2014年10月27日月曜日

名監督の罠

 今年のセ・リーグCS(クライマックスシリーズ)のファイナルステージは阪神の4連勝であっけなく幕を閉じた。日本シリーズでの阪神の健闘を祈る。
 
 今年のペナントレースを巨人軍が優勝できたのはまったくの僥倖で戦力的には到底優勝を勝ち取れるものではなかった。昨年優勝をもたらした内海、沢村、宮国のローテーション・ピッチャーが秋口までほとんど戦力にならず杉内も衰えを見せた先発陣に加えて山口、西村、マシソンの救援陣にも昨年ほどの安定感はなく投手力では広島、阪神と比べて相当劣っていた。打撃陣に至っては打撃10傑に一人も入らず長野の2割9分7厘を筆頭に坂本0.279、村田0.256、阿部0.248のクリーナップでは首位打者マートン打点王ゴメスを擁する阪神、菊池・丸の若手が躍進する広島と格段の差があった。特に打点が長野、坂本、村田が60点台ソコソコで阿部57点という決定力の無さではこれでよく優勝できたものだと呆れるほどの体たらくだ。2年目菅野が防御率トップ勝利数2位の12勝(トップがメッセンジャー、山井の13勝だから今年のハーラーダービーは低調だった)でひとり気を吐いたのが唯一の光明である。
 この戦力で優勝したのだから原監督の手腕が賞讃されるわけだが、それにはちょっと疑問がある。今や通算勝利数882勝(11年)で歴代15位、野村、西本、上田、川上、王、長島、星野に次ぐ存在だから『名監督』といってもあながち褒め過ぎに当らない地位に達しているのだが、今年の采配には大いに不満がある。
 
 今年もっとも記憶に残っているシーンは7月11日の対阪神10回戦で見せた『西岡シフト』である。阪神が7連勝で1.5ゲーム差に迫ってきた大勝負の一戦で2対2で迎えた6回表、2点を勝ち越されなおも1死23塁で迎えた代打西岡のとき内野手を5人にする変則シフトを敷いたのだ。王シフトで知られるように変則シフトは野手全員を右側(ライトより)に寄せたり今回のように内野手を5人にするなどのシフトをとるのだが、王さんに代表されるように格段に実力が上位の選手に対して守備側が「降参します、左へ打つならどうぞ」と諦めて敬意を表す防御策である。西岡選手は決して並みの選手ではない、大リーグへもいったほどの実力者ではあるが変則シフトを敷くまでの選手とはいえない。にもかかわらずここで変則シフトを選択する意味はどこにあるのか?大いに疑問を感じた。結果は無人のセンターに2点タイムリー二塁打を許しリードを4点に広げられ奇策は失敗に終わった。だが、そんな結果はどうでもいい。何故に『王者巨人軍』が『宿敵阪神』に『屈辱的』な西岡シフトを敷いたのか!それが無念であり、そんな原辰徳が情けないのだ。 
 2006年2回目の監督就任以来10年でリーグ優勝6回日本一にも2回輝いている戦績は十分『名監督』の冠に相応しいものだがそれだけに、コーチをはじめとしたスタッフ陣は悪く言えば「イエスマン」集団になっていたし球団のバックアップも万全だから選手も全面的に監督に従わざるを得ない雰囲気にあった。
 こうした状況が伏線となって戦力に翳りの見えた今年の巨人軍のオーダーは150通り以上の「猫の目打線」になった。昨年までは長野、坂本、村田、阿部にはクリーンナップとしての役割を意識させた起用を貫いていた。しかし今年は選手にウムを言わせぬ『名監督』の権力をほしいままに昨日の4番打者に今日は7番を打たせたり1、2番打者も固定せず、結果打線が機能しなかったからCSの無残な結果を招いてしまった。西岡、上本で1、2番を固定し鳥谷、ゴメス、マートンでクリーンナップを任せた阪神に比べて決定力を欠いた打線の低調は結局、選手から『役割り意識』を剥奪した原監督の責任ではないだろうか。V9時代の不動のメンバーがそれぞれ役割りに徹して能力を磨き戦力を高めていったことを知っているだけに今年のオーダー編成は異常であったと思う。
 そんな経過があったからかファイナルステージの選手に覇気がまったく感じられなかった。負けて当然と思った。『名監督』の「驕り」と「油断」の招いた『厄災=罠』をそこに見た。
 
 ロペスにアンダーソンの外人勢を加わえた選手層は決して他チームに比べて遜色のある戦力ではないだけに選手の個性がキラリと光るチームづくりをして来シーズンはファンの納得できるゲームをして欲しい。そのためには原監督が『名監督の罠』に陥らぬ用心が肝要である。来シーズンの飛躍を期待する。
 
