2016年1月31日日曜日

大阪の魅力、関西の魅力

 NHKの朝ドラ「あさが来た」が人気になっている。主人公あさの奔放な生き様と演じる波瑠さんの可愛らしさが朝ドラにふさわしい清々しさとポジティブな雰囲気を伝えてきて楽しい。もうひとつ若い女性に絶大な人気を博しているのが五代友厚=ディーン・フジオカだ。維新の大阪経済界を牽引した五代友厚の清新溌溂さとディーン・フジオカが絶妙にマッチしてこれまでの朝ドラになかったインパクトを与えている。
 私たち世代にとって五代友厚は割りと身近な存在で北浜の証券取引所や谷四にある大阪商工会議所横の友厚像には馴染みがあったが若い人たちは今度の朝ドラで始めてその存在を知った人も少なくないであろう。これを機会に周囲の身近な「歴史」に興味を持ってくれれば朝ドラの思わぬ功名手柄になろう。
 
 以前から思っていたのだが大阪の「文化の厚み」は京都奈良に劣らないものがある。偶々それが奈良や京都のように何百年という古いものでなく歴史の教科書に記載されている量が圧倒的に少ないから気づいていないかもしれないが私なぞ京都の人間にとっては堪らない魅力がある。中之島から御堂筋を難波に向って歩く道すがらの町並みや御堂筋沿いに50メートル間隔くらいで設けられている「世界的な作家の銅像」など贅沢極まるのだが大阪人はそれを誇らない。秋の銀杏の黄葉から洩れる少し和らいだ陽光に照らされたそのたたずまいにはしみじみと心うたれる。裏道に一歩入ると名もない石造りの建物が静かに明治の味わいを漂わせているのも大阪の懐の深さだ。京都や奈良の歴史的建造物がはるか遠くの、記憶の底を揺さぶるようなものであるとしたら大阪の石造りの「明治もの」は我々の祖父や曽祖父の温もりがそこにあるようで皮膚感覚に訴える力がある。
 これも以前から思っていたのだが、『古代の奈良』『中世の京都』『近世・明治の大阪』『舶来ハイカラの神戸』という意味づけで関西の特徴を訴えれば『世界的』な魅力を演出できるのではないか。2000年に及ぶ歴史の蓄積をこんなにも鮮やかにリアリティをもって魅力を発信できる国・地方は世界ににも珍しいのではないか。確かに中国は三千年の歴史を誇っているが『民族の断絶』があり民族の抗争は歴史遺産の破壊の歴史であるから「真物の遺産」は極めて少なく領土の広さは観光にはマイナスに作用する。フランスもイタリアも英国もその歴史はたかだか数百年のものである。これらに比べればわが国の、「関西」の歴史は二千年とは言わないまでも1500年近い「確たる歴史」がそこに息づいているのだから立派なものである。
 住んでいる我々が歴史を明確に自覚し誇りを持って愛しむ姿勢をもつことが大切なのであってそのためにも大阪の人たちが自信を持って欲しい。魅力を掘り起こして欲しい。
 
 ところで歴史を少しでも考えてみると今の「日中韓」の関係には合点がいかなくなってくる。特に中国・韓国に対する我国の多くの人の見方・考え方は余りにも感情的・短絡的に過ぎる。考えてみよう、文字の無かったわが国が「漢字」を輸入し万葉仮名という曲芸的な文字づかいの後「カナ」「かな」を発明して「漢字かな混じり」の日本式表記法を手にしたから日本文化の高度な発達が実現できたのであり、仏教の伝来、貨幣制度の移入は文化・社会・経済の「礎いしずえ」を築いた。これら文化の伝来は中国から直接来たものは極めて少なく大概は朝鮮を経由しているし鎖国ののちも朝鮮使節は度々来日して国交は断絶しなかった。十九世紀、アヘン戦争を経て英国の中国植民地化が行われ丁度その頃我国が開国・明治維新後の急激な国力拡充を実現して日清・日露のふたつの戦争で優位を確立するに及び韓国併合へと突き進んだ。
 わずか二百年足らずの歴史だけで『今』を判断するから『嫌中・嫌韓』と呼ばれるような国民感情になるのであって日本国の成立からの長い目で見れば中国は長兄、朝鮮は次兄と考えるのが順当なのであって、我国は「末弟」というくらいの謙虚な気持ちで接すれば現在の「ねじれ切った」国家関係は正常に戻せるはずである。ここは一度、日中韓の三国がゆっくりと歴史を読み直す必要があるのではないか。
 
