2015年4月25日土曜日

遊べ!遊べ!

 「ぶつかり女」逮捕!という報道があった。枚方市で集団登校の小学生にわざとぶつかりこれまで延べ約50人の児童被害を与え、転ばせて傷を負わせたり、傘を折たりした24歳の看護師の女性が犯人という。
 この例に限らず現在の子どもは「あらゆる場面」で「あらゆる危険」に曝されている。従って大人たちは登校時には「老人クラブ」の見張りで保護し、学校では校門を閉ざして監視カメラと警備会社の保安で侵入者に備え、下校から塾通いにはスマホのGPSで監視の目を光らせて安全を図っている。大人の手から離れて
近くの公園で遊ぶといっても最近の子どもは「ゲーム」を数人でやっていることが多いし休日に家族で遊びに行くときも「テーマパーク」が人気だという。
 
 子どもたちが「自分」で、「自分たち」だけで、「自分(たち)の工夫」で遊ぶ『すき間』がない!
 
 実は子どもたちの放課後の過ごし方が先進各国の重要な教育課題になっている(以下は明石要一中央教育審議会委員「週末・放課後子どもの過ごさせ方2015.4.6日経」より)。わが国では2015年度予算に「土曜日の教育活動の推進」費として約16億円が計上され小学校約8千校中学校約2500校高等学校約1500校が対象になっている。これとは別に文科省と厚労省が「放課後子ども総合プラン」を策定して子どもたちが平日の放課後を安心して安全に過ごせる居場所づくりを進めている。放課後教育には教科の勉強だけでなく大学や企業、地域のNPOと連携した体験型の学習も含まれている。
 各国の動向は2001年ドイツの「ピサ・ショック(OECDの学習到達度調査PISAの成績が振るわなかった)」を契機とした学力向上の取り組みや英国の「拡大教育」、米国の貧困層に社会的なサービスを提供して学力を高める対策、スウェーデンの「エデュケア」という放課後政策などがある。
 こうした動きは家庭の経済的な影響から平日の放課後や土曜日の自然経験や文化活動に格差が生まれ豊かな体験をしている子どもとそうでない子どもの二極化が生まれたことに起因しており、めざすところは第一に学力の向上、第二に女性の社会進出への対応(放課後の子どもが安心安全に過ごせるように面倒をみることで安心して働ける)を目的としているがその「費用対効果」の評価はまだ定まっておらず端緒に付いたばかりのこの取り組みが今後どのように展開していくか興味のあるところである。
 
 一方このような傾向に対して映画監督の北野武さんが警鐘を鳴らしている。「老け方というか、ジジイになり方をちゃんと考えないとね。リタイアして何かを見つけるってのは遅いよ。面白いことって年季がいるから。/今の子どもは成長に従って死ぬまで商品が全部用意されてる。おむつ、ぬいぐるみ、ディズニーランド、アイドル、やせる、整形…。ひたすら吸い上げられる。企業は必要だから作るっていうけど、我々が自分の意思で何かを選んだかといったら、全部用意してあるものじゃないか。/俺ら運がいいなと思うのは流れに逆らう場所があった。今の子は逆らえないんじゃないかと思う。その流れにね。(2015.4.15日経)」。 
  
 タケシさんのいう「逆らう場所」が『すき間』になるのではないか。放課後広場で友達と走り回ったり公園の片隅の植栽の陰に「秘密基地」を作ったりして遊んだ我々の子供時代は「幼稚」かもしれない。けれども「ゲーム」や「テーマパーク」のように、すべてが『他人の作ったもの』ではなかったから創意工夫や他人との協調や競争(喧嘩)の克服が求められた。「大人の管理」からの『逸脱』があった。タケシさんがいう「すべてが用意されている」子ども時代を過ごしたわが国(先進諸国)の子どもたちから「付加価値を生み出す創造性=成熟社会で国際競争に打ち勝つために最も必要とされるもの」は生まれるだろうか。そしてわが国から「ノーベル賞受賞者」は輩出するだろうか。
 
