2016年12月26日月曜日

「紙の本」が見直されている

 アメリカで「紙の本」が売れているらしい。電子書籍全盛のアメリカに何があったのか?私のように「紙の本」で育ったものからすれば、「読み捨てするもの」―情報の新しさに価値のあるものやエンターテイメント系のものは電子書籍の方が適しているが、いわゆる「古典」とか本棚に並んだ体裁を見たときに「訴えるもの」があるような『書物』はやっぱり「紙の本」で読みたいと思う。お母さんの「読み聞かせ」にふさわしいのも「紙の本」だろう。アメリカの風潮が世界的な潮流となって欲しいものだ。
 
 今年も随分読書を楽しんだが『天上大風・堀田善衛』『経済学の宇宙・岩井克人』『〈世界史〉の世界史・ミネルヴァ書房編』『ビッグデータと人工頭脳・西垣通』は示唆に富んでいた。また知の巨人―加藤周一と鶴見俊輔の『二〇世紀から』は20世紀の日本と世界の意味を深く、多角的に教えてくれた。
 『天上大風』のスイスの項はショッキングだった。「永世中立国」という響きから来る『清廉』なイメージが「ナチスのマネーロンダリングに手をかした」「第二次大戦中の『死の商人』であった」などの事実はいかに我々がイメージ操作されているかを知らされて恐ろしかった。
 『経済学の宇宙』で岩井が訴えているのは、経済学というものが極めて「時代の産物」であるということであり、アベノミクスが無惨な『失敗』に終わったのも市場万能の「新自由主義」が現在の経済状況を救済する経済理論ではなかったためであることを明確に分からせてくれる。またお金の本質が難しい理論の裏づけによるではなく「みんながお金を信用しているから」である、という「目からうろこ」的な教えは、世界を席巻している「金融経済」がいかに『脆い』ものであるかを気づかせる。
 『〈世界史〉の…』の「近代歴史学はそもそも、国民国家・国民意識を創り出す、ないし正当化するための学問として成立した」「(現在の欧米の繁栄は)十八世紀まで一貫して優位にあったアジアが一時的に低迷した200年間の例外的な出来事」「世界史を人類の自由の意識が進歩するプロセスだととらえると、ヨーロッパ中心史観にならざるをえない」などの記述は「教科書歴史」にならされたわれわれに『歴史を見る目』を開いてくれた。信長が武田勢と戦った「長篠の合戦(天正3年1575年)」で信長が使用した鉄砲の数が当時の世界記録であったこと、15世紀から18世紀は銀本位の経済でヨーロッパから中国への恒常的な流入状態にあり、中国こそが世界経済の中心であったというアンドレ・G・フランク『リオリエント』の分析は、その中国への銀の供給の多くを我が日本が握っていたことを知れば、信長が光秀に殺されていなければ17世紀の世界地図を塗り替えていたかも知れない、などと「空想の翼」を広げてくれる。本当の歴史教育とは過去の事実を記憶するだけでなく、そのうえで歴史の可能性を多面的に考える力にあるのではないかと思う。
 『ビッグデータと人工頭脳』は、今、世上で囃されているような「AI(人工知能)による人間の征服」など根拠のない妄言であって、Aiを使いこなして人間の可能性を拡張する方向に指導者が導くことの必要性を分かり易く説いてくれた。現在、高大接続のための入試改革が検討されていて「記述式問題」の導入が検討されているがとんでもない方向違いのように思う。記述式の採点の難しさばかりがクローズアップされているが、そうではなくて入試を難しくすればするほど「入試技術に特化した」『特異な頭脳』を作り出してしまうことを問題にするべきで、「AI時代」が求めている『柔軟で創造性に富んだ頭脳』を産み出すにはどうあるべきかを今こそ真剣に考えなければ、ノーベル賞級の頭脳は今後我国から出ることは絶望的になってくることを知るべきだろう。「ビッグデータとAI」の活用は、お役所仕事や企業で行われている多くの「定型的な仕事」のほとんどをAIが代替してしまうようになるから、いわゆる「入試偏差値の高い」「学校の勉強の良くできた」人たちの仕事のほとんどが無くなってしまうことになる。「頭のいいひと」が大学に入って、二年の秋か三年の初めから就活する今の大学、勉強をほとんどせずに大学を出てくる今の制度ではなく、「入るのは簡単だけれども卒業するのは大変」な大学で「本物の勉強」をして知識・技能を身につけ『創造力の基礎』を磨くような大学に改革―入試改革ではなく大学そのものの改革―をすることの必要性を、『危機感』をもって知るべきなのである。
 
 安倍首相が「賃上げ」や「携帯電話料金の値下げ」など『私企業』の活動にくちばしを挟むのは経済の自由な活動を阻害していると批判を浴びているが、アメリカ次期大統領トランプ氏も私企業の活動に強い批判を加えている。既存の「経済学」や「政治学」では世界の多くの国家が抱えている問題を、もはや解決できない『転換点』に差しかかっているのではないか。
 今年の読書を通じてそんな感懐を抱いた。
 
 いつもの年より今年は小説を多く読んだ。なかで印象に残っているのは賈平凹の「中国現代小説」、グレアム・ジョイスの「イギリス幻想小説」、J.M.クッツェーのいくつかの小説だった。これらに共通するのは『理屈で納得できないもの』が重要な要素を占めていることだ。アニミズムとか土着信仰(意識)と呼んだらいいのか―しかしそれだけでは「拾えない」何か―が彼らの描く人々の生活にひそやかに根づいている。
 例えば賈平凹の『老生』『廃都』『土門』は、この一世紀足らずの間に政体が幾度も変遷したが、庶民はしなやかにズル賢く生き抜いてきた。そして呪いや民間薬が平常に存在していることを何ら怪しまない世界がそこにある。ジョイスの世界は最先端の「シティ」と同じ地平にキリスト教をベースとした数世紀前とほとんど変わらない生き方をしている人たちがいるイギリスの奥深さがある。クッツェーは聖書や老いを哲学的に描いてしかも飽きさせない技巧のレベルの高さを誇っている。
 翻って我国の小説は、エンターテイメントと「分かり易さ」を勘違いしたり、史料を使いこなせず広がりに欠けるものが多い。加えて近代以降も息づいていた(戦前にすらあった)「伝統」を拒絶した(いやひょっとしたら知らないのかも)軽く浅い小説が幅を利かせている。閉塞感に満ちたやり場のないもどかしさや苦しみの心理や感情を描いているのだが「浮ついて」いてリアリティがない。唯一『坂の途中の家・角田光代』は子殺しに追いつめられる育児ノイローゼの若い母親の「心の深淵」をサスペンス風に描いて、一種怖さを感じながら読んだ。
 「分かり易さ」と「面白さ」を誤解しているのか軽すぎて手応えのない小説が多い。
 
 「日本の『近代』とは、人間の基軸をいわば『数え年八つの娘』に置いた時代であったのではなかったろうか。(略)現代においては人間そのものが、人間の中の『八つの娘』的部分と等しくなってしまいつつあるように思われるが、そしていったん、人間の基軸がこのようにずれてしまうと、とどまるところを知らず人間は限りなく幼稚化してい」く、という新保祐司の『内村鑑三』にある言葉が重い。
(今年一年お付き合いいただき有り難う御座いました。良いお年をお迎え下さい。)
 
 

2016年12月19日月曜日

成心・僻見(28.12) 

 「ポピュリズム」―今年の本当の「流行語大賞」はこの言葉がふさわしいのではないか。
 
 今年、世界はポピュリズムに席巻された。イギリスの「EU離脱]、アメリカ大統領選挙での「トランプ現象」、そして東京都知事選挙での「小池旋風」。この他にも世界各地でポピュリズムの嵐が吹き荒れている。
 ポピュリズムは一般に「大衆迎合」とか「衆愚政治」と訳されることが多い。ウィキペディアには「一般大衆の利益や権利、願望、不安や恐れを利用して、大衆の支持のもとに既存のエリート主義である体制側や知識人などと対決しようとする政治思想、または政治姿勢のことであるとある。では「反対語(対義語)」は「エリート主義」ということになるのか。
 なるほどイギリスのEU離脱は、エリート層のキャメロン首相が世論を読み違えて「国民投票」に敗れた結果であり、「トランプ現象」は市場万能主義による『格差』の異常な拡大を当然視したエリート政治家とメディアが「99.9%」の『レフト・ビハインド(見放された民衆)』に逆襲されたとみることができる。小池都知事の誕生は、形骸化した「既成政党」が民意を吸収することができなくなった『間隙』をついて小池氏が「こぼれた民意」を吸い上げることに成功した結果であり、既成政党がいかに多くのものを「見失っているか」の証と言える。
 こうした現象を総じてマスコミは「ポピュリズム」として排撃するが、それは正しい認識だろうか。
 
