2015年2月22日日曜日

文豪、最期の呟き

 「このあけがた、父はやや長く私と話し、『じゃ、おれはもう死んじゃうよ』と云った。さっぱりと雲が晴れたように、父はかならず死ぬと私は決めた」。これは文豪幸田露伴の次女、幸田文の父の死の直前(二日前)の記述である。このあと彼女はこうつづけている。「(略)――これは貧しいことを除けば、何も無理のない往生かもしれない。きびきびとし尽したみとり(原文は傍点)とは云えないけれど、不誠実に尽した手落ちなさよりずっといいと思っている(『父―その死』幸田文著より)」。
 文は姉と弟の狭間で「疎まれ」褒められもせず長じ、結婚して出戻って病床に臥す文豪の父を三年以上介護に献身する。尽くしながらも幼い頃の「僻み根性」が頭をもたげ「恨み」を抑えかねることもありながらやがて心底「父」への愛と尊敬を自覚し、死を「みとる」覚悟を固めていく。前夜睡魔にかまけて介護を他人任せにした目覚めに、急変した父の症状に愕然としたのだが、その兆候は彼女のみが気づくほどの微かなものなので、にもかかわらずそれは「絶望的」な変化であった。そうした事実の歴然さが彼女に「父はかならず死ぬ」と決心させたのだ。
 この行(くだり)を読んだ中谷宇吉郎がこう述懐している。「しかし露伴先生の『じゃ、おれもう死んじゃうよ』には、生を意識しての死というものが、全然感ぜられない。生死を超越するという言葉は、今まで何度も聞かされている言葉であるが、その意味を迂闊にしてつい最近まで知らなかった。というよりも考えてみたことがなかった。私は『父』を読んでこの言葉に出遭ったとき、思わずどきっとしたのはこの点である(中谷宇吉郎著「露伴先生と神仙道」より)」。
 死を直前にした露伴は意識の混濁することもあったが明治人らしい、あるいはまた「文豪」としての矜持がはたらいたせいか病勢を遠ざけて確然娘に向き合う姿勢を失わなかった。だから医師が死の近いことを告げても娘は父の死を実感していなかった。それが急変後の父との思いもかけない長い語らいの結語「じゃ、おれはもう死んじゃうよ」を聞いて「父は必ず死ぬ」と覚悟を決めたのだ。中谷が云うようにこの言葉は不思議な言葉だ。「じゃ…」というのは「日常語」だ、「ちょっとそこまで」という感じであって、あの世へ赴く者の「挨拶」ではない。そのことを中谷は「生を意識しての死というものが、全然感ぜられない」といい「生死を超越する」と表現したのに違いない。さすが『文豪』である、見事な「死に様」だ。
 
 日本人の平均寿命は男女とも80歳を超えた。終戦直後50歳前後だったことを考えるとこの70年の間に30歳も寿命が延びている。世界標準は大体70歳というところだが人間の生物学的寿命は30歳とも云われているから「異常」な「生命状態」に及んでいることになる。ということは今の我々の「生き方」なり「生かされ方」は誰も知らない領域にあるといって間違いない。
 医学の進歩は著しいから少々の病なら簡単に治してくれる。いや相当な重病でも日本の病院なら治療して命を延ばしてくれる。そんなことの「繰り返し」ながら「ゆるやかな衰え」のなかで生き長らえている。
 
 こうした「生きよう」に疑問を感じた人がいても不思議はない。たとえばこんな風に。「(このように医薬品開発でも経済的な競争が繰り広げられた結果)『健康』の概念自体が損なわれてしまった。どんな身体状態も『望ましい』状態と比べたらどこか足りないとすれば、誰もがある意味で永遠に病気ということになる(『じゅうぶん豊かで、貧しい社会』ロバート&エドワード・スキデルスキー共著村井章子訳)」
 スキルデルスキーはこうも書いている。「かっての医療は一人ひとりに自分の寿命を気づかせるようにし、高齢で死ぬことを悲劇とみなさなかった。だがもし自然の寿命というものが存在せず、文化によって異なる相対的な(しかし変化する)基準しかないとしたら何歳で死んでも痛ましく、医療の失敗ということになる。(略)ほんの数十年前までは、さほど苦痛を感じるまでもなく早々に死んでいた人たちが、いまでは慢性的な病気で衰弱しながらも生かされている」。
 スキルデルスキーはさらにこう続ける。「古くは、健康とはすべてが『本来の機能を完全に果している絶頂期の状態』を意味した。これに変わって登場したのは、恒常的な健康増進という理想である。長生きの強迫観念は、その一つの表れと言えよう」。「貪欲な健康志向のせいで、医療費は所得と同じペースで、いや所得以上のペースで拡大するため、人々はハツカネズミのように追い立てられ、労働と経済成長の踏み車を回し続けなければならない」。
 
