2015年11月30日月曜日

初冬に想う

 先週の日曜日の朝、近くのコンビニへスポーツ紙を買いに行くと「おはよう!」と声を掛けられた。振り向くと3歳年上のガールフレンドがいた。「こんなところで珍しいね」と同じ言葉を口にする。彼女とは毎日早朝の散歩(彼女)とトレーニング(私)の途中近くの公園で会話を交わす間柄でもう十年近い付合いになる。福島から娘婿の転職で京都に移り住んだ彼女が近々また彼の再転職の都合で横浜へ転宅すると聞いてから何日か経っての久し振りの出会いである。コンビニを出て当然のように公園へ足を向けて歩いていくと、彼女のマンションとの分れ道に差し掛かかったとき「じゃここで」と立ち止まった彼女は手を差し出し「ありがとう、楽しかった。水曜日に引っ越すから、多分もう会えないと思う。これでお別れです。本当にありがとう」。「そう、残念だけど仕方ないね。お元気で」。スポーツ手袋をはずして改めて握手して顔を見交わして別かれた。
 コンビニで会わなかったら彼女と別離の挨拶を交わせていたかどうか。日曜日にスポーツ紙を買いに行くなど滅多にないことなのだがその日に限って読みたくなった。彼女がコンビニへどんなタイミングで行っていたかは知らない。たまたまふたりのタイミングが合ったのだが「不思議なめぐり合わせ」だった。心残りのない別れができた。
 
 もうひとつ。従叔父(祖母の妹の息子)の葬式に出られなかったことがずっと気に掛かっていた。父の従兄弟に当たるのだがふたりは大層仲が良く私も幼い頃随分可愛がって貰った。今年の夏の終わりに遠い親戚へお邪魔する機会があって、英文学者で仏教に造詣の深い彼女の連れ合いと話が弾んで随分ご馳走になった話の途切れにフト「Tおっちゃんのお葬式に出ていないのが長い間気になっていてね。お墓がお宅と同じお寺やから一ぺん案内してもらえへんやろか」というと「年賀状だけやけど付き合いあるしS(従叔父の娘)ちゃんに声かけてみるは」と言ってくれた。それから二三日して「Tおじさんの十三回忌が十月にあるんやて。よかったらあなたにお参りして欲しいて言うたはるけど」と電話があった。一も二もなくお願いしてお参りさせて頂いたのはいうまでもない。
 その親戚の家は兄弟みな行っているのになぜか私だけ機会がなかった。それが今になって急に思い立ったのが偶然なら、彼女とTおじの家との付き合いがつづいていて連絡がついた、その時期が従叔父の十三回忌に当っていたというのも偶然だ。「不思議なめぐり合わせ」だった。積年の蟠りを解かれて今はほっとしている。
 
 この種のテレパシーの類の話は戦地から帰還したおっちゃんたちから昔よく聞かされた。極度の緊張を強いられる戦闘から解放される夜、南方の漆黒の闇の中に身を横たえて空を見上げると無数の星が煌いていてその美しさに感動した、そんなときサァーっと星が流れて思わず「おやじ…」と呟いた、何日かして「父死す」という便りが内地から届いた。多分あの時、親父が死んだんだろうなあとあとから思った、などと。
 
 最近よく「キレる高齢者」の話を聞くが彼らはどうしてキレるのだろうか。
 大体年寄りは孤独なものだ。勤めを辞めて、友人知人がぽつぽつ逝きだして、地域でも知らない人が多くなって、いろんな関係性が途切れたり稀薄になっていくのだから孤独は当然である。関係性から解き放たれてふわふわとした不確かな浮遊感に身をゆだね『想念』を遊ばせていると気がほころんですーっと楽になるときがある。そういうある種の気ままさ或いは横着さがないからキレるのだろうか。自宅裏の1メートルばかりの生活道路―何軒かの私有地を共有した20~30mの―を私有権を主張して古道具か何かで「通せんぼ」して通行不能にした年寄りが行政の強制代執行で障害物の古道具類を撤去されてキレたり、選挙で投票を終えた年寄りが立会人に「ご苦労さん」と声をかけられ「ご苦労さんは目上の人が目下にかける言葉だ」と怒ってキレてみたり。
 彼らは、途切れて稀薄になった関係性をなんとか回復しようと『もがく』から、『あがく』から、でも回復することは滅多にないから、益々『断絶』を味あわされて耐え切れなくなって、『ヒステリー』的行動で瞬間的な『回復』を願って、無意識に『キレる』のだ。
 年を重ねて、いままで見えていなかったものが見えるようになる、そのためには余分なものを切り離して身軽にならないと開けてこないのではないか。関係性が稀薄になるのもそうしたことの一つだと考えると少しは気がラクになるし楽しくなってくる。
 