 最近米国とキューバの和解が報じられたがキューバの人たちの言葉が印象に残っている。経済封鎖を受けて貧しかったが「教育と医療が無料」だったからそんなに苦しいとは思わなかった。
 キューバの人たちのこの言葉に真実が潜んでいるのではないか。
 キューバは、少し前までのわが国と同様に「鍵」は不要だという。
 
 

2015年4月18日土曜日

介護と残虐性

 先日の新聞(4月11日)にこんな記事が載っていた。
 「身体拘束『推定6万人』、介護施設入所者の2.3%」。これは厚労省の事業としてNPO法人全国抑制廃止研究班が今年1~2月に実施した調査で分かったもので「拘束を受けている人は全国の介護施設などに入所している高齢者の約6万人で全体の2.3%に当り、要介護度の高い人が入る施設では1割を超えている」と伝えている。調査は全国の特養や介護老人保健施設(老健)介護療養型医療施設など7種類計約3万5千施設が対象で入所者数は約260万人とみられている(ちなみに全国の病院は800超入院ベッド数は約160万である)。認知症の症状や治療への支障などを理由に拘束されているが、介護現場の人手不足が大きな原因になっており「拘束を廃止したいが、現状では困難」との答えが多かった。研究班は「拘束は認知症の悪化や身体機能の低下につながり、必要性の乏しい拘束は虐待と同じ」と指摘している。
 
 この記事を読んで30年以上前の記憶がまざまざと蘇ってきた。
 トイレに行くと男子用便器の前にズボンが半分ズリ落ちた状態で父が立ち尽くしていた。近づくと異臭が鼻を突いた。呆然として父の背後にしゃがみこむと脱糞しているのが分かった。ズボンを下げると下痢気味の軟便が下半身を汚していた。「どないしたんや、どないしたんや」と訳も分からずズボンを脱がし下着を剥ぎ取って清拭しているうちに涙が滂沱として流れ落ちた。「お父はん、なんでや」バケツに水を汲んで下半身を洗い流しながら気がつくと打擲を繰返していた。もし妻が帰ってこなかったら虐待に嵩じていたに違いない。
 80歳近くになっていた父は気がつかないうちに認知症になっていたのだろうか、これを境に認知症が亢進し時を経ずして寝たきりになった。170センチの大柄な身体をしていた父はその当時でも60キロはあったのではないか。褥瘡(床ずれ)を起こさせない様に30分に一度は体交(体位変換)しなければならなかった妻は大変だったと思う。訪問介護の医師や看護師さんが「奥さん、ようやってあげてはりますね」と感心してくれていたことからも妻の献身ぶりに対しては感謝以外にない。それが父の亡くなる前日、突然背中一面が痛々しく赤く床ずれしたのだ。どうして、と嘆く妻を宥めながら夜を徹して看病したが翌朝父は逝った。
 
 拘束や虐待を「尊い生を蔑ろにする」行為と非難するが現場の感覚はそんなものではないだろう。脱糞脱尿する老人は醜悪である。目脂、洟をたらしよだれを流して焦点の定まらない眼をおよがせる老いた顔は愚昧である。その老人が不抵抗で弱者であれば残虐さがよびさまされて虐待することも稀ではあるまい。人間の本性の一部にこのような忌避すべき性情が潜んでいることに眼を瞑るべきではない。そうではなくてそれを当然のこととして、醜悪で愚昧な老いさらばえた姿を見たときに覚醒する残虐性を制御する技術を訓練によって獲得するようなプログラムを介護の課程に組み込むことが『必須』なのである。
 己の父母であっても時に暴力を振るうことがあるのだから他人が「介護」することは単なる技術や安っぽい「ヒューマニズム」で達成できる「技能」ではない。介護技術とともに人間性の底に存在する「残虐性」を馴致する能力を習得することが『介護職』には欠かせないものと認識すべきなのだ。
 まして生活習慣病が慢性化した同じ老人を対象としながら「医療」従事者とは格段の劣悪な雇用環境を強いられている「介護」従事者であればその不遇に対する『憤り』と欲求不満が相乗化すれば「残虐性」はいつ暴発してもおかしくない。そこまで考えて『介護』という職業をつくる必要があるのだ。
 