 我々は「生・死」ということを自分の問題として考えたことがあるだろうか。病気、健康についてはいろいろ手立てして、保険を掛けたりジム通いして健康保持につとめているが「死」について真っ直ぐに向き合ったことがあるだろうか。葬式帰りに持たされる「浄めの塩」を平気で身に振り掛け門口に撒いているが、これは死を『穢れ』と見なしているからの「儀式」であり、ということは我々の目の前にある「死」を「禁忌」と看做していることに他ならない。自分の父母や可愛がってくれた祖父母の死、親友の死をも「汚穢」と考えて平気でいる、これは『死』を真剣に考えたことがないからであって、一度でも死と向き合っていたら「最愛の人」の死に「浄めの塩」を用いることはなかったはずだ。
 「生」についても同様で生と死が切れ目のない「不確かな連続体」として捉えられている。病気になったら病院で治してもらえばいい、そのために「医療保険」に加入している、というところまでは考えているがその先がない。「死亡保険」を掛けているという向きがあるに違いないが、そこまでのことで、それで「死」に向き合っていることにはならないことに気づいていない。最近の傾向として「終活」が死に向き合うこととして考えられがちだが、そういう次元のことではない。健康であれ保険であれ終活であれ、それらは生と死の何ものかへの「置き換え」に他ならないからだ。
 
 こうした考え方の延長線上に「不老不死」の願望がある。古代中国を初め西欧文化圏においても追及されてきた「不老不死」は肉体的な生命維持、あるいはテレビ広告のうたう「アンチエイジング=永遠の若さ」という錬金術的な約束を意味している。生死を消費的に捉えるこうした考え方は結局「もっともっと」という「行き止まりのない」生命維持と延長に繋がらざるを得なくなってしまう。
 そうではなくて、生と死に向き合うとは、「健康をこのような相対的な見方で捉えず、古来の見方と同じく、身体の自然に整った状態と捉えることだ。このように定義したとき初めて、健康は『もう十分』と言いうるものになる(スキルデルスキーの前掲書)」。
 
 世の中に商品が溢れ寿命が延びて、生命や健康さえも「消費」の対象物に置き換えられていることに少しも疑問を感じていない今、文豪の『じゃ、おれはもう死んじゃうよ』という「呟き」は「当たり前のこととしての『死』」を気づかせてくれる。
 
 ほんの少しで十分だと思っている人でも、もう十分と思うことはないものだ―エピクロス

2015年2月15日日曜日

「よい暮らし」してますか?

 先日久し振りに家電量販店に行った。入ってスグの一番目立つところはスマホが占領していた。興味がないので先へ行くとPC(パソコン)があった。スマホに比べると展示スペースも狭く何よりきらびやかさがない。隔世の感を覚える。目を転じるとテレビコーナーがある。大型画面のテレビが相当数展示されていてちょっと前のさびれた感じはない。しかしほとんどが「4K」テレビで値段を見ると安くても17~18万円している。そのせいかお客の姿が殆んどない。
 国の電波行政のゴリ押しで地上放送がデジタル化されたのは2012年の3月だった。ブラウン管テレビはまだ十分見られるにもかかわらず薄型テレビを買わされた。それからまだ3年経っていない。デジタル放送自体は10年ほど前から行われていたから早くにデジタルテレビを買った人はそろそろ買換え時期かもしれないが一般的には4Kテレビを買おうとは思わないだろう。そもそも今のテレビ(放送内容)は面白くないから20万円も出してテレビを買う気はまったくない。報道によればテレビ局も地デジ化に相当な資本が必要だったから4K設備の導入に消極的という。多分東京オリンピックの頃には足並みが揃うかも知れないが、それでも4Kテレビでオリンピックを見たいかと問われれば「うーん」と思案してしまう。年寄りだから暇つぶしにテレビは必需品だが映っていればいいという程度だからそれ以上の機能の必要は感じない。時計だってそうだ。時間を知りたいのであってそれ以上の価値は求めていない。若い人ならスマホがあるから時計は要らないという人がほとんどだろう。最近のファッションは流行が早いから3年前のものでは恥ずかしくて表を歩けないと若い女性が話していた。
 