 
 

2014年10月20日月曜日

般若心経

 仏壇を開きお水を汲み般若心経を唱えるのが日課になっている。幼い頃から朝仏壇を拝むのを習慣としていたが十年ほど前念仏を声出して唱えるようにしたところ、諳誦(声を出さずに心で唱えること)とは異なる雰囲気を体感した。頭から緊張が解(ほど)けて軽い浮遊感におそわれ声を大きくするにつれて雑音が遠のいて「南無阿弥陀仏」というお念仏に包まれるようになる。ひょっとしたらこれが「法悦境」というのかもしれない、そう思った。「うちのお寺の坊さんにお念仏を出してと言われるのだが照れくさくてできないでいる」と友人の一人が言っていたのを思い出す
 たまたまEテレで「100分de名著―般若心経」をみてこのお経が世界中で受け入れられているのを知った。経中頻繁に出てくる『空』という語に文明人を『解放』する力があると佐々木閑花園大教授が解説していた。最終回「ギャテイ ギャテイ ハラギャテイ ハラソウギャテイ ボヂソワカ」というサンスクリット語をそのまま音訳した経文について「意味の無い音を呪文として受け入れることで救われる」と解説に「私はこれまでまったく逆の生き方をしてきたから素直に理解することができない」とやや嘯(うそぶ)き加減に反問するお笑い芸人が気にかかった。彼は、言葉を概念として正しく理解し論理的に勉強してきた、といいたかったのだろう。この太り気味の芸人は「賢(かしこ)タレント」に類しておりクイズ番組などで活躍しているのだが、このようなEテレの教養番組にレギュラー出演しているとは驚きであった。彼のこの発言(NHKのことだから台本にあったのかもしれないが)ははしなくも「言葉に対する誤った考え方」を如実にしている。
 
 言葉に「概念的機能」が付与されたのは歴史的にみればそんなに昔のことではない。むしろ初め言葉は呪文として表れたといった方が正しい。生きるための導きを求めて『憑依(ひょうい)』する力(神と同化し神の言葉を代言する)を有する呪術師に縋(すが)らざるをえなかった遠い古、彼女や彼の「お告げ」の言葉に霊力を感じてひとたちは「呪文」を唱えることで苦しみや怖れ、痛みから解放されていただろう。「詩」が生まれて「時間」が「かたち」になり氏族が形成された。記憶が「言い伝え」として連綿とつながれ、それが「文字」に写れたのはずっと後のことだ。「ことばの文字化」が『概念としての言葉』を生んだ。印刷が発明されて多くの人に「伝える」必要が高まって『概念としての言葉』が重要性を高めた。近代になって『概念としての言葉』が肥大化して「言葉」を貧しいものに貶(おとし)めた。「音」よりも「文字」が有力になり、「書かれた文字」よりも「文字の伝える概念」のみが「言葉」として流通するようになった。
 
 和歌は短冊(や木簡)に「筆書き」されたもの―印刷された文字の連なりだけでない、大きさと文字の姿かたちと墨のながれの「総体」が『和歌』なのであって、それを声出して唱和されて「完全な和歌」になる。そういうものであるらしい、しかし我々にはそれ理解できない。文字は「印刷文字」以外にも多くの形を持っているが明朝体かゴシックが大勢力を誇IT時代になってPC文字がハバを利かせるようになってきた。
 般若心経を声に出して唱える。漢字で書かれたお経を目で追っているとおぼろ気がながら「意味」が湧いてくる。音と文字と意味が渾然となって高揚してくるなかで「呪文」に出会い大声で唱えると、一挙に「自分が消えた」ように感じる。
 
 至るところ、悦びと、ぼろ儲けと、そこ抜けの騒ぎがあった。至るところ、明日の日のパンに対する確信があった。至るところ、生活力の熱狂的な爆発があった。しかるにここには、絶対の悲惨、最早技巧ではなく、真の必要がかえって巧みなコントラストを生んだ、異様ななりをした悲惨、滑稽な襤褸(らんる)に、加えるに恐怖を以て装われた悲惨がある。(ボードレール「パリの憂愁・年老いた香具師」福永武彦訳岩波文庫)。1860年代初頭に書かれた「散文詩」の伝える『格差』の悲惨さは「概念」で綴られたどんな「論文」より「直截的」に訴え、怒りを醸成する。詩のもつ呪術的情念は『概念としての言葉』では決して伝わってこない。
 
 った「賢(かしこ)お笑い芸人」を嘲笑(わら)うのは簡単だが彼ばかりを責めて済ませられないところが何とも悩ましい。
2014.10.21
文学文化1793文字
464/254 市村 清英
 