 高度成長期(1954年~1973年)「金の卵」という言葉があった。地方の農村から大都市へ集団就職列車で就職した中卒などの低学歴者を意味したが、彼らは就職先にある「○○学校」で教育を受け数年で『戦力化』された。就職当初は「寮」生活し結婚すれば「社宅」が用意されていた。社宅の低家賃の恩恵で住宅購入資金が貯まったところで郊外の「団地」に入居して、子弟に教育を施し結婚させて巣立たせる。終身雇用で守られて60歳の停年まで勤め上げれば住宅ローンを完済しても幾らかの余裕がある位の「退職金」を支給され厚生年金と合算すれば老後の生活は安定していた。
 会社には労働組合があって組合が会社と交渉して身分保障や賃金アップを図ってくれた。定期昇給以外にベースアップもあった。選挙の時には労働組合が加入している組合連合が推薦する「革新系の政党」に投票するのが常であり時には選挙運動に狩り出されることもあった。「低学歴でもまじめに働けば生活ができたし将来が見通せた」幸せな時代――「一億総中流」社会であった。
 二回の石油ショック(1973年と1980年)で世の中が変わった。バブルがはじけて変化に拍車がかかった。農村人口の激減は地方を疲弊させた。若者の職場は徐々に製造業からサービス業に移っていった。サービス業は一部の高学歴の高技術・高付加価値労働と大部分の低賃金単純労働に二極化される。機械化とIT化は製造業を含めて仕事の合理化が行われ、標準化された仕事は外部委託が可能になり派遣やアルバイトなどの非正規雇用を爆発的に増加させた。産業構造のサービス化と仕事の合理化・標準化は非正規雇用の増加を必然化させ、それが労働組合の弱体化を加速することで、労働分配率の低下、雇用・賃金の二極化による「貧富の格差拡大」を惹き起こした。痩せ細る中間層は「将来は今より良くならない」と失望感を抱くようになった。
 グローバル化の進展は「大企業でも明日は分からない」を常態化し、『安定』と『平等』という自由民主主義のビルト・イン・スタビライザー(内生化された安定装置)を脆弱化した。
 
 我国は「島国」という特殊性に守られているから緊迫感がないが、国境を接している欧州や移民政策を国是としている米国は『移民』の過剰な流入によってグローバル化の影響が先鋭化された。その結果「中間層」を形成していたマジョリティー(白人、特に低学歴の白人層)をグローバリズムの「敗者」に追い込み「新たなマイノリティー」に転落させた
 
 政治と経済、メディアのエリートはこうした社会に蓄積された『変革のマグマ』を掬い上げることができず『レフト・ビハインド』の力を過小評価したが、今回の世界的な一連の「社会変動」は、政治がエリートに独占され、民意がねじ曲げられていることへの『意義申し立て』であって、無視・抑圧されてきた問題を争点化し、代表する側と代表される側とのギャップを修復するための運動とみる方が「ポピュリズム」と拒否反応を示するより生産的である。
 この爆発をうまく吸収することによって民主主義をより『耐性的』に改革する『賢明さ』が望まれる。
 
 「小池都知事」誕生を未だにポピュリズムの結果としか評価していない傲慢なマスコミの一部記者は、小池知事の豊洲市場問題と五輪施設建設問題へのアプローチを「大山鳴動してネズミ一匹」と嘲る。しかし「もし小池知事なかりせば…」という視点をもてば、豊洲にしろ五輪にせよ、落しどころをどこに持っていくか、とすべての責任を小池知事に押し付けて、豊洲問題を惹き起こした『張本人』や野放図な五輪組織運営と施設建設を決定した『首謀者』への「断罪」を未だに先導できないメディアの無能振りがあぶりだされてくる。そもそも「記者クラブ制度」に安住してお役所の出す「プレスリリース」を転載するだけで批判精神のかけらももっていないエリートメディアの「報道姿勢」に根本的な改革が加えられなければ、これからも今回のような世界的な変動を見抜くことはできないであろう。
 
 IR法案の奇妙な「拙速可決」にはどんな「裏事情」があるのだろう。いずれにしても「カジノ法案」であることは誤魔化しようがない。既に世界最大の「バクチ国家」である―パチンコだけで世界のカジノ収入とほぼ同額の規模にある―わが国でカジノが成功する可能性は極めて低いが、唯一メリットがるとすれば隠蔽されているパチンコの「ギャンブル依存症」がカジノによって『顕在化』することであろう。パチンコは身近にあるから「バクチが日常化」しており「依存症」も深刻なのだが表立って「パチンコ依存症対策」は講じられていない。カジノとパチンコでは客層とバクチ志向が異なるから顧客の「横滑り」は望み薄だが、「バクチの日常化」という世界的にみて「不名誉」な国民性―朝の十時から何十万人という国民が、毎日、バクチに耽る―の是正のとっかかりになれば予期せぬ「恩恵」となるであろう。
 
 今世界で最も安定している国は、中国とロシアと我が日本である。これを素直に「誉れ」と喜ぶべきなのだろうか。
 
 

2016年12月12日月曜日

競馬に人生の縮図を見る

 
 時たま競馬に人生の縮図を見ることがある。例えば先々週中京競馬場で行われた土曜日の「金鯱賞(GⅡ2000m」や日曜日の「チャンピオンズカップ(GⅠ)ダート1800m」はそんなレースだった。
 
 金鯱賞の出走メンバーに「トーホウジャッカル」の名を見たとき思わず「えっ!?」と声を出してしまった。この馬が地方(中京競馬場には申し訳ないが)のGⅡレースに勝利を求めてきたか…、何とも物哀しい気分に襲われた。トーホウジャッカルという馬は一昨年の「菊花賞3000m」で3分01秒フラットという驚異的な「日本レコード」で優勝した馬なのだ。そしてこのタイムは世界レコードでもあった。このとき3着のゴールドアクターは昨年末の有馬記念を勝っているし2着馬サウンズオブアースは先の11月27日に行われた「ジャパンカップ」で2着になっているなどトーホウジャッカルの勝った菊花賞は史上稀に見るハイレベルのレースだったのだ。
 ところが余りにもレースがキツかったせいでこのレースの1~3着馬の再起は想像以上に手間取った。サウンズオブアースは半年の休養でリスタートしたが再起を果したのは一年後の「京都大賞典(2015年10月)」までかかった。3着だったゴールドアクターの休養は9ヶ月を要した。そして翌年夏の条件レースをステップに順調に力を伸ばして4戦目に有馬記念を勝った。
 優勝したトーホウジャッカルは半年後の宝塚記念に出走したが4着、つづいて夏の札幌記念も不本意な8着に終わり再度休養に入る。そして半年後の今年3月、再出発を図って阪神大賞典、そのあと天皇賞(春)、宝塚記念と挑戦したが良績を残せず遂に相手手薄な中京の金鯱賞にまで条件を下げて挑んたが勝ち馬から0.7秒差の11着に終わってしまった。
 トーホウジャッカルの再起はもう無いかも知れない。残念だがその可能性が高い。サラブレッドが頂点の能力を現す3歳秋の「菊花賞」で世界最高の輝きを放った彼は、そこで燃え尽きてしまった。関係者とすれば3000mで世界最高を記録したトーホウジャッカルが3200mの天皇賞で、2400mの有馬記念で、宝塚記念2200m、天皇賞(秋)2000mでどんなレースをしてくれるか、無限の可能性を期待したのは無理からぬことであったがそれは人間の「慾」というものだったのだろう。
 