 最後につまらない話を。例の「ベッキー・ゲス極川谷の不倫騒動」について芸人や芸能マスコミ、一般人さえも「ベッキーは本当にいい子だから…」という発言が目立つがこんなオカシな不思議は無い。テレビに出ているベッキーは勿論のこと舞台裏での芸人・マスコミとの付き合いで見せる『ベッキー』も、演じられているベッキー・「虚像のベッキー」であって週刊誌に暴かれた姿やLINEに露出したベッキーこそが彼女の「本当のすがた」ではないのか。
 情報の選択と判断、その大切さはこんなところにも表れてくる。

2016年1月24日日曜日

SMAPと大塚家具―厳冬雑話

 国民的アイドルSMAPの解散騒動に一応の終止符が打たれた。グループの完全存続にはまだまだ紆余曲折があろうが6月頃までにはスッキリするだろう。
 今回の騒動は昨年マスコミを賑わした「大塚家具後継者争い」と根は同じでビジネスモデルをめぐっての社内紛争であって本来なら表に出ないで社内で収拾されるはずのものが何故かマスコミの知るところになって世間を騒がせてしまった。多分当事者のどちらかがマスコミの力を味方につけて自分に都合の良い方向に事を終息させようとしたのであろう。真相は、大塚家具の場合は商品が「家具」であって「高級路線と大衆路線」のビジネスモデルのどちらを選択するかの争いだったから分かり易かったが、SMAPは「人間」が商品だから『騒動』の中身が見え難い。SMAPのメンバーにしてみれば「マネージャーが創り上げてくれた」これまでの路線と新しく「ジャニーズ事務所の打ち出す」自分たちのすがたの間で『不安と戸惑い』を感じたとしても当然である。とりわけ副社長の「SMAPは踊れない」という発言はメンバーに『不満と困惑』を与えたに違いない。決して順調に表舞台を歩んできたのではないSMAPはマネージャーと一緒に苦労しながら積み重ねてきたこれまでの『SMAP創造』の過程に『自負と誇り』を抱いていたに違いない。それを否定されかねない虞があると感じたらジャニーズ脱退を考えても不思議はない。ところが『SMAP』という商品はメディア(テレビなどのマスコミ)に露出されてはじめて商品になるという特殊な商品であるところに問題があった。タレント業界は『参入障壁』が高く閉鎖的で『透明性』の極めて低い『寡占市場』なので業界地位の低い事務所ではなかなかタレントが『売れない』という事情を抱えている。SMAPという超売れっ子のグループの力をもってすれば業界の厚い壁も打ち破れるかも知れないという期待の下で動き始めてみたもののその壁は想像以上に強固であったことが分かって『決起』は頓挫する憂き目にあってしまった。
 それにしても「権力の監視」を『任』とするマスコミがいまだにこのような前近代的で閉鎖的な業界慣行を容認している現状は極めて嘆かわしい。そういえば十年ほど前、北野誠というタレントが意味不明のまま業界から干されてマスコミから姿を消したことがあったがこれもこの業界ならではの古い体質のなせる業だったのであろう。いずれにしても「ジャニーさんに詫びを入れていない」などということがさも当然のように正当視されている「やくざ稼業」のような業界体質は一日も早く改められるべきである。
 
