下の17世紀から19世紀の300年近いあいだ戦争や局地的紛争ばかりか内乱さえなかったことは驚異に値する。この期間は大航海時代を経て今の欧米諸国が近代国家として成立を果たした時代であるから、国家間の戦争はもとより国内の動乱も度々繰り返した大変革の時代であった。その同じ時代に極東の島国と云う地理的条件はあったにせよ『平和』で過ごせたからこそ維新の開国を無事に切り抜けることができたのだ。我国の何倍もの国土を有し世界第一の強国であった隣国「中国」は西欧列強の暴力的植民地政策によって壊滅的打撃を受け以来150年近く臥薪嘗胆の苦しみにあえいだ。
 
 後進国が円滑に経済発展を果たすためには「人的資本やインフラなどのストックが重要で膨大な時間と資本が必要」であり「(貧困国の)人口の50~80%が従事する農業または農村の発展なくして貧困削減はありえない」という開発経済学の知見(大塚啓二郎著「なぜ貧しい国はなくならないのか」)からすれば「平和であった徳川時代の蓄積」にいかに価値があったか分かる。人的資本を識字率で計ってみれば武士階級は100%であったし庶民の男子は50%前後読み書きそろばんができた。だからこそ西欧先進国から輸入した「新技術」を瞬く間に我が物にすることができたので、今途上国が苦しんでいるのはこの面での蓄積がないことが大きく影響している。
 農業の発達程度に関しては幕末から明治初頭にかけて来日した外国人の見聞が役に立つ。「カッテンディーケ(長崎海軍伝習所教育隊長)は言う。『日本の農業は完璧に近い。その高い段階に達した状態を考慮に置くならば、この國の面積は非常に莫大な人口を吸収することができる』。またオールコック(初代英国駐日公使)によれば『自分の農地を整然と保つことにかけては、世界中で日本の農民にかなうものはない』。江戸近郊の農村で彼は『いたるところに熟練した農業労働と富を示す明らかなしるしを見かけ』た。ハリスも日本人の農業に対して讃嘆の念をおぼえた一人である。ハリスは言う。『私は今まで、このような立派な稲、またこの土地のように良質の米を見たことがない』。(略)メイラン(長崎商館長)は言う。『日本人の農業技術はきわめて有効で、おそらく最高の程度にある』。幕末から明治初期にかけて観察者がひとしく認めた、前工業化段階としては最高の経済的・物資的繁栄(以下略)(渡辺京二著「逝きし世の面影」より)」。
 徳川時代の始まった当時1300万人だった人口が幕末には3000万人にまで増加したがその人口を大量の餓死者を出すこともなく養った我国農業の生産性の高さは大いに誇っていい。
 
 安倍政権が成長戦略の柱と位置づけ農業改革を打ち出しているが効果のほどは不透明である。
 そもそも外国人の評価が非常に高い日本農法を完全否定して「お雇い外国人」の指導の下に「農事試験所」を開き『先進農法』を取り入れようとした明治政府の取り組みは、米作に経験のない西欧技術者と農業経験のない下級武士が主導したのだから結果は惨憺たるものになった。農事試験所はやがて「東大農学部」となり日本農業を技術的に主導し今日に至っているが、明治以降日本農業が迷走を続けてきた背景にはこうした歴史的経過があるわけで、『江戸後期の日本農法』は再評価されて然るべきである。
 
 
 「自衛権」とは「自らの國を守るために戦争できる権利」である。

2014年6月2日月曜日

グローバリゼーションの功罪

 トルコで200人以上が死亡する炭鉱爆発事故があり、少し前には韓国旅客船沈没事故で300人以上が死亡・行方不明になっている。いずれも安全を軽視した利益至上主義のもたらした痛ましい事故といわれている。2008年の金融危機による先進国の経済破綻を中国を中心とした新興諸国が世界経済を牽引することで世界不況に陥る危険を防いだ。これで先進国が景気回復すれば世界経済はグローバリゼーションの効果によって「先進国と新興国の均衡ある発展」に向かうに違いない、という期待を抱かせた。ところが昨年あたりから新興国経済が変調を来たし先行きに暗雲が垂れ込めてきた。
 