 「チャンピオンズカップ(GⅠ)ダート1800m」に出走したメンバーには多彩な過去があった。
 ラニ(3才牡)は2勝馬でありながら海外遠征、それもアラブ首長国連邦のUAダービー(GⅡ)のあとアメリカ3冠レース、ケンタッキーダービー、プリークネスS、ベルモントSに出走するという離れ業を演じた。日本と違ってアメリカの3冠レースは5月7日から6月11日という短期間に行われるのでアメリカ馬でも3レースすべてに出走するのは珍しいのだがラニは日本馬ながら果敢に挑戦した。帰国後3つのレースに出走したが芳しい結果は出ていない。しかしラニは3才。来年の飛躍が期待される。
 アウォーディーは2012年末芝レースでスタート、以後昨年の6月まで芝レースを使われたが準オープンに止まった。ところが昨年9月ダート(砂)に戦場を移してからは破竹の快進撃、6連勝でGⅠのチャンピオンズカップに出走、惜しくも2着に終わったがまだ6才。来年に期待がかかる。
 モーニン(4才牡)は昨年5月の初出走から4連勝、3着1回をはさんで今年1走目1着で2走目の2月のGⅠフェブラリーSを勝って頂点に上り詰めた。7戦6勝3着1回の完璧な戦績。ところが5月地方の川崎競馬場のかしわ記念1600mダートに出走してから調子を崩し、以後3戦勝ちに見放されてチャンピオンズCも7着に終わった。地方の力の要る深いダートが彼の肉体と精神にダメージを与えたか?
 コパノリッキー(6才牡)は18戦10勝GⅠ5勝(地方を含む)の圧倒的な戦績を誇る名馬である。しかしチャンピオンズカップでは3番人気で13着に終わってしまった。レース展開が向かなかったのか?峠を過ぎたのか?
 勝ったのはサウンドトゥルー(6才騸馬)。2012年10月の初出走以来37戦8勝でこのレースに臨んだのだが実はこの馬は昨年2月にオープン入りをするまで24戦を要している。ところがオープン入りを果してからは13戦3勝2着2回3着5回の堅実な成績を上げるようになる。昨年のチャンピオンズCでも最後方を追走しながら直線だけで3着に追い込んでいる。今年は1月の川崎記念の2着を皮切りに地方を中心にGⅠGⅡで3着3回と惜しいレースを重ねていた。追い込み脚質からレース展開に向き不向きがあるが嵌まれば破壊力を秘めているのは間違いない。騸馬というのは去勢した馬のことで気性が荒かったり騎手の制御に従順でない馬が施術されることで競争能力が飛躍的に改善されることが多い。サウンドトゥルーも2014年の夏に去勢されてからの成績は20戦7勝で着外は僅かに4回、去勢して1年経った昨年の夏以降は11戦4勝2着2回3着4回とそれまでと比較にならない安定した戦績を残した。去勢が彼をまったく異次元の競走馬に変異させたのだ。
 
 育ちのいい(血統のいい)馬が順調に成長して世界に輝く驚異の記録を挙げて、しかしその一回限りで燃焼し尽くす。同じように一度も挫折することなく頂点を極めたのち異世界に進出して体調を狂わせてしまった馬。かと思えば未完成でありながら海外進出で自己の能力を試して次なる成長に賭ける馬。一度目ざした分野で自分が不適格だと知って迷わず転職して能力を開花させた馬。自分の欠点を医学で矯正して騸馬という選択で成功を得た馬。
 そして華々しい戦績で馬歴を重ねてきたが老いて、引退の決意を迫られている実力馬。
 まさに人生の縮図である。
 
 競馬は奥の深いゲームだ。多様な楽しみ方がある。賭け事だから勝って何ぼと儲けを最優先にするのが標準的な楽しみ方だろう。もっぱら推理を楽しむ派もある。競馬ブームの始まったころ活躍した虫明亜呂無という競馬評論家は1レース200円の複勝馬券しか買わなかった。高い『授業料』を払って結局「競馬は儲からない」と観念して。年金生活になって、入ってくるものが限られて、この先増える見込みはまったく無いと思い知らされて、そんな『老いた勝負師(?)』でも競馬は楽しい。年末の『鉄火場』に人生の縮図を見られる余裕は授業料の見返りか。
 それにしては高い授業料を払ってしまったものだ。
 
 

2016年12月5日月曜日

センテナリアンへの道

 私の誕生日は十二月二日です。従って先週、目出度く七十五才になりました。友人の中には「この歳になって…」と素直に喜ばない連中も居ますが私は心から嬉しかった。
 幼少期に小児結核を二度患った。丁度そのころペニシリンとストレプトマイシンという抗生物質が我国に出回るようになって救われた。それでも虚弱体質に変わりはなく劣等感に苛まれて青春時代を過ごした。妻とは見合い結婚だったが一目見て決めた。シンの勁さと見るからに健康そうな肉体と精神を感じたからだ。娘二人に恵まれふたりが社会人となって自立したとき、妻に迷惑をかけないで出来るだけ長生きしたいなぁと思った。その頃になってもまだ年に六、七回も風邪を罹くほど虚弱だった。
 
 転機は六十才をすぎてきた。六十三才になった翌年の一月十一日深夜、目が覚めて煙草が欲しくなって手探ったがキレていた。いつもなら真夜中でも起きて近くの自販機かコンビニまで買いに出るのだがなぜかその時、「まぁいいか…」と我慢した。一日が過ぎ三日経っても煙草を買おうとしなかった。何時の間にか禁煙できていた。
 飯が旨くなって、たまたまうまい中華料理店を見つけて、週に三、四回「お昼のおまかせ」を食べていたら僅か半年で体重が56キロに増えてしまった、生まれてこの方52キロを超えたことのなかった虚弱体質の私が。
 ちょっと前からテニスを始めていた。六十才を過ぎて…、と家族全員に反対されたがやってみるとハマってしまった。思いの外に上達が早くスグに初心者クラスから中級クラスに上った。そうなると欲がわいてスタミナ強化のために毎朝公園へ行ってストレッチと「壁打ち」に精出していた。
 食事が益々すすむようになって二年も経たないうちに60キロ近くまでになった。さすがに重いと感じてダイエットすることにした。この私がダイエット?信じられなかった。毎朝体重と体脂肪率を測り記録するようにした。これが意外と健康管理に有効だった。
 動体視力の衰えを感じて眼科に相談し目薬を処方してもらう。あわせて眼の運動もするようになって半年、1.0と0.7に視力が回復した。
 
 毎日公園へ行くようになったある朝、「お兄さん、わし来週入院するねン。それにもう八十六才やねン。わしの代わりやってもらえへんやろか」と公園のゴミ拾いを頼まれた。昭和五十年代後半にできたこの公園のゴミ拾いを二十年近くつづけているご老人の依頼を無碍に断ることができず引き受けた。以来もう十二、三年になる。当初は毎日4㍑のゴミ袋が一杯になるほどヒドかった子どもたちのゴミ捨てが、学校との協働のお陰で今では週に一袋出るかでないくらいまでに減った。
 ゴミ拾いのお陰で公園へ来る幾人かのひとと口をきくようになった。月一回の公園愛護会の清掃日に参加すると顔を知ってくれている人が意外と多いのに驚かされる。
 
 体力がついて一番嬉しかったことは本が読めるようになったことだ。読書好きだったけれども継続して20分も読み読みつづけることができなかった、集中力がスグに途切れるから。いまは三時間くらいならラクに読める。小説ばかりでなく硬めの本も読んでいる。新しい知識を得ることは幾つになっても楽しい。
 読めば書きたくなる。ネットにコラムを連載しはじめて十年を超えた。五百篇もつづけると習慣になって生活のいいリズムになっている。読書の知識が書くことで体系化されて物の見方が多面的になってきた。
 パソコンは強力な援護者だ。書いて消して、の繰り返しが容易にできるので簡潔な文章が書けるようになる。データの収集が簡単だからアイデアの裏づけが可能になり論理の展開に自信が持てる。もしパソコンがなかったら〔読む―書く―見る―考える〕の良好なサイクルは構築できなかったに違いない。
 
 今年のエポックは「予防接種」を受けられたことだ。幼少期の重篤な病歴があって疱瘡も今でいう四種混合もパスして大人になった。高齢になってインフルエンザのワクチンもこれまで受けずにきた。ところが今年、八月九月に近しい友人がふたり肺炎で亡くなった。ふたり共ここ二三年病床に臥していたが直接のきっかけは肺炎だった。丁度今年肺炎予防の定期接種の年令に当たっている。九月の中旬から悩みに悩んだ。かかりつけ医に相談した、友人の医者にも頼った、ネットでも調べた。そして先月十日過ぎ肺炎の予防接種を受けた。何事もなく二週間が過ぎた。先週インフルエンザも受けた。腫れも熱の出ることもなく健やかでいる。七十五才になってやっと普通になれた!
 