 日本経済新聞が行った「アジア10カ国の若者調査」が先日の新聞に掲載されていた。月収と余裕感の調査でインドネシアが日本(22万円)より低い約7万円の月収であるにもかかわらず経済的余裕があると答えた割合が8割近いのに驚かされた。ちなみに余裕を感じている若者は日本は25%韓国は28%どまりだがベトナム(月収はインドネシアと変わらない)は74%と、収入の比較的低い国で余裕を感じている若者が多い傾向を示していたのが印象的だった。
 最近まで貧しい生活を送っていた発展途上国がここ10年ばかりで経済が急成長し月収が大幅に増えたから「豊かさ」が実感でき経済的余裕を持つようになった、という側面はあるかもしれない。しかしそればかりではないだろう。身の回りにある「商品」の数が少ないという事も影響しているのではないか。商品の種類も多くないだろうし「グレード(廉価品から高級品の)」も限られているに違いない。とにかく「必要」が満たされればいい、そんな経済の発展段階にあるとみるのが正しいかも知れない。
 
 先の家電量販店のテレビコーナーの大画面には先ごろ「イスラム国」に虐殺された後藤健二さんの報道で、彼がシリアの避難民地域で活動している姿と避難民の子どもの目だけが異常に大きい病苦に喘ぐ姿や破壊されつくした現場の貧しい様子が映し出されていた。同じ地球上で、同じ時間に、こんなに格差があることに何も感じなくなっていることに空恐ろしさを感じる。この「不条理」と「矛盾」に、誰も、何も感じないとしたら、政治は勿論のこと哲学も経済学も余りにも無力ではないか。
 
 シャープやパナソニックが薄型テレビに大資本を投入して経営が怪しくなって数年、今また4Kテレビである。パソコンが一世を風靡して情報コミュニケーションと企業活動に革命が起こったが、今やスマホとパッドが主流になってきた。品質のよい生地の洋服を大事に着る、という風潮は殆んど消えて「タンスの肥やし」ばかりが増え「断捨離」なる言葉が流通するようになった。次から次へと新商品が開発されて消費者は他人(ひと)が持っているから、と「無理矢理」買わされているようだが、で、『よい暮らし』をして『豊かに』なったかと問われて「ハイ、充実しています」と言い切れる人はどれほど居るだろうか。
 ユニセフの「マンスリーサポート・プログラム」という案内が時々送られてくる。毎月僅かな金額を継続して募金することで「貧困国の子供の救済が出来る」という募金だが、どれ程の人が協力しているのだろうか。不必要に高機能の商品を作る資源を途上国の「必要」に『譲る』ほうが「グローバル経済」―『世界中から貧困を無くす経済』としては『効率』が良いのではなかろうか。
 
 「必要を贅沢の犠牲にしてはならない」という考えで「グローバル経済」を『再設計』できる経済学こそが、今必要なのだと思う。

2015年2月8日日曜日

 後藤さんの遺したもの

 国際ジャーナリスト後藤健二氏がイスラム過激派組織「イスラム国」に虐殺された。記者団に答える我国首相は悔しさに涙を滲ませなが「この罪を償わせる…」と決意を述べた。しかし『償い』とは何なのだろうか。そのために我国は何を為すというのか。そもそも中東で―世界で「ニュートラル」と捉えられ、ある種の尊敬と憧れをもって迎えられていた我国が「テロの標的」に転じたのは何故をもってなのだろうか。
 後藤さんの報道を通じて我々が目にしたものは、悲惨という言葉の表現さえ憚るような「貧困・不衛生・破壊」の現場であった。
 
