2016年2月28日日曜日

「介護」を通して国のかたちを考える

 介護保険制度が発足(2000年4月1日)して16年になる。最近になって事件や事故が目立つようになってきて、神奈川県川崎市の老人ホームの入居者が次々と三人も墜落死した事故もどうやらホームの介護士による殺人事件であったようだ。原因として、労働条件がキツイ仕事であるにもかかわらず待遇が悪くそのせいでストレスがたまってうっ憤晴らしに入居者への暴力やネグレクトが起こるのではないかといわれているが、果たしてそれだけだろうか。
 
 介護施設では多くの若い人が働いている。しかし『介護』という職務は、人生経験が浅くものの見方も未熟な彼らに適した仕事なのだろうか。勿論専門教育を受け資格試験にも合格しているのだからそうした「人間としてのハンデ」は補われている、という見方もできるだろうがどうも危うい。加えて老人ホームや介護施設を運営・経営している理事や役員、大人の職員さえも『介護』という職務を担うだけの能力と適正性をもっているのかという根本的な疑問さえある。
 最近若い母親たちの育児不安や育児ノイローゼが問題になっているがその原因のひとつが、少子化になって幼い弟妹や近所の幼児を通した「子育て経験」のないことが影響しているといわれており、そもそも子育てそのものが家族ぐるみ、部族ぐるみで行われてきたという歴史的事実も明らかになっている。介護だってそうなのではないか。大家族、ムラ全体の共同責任で行われていたものが核家族社会になってそうしたシステムが崩壊して、社会保険制度によって介護の『社会化』をしなくてはならなくなったのだが、おじいちゃんやおばあちゃんと暮らした経験もなくまして寝たきりの祖父母の介護など想像すらしたこともない若者が「勉強」だけで技術を習得してそのまま実践できる、その程度の仕事として『介護』を考えることは到底できるものではない。
 子育てにしろ介護にしろ技術や心構えの伝承があり積み重ねがあって、そしてなによりも、子どもは家族とムラの宝であり慈しみの対象であったし、介護される老人は尊敬され感謝される先輩であった、技術とともに『心的なつながり』があってはじめて可能な「行為」だったことを再認識すべきなのだ。
 
 一般に「館(マナー」と呼ばれていたこれらの施設のなかには、人間が医学の傲慢と技術に完全に服従しているところもあった。意図的で犯罪行為になるネグレクトもあって、患者が何時間も放っておかれ、身体的・精神的虐待を受けることもあった。ある「館」では、股関節を骨折してひどく痛がっている患者が、スタッフに無視されて尿の池のなかで寝ているのが見つかった。ネグレクトはなくても、基本的な治療以上のことは何も行われていないところもあった。そのような老人ホームの入居者には生きるための意義―生活、アイデンティティ、尊厳、自尊心、ある程度の自主性―が必要だという事実は、却下されるか無視されている。「ケア」は純粋に事務的で医療的なものなのだ。
 これは脳神経科医オリバー・サックスの自伝『道程』からの引用で、彼のニューヨークでの1970年代の経験を描いた一節である。「人間が医学の傲慢と技術に完全に服従している」と表現しているように入居者である老人たちへの「心的」な部分が完全に無視された運営がうかがわれる。「生きるための意義―生活、アイデンティティ、尊厳、自尊心、ある程度の自主性―が必要だという事実は、却下されるか無視されている」から「『ケア』は純粋に事務的で医療的なもの」にならざるをえない。こうした状況が五十年近く経った我国にそのまま引き継がれているところに悲しみと憤りを感じずにはいられない。
 「対極にあるのが、リトル・シスターズ・オブ・ザ・プア(貧者救済修道女会)のホームだった」「リトル・シスターズのホームの目的は生活にある―入居者の弱さとニーズを前提として、できるだけ充実した有意義な生活を送ることだ」「入居する人たちの大半は、自分なりの有意義で楽しい―場合によっては、長年覚えがないほど有意義で楽しい―生活を確立することができて、しかも医学的な問題はすべてきめ細かく観察・治療され、そのときが来たら、穏やかに尊厳をもって死ねるのだと確信している」。どうしてこの修道女会のホームでこのような運営が可能だったかといえば「シスターたちには強い信仰心があり、そのような深い信仰心がなければ、あれほど高いレベルのケアは想像しがたい」と説明されている。つまり『信仰心』という高次な精神性が根底にあるからということになる。
 介護の『究極』はケアを受ける老人たちに「穏やかに尊厳をもって死ねるのだと確信」させることだと意識している人が何人いるだろうか。
 