 今の健康がどこからきているのか?煙草を止めたことは大いに良かったはずだ。体重が増え体力がついたのは幸運だった。妻と娘たちが病気知らずなことは有り難い。友人の多くが奥さんか本人のどちらか、いや両方とも「病もち」でいることを考えたら私は誠に幸せと言わざるを得ない。歯がすべて自前で28本まるまる残っているのは食べ物をおいしくいただけるから結構なことだ。人並みの年金があるから贅沢さえしなければ食うに困らない。週に何日か美人店主の居る喫茶店で過ごす時間は快適だ。ゴミ拾いと野球場の管理を手伝っているので少しは世の中の役に立っている。毎朝公園で体を動かすのは爽快だ。読書とコラムの執筆で知的な刺激も好調を保っている。
 このうちのどれが欠けてもバランスが崩れてしまうように思う。すべてが相乗効果となって健康なのだろうと思う。
 
 百歳以上の人をセンテナリアンという。私もあと25年。しかしそこへの道は余りに遠い。
 彼らは生きる達人だ。
 
 
 

2016年11月28日月曜日

逃げるは恥だが役に立つ

 TBS火曜ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』が人気を博している。海野つなみ原作の同名の少女マンガを人気脚本家・野木亜紀子がドラマ化した社会派ラブコメディである。
 職ナシ彼氏ナシの主人公・森山みくりが、恋愛経験の無い独身サラリーマン・津崎平匡と「仕事としての結婚」 をする。あることがきっかけで 恋愛禁止条件に夫=雇用主、妻=従業員の雇用関係を結び契約結婚を偽装せざるを得なくなるのだが、同じ屋根の下で暮らすうち徐々にお互いを意識し出す妄想女子とウブ男はたして…、というストーリー展開になっている。主人公のみくりに新垣結衣、津崎に今が旬の星野源を配し脇を個性的な芸達者をあてて笑って泣いてキュンとするドラマ仕立てが視聴者に受けているようだ。エンディングに出演者が踊る「恋ダンス」も人気を増幅している。
 
 「契約結婚」という形はいかにも「草食男子」全盛の『今風』である。「草食男子」という言葉はコラムニストの深澤真紀が「現代男子」に命名したもので、恋愛に「縁がない」わけではないのに「積極的」ではない、「肉」欲に淡々とした今時「男子」であったり、「心が優しく、男性らしさに縛られておらず、恋愛にガツガツせず、傷ついたり傷つけたりすることが苦手な男子のこと」と定義されている。「未婚・晩婚化」の傾向が年々増している底流に男子の草食化があるのは事実だろう。「傷ついたり傷つけたりする」ことを極端に避けたがるのは「プライド」のせいだろうか。プライドというような上昇志向的なものでなく単に「フラれる」ことが厭なだけかもしれない。フラれることが自分を『否定』されたと受け取って傷ついて、萎縮してしまうから。
 「俺の若いころは…」というフレーズは使いたくないが、われわれ世代の青春時代は「フラれて何ぼ」の時代だった。勿論女性から「コクる、コクられる」ことなど論外で、フラれることを『覚悟』して『正々堂々』と「愛を告白する」のが『おとこ・漢』だと粋がっていた。こうした心情の底には「女性は美しいもの」という『憧れ』があった。女性はか弱いものだから「美しい」彼女を護り、傅(かしず)くことは「おとこの誇り」でさえあった。『選択権』は彼女にあるのであって、選ばれなければ潔く身を退いて、新たな『恋』を求めて「荒野を彷徨えばいい」などとさえ思っていた、かも知れない。
 
 「男女同権」だから、女性への憧れがない(稀薄だ)から、女性は勁(つよ)いから。強いと「暴力」が同義語になっている。美しさへの欲求が女性だけのものでなくなっている傾向もある。
 こんな状況で、互いが傷つきたくない男女が合意した恋愛形態が『契約結婚』。結婚というもの、妻というものを「機能」としてとらえて「ハウスキーピング」の担当者として雇用関係を結ぶ、実に合理的だ。恋愛感情が芽ばえて契約にひびが入るのおそれて「恋愛感情」を抑制する、これも合理的だ。傷つくことをここまで避けようとする『脆弱さ』が『哀れ』だ。
 大体結婚、夫婦というものをどう考えているのだろうか。75年生きてきて、50年近い結婚生活を経て、結論は『戦友』と思うようになった。「兵役忌避」も「敵前逃亡」も考えないこともなかったが、何とか力を合わせて戦ってきた、復員した今は、「よく生きて帰れたなぁ」となぐさめ合い、折角生き残った命だ、長生きしような、と肩を抱き合う。
 相手が傷つかぬように、ということは相手を気遣うことになり、契約があるから怒りや不満を抑制して、こんな『模範的』な人間関係が継続すれば同じ屋根の下で暮らす若い男女に恋心が芽生えるのは当然の成り行きで、ドラマはハッピーエンドになるだろうが、実際の結婚生活はそこからスタートする。気づかいや抑制が効かなくなったとき、どう対処するか。紆余曲折を経て「戦友」になる道を選ぶか、早々に別々の方向に進路を取るか。大事な『分岐点』である。
 
 我々の時代と根本的に異なっているところは「SNS」の存在だろう。本来「秘すべき」ものがあからさまになってしまう状況に若い人はいる。恋愛も、ふたりの間だけで完結するのなら失恋にも耐えられるだろうが、周囲にあまねく曝されるようなことになれば誰でも「ツブレて」しまうに違いない。拡散が度を越して「誹謗中傷」が酷ければ「自殺」へ突っ走ってしまう気弱な人もいるかもしれない。便利なようで、寄り添っていてくれるようで、意外と「SNS」も面倒なものだ。
 
 「未婚・晩婚化」の原因として「貧困」や「経済格差」がいわれるが、どうだろう。我々の時代は「ひとり口は食えなくても二人口は食える」と言ったものだが、今は通用しないのだろうか。
 「経済格差」は確かに辛い。隣がなに不自由なく暮らしているのにこっちは子どもに不自由させているのでは、やってられない気持ちになるのも無理はない、別に楽をして横着しているわけでもないのだから。でも目を凝らしてみると裕福そうに見えるお隣さんもそんなに豊かでもない。なんでも持っているようでひとつひとつは「安もの」であったり「まやかし」で我慢している場合が多いのではないか。「本物」は格別に高価だからとりあえず手が届くもので間に合わしている、それより「将来が不安」だから「貯金」して備えている。そんな家庭が多いのではないか。
 政府やお役人は「消費不振」で「デフレ脱却」がなかなかできないとアレコレ小手先の弥縫策を弄しているが、根本的な問題は「将来不安」だ、高齢者だけでなく若い人も。頑張れば将来が見える、そんな社会にならなければ「少子高齢化」は解決できない、強くそう思う。
 
 『逃げ恥』派の現状に尻込みしている若い人たちにこんな言葉を贈ろう。
「幸せなの?」「いいや、幸せじゃないよ。だけど最近ずっと幸せについて考えてて、こう思うようになってきたんだ。幸せじゃないのは恥でも何でもないって。いつも幸せでいるって、別に肝心なことじゃないんだ――生きてく上ではね」(『人生の真実』グレアム・ジョイス著(市田泉訳)より)。

2016年11月21日月曜日

想 滴々(28.11)

 福岡の大陥没事故の顛末は久しぶりに「日本の底力」を見た思いで爽快だった。事故が起こったのが今月8日、福岡市博多区のJR博多駅前の道路が縦横およそ30メートルにわたって大規模に陥没したのだが15日早朝には復旧した。当初は最低でも一ヶ月はかかるだろうと思われていただけに「快挙」と言っていい。福岡市の高島宗一郎市長は「官民一体のオール福岡。この心意気なしに復旧はなし得なかった。日本の底力だと思う」と胸を張った。決め手は『流動化処理土』で、これによって「水を抜く」工程を取らずに作業が進められたことが工期短縮に結びついた。今回の素早い対応は海外も驚きの目で見ているようで誇らしい。震災時の被災者の振る舞いといい日本人の「美徳」は「国民性」を貫く力強いバックボーンを形成している。賢明で情熱的なリーダーが出現すればこの国はきっといい国になれる。
 「流動化処理土」というものの存在を知って、中国の南シナ海環礁の埋め立てが何故可能だったかが分かった気がした。あの広大な埋め立てがどうして短期にできたのか不思議で仕方なかったが、多分こうした技術をフル活用して実現したのに違いない。中国恐るべし!だが、力の出し方が残念至極なのがあの国らしい。
 
 アメリカ大統領選挙で民主党のヒラリー・クリントンが敗れたことについて個人的な感想を述べてみたい。
 アメリカは「現状変更」を求めて『黒人大統領』を選出するという大転換を図ったが結果は予想に反したものであった。残された新しい道は『女性大統領』しかなかったはずだがそうはならなかった。クリントンも「ガラスの天井は固かった」とこんな敗北宣言を述べている。「今私にはわかった、わかったんです、われわれはまだ、高くて固いガラスの天井(女性には超えられない壁とされている)を、壊していないということです、けれどいつか誰かが、できれば近いうちに、われわれが期待しているよりも早く、壊してくれることを期待します」と。
 しかし彼女のこの言葉に疑問を感じる。粗野で野卑で暴力的なトランプに彼女はどう対抗しただろうか。テレビで見た彼女、美しくも上品でもない、知性すら感じられない女性を演じさせられている、絶えずそう感じていた。力のトランプに力づくで対抗しようとする彼女の姿に違和感を覚えた。そうじゃないだろう、知性と品位に装われたたおやかで強靭な『女性』に国運を託そうとしていたアメリカ国民の期待を彼女は裏切っている。そう思えてならなかった。女性票が逃げたのがその証拠ではないか。
 ヒラリー・クリントンがアメリカ国民の求める女性像に適った女性であったなら「ガラスの天井」は打ち破れたに違いない、なにしろあのトランプが相手だったのだから。偏見とも女性蔑視とも取られかねないがそう思う。
 