 世界は現在195ケ国、70億人の人口を擁している。このうち「豊かな国(1人当りGDPが2万ドル以上)」は41ケ国に過ぎず1日1.24米ドル以下で暮らしている「最貧国」の人口は14億人(2005年)にも及んでいる。一方世界の軍事費(2011年)は1兆6245億ドルに達しそのうち2億ドル以上の軍事費を支出している国(それなりの軍事力を保有しているとみられる国)は14ケ国に限られ1億ドル以上でみても20ケ国に過ぎない。ストックホルム国際平和研究所の軍事統計には135ケ国が掲載されているが問題は下位国でもGDP(国内総生産)の1~2%を軍事費に支出していることであり紛争地域の国―例えば東ティモール4.9%アルメニア4.2%バーレーン3.4%―は国力に比して過大な軍事負担を強いられている(ちなみに米国4.7%中国2.1%ロシア3.9%インド2.7%ドイツ1.4%日本1.0%)。
 ということは僅か14ケ国か20ケ国の軍事力のバランスの上に世界の平和が保たれているのであり、その中で50ケ国に満たない「豊かな国」が繁栄を享受し150ケ国が黙して貧しさに耐えているのが現在の世界の構図といえる。
 
 日本は戦後「不戦」を世界に宣言し軍事費を最低限に制御することで経済再生に専心できた結果「奇跡の復興」を成し遂げた。遅れて独立した国、遅れて発展を目指した国々―発展途上国にとって「軍事費」は「不必要な支出」であって欲しい、乏しい資源と資金を経済発展に振り向けたいと願っているに違いない。ところがそれらの国は、先進国の植民地であった国が多く資源の収奪と宗主国資本の蹂躙にさらされてきたから、独立しても「自立」できるだけの「蓄積」がなく、我国のように与えられた「民主主義」を消化するだけの「教育レベル」にも達していなかったから、「国民国家」として成立するには相当な困難を強いられた。加えて多くの国は、「民族」も「言語」も「宗教」も無視されて戦勝国の都合で「線引きされた国境」で区切られたから、「アイデンティティ」を共有し統合された「国家」として発展・成長するのは苦難を極めた。
 「発展途上国」にとって「不戦」と「経済発展」を鮮明に「旗幟」掲げた日本は『モデル』であり『憧憬』であったに違いない。
 安倍首相や彼と価値観を共有する人たちは「歴史認識」や「集団的自衛権」の行使容認についてそれなりの「論理」があるに違いない。それを信じて国の内外に「発信」してきたのだから、国際世論から「右翼勢力」と見られ選挙に大勝すれば「右傾化政策いよいよ本格化」と評価されることは心外かもしれない。しかしそれが「世界の目」であり発展途上国の「評価」なのである。
 
 我国は中国に抜かれたとはいえ世界3位の経済大国であり英国の約2倍のGDPを誇っている。しかし人口減少期を迎え、今の国力を維持することは不可能に近く国の進路をどの方向に舵を切るかの極めて困難なな時点に立っている。G7でありG20の地位を意識して現状維持に拘泥するのもひとつの選択肢である。 しかし世界200ヶ国のうち3/4の国は貧しく開発の遅れた国であり14億人は最貧国に暮らしている。これ等の国は最低でも「戦争」に巻き込まれないことを願い、貧困と病苦から脱却したいと願っているに違いない。経済援助は欲しいけれども「ひも付き」でないものを―援助国の支配下に入ることは望んでいない。
 近隣の「強国」や武力を持った「危険な国」「反日国」に『ナメられる』のを『屈辱』と感じて、或いは不条理な「撤退」を強要されると『懼れ』て、これまで築いてきた『弱い国の好意』を捨て去ることで我国の世界における地位はどれ程向上するというのか。
 
「寛容(トレランス)は自ら守るために不寛容(アントレランス)に対して不寛容になるべきか」(仏文学者渡辺一夫)。 この老仏文学者の言葉が今ほど重く感じられる時はない。

