2015年7月27日月曜日

21世紀の焚書坑儒

 6月8日ひとつの通知(27文科高第269が文部科学大臣から国立大学学長宛に出された。「特に教員養成系学部・大学院人文社会科学系学部・大学院については、18歳人口の減少や人材需要、教育研究水準の確保、国立大学としての役割等を踏まえた組織見直し計画を策定し、組織の廃止社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めることとするこれは「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」という通知にあるもので「別紙1国立大学法人の第2期中期目標期間終了時における組織及び業務全般の見直しについて」の「第3 国立大学法人の組織及び業務全般の見直し」という項目で「各国立大学法人は、各法人の状況を踏まえつつ、この見直し内容等に沿って検討を行い、その結果を中期目標及び中期計画の素案や年度計画に具体的に盛り込むことなどが求められる。」として「1 組織の見直し(1)ミッションの再定義を踏まえた組織の見直し/『ミッションの再定義で明らかにされた各大学の強み・特色・社会的役割を踏まえた速やかな組織改革に努めることとする」と説き進んだ結論として上記の教員養成系と人文社会科学系学部の廃止又は改変を『通知』したのである。
 
 これは我国教育体系の根本的変更を迫るものであっておよそ『一介の文部科学大臣の通知』などで済まされる軽々なものでなく、一連の安保法制が「集団的自衛権の容認」を憲法の拡大解釈で強行採決しようとするのと同様に、憲法の精神に悖る一大暴挙と認識すべきである。
 
 そもそも教育は憲法に保障された重要な国民の基本的権利のひとつである。「憲法26条/1.すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。1.すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする」。勿論ここでいう『教育』は学問分野を規定していない。しかし反対に、人文社会科学系(以下教員養成系を含む)を含まないとも限定していないから、一般的な受け取り方としては「広く学問全般」を教育と考えるべきであろう。
 更に「憲法23条/学問の自由は、これを保障する」という規定も憲法にはある。勿論ここでも「人文社会科学系」を学問から排除しているとは考えにくい。
 一歩譲って、国立大学は社会の発展に短期的に貢献する「理工学系」を教育する機関とし、人文社会科学系は私学に教育を任せると解釈するとして、「国立大学法人法」に対象とする学問領域を限定しているかと言えばそんな条文はどこにもない。「(同法)第1条この法律は、大学の教育研究に対する国民の要請にこたえるとともに、我が国の高等教育及び学術研究の水準の向上と均衡ある発展を図るため、国立大学を設置して教育研究を行う」とあり、むしろ「高等教育の均衡ある発展を図る」としているのであって、今回の文部科学大臣通知はこの法律に著しく違反していると考えることができるのではないか。
 
 マスコミも大学当局もこの通知について正面から法律的な反論を見せないのは不満だが、その方面は専門家の検討に委ねるとして人文社会科学系学問を「不要」とする文部科学大臣に対して次のような疑問を提示したい。
 原子力の平和利用や生命科学の進歩は目を見張るものがあるが、その成果を社会に還元するとき、倫理的社会経済的判断をせずに野放図に実用化した場合、理工学的な想定を超えた『反社会的』影響が甚大な被害として発生するであろうことは容易に想像できる。福島原発事故は明かな証左であり、最近の「ドローン」事故も顕著な例である。理工学系の発明・発見は社会に実益を与えるであろうことは否定するものではない。しかしより重要なことはその成果を社会に如何に不都合なく採用するかということであり、そうした社会の仕組み・システムの構築は人文社会科学系学問を抜きにしては考えられない。加えて言えば、政府が悲願としている「世界の大学トップ100」のほとんどは歴史ある「人文社会科学系学部」を有し世界から優秀な学生を集めてその地位を確立していることを銘記すべきである。
 理工学系重視を謳いながら「基礎分野」への予算配分は年々減少しており、政府の目指そうとしている方向が「短期的に成果の見込める分野」へ偏重していることは否めない事実である。
 
 中国の秦始皇帝の愚挙「焚書坑儒」も明治維新の愚挙「廃仏毀釈」も時の権力が文化や学問・教育に介入した結果である。今回の文部科学大臣の通知が「21世紀の焚書坑儒」として後世の歴史家の嘲笑を浴びないことは火を見るよりも明かである。 

2015年7月17日金曜日

現代の戦争

 安倍政権「安保法制」強行採決た。
 しかし「現代の戦争」について安倍政権の人たちはどれほど知っているのだろう。そして彼らでない人たちも、本当に「現代の戦争」を理解しているのだろうか。
 