 古いといえば「建設業界」も同罪でいまだに「ムラ社会」を引きずった『談合』を繰り返している。しかし今回の「震災復旧工事」での舗装会社によるそれは『震災』という理不尽な自然災害に対する『共助』と『善意』を裏切っただけに罪が重い。材料費や人件費の急な高騰という事情があったにせよ許されるものではないし相変わらず業界上位者の「ムラの仕切り」による「利益のお下げ渡し」という古い構図には辟易する。復興予算に関しては岩手県のNPOが緊急雇用創出事業として委託されていた受託金約8億円を詐欺した事件や被災地以外の全国の震災対策費として流用されたり、2011~2013年度に計上された復興予算の総額約25兆円のうち9兆円が使われていなかったという会計検査院の調査報告など不明朗かつ不愉快な実態が多すぎる。それでいて復興事業そのものも被災者の支援もいまだに満足に行われていない現状に心痛むばかりである。
 談合が明らかにされた同じ時期、産廃業者による「廃棄食品の横流し」も発覚しているが、カレー・チェーン店「CoCo壱番屋」のビーフカツなどの廃棄食品を転売した事件は今後底なしの拡大を見せるに違いない。何故なら「食品ロス(売れ残りや期限切れなど)を含む廃棄食品」は壱番屋以外にもレトルト食品業界やスーパー・コンビニなど多くの業界・業者が年間500万~800万トンにも上る莫大な量を廃棄しているからだ。「産業廃棄物処理業界」も競争の激しい業界で「低料金」を最大の武器として中小零細の企業が乱立しているから『業務倫理』を徹底させるためにはそれなりの「組織化(上流から下流を含めた)」が必要だろう。抜本的な対策が早急に望まれる。
 いずれにしても「中国」を嘲う資格はもはや我々にはないのであって日本商品の「安全・安心」を信用して「爆買」をしてくれている世界の人たちに見放される日もそう遠くないであろう。
 
 突然「暖冬」が「厳寒」になって『伊達の薄着』のやせ我慢も形無しだ。ソロソロ「爺らしく」せよということか。                    
 

2016年1月18日月曜日

ベースアップを考える

 ベースアップが新聞紙面を賑わし始めた。トヨタ労組が今年の要求額を昨年の半分の月額3000円これはトヨタ労組平均給与の1%にも満たないとする方針を固めたと伝えている。1955年に「春闘」が始まって物価を翌年の賃金に反映させる方式として「ベースアップ」が登場し、要求額の足並みをそろえる「統一要求」と相俟って我国の賃上げ方式として定着した。しかし産業別の成長に格差が出るようになり企業別にも業績にバラツキがある現在、ベースアップを根本的に再考する必要があるのではないか。
 戦後直の異常な高インフレ期は別にしても昭和時代は40年代約8%、50年代は5~6%と高インフレがつづいた。しかし平成に入ってインフレ率は急減し00~09年代2%未満から10年代はマイナスに転じ20年代は0%近辺でデフレからなかなか脱出できないでいる。このような状況の中で「インフレ解決のためのベースアップ」の正当性には疑問を感じざるをえない。
 しかしベースアップには労働分配率を向上させるという機能があり21世紀に入ってからはこの側面において存在価値が増しており、特に08年の金融危機以降は世界的に労働分配率が低下し、このことが「格差拡大」の大きな要因になったと考えられている。我国においても2000年前後は80%を超えていたものが08年以降80%を割り込み近年は70%台に落ち込む急激な減少を示している資本金10億円以上の大企業においては60%以下にまで低下している。このため企業の「内部留保」が増え続け2014年には354兆円を超えている。
 
 企業は利益を株主(配当)、従業員(人件費)、会社(設備投資と剰余金)と国(税金)に分配する。近年は配当や自社株買いなどの形で株主への分配は活発に行っている反面、設備投資と賃アップには消極的な傾向が続いている。これはグローバル化が進展するなか、将来見通しが困難で設備投資に踏み切れない経営者が多い結果であろうが従業員への配分については別の事情がある。
 グローバル化景気変動が循環要因以外の地政学的リスクや天候などの自然変動によっても惹き起こされるようになり更に国際化した金融環境が景気変動を瞬時にかつ増幅して各国の経済に影響を与えるようになった結果、経営者は景気変動に機動的に対応できる経営体制を保持したいと考えるようになっ。ベースアップは賃金の固定的な増加につながるから経営の機動性を阻害する。従業員への利益配分に意欲のある経営者でもコストの固定化は極力避けたいと思うのは致し方ないのではないか。「ボーナス」の形なら利益配分に前向きな経営者が多いのはこうした事情の反映であろう。
 