 生真面目な―理屈でものを考え偶然を信じない―年寄りがこの国には多すぎる。
 

2015年11月22日日曜日

老後の初心

  「引退してもさびつくな」という有名なコピーがある。これはユナイテッド・テクノロジーズ社が1979年から85年にかけて月に二度、ウォール・ストリート・ジャーナル掲載した一連の広告のコピーのひとつだが、当時の経営者だったハリー・グレイ親しい人に向けた手紙のようなメッセージは、新聞広告史上最もぬくもりを感じさせるものとしていまに語り継がれている。
 
 しかしこの約600年前、わが国で同じようなメッセージを発している人がいる。能の創始者、観阿弥・世阿弥父子の世阿弥が能楽書『花鏡』に書いている「老後の初心を忘るべからず」ということばである。(以下は長谷川宏著『日本精神史』に依拠している。文中の引用はすべて長谷川の現代語訳が使われている)
 「命には終わりがあるが、能には終点があってはならない。年齢に応じた能を一体一体と習いつづけて、老後の年齢にふさわしい風体を習うのが老後の初心というものだ。」と世阿弥は説き起こす。暗い情念をかかえこんだ主人公がこの世とあの世のあいだを行き来しそこに幽玄の美を揺曳する「能」というものを、七歳から五十有余までの肉体に合わせた稽古のあり様を展開しながら説いた最後の「五十有余」の到達点を「老後の初心」と世阿弥は表現する。
 長谷川はこの件をこのように説く。
 「老後の初心」という表現がおもしろい。初心とは、事を始めるに際して当人の経験する心の状態ないし心の方向性をいうが、長く能をやってきた老後にも「老後の初心」があると世阿弥はいう。「なにもしないという以外に手がない」というのがそれだ、と。/老後には老後ならではの課題があらわれ、その課題に取り組む新鮮な志が老後の初心と呼ばれる。しないというところに向って努力を重ねるのが老後の課題だ。(略)能に終点がない、というのは暗に稽古がどこまでも続くことを示すことばだが、世阿弥はそこに能の生命力を感じとり、能のゆたかさとおもしろさを見ている。年齢に合わせて体を日々訓練し、未熟なところ、至らぬところを一つ一つ克服し、演技をいっそう高度な、完全なものにしていく。そういう稽古の延長線上に、しないという以外にやりようのないような老後の稽古をくり返す、――そこに見てとれるのは、自然的存在としての体と、演技する体との複雑微妙な融合と離反のさまだ。
 
 世阿弥のことばではもうひとつ「老骨に花が残る」という『風姿花伝』のことばも趣がある。長谷川はこのことばをこのように感じている。
 「老骨に花が残る」というのが言いえて妙だ。自然のままの花がとっくに散っているはずの老骨に花が残っている。(略)老いた父の控え目な演技を見て、世阿弥は能の花が自然に咲くものでありながら、事と次第によっては自然を超えて咲く可能性のあることを確信したにちがいない。/その、事と次第に、大きく関与するのが稽古だ。役者の体は年とともに自然に変化するが、自然な変化に寄りそいつつ、自然そのままの花ではない花を咲かせようと体の鍛錬を重ねること、それが稽古だ、といってもよい。自然な体と能を演じる体とを媒介する活動が稽古だとともいえる。自然な体と演じる体との現在と来しかた行くすえを冷静・的確に理解し、二つの体の均衡と調和を図りつつ稽古を進めることが要求される。
 
 「引退してもさびつくな」にしても「老後の初心を忘るべからず」「老骨に花が残る」にしても、今ほどそのメッセージが生きる時代はないのではないか。世は「高齢社会」である、『老骨』があふれている。しかし『さびついて』いないだろうか?『老後の初心』に気づいているだろうか、老骨に『花』が残っているだろうか?世阿弥は盛んに『稽古』の重要性を説くがそれと昨今の高齢者のアンチエージングとは同じではない。平均寿命が飛躍的に向上しそれを健康寿命につなげるために精出す高齢者がプールやスポーツジムでトレーニングに励んでいるが、彼らのその先にはなにがあるのだろう。観阿弥・世阿弥の稽古は能の精進のためにあった。今の高齢者は何のために健康増進に努めているのだろう。
 
 2025年には65歳以上の高齢化率が30%を超える(75歳以上は18%超になる)。30%を超える人たちと若い人たちの間に『断絶』のある社会は『正常』とは言えないだろう。では何で『つなぐ』のか?
 模索しなければならない、早急に!
 