 ピュリツァー賞受賞作家デイヴィッド・フィンケルのイラク戦争からの帰還兵の「その後」をルポルタージュした「帰還兵はなぜ自殺するのか(古屋美登里訳・亜紀書房)」は帰還兵の癒されることのない心の傷を余すところなく描いている。
 イラク戦争は、イラクが大量破壊兵器を隠しているという理由でアメリカがイラクに侵攻したことから始まった。2003年3月のことである。その裏には、9.11以降のアメリカの不安と、石油問題や宗教問題があったと言われているが、国家の威信を守るために直接戦地で戦ったのは、大半が貧困家庭出身の若い志願兵だった。第16歩兵連隊第二大隊の兵士の平均年齢は20歳だった。
 ひとつの戦争から別の戦争へと二百万人のアメリカ人がイラクとアフガニスタンの戦争に派遣された。(略)調査によれば、二百万人の帰還兵のうち二十パーセントから三十パーセントにあたる人々が、心的外傷後ストレス障害(PTSD)―ある種の恐怖を味わうことで誘発される精神的な障害―や、外傷性脳障害(TBI)―外部から強烈な衝撃を与えられた脳が頭蓋の内側とぶつかり、心理的な障害を引き起こす―を負っている。気鬱、不安、悪夢、記憶障害、人格変化、自殺願望。どの戦争にも必ず「戦争の後」があり、イラクとアフガニスタンの戦争にも戦争の後がある。それが生み出したのは、精神的な障害を負った五十万人の元兵士だった。
 毎年240人以上の帰還兵が自殺を遂げているという事実は(自殺を企てたは10倍と言われている)、限りなく重い。なぜ、帰還兵は自殺し続けるのか。
 フレッド(快復プログラム施設長)は自分の施設に来る兵士ひとりひとりの記録をつけている。そのうちの60%が自殺を試みていた。73%が仕事を辞めたり、クビになっていた。80%が学校に入学しようとしていた。そのうちの83%がドロップアウトした。(略)ほとんど全員が、こんなところ(施設)に来なくてはならなくなった自分にうんざりしている。
 
 帰還し兵士たちの心どのように傷ついたのか。
 こうなったのはアダムのせいというわけではない。彼のせいではなかった。彼は快復したがっていないわけではない。快復したいと思っている。しかし別の日には、死んだほうがましだとという気がする。アダムに限ったことではない。アダムと共に戦争に行ったあらゆる兵士たち―小隊30人、中隊120人、大隊800人―は、元気な者ですら、程度の差はあれ、どこか壊れて帰ってきた。アダムと行動を共にしていた兵士のひとりは、「悪霊のような物に取りつかれずに帰ってきた者はひとりもいないと思う。その悪霊は動き出すチャンスをねらっているんだ」と言う。
 快復病院の)女性が説明している。「ベトナム帰還兵たちはとても表現が豊かですが、最近の、イラクやアフガニスタンからの帰還兵は、暴力や自殺といった行動に走るんです」
 自殺について説明した別の将官が言った答えが、いちばん真実に近いように思える。「終わりのない罪悪感。私が理解できる唯一の理由がそれです」。
 「俺は普通の男で、イラクに送られてからおかしくなった。だから陸軍は俺をまともにするためにアメリカに帰した。ところがいまや、俺をおかしくしているのはアメリカなんだ」。
 「イラクは恐ろしいところだった」ゴレンブが言う。「お前はどうして三度も行ったのか、俺にはわからん」
 この日いたるところで、戦争の痕が続いている。戦争の痕は、戦争と同じように永遠に続く。
 
 フィンケルは帰還兵とその家族の悲惨な「戦争のその後」を詳細にレポートすると共にアメリカの最新の「快復プログラムとその施設」の苦闘を伝える。そして日本の現状を訳者の古屋美登里が次のよう伝えてこの本は終っている。
 2014年4月16日に放送されたNHK「クローズアップ現代―イラク派遣 10年の真実」では、イラクから帰還後に28人の自衛隊員が自殺したことを報じた。自殺に到らないまでも、PTSDによる睡眠障害、ストレス障害に苦しむ隊員は全体の1割から3割にのぼるとされる。非戦闘地帯にいて、戦闘に直接かかわらなかった隊員にすらこのような影響が出ているのである。そして日本では、そうした隊員に対する支援のシステムができているとは言いがたいのが現状だ。
 