 ベースアップに拘る従来の春闘形態にはソロソロ終止符を打って短期利益の配分は「ボーナス」型に移行し、より本質的な「労働条件の改革」に運動の力点を変えるべきではないか。
 日本経済の根本的な問題は「人口減少」であり労働力人口の不足であることは周知の事実であり労働界としても真剣に取組むべき課題である。解決方法としては「女性と高齢者」の活用が近道だといわれているが実現を阻んでいるのが正規社員の『無限定な職務と長時間労働』である。長時間労働に関していえば「毎月の生活費は残業代で賄い基本給部分は貯蓄に回す」という人がいたこれは極端な例としても比較的恵まれているといわれている正規社員の賃金も「時間外手当(残業代)}を含めての給料がベースになっておりそれからみれば「ベースアップ」の金額は微々たるものである。
 何故労働側(労働組合)はここに踏み込まないのか。職務範囲を限定し時間外労働を排除した正規の労働時間で「基本給」の額を現在の「月給残業代を含む」とするような取り組みを考えるべきで、全額が基本給に組み込まれることはないにしてもれこそが実質的な『正当性』のある
「ベースアップ」なのではないか加えてこうした労働界の運動は『雇用の増大』にもつながる日本の労働環境の根本的な改革にも貢献する。何故なら若年者の雇用不足、女性雇用の非正規化、高齢者雇用の問題点なども結局「正規雇用の男性社員」の働き方に問題の『大元』がありこのことがひいては「わが国労働生産性の低さ」にも大きく影響を及ぼしているからだ。
 基本給が低いからダラダラ残業をして残業代を稼いで給料をかさ上げする、大事な会議も残業時間することが多くなる。こうした『働き方』が日本全体の生産性を低下させる、女性のフルタイム労働を困難にする、何人かの時間外労働で「1人分の雇用」をカバーしてしまうから結果として若年者の雇用を奪ってしまう。こんな悪循環が日本の経済や労働市場を競争力の弱いものにしているの
 
 雇用の流動化と生産性アップ日本経済の根本的な問題はこの二点に凝縮されている。その解決策の一つに『正規男性社員の働き方改革』があることを認識すれば春闘も変わらざるをえないのは自明である。                
                       

2016年1月10日日曜日

胎動

 2015年は『セオリーなき強権』の一年であった。ロシアのクリミア編入、中国による南沙諸島の人工島による実効支配の企図、IS(イスラム国)のシリア・イラクへの領土侵犯と世界的なテロ、そして我国では安倍政権による憲法改正を経ない集団的自衛権の容認、など戦後70年国連を中心として維持されてきた「統治システム」が無視された一年だった言える。そしてこうした動きに同調するかのように北朝鮮が1月6日「水爆実験」を行ってしまった。
 しかしここで問題とすべきは『セオリー』が何であったかということではないか。「国連を中心として」というように、それは第二次世界大戦の『戦勝国』の権利を最大限に容認し保持・維持する「世界統治の論理」に他ならなかったのではないか。言葉を変えればアメリカを中心とした戦後支配体制の綻びがはっきりと形になって表れたのが2015年ではなかったか、ということである。
 
 第二次世界大戦の戦勝国――アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ロシア(元ソビエト連邦)、中華人民共和国(元中華民国)の5ヶ国が国連安保理で拒否権を有する常任理事国であるような超越的な権利を保証した世界的な統治システムとして国連が構築され、それとともにIMF(国際通貨基金)と世界銀行やADB(アジア開発銀行)が経済システムとして併設された。ところが米ソの資本主義と社会主義の覇権争いが勃発するに及んで東西協調は均衡を失い『冷戦』が発生、やがてソ連の消滅によって「アメリカの一国支配体制」が確立し、又基軸通貨国として経済的にも「覇権国」となり「一国支配」は揺るがぬものとなった。しかし一方で第二次世界大戦の想定外の帰結は植民地支配の否定と「民族自決」をもたらしたのだが、旧植民地の独立は戦勝国の露骨な「利益保持」を目的に行われ「民族、言語、宗教・宗派」をほとんど考慮されずに「人為的な線引き」として実現された。
 世界を席巻した「アメリカ型資本主義」は「市場万能主義と止まることのない成長・拡大」を志向するシステムであったために「経済のグローバル化」を必然化し世界を『均一な市場』に巻き込んでしまった。加えてアメリカ金融資本は実物市場と跛行して異常に拡大したため世界経済を極めて「不安定なシステム」に導いてしまった。
 