2015年11月15日日曜日

新卒一括採用制度を考える

 もう50年以上前になるが私の就活の話を聞いてほしい。
 出版社で編集の仕事をやりたかったのだがその年、私の在学していた学校への求人枠はゼロだった。そこで東京へ乗り込んで神田の主だった出版社へ軒並み直談判して採用試験を受けさせてほしいと希望したが全く受け付けてもらえなかった。今ではそんな制度は信じられないだろうが、「指定校制度」というのがあって各企業から学校へ採用試験受験者数の割り当てがあってその枠内の学生数しか入社試験が受けられなかった。私の場合東京の出版社の枠がなかったから東京へ無理矢理出張ったわけで指定校にならなかったら原則その学校の学生は希望の会社の入社試験は受けられなかった。
 とんでもない『差別』かもしれない。しかし学校の特色を把握している人事担当者が学校別に採用枠を割り振って選抜を行えば必要な人材を確保できると考えられていたから多くの企業がこの制度を採用していたし学校と企業のあいだの信用関係もあって合格者の入社拒否はほとんど無かった。大雑把な業種と職種の希望はあったが拘りはあまり無かったから希望とは違った会社であっても内定したらその会社へ入るのが当たり前というのが一般的な風潮であった。解禁は4月だったと記憶しているが大体夏休み中には採用決定していて、残った半年で卒論をやっつけるというペースが平均的な学生生活だった。 
 
 「就活の解禁が前倒し」になるようだ。安倍首相の「学生を学業に専念させるよう考慮して欲しいという希望で4月から8月に就活の解禁が後ろ倒しされた就活日程が来年の就活解禁は6月に前倒し 経団連、1年で方針転換」という『朝令暮改』状態になったということだ。会社説明会を始める時期(大学3年の3月)、正式な内定解禁(大学4年の10)は今年と同じで変わらないらしい
 しかしこれで学生の就職活動が正常化するかといえばそうはならないだろう。問題の根本は、内定をできるだけ多くもって最も希望にかなう企業を選択できるという現在の就活制度にある。斬り捨てられる企業側はたまったもんじゃないだろうし、内定が一部の学生に偏って内定がなかなか決まらない学生には不平等な制度に感じるだろう。
 そもそも学生数が多すぎる。大学進学率は優に5割を超えているのだから学生の質にもバラツキがある。そのうえ『差別』が許されない今の時代では「指定校制度」も導入できないから企業は膨大な採用費用をかけて選抜業務を行わなければならない。
 
 根本的な問題は「新卒一括採用」という就職制度にある。企業が卒業予定の学生(新卒者)を対象に年度毎に一括して求人し、在学中に採用試験を行って内定を出し、卒業後すぐに勤務させるという世界に類を見ない日本独特の雇用慣行で、この制度は「日本型」といわれる「年功序列型賃金制度」を維持していくうえで不可欠の制度として導入された。何故なら勤続年数で賃金が決定されるからスタートを一緒にしなければ同じ学歴と卒業年度でありながら入社年度が異なると賃金に差が出るからだ。
 しかしデフレが進行するようになってから、生産性向上のために「能力給」の導入の必要性が叫ばれ、年功序列型賃金制度との訣別を企業は望んでいたはずなのに『抜け駆け』を危惧して抜本的な就職制度の改革に踏み出せず、いまだに「新卒一括採用」に企業は止まっている。
 
 東大が「10月入学」を打ち出したのもこうした現状を学校側から打破しようという意欲の現われだったと思うのだが、尻すぼみになってしまって実現は危うい。優秀な人材確保がこれからのわが国の企業成長に欠かせない要因であるなら『就職規制』を撤廃することだ。自由競争にして各企業が工夫を凝らして採用制度を革新することだ。わが国の現状を見れば所得格差が拡大して就学の機会均等が阻害され可能性を秘めた若い人材が親の所得という「外部要因」の影響で才能を開花させられずにいる。このまま放置しておくとわが国労働力の質的低下は免れない。人口減少が必然化している現在、そのうえ質まで劣化してしまったのでは生産性向上は望むべくもない。企業が奨学金制度を独自に設立し就学機会に恵まれない優秀な若者を「囲い込む」のも一策ではないか。
 
 幾つもの内定を平気で斬り捨てている学生の『モラル』が何故問題にならないのか。それは今の就職制度が矛盾をはらんでいるのを皆が知っているからだ。
 改革は急を要する。
 