 1992年に公開されたアメリカ映画A Few Good Men」はトム・クルーズジャック・ニコルソンデミ・ムーアが共演する軍事法廷サスペンスである
 キューバにあるグアンタナモ米海軍基地海兵隊員ウィリアム・T・サンティアゴ一等兵が殺害された。被疑者は同じ部隊のハロルド・W・ドーソン上等兵 とローデン・ダウニー一等兵 。は軍律で禁じられている古い「軍隊内の落ちこぼれに対する制裁、通称コード・レッドCODE RED規律を乱す者への暴力的制裁」を命じられ遂行したのだがサンティアゴは軍隊生活で心身を著しく毀損しておりその制裁を受け入れられるだけの肉体的条件を損なっていた。このため口中に埋められた布切れで呼吸困難に陥り死亡する。サンティアゴは心身異常を理由に異動を申請していたがネイサン・R・ジェセップ大佐はそれを軟弱だとし部隊の名誉を傷付けるものと断じて受け入れていなかった。コード・レッドの命令は隠匿され軍医の死亡診断は口中に入れられた布切れに付着した「毒薬」による毒殺であり犯人をドーソンとダウニーだとする。
 この困難な事件の弁護を命じられたのがハーバード出身ダニエル・キャフィ(トム・クルーズ)中尉 だが彼には法廷経験がない。特別弁護人ジョアン・ギャロウェイ少佐 (デミ・ムーア)サム・ワインバーグ中尉 (ケヴィン・ポラック) の3裁判に臨むがキャフィらの企図はつぎつぎに崩され絶望的な状況に陥る。最後にキャフィはジェセップを証言台に立たせる賭けに出る。法廷での2人の対決は、キャフィの巧みな弁舌で、ジェセップの権力への盲信を突き、自らコードRの指令を出したことを白状させ裁判に勝利する。ドーソンはこの裁判を通じて、自分が守るべきものは軍の規律ではなく、弱者であるサンティアゴだったこと悟る。
 ジャック・ニコルソン演じるネイサン・R・ジェセップ大佐が放つセリフ「You can't handle the truth!(『おまえに真実は分からん!』)」は、アメリカ映画の名セリフベスト100において29位にランクインされている
 
 赤旗2015年3月25日に「自衛隊員に遺書強要か?」という記事があった。
 陸自北部方面隊(札幌市)関係者によると、2010年夏以降所属部隊の隊長ら上司から、「『家族への手紙』を書き、ロッカーに置くように」と“服務指導”された。これは自衛官にとって事実上の「命令」に等しく絶対服従が求められていると言う。 この「指導」は陸自服務規則などに明記されている「有事の際直ちに任務につくことができるよう常に物心両面の準備を整えること」に準拠して「物心両面の準備をより具体化したものであり(略)長期の任務に急遽就くことに備え(略)あらかじめ本人の意思を整理しておくことにより、個人の即応性を向上させるものである」「単に自己の死亡のみに準備する遺書とは全く別物」としている。しかし書かされた元隊員は「“殉死(戦死)”への覚悟を求めたものであることを感じた」と証言している。
 
 兵器の進歩は著しく殺傷能力は驚異的に向上している。自分が斃した敵方であれ自分のすぐ横で共に戦っていた戦友であれ、殺された死体は、頭が吹っ飛び胴体はバラバラに断絶されているに違いない。強力な破壊力は兵士のみならず無抵抗な一般市民をも巻き添えにする可能性が高い
 「人権教育」を幼い頃ら教え込まれた「現代人」にとって、軍隊という「不条理な集団」に属されたとしても、「ひとを殺す」という『罪悪感』を「抹殺する」ことは可能なのだろうか。無慙極まる「死体」を『正視』できるだろうか。
 
 「帰還兵はなぜ自殺するのか」の訴える『戦争の不条理』、「A Few Good Men」の描く『軍隊の不条理』、そして遺書を強要する『日本の不条理』。これらが、みなあって、「現代の戦争」だが、どれほどの人たちがこの『事実』を知っているのだろう。
 
 

2015年7月11日土曜日

遠くを見る

 近くの田圃が今年は休耕になった。毎年なら今頃満々たる水を湛えた水田に早苗が勢いを増し蛙が喧しく鳴き声を上げる時期なのだが今年は干上がった田に雑草のようなものが生い茂っている。もう50センチ近く生長している。最初は雑草かと思ったが地主さんに訊ねると「牧草」で、農地の荒廃を防ぐために牧草の雑草抑制効果を利用する休耕田の維持管理法によるものだという。ある程度生長した頃合を見はからって耕耘して鋤きこむと土地が痩せないらしい。この地区には結構休耕・放棄地が多いがこのような措置を施しているのを見たことがない。あれらの土地はもう田圃としての機能は喪失しているだろう。
 折りしも今年は国連の定める「国際土壌年」にあたる。土地の保全をすすめて地球環境の劣化を防ぎ自然環境と生物・食物連鎖を健全化しようという取り組みである。降り積もった火山灰から植物を育む土が1センチできるには100年かかるともいう。無数の微生物がすみ養分が豊富な土になるには長い歳月が必要なのだろう。(以上は2015.7.9日経「春秋」から)。もし中国がこのまま工業化・近代化を推進して農業からの人口移動をすすめていけば莫大な農地放棄がすすむに違いない。それが「沙漠化」にまでいってしまうと測り知れない「環境汚染」をまねくことだろう。
 休耕田への農家の方の地道な取り組みから「土」を考えさせられた。
 