 福島の被災児のいじめは「陰惨」過ぎる。どうしてこんなことが起ったのだろう。
 テレビなどで報じられている内容を簡単にまとめると、福島の原発事故で横浜へ移住してきた当時小学二年生の男の子が、放射能を持ち込んだ「菌」などといじめられ、五年になると賠償金が出ているだろうとゲーム代金などを強要されて百万円以上の被害を被ったという。今中学二年のこの子の負った『心の傷』は深く、永く彼を苦しめるに違いない。横浜市の第三者委員会は「教育の放棄」と厳しく学校と教育委員会を弾劾しているが、余りにも空しい。
 福島の復興も、広島も熊本も、遅々として被災者の救済と復興が果せていないのに、五輪だ、万博だと浮かれている『おとな達』。博多陥没事故の復旧を、地域が心を一つにして達成した日本人と同じ日本人が何故!
 
 電通社員の過労死問題はこの国の「長時間労働」の根の深さを浮き彫りにしている。
 電通には「鬼十則」というものがあって電通社員の行動規範として長く存在してきた。これは中興の祖と呼ばれた第四代社長吉田秀雄氏が1951年(昭和26年)に定めた彼、吉田の「広告の鬼」としての経験則をまとめたもので、競争の激しい広告業界で揺るぎない地歩を固め断然の業界首位を築いたバックボーンとして社員を規制、遵法されてきた。内容の詳細は省くが設定されてから半世紀以上を経て、古色蒼然、余りにも時代錯誤の感の否めないものだ。「時代の最先端」を行く広告業界の雄が、もし未だに信奉しているとしたら、「五輪エンブレム問題」にみられる前時代的な営業手法も宣(うべ)なるかなと納得できるし今回の長時間労働の実態も否定し難い企業体質そのものに根ざしたものといえる。
 長時間労働による過労死が頻発する改善策として「月80時間以上の残業をさせている企業に対し、労働基準監督署が立ち入り調査し現状を確認する」と3月に指導強化された。これに対応して東京、大阪など主たる5監督署が指導してきたが電通は無視、過重な超過勤務の実態は改善されなかった。そんななかで若い女性社員の自殺が明るみになって表面化した。
 巨大広告会社「電通」の威勢はマスコミ各社に絶大な影響力を誇っている。少々のことなら新聞であれテレビであれ力づくで抑え込める、そんな自信過剰があったのではないか。もし吉田社長存命なら今回の醜態をどう思うだろうか。実態を「80時間規制」にねじ曲げるようなことは彼の潔しとするところではないことは疑う余地はない。100時間なら100時間を、180時間ならそれを堂々と明らかにするのが彼の流儀だと思う。もしそれが法に触れるのなら事態を改善して新たな展開をするのが「吉田流の本質」なのではないか。かって広告業界に身をおいたことのある者として電通の大変革を願う。
 それにしても電通のみならず運輸大手ヤマトの残業代未払いの是正勧告、大企業の下請けいじめ、大手スーパーの納入業者との取引に於ける優越的地位の濫用―売れ残り品の不当引取りなど、東電系電力小売業者による電力取引所への不当に高い価格の売り注文提示による「市場価格の吊り上げ操作」など、大企業の「不正」が多すぎる。
 近年株式市場の活性化を図った「スチュワードシップ・コード」や「コーポレートガバナンス・コード」の策定などによって株式取引の透明性と公開性を狙った改善が相次いでるが、それ以前に企業活動の実態である「生産活動・業務活動」そのものの『公正』さの追求がまずもって要求されることを知るべきであろう。
 
 我国の国民性の素晴しさとは裏腹な企業の醜悪な振る舞いが成長を阻害しているのではないか。アベノミクスの「三本の矢」よりももっと根本的なところに成長回復の要諦がある。
 
 
 

2016年11月14日月曜日

普通の国になったアメリカ

 アメリカ大統領選挙でドナルド・トランプ氏が勝利を収めた。二年前には、いや一年前でさえ予想だにしなかったこの事態がなぜ出来(しゅったい)したかを考えてみたい。
 
 アメリカが今日の繁栄を築いた原因のうちの三つを重要と考える。先ず戦争の被害を直接被ることのなかった地政学的優位性。その二は資本主義と民主主義を原理的に最も純粋に、という事は結果的に最大の効果を達成できる形で実現できたこと。最後に「奴隷制度」が挙げられる。
 
 20世紀は「戦争の世紀」であった。世界大戦だけでも二度も経験したしそれ以外にも多くの戦争が繰り返された後ようやく「平和」が築けるようになった。アメリカがそれらの戦争に不関与であったわけではないが、少なくとも戦争の被害がアメリカ本土に及ぶことだけは避けることができた。この「アドバンテージ」の累積は大きい。フランスにせよドイツにせよヨーロッパの国々は蓄積した資産を戦争のたびに壊滅的に喪失し、復旧・復興を繰り返した。英国も、中国もロシアも、我国も事情は同じであった。発展の遅れた国――後進国は植民地として宗主国に徹底的に『収奪』された。この間アメリカは後進国から先進国の仲間入りを果し、第二次世界大戦の後「覇権国家」としての地位を確立し半世紀以上に亘ってその圧倒的な「恩恵」に浴し君臨した。
 これは旧大陸と遠く隔絶した「地理的」要因と「兵器」の未発達によるものであった。第二次世界大戦で空軍―航空機が戦力として最重要兵器となったがそれでも米国本土が主戦場となることはなかった。その安眠を破ったのが「3・11」であったが、このショックのアメリカ国民に与えた『恐怖』が想像以上であったことはその後の「痙攣的」「誇大妄想的」反応で明らかだ。
 戦後アメリカが「世界の警察」として軍事的に世界を制圧してきたのもある意味で「本土の安全神話」に根差すところがなかったとは言えない。更にアメリカが唯一調達を国内で完結できなかった「石油」を安定的に供給するために中近東の制圧が必要だったのだが原油などの資源確保が自国とその経済圏で賄えるようになった今、「世界の警察」への使命感が希薄化するのは当然で、そもそも中近東紛争が欧州列強の植民地支配時代にまいた種の後始末的側面が強いだけに、第二次世界大戦後の世界秩序維持からの撤退は国民的合意が容易に形成される時期に至っている。
 兵器の飛躍的進歩―軍用機の進化、大陸間弾道弾の出現、潜水艦の機能向上と潜水艦対空兵器の開発などアメリカの「本土安全神話」は崩壊した。「内向き」「保護主義」の深層に潜む『恐怖』の淵源がここにある。
 
 資本主義と民主主義は人類の長い発展段階の最終到達点として構築された経済的政治的システムである。先進諸国がこのシステムを導入するには巨大な「既得権益層」との調整が不可欠であった。ときには「内戦」という代償さえ必要であった。そうして採用したとしても国民諸階層間の妥協・調整が求められ「原理的純粋さ」をある程度犠牲にせざるを得なかったから、システムのもつ効果は減殺されざるを得なかった。例えば、成長分野への資源配分の非効率さであったり労働市場の流動化不足であったりという形でそれは現れた。
 ところがアメリカはそうした「しがらみ」とは断絶した『新大陸』で資本主義と民主主義を「純粋培養的」に、『実験』的に実施することが可能であった。既得権力層をもたない「アドバンテージ」は経済的政治的成果を潤沢にもたらした。「市場原理主義」が他の先進諸国とは比較にならない有効性を持って機能した。二大政党制は国民のカウンターパワー(平衡力)を見事に吸収して安定をもたらした。旺盛な「起業」と成長を終えた企業の「退出」は市場を通じて適正に行われた。冒険心に富む「ベンチャー・キャピタル」は金融市場を活性化し資金循環を円滑化した。資本主義と民主主義はアメリカで「繁栄の精華」を開花させた。
 