2015年11月8日日曜日

理屈と感情

 サプリメントについてこんな話を聞いたことがある。某大学の准教授が一日に百十何錠かのサプリメントを服む以外は水を飲むだけでほとんど食事を口にしないで十年以上過ごしているという。これは極端な例としても何らかのサプリメントを常用している人は多く、中国人旅行者の「爆買」の人気商品上位に品質の良い日本製サプリメントが含まれていることも知られている。
 古い考えかも知れないがどうもサプリメントに馴染めない。『サプリ信仰』にはふたつの勘違いがあるように思う。まず、サプリ単体で効いているという考え方、二つ目は栄養素のすべてが明らかになっているという誤解である。
 遺伝子解析でもそうだが、ヒトゲノムのおよそ97%は役立たずの遺伝子『ジャンクDNA』とされているが、だからといってそれが『無用』とはいえないらしく、まだ確認されていない機能を果たしている可能性が高いようだ。眼や免疫機能に効果があるビタミンAはベータカロチンを多く含む色の濃い野菜に含まれているサプリだが、ビタミンAが体内で機能するときビタミンAと野菜に含まれるその他の物質が相互に影響してビタミンAとして吸収、機能しているかも知れない。更に今まだ発見されていないサプリメントがどれほどあって、それが健康とどのような関係にあるかも定まっていない。
 科学は発見されやすいものから発見され、人間に役立つ方向に偏って進歩するいう考え方がある。あんなに悪者扱いされていたコレステロールに善玉があるということが言われだしたのが最近であるように科学を『信仰』するのは行き過ぎだと思う。上等の牛肉が健康に良いものであっても、楽しく美味しく頂かなくては吸収され難いように、食事は衛生的で新鮮な『食品』でするのが第一だと理屈抜きで信じている。
 
 消費税の軽減税率はその逆進性ゆえに増税の緩和効果は薄い、というのが経済学の常識になっている。軽減税率導入がすんなりと政策として成立しないのはこの常識が邪魔をしているからだ。今、消費税が8%から10%に増税されて食品が8%に据え置かれた場合、年収一千万円の人が100g1000円の牛肉を300g、年収200万円の人が100g300円の牛肉を200g買ったとすると、一千万円の人は3000円の2%だから60円、200万円の人は600円の2%だから12円の消費税が軽減される。所得の高い人は高価なものを買うから減税額が多く所得の低い人は安いものを節約して買うから減税額が少なくなる。だから「低所得者の税負担を少なくしよう」というそもそもの目的が果せない、というのが常識的な批判となって、自民党の税調などは実施に反対している。しかしこれは理屈であって紙の上の考え方に過ぎない。もしこの考え方が本当に正しいなら欧米の多くの国でこの減税措置が実施されていることの説明がつかない。
 確かに60円と12円だから減税額は高所得者のほうが多いが年収に占める割合は0.001%と0.006%で低所得者のほうが高い。高所得者の食費の割合は低く3割程度だが所得の低い人は6割近い人も多いから『軽減率』から見た恩恵は低所得者の方が多くなる(食費割合から軽減税額を算出して年収と照らすと一千万円層では6万円で0.6%、200万円層では2.4万円で1.2%に相当する)。
 領収書を集めて申請して、半年先に貰える(還付される)2千円より今日の50円100円の方がありがたい。
 もうひとつ「スティグマ」という心理的負荷も考えるべきだろう。一ヶ月ほど前「臨時福祉給付金」六千円の支給を受けたが「低所得者」という『烙印』を押されたようで違和感を感じた。高級官僚や政治家には理解できないだろうが気持ちのいいものではない。
 理屈ではないのだ。
 
 魚消費が和食ブームも手伝って飽和状態に達し我国への流入量が減少している。過剰捕獲も常態化し魚資源自体枯渇化しているものもある。そこで『養殖』が注目され「近大マグロ」が脚光を浴びている。梅田のグランフロントにある近大マグロを提供する店は長蛇の列を成しているらしい。結構なことだがちょっと待てよ?エサはどうなっている?調べてみると魚粉を原料とする配合飼料も使われているが多くは生エサでサバ、アジ、イワシが主らしい。エサになるイワシなども当然天然資源だから養殖が盛んになってエサの必要量が増えれば海洋生態系のバランスへの影響も無視できない。つい最近も「大衆魚のイワシが高嶺の花」などとマスコミが囃し立てていた。
 マグロを取るかイワシを取るか。
 
 理屈通りいかないことも多い。