 あらゆる種類の仕事に対して報酬を与える現代の制度は、武士道の信奉者の間には行われなかった。金銭なく価格なくしてのみ為され得る仕事のある事を、武士道は信じた。僧侶の仕事にせよ教師の仕事にせよ、霊的の勤労は金銀を以て支払はるべきでなかった。価値がないからではない、評価し得ざるが故であった。(略)蓋し賃金及び俸給はその結果が具体的なる、把握し得べき、量定し得べき仕事に対してのみ支払はれ得る。然るに教育に於いて為される最善の仕事―則ち霊魂の啓発(僧侶の仕事を含む)は、具体的、把握的、量定的でない。量定し得ざるものであるから、価値の外見的尺度たる貨幣を用ふるに適しないのである。(新渡戸稲造「武士道」より)。
 
 表層的な技術だけでなく人間性に潜む残虐性を制御する訓練を施すことによって『清貧なる職業意識』が実現されるのである。
 

2015年4月13日月曜日

私の「戦後70年宣言」(続)と「自由からの逃走」

自由からの逃走
 
ディズニーランドやUSJが大人気です
ゲームにみんな夢中です 子どももおとなも
でも ちがうなぁ
 
自由ってたいへんだなぁ
仕事が無くなって 思いました
「檻の中の自由」 「自由からの逃走」
 
遊びの反対語は
仕事 真剣 真面目
ちがうなぁ
 
公園から こどもが
消えました
児童館へいっているそうです
 
顔知りのこども
街中で
コンニチワ と声をかけたら
じっと顔を見て
逃げ出しました
母親になにかを伝えています
スミマセン といった風に
母親が こちらをみて
頭を下げました
 
みんな貧しかったから
いっしょになって
おおきな子も ちいさい子も
おもしろいことを さがしていました
ヨシ それやろ!
言いだしっぺが 人気者です
 
 今とちがう 生き方がしたい
「学力」と「管理」と
無縁の 
 
なにもなかった
でも 夏の 太陽が
まぶしかった! 
 
八月十五日の 焼け跡!
 

 
私の「戦後70年宣言」(続)
 
 この10年間で日本も世界も想像を超えた変化と混乱を示した。我が国では小選挙区制の「一票の格差」に象徴される東京(圏)一極集中と政治の不安定化が加速した。格差是正を訴える大都市有権者の傲慢さにどこからも批判が起こらないことに苛立ちを感じる。世界的には経済のグローバル化に伴って『国境』が溶融し「Nation state」が揺らぎ始めている。「競争と成長」の経済は21世紀には機能し得ない可能性が急速に高まりつつあるように感じられ、第二次世界大戦の戦勝国が構築した「戦後体制」に経年劣化が顕著に現れている。一方新興勢力の旗頭であった中国に反政府活動が頻発するようになり体制維持にキシミが出てきているのは次への変化のキザシかもしれず、もうひとつの超大国インドを含めて人口大国を如何に世界体制に納めるかを先進諸国が国益を離れて真剣に検討すべき時期に差しかかっている。
 