 しかしそこに至る以前、独立したばかりの後進国アメリカが成長するためには安価な労働力が不可欠だった。とりわけ産業革命で機械化した綿製品生産が隆盛であった英国へ綿花を供給する南部の「プランテーション」ではその傾向が強かった。ヨーロッパ先進国は植民地政策で資源と労働力の調達を果したが後進国アメリカはアフリカの黒人を暴力的に奴隷として調達するという道をとった。最盛期の黒人奴隷は400万人を数え南部人口の三分の一以上に達していた。工業化路線を進んでいた北部との南北戦争で南部は敗北するが独立当初のアメリカの繁栄が黒人奴隷制に支えられた綿花栽培であった事実を覆い隠すことはできない。
 奴隷制度の歴史はアメリカ(人)の『原罪意識』として永くこの国を規定し続けることだろう。
 
 繁栄を支えていた三つの要因が消滅したりその優位性が減退した今、アメリカは「普通の先進国」に成熟した。先進諸国が負わされている「しがらみ」をアメリカも無視できなくなった。即ち建国250年を経て『既得権益層』がはっきりとヒエラルキーを形成するようになった。今回のトランプ旋風は明らかに『反体制運動』であった。1%の超富裕層が支配する『現体制』へ「ノー」を突きつけた「トランプ大統領」の誕生であった。
 市場原理主義を信奉し市場の「見えざる手」にすべてを委ねる経済運営は修正を求められるに違いない。「再配分政策」を大幅に取り入れざるを得なくなるであろうし、既成の政治勢力に二大政党制の運営を任せるだけでは国民の総意を吸収することは不可能になっている。何らかの政治体制の変更を迫られるに違いない。「アメリカ型資本主義」を強制してきたアメリカの外交姿勢は劇的な変化を見せるかも知れない。
 トランプ氏がこうした時代の要請に応えられるかどうかは不明である、そもそも彼は「超富裕層」なのだから。しかしたとえ彼が裏切ったとしてもアメリカが元のアメリカに戻ることは不可能だから「次のトランプ」が又大統領になるに違いない。
 
 普通の国になったアメリカの正念場はこれからだ。トランプ氏のいう「アメリカン・ドリームの復活」はあり得るだろうか?

2016年11月7日月曜日

坂の途中の家

 角田光代の『坂の途中の家』は現代人の精神状況を「幼児虐待」と「裁判員制度」を題材に心理サスペンス風に描いた佳作である。
 
 里沙子が思い浮かべた順風満帆というのは、何もかもが思い通りになってきたという意味とは異なった。大きな挫折もなく、絶望もなく、重大な決意もなく、なんとなく日を送っているだけで充分たのしく生きてきたのではないか、そしてそういうことを順風満帆というのではなかろうかと思ったのだった。子どものころから友人に囲まれて、運動も勉強も平均程度にはできて、第一志望の大学に入れなかったとか、思うようなところに就職できなかったとか、そういうことはあったとしても、逃げ出したくなるようなこともなく生きてきたのではないか。
 こんな女性は幾らでもいるのではないか、いや女性ばかりでなく男性も。
 
 そんな女と男が結婚して、やがて赤ん坊が生まれて…。
 自分で想像していたより二百倍はうれしかったと、陽一郎はそんな表現をしていた。友だちの家の赤ん坊を見にいくと、どっちに似てるなんてぜんぜんなくて、ただの「赤ん坊」にしか見えなくて、目がぱっちりしているとか、口がおとうさんそっくりとか言い合っている友人たちを、お世辞がうまいやつらだとしか思わなかったんだけれど、うちの子を見たら、もう顔がまったく違うってそのときはじめてわかったんだ、こんなにかわいい子が生まれちゃったよ、どうしようって思ったのだと、いつか陽一郎は話したことがあった。
 赤ん坊が眠りこんで陽一郎がまだ帰ってこない時間、ふと部屋を眺めまわして、なんて汚い部屋なんだろうと、はじめて見た場所のように思う。しかしその汚さは目を覆いたくなるようなひどいものではなくて、深く重い安心感でこちらを包むような種類のものだった。なんだろう、この感じ、と里沙子は思い、煮込みすぎて野菜が形状を失いどろどろに溶けてしまったカレーがまず思い浮かんだ。/生活か、と里沙子はそのとき思った。これが生活丸出しの状態か、と。その言葉をあてはめてみると、とたんに散らかりきった汚い部屋が、そうあってしかるべきものに見えた。
 
 実家の親とは絶縁状態のようなかたちで東京へ出たから結婚式にも出席してもらえず、義父母ともうまくいっていなくて、夫の協力はあてにできず、子育てをひとりでしょいこんだ里沙子はどんどん追い詰められていく。そんな里沙子が裁判員制度の「補充裁判員」に選任される。しかも対象事件が「幼児の虐待死――生後数ヶ月の幼児を浴槽に落として殺害した」育児ストレスの絡んだ事件という里沙子の状況にあまりにも酷似したものであった。当然のように里沙子は被告人の水穂に自分を投影してしまう。暴力的な夫と習字教室の教え子と比較する義母に追い詰められる水穂の心理状況はそっくり里沙子とオーバーラップする。
 「水穂の言うことは、被害妄想でも思いこみでもない、夫や義母や同じ母親たちの、本人たちでさえ気づかないちいさな悪意を、防御もせずに実際に受けていたのだと里沙子は主張したかったし、必死になってしてきたつもりだった。」
 正常な精神状態の時には気にもならなかった他人の言葉のいちいちが心をざらつかせ、キリキリと突き刺さってくる痛みがいつの間にか逃げ場のない極限状態に追い込んでしまう。子育てもできない常識のない嫁―娘というレッテルを貼られるのをおそれてひるむ水穂(=里沙子)は、やっと自分のこれまでの生き方――人生のそれぞれで行ってきた選択の結果としての今に気づく。
 本来いるべき場所におらず、決めるべきことも放棄して、気楽さと不安を覚えながら動こうとしない、このなじみ深い感覚、これは、学生時代に授業をサボったときのものではない、もっともっと幼いころから自分がやってきたことだ。何が窮屈なのか考えることをせずに、ただ母のよろこびそうな話題だけ口にし続けていた。窮屈さの原因が何か考えず、ただひたすらに逃げた。考えることからもまた、逃げた。(略)きみはおかしいと言われ続け、そのことの意味については考えず、そこで感じた違和感をただ「面倒」なだけだと片づけて、ものごとにかかわることを放棄した。決めることも考えることも放棄した。おろかで常識のないちいさな人間だと、ただ一方的に決めつけられてきたわけではない、私もまた、進んでそんな人間になりきってきたのではないか。/そのような愛しかたしか知らない人に、愛されるために。(略)考えもせず決めもせず、だれかに従うことは楽だった。たしかに、楽だったのだ。
 その結果「里沙子は愕然とする。こんなに何も持っていないなんて。陽一郎が巧妙に奪い取ったと言うこともできる。どこにも逃げられないように。でもそれは、みずからおとなしく捨て去ったのと同義だ。自分の足で立たなくともすむように。」
 
 子を授かってはじめて分かった母親の「愛を装った支配」、夫のあいまいなやさしさに秘められた「強いられた従属関係」。
 そうだった。里沙子は続けざまに思い出す。母は、娘に追い抜かれることをおそれていた。あのときはわからなかった。そんなこと、思いつきもしなかった。だって母はいつも味方だった。
 まさに、おとしめるためだけに、母は言っていたのだ。その言葉に娘が本気で傷ついているあいだは、娘は自分よりちいさな存在であり続けるのだから。(略)憎しみではない、愛だ。相手をおとしめ、傷つけ、そうすることで、自分の腕から出ていかないようにする。愛しているから、あれがあの母親の、娘の愛しかただった。/それなら、陽一郎もそうなのかもしれない。意味もなく、目的もなく、いつのまにか抱いていた憎しみだけで妻をおとしめ、傷つけていたわけではない。陽一郎もまた、そういう愛しかたしか知らないのだ―。
 
 自分の価値観が絶対で相容れない他人を排除する風潮がはびこる今、愛のかたちが見えてこない。
 
 
 

2016年10月31日月曜日

半ドン

 半日休み―午後から仕事の無いことを「半ドン」という。今どきこんな言葉は「死語」かもしれないが、もともとはオランダ語の日曜日を意味する「zondag」がドンタクと訛って休日や休業を意味するようになった。それが1876年に官公庁が土曜半休になった折に「半ドン」と呼ばれるようになり以降土曜日の半休を一般に「半ドン」と使うようになる。
 ここで問題にするのは官公庁が「半ドン」を就業形態として定着させると一般私企業も一斉に右に倣えして「土曜半休」を「半ドン」として採用したことだ。勿論最初は大企業だけだったろうがやがて中小企業もそれに倣うようになり週休二日制となるまで日本の就業形態として定着することになる。
 