 世界の観光動向にも影響のある米大手旅行雑誌「トラベル+レジャー」の発表した「2015年世界観光都市人気ランキング」で京都が2年連続1位になった。文化・芸術、食事に加えて風景も高い評価を得ており昨年の宿泊外国人客は183万人で前年比6割増を記録した。
 原因はいろいろ考えられるが昨秋完全実施した「屋外広告物条例」の効果も大きいに違いない。厳格すぎると一部の市民には不人気だったが、できてみれば街の景観は見違えるようにすっきりした。これまでに進めてきた「建築物等の制限に関する条例」による建物の高さ制限も景観美化に貢献している。祇園やその他の地区の整備も観光地としての価値を随分高めたことだろう。しかし行政の取り組みとは別に市民レベルでの投資もここ20~30年目立っている。三条通りが最初に開発が進んだが今では中京のたて横のほとんどの通りが年毎に目新しく変貌しているし京都市全体が活性化している。こうした積み重ねが新興国の発展と「円安」「ビザ発給要件緩和」などが相乗して「インバウンド」急増に結びついたのだろう。
 いま進めようとしている「四条通りの歩道拡張」にしても「一般車両通行禁止」にして東山通りまで延伸し、東山通りは「南行一方通行」にするくらい徹底するべきだ。今のままでは市民生活への悪影響ばかりで観光への寄与効果は何もない結果に終る可能性が高い。お役人があれこれ無い知恵を絞るより、やると決まれば最善策を必ず打ち出してきた京都市民なのだから、ここは思い切って町衆市民の手に委ねるのが得策であろう。
 「観光京都」という将来設計に間違いはない。
 
 中国株の暴落が世界金融界を震撼させている。しかしこれは今年年頭のコラムに書いたように予想された事態である。概略を再録すれば次のようなものである。
 中国経済は香港経済を抜きにすれば既に5%前後の中成長に陥っており、これは少子高齢化による労働人口の減少が大きな要因となっている。加えて13億人を超える人口は「マクロの国民経済の巨大化とミクロの1人当GDP(国内総生産)の伸び悩み」というアンバランスな国民経済を不可避なものにし、更に不透明な軍事支出の膨張が経済にボディブローのように悪影響をもたらす。もうひとつ為替の国家管理(表向きは市場不介入をよそおっているが)が国民経済に歪みを齎すだろう。従って表面的な動きにとらわれずこうした経済的社会的基盤の改善如何を見据えて中国動向を判断する必要がある。
 今回の株価暴落の直接の引き金は株価下支えを目論んだ政府の公然たる市場介入の効果が限定的であったことにあるが、経済の大きな部分を占める国営企業の非生産性や過剰設備がもたらす鉄鋼やセメントなどの生産資材の過剰生産など「資源配分の歪み」という経済のファンダメンタルズの脆弱性が根本にあることを認識すべきである。少し前世界を揺るがしたAIIB(アジアインフラ投資銀行)問題にしても、巨大人口のもたらす中所得の罠(個人所得が1万ドルを超えて増加しない)という構造的な需要不足に膨大は軍事費を起因とする労働分配率不足が加わった恒常的な需要不足を、海外需要で補って、過剰供給(鉄鋼やセメントなど)を解消しようとする国内事情による設立の必然性を理解したうえでAIIBを評価すべきである。
 格差拡大による反政府運動の高まり、少数民族問題、過剰生産と需要不足の解消の緊要性などを考慮するとき、現共産党独裁体制の綻びは予断を許さないところまで来ているのではないか。そうでなければ政権中枢の最上部にまで及んだ「反腐敗運動」の急進は理解できず、南沙諸島問題も含めて昨今の中国情勢は抜き差しならない状態に追い込まれた国家経営の危うさをうかがわせるものとして判断すべきで状態にあるのではないか。
 