 我が国が明治維新以来進めてきた「近代化=西欧化」が地下鉄サリン事件と福島原発事故で否定されたように、世界的にも「西欧先進国の価値観」を発展途上国に移植することに行き詰まりが見られるようになってきている。こうした現状をかんがみるとき中谷宇吉郎が師・寺田寅彦にみた我が国の特色を生かした世界への貢献のあり方はひとつの方向性を暗示している。
 『ルクレチウスと科学』の中にも書かれたように、現在の科学の考え方はギリシャ時代の形式とほとんど変わっていない。もっと他の形式の物理学が成立しても良いはずで、特に全く異なった文化に育まれた日本人にそれが不可能であるとは思えないという風の意味のことを始終考えておられたようである。そのつとして、「形の物理学」などは大分先生の頭の中で発酵していたのではないかと思われるのである。近年ひどく興味をもたれていた割れ目の研究などもその顕著な現れの一つではなかろうか。そのように考えると、なんだか一番大切な仕事が先生の頭の中に蓄えられたまま、永久に消えて行ってしまったような気がしてならない。(中谷宇吉郎集第一巻「指導者としての寺田先生」より)。
 一神教諸国の考え方が世界大での「宥和」に不向きなことが明かになりつつある今、価値観の多様化を容認する我が国のような文化に世界を収斂する試みが現れることを期待したい。
 
 「政治と経済」が絶対的な優位性を保持して近代社会は経営されてきた。そしてその結果が現在の「混沌」である。哲学は不在となり宗教は近代化を果せず芸術は「消費財」に貶められた。ではどうすればいいのか。
 「(エルネスト・サバトは「破壊者アバドン」のなかでこう言っている)哲学に見捨てられ、何百もの科学的な専門化によって細分化された現代社会にあって、小説は人間の生を一つの全体として見渡すことができる最後の観測所として私たちに残されているのだと。(ミラン・クンデラ『カーテン』より)」。我が国でも荒川洋治は「文学は実学である」といっている。
 既存の秩序が溶融し政治と経済では統合不能の混沌に陥ってしまった今、それを収拾し再統一するには混沌の一因に宗教があることを考えるとき哲学と芸術が相応しいのではないか。「豊かさ」を「必要」を充足する範囲に限定し、政治と経済の機能を「貧困からの解放」に特化させ、「幸せ」の基準を「成長」から解き放ち、それに変わって健康、安定、尊敬、人格又は自己の確立、自然との調和、友情、余暇等に置き換え、哲学と芸術を価値の源泉とするような世界を再構築することが21世紀に生きる我々の『責務』と考えるべきであろう。
 
 「21世紀最大のテーマは『無極時代の平和』の構築である」。これがコラム連載10年目の結論であり、そして私の「戦後70年宣言」である。
 
(終り)
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 

2015年4月6日月曜日

「サンゴ礁のなみだ」と「戦後70年宣言」

サンゴ礁のなみだ
 
たかだかサンゴ礁が破壊されるのと国防とドッチが大事やねん!
こんなことも分らんのか!!
アホ!ボケ!カス!
テレビという公共の電波でこう喚きちらしたヒトがいました
野卑な関西弁で独断的な言辞を弄する
彼は「テレビ放送局」で珍重され
週に何度もテレビの画面をにぎわしています
 
しかし「サンゴ礁」と「国防」は比較可能なのだろうか?
もしそれを認めるなら
2001年アフガニスタンのバーミヤン磨崖仏を破壊したターリバーンと
2014年イラクのニルムド遺跡を破壊したイスラム過激派ISと
同じレベルにならないか?
我が文明先進国『日本』が!
 
たかだか100年もない国防という「視点」
何世紀 何千年の時間の造物 「サンゴ礁」
国防は1世紀の間に何度も組み替えられる
サンゴ礁は一度壊すと再生に途方もない時間がかかる
 
辺野古の「国防」は
沖縄の人たちが「NO!」を突きつけた!
知事も 国会議員も
「反国防」陣から選ばれた!
この『民意』を「アホ!ボケ!カス!」で無視していいのか!
 
彼は「福島原発事故」の半年前
歌手加藤登紀子さんの
「原発ってそんなに安全なのですか?」という問いかけに
「十分な管理をすれば原発ほど安全でクリーンなものはないんです
今どき そんなことも知らないのか!」と
例の野卑で雑駁なもの言いで『罵倒』したのです
3.11後
彼も それを放送した番組も
加藤さんに「陳謝」していません
 
150年前
「廃仏毀釈」という文化破壊をしました
いまだに世界中で
我が国の文化度を推し量る物差しにされています
100年後
今度の暴挙を
「サンゴ礁のなみだ」と
世界の人たちに
「蔑(さげす)まれる」ことになるのでしょうか?
 