2014年10月13日月曜日

ノーベル賞と雇用の流動化

 今年も又日本人からノーベル賞受賞者が出た。ここ数年、毎年のように受賞者が現れて嬉しい限りである何よりなのは戦後教育を受けた人たちが現れてきたことだ。これまで多くの識者が戦後教育批判を繰り返してきた。その顕著な例としてノーベル賞受賞者が現れないと予言していたしその言には説得力もあってわが国のこれからに悲観的に成り勝ちだった光明がほのみえてひと安心である。
 それにしても毎年のように下馬評を賑わす村上春樹氏が今年も文学賞選から漏れたのは何故なのだろうか。我々一般人ばかりでなくジャーナリズムも囃し立てていることを思いあわすと、我々の考えている「文学」とノーベル賞が文学としているものが異なっているのではないか?そんな疑問さえ感じてしまう。彼の作品はほとんどがベストセラーになっている。ということは一面から見れば「読み易い」小説と言えなくもない「分かりやすい」と言い替えることも出来ようか。ということは、文学というものは何がしか「苦労」して「複雑な操作」求められるものなのかも知れない。文学についてこのへんのことを一度ジックリと考えてみる必要がありそうだ。
 ノーベル賞の季節に何時も考えるのは、ひとつ事をジックリと何十年とつづけることの偉大さなのだが今政府のやろうとしているのはそれとは逆の「雇用の流動化」である。しかもその一方でノーベル賞倍増を図って「大学改革」でエリート養成しようとしているスポーツ面でもオリンピック目指してエリートを育てようと目論んでいる。ということは、一握りのエリート以外は企業の都合のいいように「使い捨て」して「流動化=解雇し易い雇用関係」しようというのか。それでいながら「生産性」は高めたいというの少々虫が良すぎるとういうものだろう
 仕事(労働)を個人の立場からみてみると若い人の考え方が気がかりだ。定着率が非常に悪い。厚生労働省の「新規学卒就職者の在職期間別離職率の推移」をみると、大学卒の3割以上が3年以内に離職しておりかつ1年目での離職率の高さが目立っている。彼らの言い分は「自分探し」がしたいとか「自分にあった仕事」がしたいということらしいが具体性が乏しい。
 
 現在は職業の自由があって「職業の選択」は個人に任されているが戦前から戦後すぐの頃までは「家業」を継ぐのが当たり前で農家と自営業の割合は70%を超えていた。その後高度成長が続き「勤め人」が80%を上回るようになったのだが、「労働の喜び」といった面からは果たしてどういう「働き方」が良いのだろうか。
 
 「私はごく早いころから、家職のなかに生きることが、すなわち人間として正道を踏む生き方であることを、深く理解できた…。家職というものは、私たちに顔かたちが備わるように、人がこの世にある形にほかならぬ。私はそれを引きうけ、それに精魂をうちこみ、それをさらにお前たちに伝えることを、心から誇らしく思っている」。これは辻邦正の『嵯峨野明月記』にある本阿弥光悦のことばである。彼は刀剣の鑑定、研磨を家職とする家に生まれその道に精勤することで身を高め、寛永の三筆としての名声を博するとともに琳派の創始者として日本文化に大きな影響を与えた。その彼が仕事に生きるということについてこんなことも言っている。「私たちの日々も、同じように、何か形あるものに変えて、そのなかに閉じこめなくては、ただ流失するほかない。だが、ひとたびこうして一日、一日を、営々と閉じこめはじめれば、人はいつか十年二十年の歳月さえも、目に見える形で、閉じこめることができるようになるのだ」。その日暮らしに仕事をするのではなく、その日の糧を蓄積するよう工夫をこらせば、歳月を経て立派な業績とすることができると言っている。
 マックス・ヴェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で職業についてこう語っている。「職業の特化は、労働する者の熟練を可能にするため、労働の量的ならびに質的向上をもたらし、したがって公共の福祉に貢献することになるのだ(略)確定した職業でない場合は、労働は一定しない臨時労働にすぎず、人々は労働よりも怠惰に時間をついやすことが多い。(略)そして彼(天職である職業労働にしたがう者)は、そうでない人々がたえず乱雑で、その仕事時間も場所もはっきりしないのとはちがって、規律正しく労働する。…だから『確実な職業』は万人にとって最善のものなのだ」。雇用の多様性と流動化の美名の下に『望まれざる』非正規雇用の存在を是認し、衰退産業から成長産業への労働力の移転を円滑化するために「労働市場の流動化=解雇権の柔軟化」を実現しようとしている現政府の労働政策は『働く人間』にとって幸せな『仕事人生』を約束してくれるものではない。
 
 「自分探し」を『面的』に捉えるのではなく『深化=特化』と考えると選択肢が広がるのではないか。そのためにも若年労働者の『雇用拡大と安定』を政府をはじめ大人たちは考えるべきである。

2014年10月6日月曜日

本当は8%増税では?