 昨年今年と賃上げに政府が口出しするようになり、マスコミの批判にもかかわらず経団連をはじめ我国の経済界は一定の理解を示して政府の要望に応えベースアップなどの賃上げを行った。マスコミがいうように本来賃金交渉は労使の交渉にまかせられるべきであり政治的な圧力によって力関係が歪められるべきではない。しかし「半ドン」にみられるように「お上」になびく、というかおもねる気風が国民性としてあることは否めないしお上だけでなく外国の力―欧米先進国の評価にも極めて弱い一面がある。たとえば国内では全く評価されていなかった黒澤明の『羅生門』がアカデミー名誉賞(現・外国語映画賞)を得るや一挙に評価が高まり、黒澤の地位は一気に上って以降の作品製作に無理が利くようになったなどという例には枚挙に暇がない。
 賃上げへの政府介入についてももし海外のしかるべき機関の後押しがあればマスコミの批判の矛先が弱まる可能性は極めて高いにもかかわらず6月20日に公表された「IMF対日審査報告」はほとんどニュースになっていないのは不思議きわまる。ひょっとしたら7月10日に控えた参院選挙への影響をかんがみたマスコミの自粛か政府の働きかけのせいではないかとかんぐりたくなる。なぜならこの報告はアベノミクスの失敗をはっきりと明言しており「アベノミクスは当初成功を収めた景気回復は失速した。高齢化や人口減で国内市場が縮小しているほか、賃上げが十分波及していない点問題、労働市場の改革と所得政策が重視されるべきだ」という内容になっているからだ。
 IMFがここでいう「所得政策」は本来の「物価安定のためにする賃上げ抑制」ではなくその反対の「賃上げで需要拡大と物価上昇を実現しよう」というもので、バブル崩壊以後物価上昇の範囲内の賃上げではデフレ脱却はできなかった20年の学習を経済政策に生かそうとする、まさに今政府が経済界に要望している内容に沿うものである。アベノミクス失敗の部分を忌避したいがための無視かも知れないがIMFの処方箋は的確であるだけに「外圧」に弱い国民性をよい意味で利用して政策に反映してもらいたいものだ。
 
 賃上げと併行して政府は「働き方改革」を推進しているが、有識者を集めてあれこれ難しい議論をするよりも、改革の根本にある『時間外労働―残業の削減(撤廃)』を『官公庁』が率先垂範すれば改革はスグにでも実現できる。「半ドン」で明らかなように我国の国民性は「お上」に弱いから少々無理でもお上がやればそれに倣うのは確実だ。それによって仕事の効率が上り予算のムダ遣いが減ったりすれば間違いなく日本から残業は姿を消すに違いない。慣習的な残業で無限定に行われていた諸々の仕事が必要なものとそうでない仕事の「選別」が行われ、必要な仕事が「新たな職務」として雇用を生み出す効果もある。
 
 2020年に「残業ゼロを目指す」日本電産が2017年3月期の連結純利益を1000億円に上方修正する決算見通しを発表した。永守社長は「「『モーレツ』はもうウチにはない」と語ると同時に、労働時間を減らして収益力を底上げするという方針を示し更にこう語る。「優秀な社員を採用できなかった時代はハードワークしかなかった」「今は優秀な社員が入ってくる。欧米はゼロが当たり前。もう時代が違う」。昨年から残業削減―定時退社を推進してきた同社は、残業削減による4~9月期のコスト削減効果は10億円に上るという。これは単純に来年三月期の1000億円の連結純利益の1%に相当する。定時になると『早く帰れ』と言われる若い社員は「ムダな仕事が理由の残業は認められないので、どう仕事の効率を上げるか必死で考えるようになった」と語っている。会議時間の短縮、会議用資料を減らすことによる残業削減効果など業務の生産性を落とさずに残業を3割減らすことができたという。
 
 日本電産が永守社長のトップダウンで残業削減に取り組み実績を上げたように、安倍首相が決断すれば『日本の官公庁の残業ゼロ』は間違いなく達成できる。予算編成時の財務省主計局などの殺人的な残業をどうするのかという反発も予想されるが、『ビッグデータとAI』を活用すれば「資料作成時間の短縮」は必ず実現できる。彼ら日本でも有数の優秀な官僚が、公正で公平な最適予算の編成という最も重要な作業に集中できるから日本国の成長発展に資する素晴しい「予算」が編成できるに違いない。
 
 「お上」や「外圧」に弱い国民性は特殊かも知れない。恥ずかしいと考える人もいるかもしれない。しかしこれは我国の長い歴史から生まれたものだから今すぐどうこうできるものではない。欧米先進国では賃上げに政府が圧力をかけることなど論外かも知れないが、20年以上苦闘してもデフレ脱却ができないできたのだからここは素直にIMFの勧告に従って「逆所得政策」を取り入れてもよいのではないか。少子高齢化社会の問題を解決するためには「時間外労働―残業ゼロ」を実現して女性や高齢者また障害を持つ人たちの労働参加が必須であるならば政府が「旗フリ」をして実現できるのであればそうすればよいのではないか。日本には日本の事情があるのだからそれに合った方法でやるしかないではないか。
 
 「日本式」も捨てたものではない、と喜ぶ日が来る。そう信じている。
 

2016年10月24日月曜日

時間の値段

 Amazonで古本を買って代金を郵便局で振り込んだのだが振り込み手数料がいらなかった。Amazonはすごいと思った。最近ちょくちょく古書を買う。図書館で借りて蔵書にしたいと思って出版社のリストを検索すると「絶版」になっていることが多いのでネット古書店のご厄介になるのだが良質のものが少なくないうえに安いので重宝している。しかしネット古書店では当然のように振り込み手数料がかかるからAmazonの無料に驚いたわけだ。ドローンの配送を考えたり、当日、いや三時間以内の配送を約束するAmazonプレミアムなどAmazonのネット通販は進化しつづけている。
 テレビショッピングのサービスもすごい。先日の電気シェーバーの売り出しでは販売価格自体は街の家電量販店と同じだったが「替刃」がついた。これが結構高くて五千円ほどする、それがタダなのだから「お買い得」だ。一年前に買ったばかりで今スグ必要じゃないが、もし五、六年も使っていたら間違いなく購入したに違いない。テレビショッピングはとにかく「おまけ」が「お得感」を与えてくれる。
 今年の夏の暑さは格別だったからスポーツドリンクが絶やせなかった。スーパーやドラッグストアへ行ってケース買いしたが自動車や自転車が必要だった。あと五年もしたらそれもままならなくなるに違いない。そうなったらどうしよう?そう考えたとき、そうだネットで買えばいいと思いついた。トイレットペーパーなど嵩張ったものが必要なときもそうすればよい。
 この二三年日用品をドラッグストアやホームセンターで買うことが多くなった。酒類の特売チラシがドラッグストアから出ることも少なくない。百貨店、スーパー、SC(ショッピングセンター)のすみ分けがボーダーレスになってそれにドラッグストアとホームセンター、家電量販店が加わって、更にコンビニもあるから…、勿論まちの商店街もとなると我々の購買行動の選択肢は30年前とは比較にならないほど多様になっている。
 
 もうひとつ考えなければならないのはこうした「モノ消費」以外に「コト消費」が増えたことだ。例えば美術館の特別展示―最近では「ルーブル展」など今までで一番の混雑で図録などのグッズ販売も豊富にあって併設のレストランで食事を楽しむ人が溢れていた。音楽会へ行く機会も増えたし講演会へも良く参加する。娘は「ドリカム」の追っかけで年間4、5回、うち2回ほどは東京か横浜の公演が入っているしエステやネイルも程好くたしなんでいる。勿論旅行にも年に何回かは出かける。マンションの若いお母さんの話を聞いていると、ネットで買い物を済ませて空いた時間を家族とお弁当持ちで公園で遊んだりママ友同士でランチをしているようだ。
 共働き世帯が増え働く女性は忙しくてぱんぱん、子育中はもっと大変で、限られた時間をいかに有効に使うかが消費行動に直結している様子がネット通販の盛況ぶりに現れている。お金を使わない節約から時間を有効に使うことが「節約」の意味になってきている現状をもっと理解する必要がある。金利ゼロのこのご時世にコンビニATMの利用手数料が平均年間3000円に達しており5000円の利用者も2割もいるという数字がこの間の事情を明らかにしている。
 