 
私の「戦後70年宣言」
 
 連載をはじめて10年目を迎えた。2006年4、大学のクラブの先輩に頼まれて気易く引き受けたものがまさかこんなに長く続くことになるとは思っても見なかった専門家でない素人の生活者としての視点を忘れずに「書くこと」と「書き方」を手探りで修業しながら読むことで書く力鍛えられてきた。「書かなければならない」という緊張感にアンテナの感度が研ぎ澄まされた。
 
 読書をするうえでA.ショーペンハウアー(「読書について」)の次の言葉は力になった。
 読書するとは、自分でものを考えずに、代わりに他人に考えてもらうことだ。悪書は知性を毒し、精神をそこなう。/良書を読むための条件は、悪書を読まないことだ。思想体系がないと、何事に対しても公正な関心を寄せることができず、そのため本を読んでも、なにも身につかない。なにひとつ記憶にとどめておけないのだ。
 思索のうえで最も影響を受けたのは佐和隆光氏の「保守とは私権の制限を最小限に保つ考え方である」というであった。
 読書を通じて新たな思想に出会ったとき、未知の事象を報道で知ってどう納まりをつけていいか戸惑ったときなど、このふたつの教えに恩恵を受けた
 
 コラムを書く過程で徐々に思索が収斂していくつかのまとまりになったので次に記してみたい。(《 》内はコラムのタイトルと掲載日を示す)。
 
1. 「一票の格差」は表面的な選挙制度上の是正規定と読むのではなく、そうした歪んだ国家経営を戒めていると捉えるべきである。
  《地方分権を歴史的に考えてみる2014.5.6》《映画「家族」の訴えるもの2015.3.17
2. アメリカ経済の成功は第二次世界大戦で本土を壊滅されなかったことによる供給力の温存というアドバンテージを除去して考えれば表面的な数字を相当低く修正する必要があるのではないか。加えて移民等による労働投入量も考慮外におけばその修正値は更に低下して考える必要がある。
  《老いらくの管見2014.2.17
3. 中国の成長力低下は1人当GDPの少なさ比して過剰な軍事支出が大きく影響がしているとみるべきである。
  《中国を考える2015.1.15
4. 余りにも単純な仮定であるが、中国とインドの1人当GDPを現在の高所得国並みの2万ドルに向上させるためには地球が4個も5個も必要になる。貧しさからの解放を経済の中心的課題と考えるなら先進諸国は「有限資源」の優先利用権を発展途上国に譲るべきでありそれに適う経済制度を考案するのが21世紀の経済学のメイン・テーマにるべきである。そしてそれは「競争と成長」の経済ではなく      「総合と調和」の経済になるだろう。
  《明治維新の目指したもの2014.11.10
5. 成長は「戦争の世紀」であった二十世紀の遺物である。
  《12月2日に思う2014.12.8
6. 明治維新以来我が国の追及してきた近代化―西欧化は「地下鉄サリン事件」で精神的に、「3.11東日本大震災・福島原発事故」で物質的に否定された。
  《明治維新の目指したもの》《12月2日に思う》
7. これだけ脆弱な技術(インターネット)に国や企業、個人の情報やシステムを委ねる愚かさは廃棄物処理や廃炉の技術も未完成なうちに実用化に踏み出した「原発」と同じではないのか。
  《インターネットと原発2.15.2.2
8. 老人医療は既存の西洋医学には馴染まない。高齢化が一般化した現状は検査をして専門科に割り振るというシステムからはみ出した部分が多すぎる。こうした領域をすくい上げる取り組みを早急に進めない限り医療費の膨張は防げないであろう。
  《「不老不死」の生き方2014.8.18
                                                    (以下つづく)