 増税後の消費の落ち込みが想定された範囲を超えて推移している。4-6月期の個人消費は前期比マイナス5.0%で前回増税時(1997年)のマイナス3.5%を大きく上回っている。原因の一つ重税感上げられて、外税になって本体価格に8%が掛けられるとズッシリと増税を実感するというのだ。いかにももっともらしが見落とされている現実がある。例えば298円の商品を買って8%の消費税を加算されるには、増税前298円のものは一旦298円を分解(本体価格284円+消費税14円)して本体価格284円を導きこれに〈1.08〉を掛けて306円を請求されるのがフェアな手続きである。ところが実際は、増税前内税(本体価格+5%消費税)で298円だった商品がそのまま298円の本体価格で売り出されておりこれに消費税8%を掛けた321円が請求価格になっていることが決して少なくない。これは元の(本来あるべき)本体価格284円に消費税を掛けた306円より15円く支払ったことになる。主婦たちは増税前の価格を記憶していてこうした売り手側のカラクリを知っているから今回の増税は3%の上乗せではなく8%増税された13%の消費税が課税されていると実感している。
 今回の増税前政府は中小企業―とりわけ下請け企業の増税分請求が大企業(発注企業)のゴリ押しで転嫁拒否にあわぬように「消費税円滑かつ適正な転嫁の確保のための消費税の転嫁を阻害する行為の是正等に関する特別措置法」という長ったらしい名前の法律を作って中小企業保護努めた。これはこれで評価していい。しかし「もの言わぬ」消費者の保護には『手抜かり』があった。勿論すべての小売商品でこうしたアンフェアが行われているわけではない。しかし毎日身近に起こっているこうした事態が彼女らの全体を覆っているように感じるから「消費が萎縮」してしまうのだ
 今回の消費の落ち込みは政府や担当者が考えている以上に深刻な事態と見るべきであろう。政府は賃金の伸びを期待しているが8月の1人当たり現金給与総額が前年同月比1.4%の伸びで止まっていることを考えると8(13)%近い賃金の伸びは望むべくもなく、もしこうした現状を放置しておいて10%に増税するようなことがあれば日本経済に致命的な影響を及ぼす可能性があることを覚悟しておくべきであろう。
 
 御嶽山の噴火が戦後最大の被害をもたらした。この報道でわが国に110もの活火山がありそのうち47常時観測が必要な火山とされていることを知った。御嶽山もその一つであったにもかかわらず警戒態勢が整備されていなかったことが今回の惨事に繋がったようだ。少し前に起こった広島の土砂災害も被害地域が土砂災害危険箇所に指定されているにもかかわ警戒区域への指定が遅れていたことが大災害の原因になったと考えられている。
 広島の場合、警戒区域へ指定されると土地価格が下落することもあり住民の説得が困難なことが多いようだ。御嶽山は7合目までロープウェイが整備されいて3000M級の山であるにもかかわらず3時間程度で頂上まで登山ができ紅葉の秋には人気が高かった。前兆らしい兆候が観測されていたにもかかわらず登山者への警戒情報提供にまでは至らなかった原因はそのあたりにあるのかもしれない。
 このふたつの惨事を考えるとき、広島の場合は私有地の経済価値への悪影響、御嶽山の場合は警戒度を高めることでの観光客の減少、という経済的価値への配慮が人命尊重の措置を滞らせた側面がみてとれる。煎じ詰めれば経済的価値か人命尊重かという究極の選択に行き当たる。
 
 今思っても残念なことは、東日本大震災のとき「過酷災害特別法」のようなものがあって『私権の制限』がスムースに行えておればということがある。特に津波と原発被害の甚大であった地域を制限地域に指定し取引価格を直前価格で凍結してその全地域を国が買収できておれば復興事業はもっと迅速に進捗していたはずだ。先ごろ政府が提示した汚染土壌などを保管する中間貯蔵施設の土地の買い取り価格の目安基本的に宅地と農地の場合、福島第1原発事故がなかったと仮定して現在の土地の値段の5割、つまり100万円の土地なら50万円で国が買い上げるというもの)など地権者の足元を見透かした理不尽なものでおよそ納得できるものではない。津波と原発被害で価値がゼロになった土地を震災前の価格の5割で買ってやろう、という論理は「津波による被害は対象外」と言っているようなものだ。こうした形でしか私権の制限を打ち出せないのは、私権の制限についての根本的な討議がなおざりにされてきたからに他ならない。
 
 私権を絶対的なものとして神格化し、地球温暖化によって自然災害が激甚化する時代に対応不能なまま放置することの不合理さとどう向き合うか、真剣に考えるべき時期に来ている。