 企業はコスト削減ばかりに目が行って、コストをかけた商品開発、イノベーションへの取り組みが弱い。それが結果的に潜在成長率に悪影響を及ぼし、デフレを再生産している。また消費が不振な背景には賃上げが不十分なことが大きく影響している。企業は賃上げに消極的だが、しつこいデフレ状況を考えると、欧米型の成果主義よりもなだらかでも賃金上昇が続く方が望ましいとする国民性があって、それが一方的に否定されている風潮が将来不安をよび経済を萎縮させているのではないか。
 アベノミクスで一時はデフレ脱却かと思われたが尻すぼみで、今は格差拡大があからさまになって重苦しい閉塞感が漂っている。消費額自体はバブル期の1980年代後半とほぼ同じ水準であるにもかかわらず消費不振といわれるのは何故だろうか。「コト消費」が「モノ消費」と同じくらいの消費量になっている今、モノを買うことには実感が伴うが、サービスはその瞬間に消費されるからなかなか実感として残らないことが影響しているのかもしれない。しかし時代はもう消費を物販主体の小売業の数字だけで判断できなくなっている。にもかかわらず政府や日銀が政策判断する「経済統計」は依然として物販主体の「商業統計」や、ネット経済とは距離のある対象者と集計方法に基づく「家計調査」がベースになっている。消費統計などの経済統計体系が実体経済と乖離しているのではないかという批判が経済学者やジャーナリズムに強いのはこうした現状を突いているのであろう。
 このような統計の欠点を補う試みとして「東大日次物価指数」が注目される。これはスーパーマーケットのPOSシステム(スーパーのレジで商品の販売実績を記録するシステム)を通じて日本全国の約300店舗で販売される商品のそれぞれについて各店における日々の価格日々の販売数量を収集しそれを原データとして消費者物価を推計するものだが、即時性、速報性で従来統計より優れており今後の展開が注目される。
 ネット通販やサービス関連の統計を充実して実体を正確に反映する統計の整備が望まれる。
 
 IT――特にスマホが普及して世の中は一変した。にもかかわらず『世間を見る目』はそれに追いついていない。だから『世の中』が正しく掴めていない。個人個人の動きとそれを積み上げたはずの『全体』の間の隙間がドンドン拡がっている、「日銀のマイナス金利」って何?という風に。
 
 いずれにしろ我国をアングロサクソン型資本主義や金融理論の実験場にするのはもう勘弁して欲しい。
 
 
 

2016年10月17日月曜日

地方創生と農業

 「日本の農薬は品質がいいんですよ」と知人の農家の方から聞いた。小泉進次郎議員のJA改革について会話しているときのことである。JAの農薬や肥料・農業機械は韓国など外国の2~3倍もする高価格で販売されている現状を改善して日本農業を改革しようという小泉議員の挑戦は評価に値する。しかし、300種類以上あるといわれている日本の農薬は農産物の種類や耕作地の特性に適したものを希望する農家の要望に応えようとした農薬会社の苦労の結果でもあって、だからこそ外国製品よりも効き目がよく効果も長続きする商品になっているという側面もある。
 ことほど左様に、日本農業は世界でも有数の繊細で緻密な計算をもとに組み立てられた農法を誇っている。その年の雨量や土質の変化、気候などに合わせた品質の良い作物を育成する高い技術力は「安心安全」な上質の食品を生産する農法として注目を集めている。
 
 一体なぜ日本のコメ生産の基本技術たる「水田農法」が必要かといえば、「雑草と害虫駆除」を必須とする「湿潤多雨」地帯の「米生産」を最適に行うための窮極の生産方法だからだ。
 有名なミレーの『落穂ひろい』を想像すれば明らかなように、西洋の「ムギ生産」はバカ広い農地に直播きして、ただ成熟を待って収獲するだけの実に粗放な(?)生産方法でも通用する作物なのだ。なぜなら「乾燥少雨」地帯では「雑草」は生えにくく「害虫」も発生しにくい土地・気候だからで、それだけに農薬が発明されて「収量」が安定するまでは「ムギ」は天候に左右される栽培の非常に難しい作物だった。従って農業が中心産業だった中世・近世までのヨーロッパは貧富の差の激しい階級社会で貧困層は飢餓に苦しめられ短命な生き方を強いられていた。その結果中国を初めとしたアジア諸国におくれをとっていたヨーロッパだったが、ジャガイモの発明、避妊の普及、皮下着の綿製品への転換はヨーロッパを一挙に発展させることになる(勿論産業革命の効果は絶大だったが)。
 「皮下着」には違和感を覚えるだろうがギリシャ・ローマ時代からヨーロッパ諸国の発展を度々衰亡させてきた「ペスト(黒死病)」と「皮下着」とは大きな関係があった。14世紀には英国の人口の3分の1が死亡するほどの猛威をふるったこともあったペストは「死病」として17世紀、18世紀までヨーロッパを悩ませてきた。19世紀になって香港から中国インドに伝染し1200万人を死亡させるなど近代以前の世界を震撼させた一大伝染病ペストの撲滅は国の発展成長のカギを握る重要政策だった。その原因が「皮下着」で、通気性が悪く汗や体液まみれの不衛生な下着はペスト菌などの黴菌を繁殖させる最悪の下着だった。それが綿花栽培の発達によって綿製の下着が貧困層にまで普及して衛生面の飛躍的な改善につなりペスト撲滅が可能になった。
ジャガイモは小麦に比べて生育が簡単で収量も安定・多量だったから貧困層にも十分にゆきわたることになり栄養分豊かな食生活をもたらし、避妊意識の広まりと技術の普及は多産のもたらす食料の逼迫を改善した。ペストの撲滅、ジャガイモと避妊の普及は相乗してヨーロッパ諸国の人たちを「飢餓からの解放」に導いた。
 湿潤・多雨の我国で稲栽培を行うためには水田耕作が必須技術だったが、平家物語にある白河法皇「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話のように「治水・灌漑」がそのための最重要事業だった。狭い国土が300以上の藩に分割統治された江戸時代は各藩の努力によって治水事業がきめ細かに行われ農業生産の基礎が全国的に完備した。そのうえで各地の豪農を中心とした農法の革新と蓄積は豊かな農業生産を実現し農産物は高価格商品として取引されたから庄屋階級は大坂の大商人と並ぶ富裕層であり土地持ちの自作農は中産階級として江戸の庶民より豊かな生活を保障されていた。しかし農業は「労働集約産業」であったから人口の8割以上必要とされ江戸時代を通じて2600~2700万人を上下して変わらなかった。こうした事情は第二次世界大戦直後も変わらなかったが「化学肥料と農薬」の出現、「稲の品種改良」は農業を一変させた。
 コメ生産の生産性が飛躍的に向上し余剰労働力が生み出されるようになる。一方我国の産業構造は農漁業中心の一次産業型から製造業中心の第二次産業中心へ、そしてサービス業中心の第三次産業化へと高度化し先進国として成熟していく。この間農業人口は減少の一途を辿り高齢化もあって平成23年には260万人、農業を専業とする農業従事者は186万人まで減少した。それにもかかわらず毎年の米の作柄状況が平年並み以上を保っているのは米の生産性が飛躍的に向上していることを如実に物語っている。味をある程度犠牲にして収量増に標的を絞って品種改良すれば生産性はもっと高めることも可能である。
 一方農業生産は平成22(2010)年度11兆1千億円第2次産業(関連製造業)と第3次産業(流通業・飲食店)を含めた農業・食料関連産業の国内生産額は94兆3千億円となり、国内生産額全体(905兆6千億円)の1割を占めている。
 
 見方を変えて現在の主食用米の必要量はどれほどかを見ると市場規模が縮小したとはいえ700万トンは下らない。この米の生産量を基礎として現在のその他の農業生産物を積算した「必要農業生産物量」を推計、それに基づいて『必要農業人口』を求めると、家族を含めて100万人、家族3人とすると農家は30万戸ほどあればいいことになる。先進国では大体人口の1%程度が農業に従事すれば十分という傾向を示しているから我国が100万人で十分という見方はあながち無謀とはいえない。そこで単純に平成22年の農業生産額11兆1千億円を100万人で割れば1人当りの農業収入は1千1百万円、30万戸の1戸当たり収入は3千7百万円になる。農地集約、企業の参入を認めるなどの「農業改革」を行えば農業は間違いなく成長産業に生まれ変わる。
 
 地方創生が叫ばれて久しいがいまだに実効を挙げていないのは農業にこだわり農産物生産の拡大による「発展・成長」を考えていたからではないか。そうではなくて、特色があり多くの人が憧れる文化を持つ「小都市」を地方に多く作ることが地方創生なのではないか、ドイツ・ロマンチック街道のような。
 
 明治維新は数々の『暴挙』をしでかしたが、「乾燥少雨」地帯の農学者を「御用学者」として、それも「酪農」を専門とする学者を採用したことは「暴挙」の最たるものであろう。そして四百年以上の蓄積の精華であった『日本農法』を捨て去った維新政府の行いは『愚挙』と言っても言い足りない我国農業にとっての『災禍』であった。
この稿は川島博之東大准教授「日経・やさしい経済学「農業の効率化と地方創生」を参考にしています