 戦後70年、国連加盟国は1945年の51ヶ国から193ヶ国に増加した。世界経済は戦勝国の寡占状態から先進国、中進国、発展途上国が複雑に相互関係したグローバル体制に変貌した。経済面での最も根本的な変化は『資源』をめぐる変化である。今、世界で最も不安定な地域である中東・アフリカは石油資源の埋蔵量において最重要地域として戦勝国の経済的利益優先の『恣意的』線引きによって国境が定められた。民族、言語、宗教・宗派をほとんど考量されずに定めれられた「国境」は戦勝国の「経済的・政治的」権力によって維持されてきたがアメリカのシェール革命による石油自給率の急激な向上は中東・アフリカ産油国への戦力によるアメリカの介入の必然性を稀薄化し「世界の警察国」としての経済的政治的意欲を喪失させた。戦勝国、とりわけアメリカの『強制力』の箍(たが)の緩んだ産油国を中心とした中東・アフリカの『国境』は『溶融』する蓋然性が増し、ISの跳梁を許し大量の「難民」を生み出した。
 
 戦後70年経って、戦勝国の利益を最優先した『戦後システム』は根底からその存在意義を問われている。 
 G7という少数の先進国が優先的に利用していた世界の資源はG20から世界中の国が「共通だが差異のある責任」において利用の許される体制へ変化することが求められている。
 サブプライムローンを内包した『不可解な金融商品』の破綻に端を発した「アメリカ金融資本体制」の崩壊危機は火元のアメリカが最初に、唯一国、危機から脱出しようとしているがその影響は世界同時株安という形で早くもその身勝手な振舞いへの警告を発している。
 シリア内戦、イラクに於ける統治機能の欠如が生み出したISによる『国境破壊』はサウジアラビアとイランの国交断絶によって更に加速する可能性が高まってきたがそれはNation-state(国民国家)という概念をあいまいなものとしつつある。このことは『統治の範囲』という意味で「巨大国家」の存続を危ういものとしているし、EUという「国家統合」の実験と相俟ってNation-stateの意味を世界的に問いかけている。
 
 戦後70年経って劣化した「戦勝国による統治システム」の「再構築」への『胎動』は既に世界各地で勃発しており、『難民』や北朝鮮の水爆実験は「弱小国」或いは「脆弱国」のそうした動きへの果敢ない『挑戦』なのかもしれない。
 

2016年1月3日日曜日

勝つことの意味

 競馬ファン一年の総決算「有馬記念」は伏兵ゴールドアクターの勝利で幕を閉じた。二着にはサウンズオブアースが入って奇しくも一昨年の菊花賞二、三着馬での決着となったがしかしこれは考えてみれば当然かも知れない結果といえる。一昨年の菊花賞はトーホウジャッカルが優勝したのだが優勝タイムが3分1秒ゼロのレコードタイムでしかもそれまでのレコードを1秒7も更新する最高レベルのレースであった。あまりに過酷なレースだったのでトーホウジャッカルは半年後の宝塚記念とその2ヵ月後の札幌記念に出走したが体調が戻らず凡走して再び休養に入っている。サウンズオブアースは比較的順調に体調を戻して春二走、秋は勝ちきれないまでも菊花賞のあと最も状態を良くして有馬記念に臨んだ。ゴールドアクターは回復に手間取り10ヶ月後ようやく1000万円下の条件特別からスタートを切りその後1600万円下の条件特別に勝利、更に重賞のアルゼンチン共和国杯2500米を制し三連勝という万全のステップで有馬記念に挑み優勝の栄冠に輝いた。
 潜在力の高い4歳馬二頭が一年を掛けてその能力を順調に伸ばして競走馬の頂点に立ったのだからこの結果は当然なのだがでは二頭の優劣を分けたのは何だったのか。それは『勝利―勝つこと』だと思う。サウンズは菊花賞ではゴールドに先着したがこれまで二勝しかしていない。一方のゴールドは有馬記念までに六勝しておりしかも三連勝で有馬記念に臨んでいる。この差は大きい。スポーツにおいて勝つことと勝てないことの差は決定的である。例え馬―競馬でも勝つことの重要性に代わりないのではないか。この差が有馬記念の勝ち負けに表れゴールドは平成27年度第60回有馬記念優勝馬としてレコードブックに名を刻まれたがサウンズはこの栄誉に浴することはない。この差は決定的である。
 