 思えば先進国はあまりにも性急に「グローバリゼーション」を追求しすぎたのではないか。我国は黒船の襲来によって開国し西欧先進国による資本主義化の荒波にさらされたが、それでも「識字率」が高かったうえにまず軽工業化、次に広く製造業を、そして重工業化と約100年の時間的余裕を与えられたからこそ今日がある。米ソ冷戦終結後の1990年代初頭を「グローバリゼーション」の端緒としG8がG20に改組された1999年から本格化してきたと考えるとその歴史はまだ20年に過ぎない。
 最新の開発経済学の知見(大塚啓二郎著日本経済新聞出版社刊「なぜ貧しい國はなくならないのか」)によれば「経済発展のためには人的資本やインフラなどのストックが重要で膨大な時間と資本が必要」だと教えている。「(貧困国の)支援は人口の50~80%が従事する農業または農村の発展なくして貧困削減はありえない」にもかかわらず農業支援をなおざりにして工業製品のサプライチェーン化のためのインフラ整備と工場設置に集中投資してきた。「要するに、人的資本、 物的資本、インフラ、知的資本に乏しい途上国が、世界の他の国々と国際貿易を通じて競争しようとすれば、非熟練労働のコストが安いことを利用して、非熟練労働集約的な産業を発展させて輸出を図る以外に選択肢は無いということである」という途上国の発展段階を無視した現地投資を繰り返したのだ。「途上国政府、国際機関、先進国政府が効果的な支援のための国情に応じた開発順序」を丁寧にすり合わせる手続きを省略して先進国企業主導の野放図な投資に任せておいたのでは途上国の「均衡の取れた」「持続性のある」開発・成長が望めないのは当然であろう。
 
 更に考える必要があるのは「アメリカ型自由・資本主義的体制」を唯一の価値基準として押し付けることが途上国にとって「本当に幸せな選択」かということである。我国は二度の『価値転換』を経てきた。「明治維新」と「戦後」である。『転換』と書いたが見方によれば『廃棄』であり『断絶』である。現在の我国の文化が明治以前のそれと『継続』しているということが当然のことのように思われているが本当にそうだろうか。卑近な例を考えると、展覧会へいって屏風や掛軸に書かれた流麗な「書」を読むことのできるひとが何人いるだろうか。森鴎外や夏目漱石、樋口一葉の小説を原文で読みこなし愉しむことができるだろうか。新聞は読まずテレビはすでに古く、PC、スマホ、タブレットのYouTubeやニコニコ動画で情報収集しゲームとLINEでつながる社会が「快適」だろうか。
 
 今の我々と似たような立場にいた明治維新の文明開化を指導した西欧人たちは次のような悔悟と反省を述懐している。「科学と工業と啓蒙的理性の信奉者たる十九世紀の西欧人が、日本と云う異文化の形をとって浮上した異時間つまり、前近代を契機として、近代西欧文明の根本性格を反省している例を、私たちは先ずオールコック(初代駐日英国公使)において見出すことができる。(略)『アジアが安息と瞑想をその生活の最上の要素と考え、いっさいの変化と進歩に反する夢想的な安息を最高の幸福と考える』のに対して、ヨーロッパ人は『どうあってもいそいで前へ進もうとする』。このような西欧の進歩的文明と接触することによって、アジア人の『生活に不調和と混乱が生じ、この世の苦労が押し付けられ、自分がもっともよいと思うように生きる権利のために戦わなければならぬことになる。それは、彼らの性質と思考と存在のいっさいの習慣にとっていまわしいことなのだ』(渡辺京二著「逝きし世の面影」より)。