2015年2月2日月曜日

インターネットと原発

 北朝鮮の金正恩を揶揄したソニーの米映画会社製作のB級コメディーをめぐって米朝のサイバー合戦がマスコミを賑わしている。昨年はベネッセをはじめ企業の顧客情流出が相次いだし、政府関係機関の情報流出も頻発した。ビットコインがハッカーに収奪されて約114億円が消失した例は特殊としても銀行預金がネット上で盗難にあう事件も後を絶たないしシステムが破壊されて仕事に支障を来たすことも珍しいことではなくなった。
 1月20日付けの日経「一目均衡」が「『第5の戦場』株価に脅威」と題してサイバー被害の株式市場への影響の大きさを詳述している。
 米小売大手のターゲットは13年のクリスマス商戦期に大量のカード情報を盗まれ14年には顧客情報流出も判明して株価が下がり最高経営責任者が辞任に追い込まれた。米ウォール街ではハッカー集団が上場企業のインサイダー情報を盗み株式を不正売買している疑惑も浮上している。13年半ば以降米国の上場企業100社以上がハッカーに役員らのパスワードを盗まれている。米軍はサイバー空間を陸海空と宇宙に次ぐ「第5の戦場」と位置づけて脅威に備えているが、株式の売買や決済、保管のシステムなど各国の株式市場を支えるインフラは電子化されており、大きなサイバーリスクに直面している。サイバー犯罪は企業経営や株価を大きく揺らす危険に満ち、資本市場の信頼を保つための「第5の戦場」に対する備えは喫緊を要する事態に至っている。
 
 インターネットは便利な技術でありその活用によって生産性が大きく向上するなど恩恵は計り知れない。ここ数年、ビッグデータを如何に活用するかがマーケティングの死命を制すると各社しのぎを削っているようにインターネットを含めたIT技術は重要な戦力ではあるが、「情報流出」「システム破壊」「資産収奪」がこれだけ『容易』に行われる脆弱な技術に、国家も企業も『命運』を託していいものだろうか。このままではいつ何時、国や企業を破滅させる事態に追い込まれないとも限らないではないか。
 
 この情況は原子力発電を『見切り発車』して利用に突き進んだ姿と余りにも似ていないか。使用済み核燃料の処理方法や廃炉技術を確立する前に利用に踏み切ったのは『目先の便利さ』に目がくらんだからではなかったか。何度もチャンスがあったのに『目先の利益』―見せかけのコストの安さや短期の環境負荷の少なさなど―に心を奪われ引き返す『勇気』を示せず今日までズルズル来てしまった。チェルノブイリを他山の石としておれば「福島第一原子力発電所事故」はなかったはずなのに、それにも懲りず4年も経たないうちにまた「再稼動」に踏み出す愚かさを「インターネット」でも繰返すのか。
 
 インターネットの『不完全さ』の最も顕著な例は「アラブの春」と「オバマの選択」である。
 アラブの春は2010年から2012年にかけてアラブ世界に発生した「反政府活動」の総称で、長年の鬱積した独裁政権への不満が『インターネットの呼び掛け』で発火し旧政権を打破した。オバマの誕生は、当初劣勢を伝えられていた陣営が『インターネットを活用した資金集め』に成功し選挙運動を圧倒的な優勢に導き大統領選に勝利した。
 しかしアラブの春はエジプトやリビアで民主化の綻びが見られシリアでは泥沼の内戦情況に陥るなど、反政府の抗議活動は真正の『革命』には結実していない。一方「世界の警察」として戦後世界を統治してきたアメリカの、財政再建と国内回帰の「チェインジ」を託されたオバマは結局「決められない政治」という最悪の政治状況に「覇権国アメリカ」を陥れ世界を『秩序なき無極世界』に引き摺り込んでしまった。
 「アラブの春」と「オバマの選択」の『未完成』は「インターネット言語」の『不完全さ』に由来する、と結論づけるのは『誤った認識』であろうか。「言葉」は元々不完全なのものではあるが、昨今のSNSを原因とした犯罪の多発をみるにつけ「インターネット言語」はもっともっと「精度」を高める必要がある。
 
 
 
 多くの思い違いのなかに、完璧な辞書が存在するという思い違いがある。(略)あらゆる言説に対して、あらゆる抽象的観念に対して、人はそれに対応するものを、正確な記号を辞書の内に見出し得ると考える錯誤がある(A.N.ホワイトヘッド)。