 テニスの錦織選手が今年ある意味で低迷したのも一昨年の2014全米オープンでマリン・チリッチに敗れたことが大きく影響しているのではないか。ランク下のチリッチに0-3で敗れたのは準決勝で強豪ジョコビッチとの死闘を制した疲れが原因と言われているし多分間違いないと思うがテニスの最高峰―グランドスラム初勝利をを逸したことは彼が飛躍的な成長を遂げる上で重要な分岐点になったのではないか。ベスト10入りを果した錦織が一流クラスの実力に達していることは間違いない。その彼とトップ3との差を決定づけるのはグランドスラムという頂上決戦での勝利の有無以外に考えられない。チリッチとの全米オープンでの敗戦は仕方なかったと片付けることのできない『決定的な敗戦』であったのではないかと彼の今年の戦いぶりを見ていて強く感じた。
 逆に昨年のラグビーワールドカップ2015プールBでの日本チームの南アフリカ戦勝利は『歴史的な勝利』であった。引き分けと勝利にどれほどの差があるかはラグビーを少しでも知っている人なら理解できるはずだ。世界レベルでのラグビー後進国日本を絶望的なまでに印象づけたのはニュージーランド代表のオールブラックスとの対戦である。初めてオールブラックスを知ったのは多分1960年代中頃だったと思うがその彼我の余りの差は戦後スグに米国野球チーム、サンフランシスコ・シールズが来日、日本代表チームがコテンパンにやっつけられた―その敗戦以上の惨敗振りだった。特にフィジカル(肉体)面の差は圧倒的でこれだけは永久に追いつけないであろうと絶望させられた。1987年に2度対戦したが0-74、4-106で敗戦そして第3回W杯では17-145で歴史的大敗を喫した。南アフリカはニュージーランド、オーストラリア、イングランドなどと同じ世界の超一流国でこれまでの日本であれば足元にも及ばない実力差のあるチームである。その南アフリカと接戦しノーサイド(試合終了)直前、敵の反則で得たラストチャンス、ペナルティーキックを入れれば同点。しかしそこで日本チームはスクラムを選んでゴールを狙った、そして絶妙果敢な攻撃で決勝ゴールを上げて勝利!この勝利ほどこれからの日本ラグビーにとって決定的な勝利はない。苦節百年日本ラグビーの歴史において同点で終わればまた明日から勝利を目ざしてのスタートを切らねばならなかった、しかし勝った今は世界のトップチームに伍して頂上を狙う戦闘が可能な第一歩となった。その差は余りにも歴然なのだ。重大な、圧倒的な勝利が南アフリカ戦の勝利だったのだ。
 
 勝つことで得られるものの大きさをスポーツは教えてくれる。しかしそれを人生に当てはめて「勝ち組」負け組みと評価するのは誤りだ。勝負を判定するにはルール=基準が不可欠だが人生には画一的な判定基準はない。敢えて言えば憲法で保障されている「健康で文化的な最低限度の生活」を営んたかどうかだろうがそれとて一面的なものでましてそのための「経済的な豊かさ」などは人生のほんの一部でしかない。それでもって勝ち組と誇るのも愚かなら負け組みと綯(な)え萎(しお)れるのも視野が狭すぎる。
 
 さて戦争はどうだろう。たとえ勝っても国民が疲弊することは歴史の教訓のはずだが?
 
 新年明けましておめでとう御座います。今年もご愛読お願い致します。