 人間ややもすれば目の前の事象にとらわれる傾向があるが、世情混乱の昨今、ちょっと視線を上げて、遠くを見やる余裕が求められている。

2015年7月3日金曜日

新しい幸福観

 戦後70年である。我国の首相は「70年談話」を出すそうだが私たちはここで一度踏み止まって、「幸福とは何か?」について地に足の付いた考えをしっかりとまとめることが大切なのではないか。何故なら、古い世代の「幸福観」が大きく揺らいでいるのにそれに代わる新しい「幸福観」を見出せていないでいることが国全体に閉塞感をもたらしていると思うからだ。
 
 戦争が終って、食うものも住む家も無い中で親たちは懸命に働いてくれた。子どもたちは満足な教科書もなかったけれど学校へ行くのが楽しくて休まず学校へ通った。唯一嫌だったのはDDTという白い粉末殺虫剤を頭から体中に吹き付けられることだった。住宅環境が悪く虱や蚤が体と言わず頭にも湧いていたからだ。
 朝鮮戦争で豊かさへの一歩を踏み出した我国経済は高度成長からバブル景気を経て今世紀の直前から永いデフレに落ち込み 最近になってようやく浮上のキザシが見え出した。
 とにかく食えればいい、から小さくてもいいから「我が家」に住みたいに変わり、いつのまにか一つでいいから「ブランド品」が欲しいが一般的になっていた。
 食えればいいが「幸福を約束する商品リスト=幸福のガイドライン」に置き換わった頃から世の中がおかしくなってきた。家族のために「ガイドライン」を買うことが「幸福のあかし」と誰もが考えるようになって、ところが「ガイドライン」に次から次へと新しい商品やサービスが追加されるようになって、何時まで経っても「幸福」に満足できなくなっていった。(白黒)テレビ・洗濯機・冷蔵庫がカラーテレビ・クーラー・カー(自動車)に代わり最近ではデジカメ・DVDレコーダー・薄型テレビがデジタル三種の神器となっているように「ガイドライン」は止まることが無い。ガイドラインがこの状態では幸福の追求は永遠に終らないものになってしまうから、絶えず、どこかで、欲求不満を抱いている。
 食えればいいとか病気を治したいという生存の絶対的な欲求を充たす「生理的欲求」から、より便利より豊かなものに代わり、所有することで他人に認められるブランドへと物への欲求が変わる一方で、ネット社会になってネット仲間から仲間はずれにされないようにとか、高齢社会で独居になって社会から見捨てられないような生き方がしたい、という「社会的承認欲求」へ社会が大きく変質している。
 
 近代社会は理性に信頼を置いて「理性によって究極の勝利を迎えるという文明化された人間の信仰、安全な現在と保障された未来を信じることで生まれる幸せな気分が生じた」時代であった。「ほとんどすべてのことが、毎年、良いか、さらに良くなっているといわれていた」。「大多数の人の人生が、年ごとにもっと快適に、さらに豊かになると思っていた」。だから、シャープやパナソニックの屋台骨が揺らぎ東芝が不正会計で存在が危ぶまれ東洋ゴムが検査データを不正改ざんする等という事は思いもよらなかったのだ。
 食えればいい、という時代をとっくに通り越して「豊かな時代」も終焉し、今や「競争と成長」の時代から「低成長と格差」の時代に、我々「成熟国」は変貌している。(にもかかわらず我国政府の「財政再建策」は成長に力点を置くという。)
 グローバルに考えれば我国を初めとした「先進成熟国」と中国・インドなどの後発「中・低開発国」が同じ「競争と成長」という価値基準を中心的価値として国際標準を樹立しようとしていることは誤りではないのか。論を飛躍すれば現国会で審議されている「安保法制」もつまるところ「競争と成長」の「調整」を軍事力で行おうとする論理の延長線上にある論議だと思う。
 
 理性を信奉して絶えざる進歩を目指し「競争と成長」による「豊かさ」を追求してきた「古い世代の幸福観」は完全に存立基盤が揺らいでいる。阪神大震災、東日本大震災を継起として「絆」が見直されている今こそ新しい「幸福観」を模索する時期だ。
 新しい幸せ、生きるための最低限の欲求が充たせれば「お金が儲からなくても自分の働きで他人が喜ぶことを実感する仕事」例えば有機野菜を栽培する人などは「新しい幸福観」をもっている人といえるであろうし、「人がつながりを確認し、お互いに承認しあう。そのようなシステムが広がれば、経済的豊かさとは別の次元で幸福を実感することができる」という考え方もこれからの幸福を模索する上で有効なものだと思う。
 
 戦争は人類の歴史と同じぐらい古いが、平和は近代になって発明された。(ヘンリー・メイン)
 
この稿は、ジグムント・バウマン著山田昌弘訳「幸福論」、「日経・やさしい経済学/幸福とは何か・山田昌弘」を参考にしており、上記のカッコ内の引用はこれらからのものです。