 ここ何十年かで我国は「アメリカ型市場資本主義」が国のあらゆるところで優勢を占めるようになった。グローバル化という世界的な潮流の中ではいたし方のないことなのかもしれないがかってあった「日本らしさ」がどんどん消えていっている。
 「あらゆる種類の仕事に対して報酬を与える現代の制度は、武士道の信奉者の間には行われなかった。金銭なく価格なくしてのみ為され得る仕事のある事を、武士道は信じた。僧侶の仕事にせよ教師の仕事にせよ、霊的の勤労は金銀を以て支払はるべきでなかった。価値がないからではない、評価し得ざるが故であった。(略)蓋し賃金及び俸給はその結果が具体的なる、把握し得べき、量定し得べき仕事に対してのみ支払はれ得る。(略)量定し得ざるものであるから、価値の外見的尺度たる貨幣を用ふるに適しないのである。弟子が一年中或る季節に金品を師に贈ることは慣例上認められたが、之は支払いではなくして献げ物であった。(新渡戸稲造著『武士道』より)。
 すべての「価値」を「価格」として量定し市場の「見えざる手」の働きに委ねる、そうしたアメリカ式にはそろそろ『訣別』すべき時期に来ているのではないか。本場アメリカの大統領選挙の動きを見ているとはっきりと分かる、アメリカでさえ破綻しているシステムだからトランプやサンダース氏という『異端』の候補者が優勢を示しているのだ。年金も健康保険も確立していないアメリカ式は我々の目指すべき『国のかたち』ではない。
 
 国のかたちを考えるとき、キューバの街角にいた主婦の「経済封鎖はキツかったけど、教育費と医療費が無料だったからそれほど苦しいとは思わなかった」というテレビのインタビューが強く印象に残っている。また消費税が25%で社会保障費の負担を含めた「国民負担率」が60%近いスウェーデンで、教育費が無料で医療は18歳以下が無料、成人の負担も上限が約4万円(診療費が13000円薬剤費が26000円)に押えられているから国民の不満もさほどなく、安心して老後が迎えられると明るく語っていた若い人の姿が輝いていた。
 
 『国に何をしてもらうのかではなく、どういう国にするかを考える』国民に成長するときではないか。ちょうど「選挙権」が18歳以上の若者に与えられることでもあるし。
 
 

2016年2月21日日曜日

正念場の日本経済

 昨年10~12月期のGDP(速報値)が0.4%のマイナスになったという内閣府の発表があった。年率に換算すると1.4%減となり4~6月期につづいてのマイナスになる。この数字をどうみるかだが、経済指標を注意深く観察しておれば、アベノミクスに浮かれていた一部の人たち以外には十分予想された結果だろう。経済の見方はいろいろあるが一般の市民感覚に最も敏感に反応するのは残業代―日経経済指標のうち「所定外労働時間(全産業前年比)」だ。庶民というのは身勝手なもので「基本給」はあくまでもベースであって「今月は給料が多かった」と実感するのは残業代の多いときだ。個人的な印象だが残業代は月給の2割前後が平均なのではないか。もしそれが半分に減りでもしたら「今月の給料は少なかった」と『実感』して買いたいものも手控えるに違いない。その残業代が平成13年14年と前年比+4.8%、+2.0%だったものが昨年は毎月マイナスで平均すると前年比マイナス1.3%近くになっていた。従って庶民感覚では「景気がよくない」と感じていた人が多かったに違いない。
 別の視点で景気指標をながめると、「マンション契約率」「新設住宅着工数」が身近に景気を感じさせる。このうち一戸建て住宅を表す新設住宅の数字は昨年90万戸を上回っていたのが9月から90万戸を切り12月には86万戸まで落ち込んだ。一方のマンションの契約率も9月を境に首都圏が70%を割り込み近畿圏も同様で12月に至っては59.6%に低下した(首都圏は64.8%)。
 残業代が毎月前の年より減りつづけ「景気が悪い」という庶民感覚がデフレマインドに逆戻りしてマンションも戸建ても売れ行き不振に落ち込めば当然消費者物価指数も上がるはずがなく、昨年はゼロ近辺にへばりついたままで8~10月はマイナスさえ記録している。
 「アベノミクス」を手柄顔に勝ち誇っていた首相はこの現状をどう説明するのだろうか。まったなしで真剣に「成長戦略」に取組まないと日本経済のデフレ脱却は夢物語に終ってしまう危険地帯に、今ある。
 
 アベノミクスの牽引力となってきた「円安、株高」演出の最後の「黒田バズーカ」として「マイナス金利」を1月末に打ち出した日銀だが、その効果は一週間ともたず、円は121円台から112円台に急騰、株式相場は2月12日には14,952円と15000円を割る『底割れ』となって金融市場は一挙に不安がみなぎった。現在は小康を保っているが『円安・株高』は再来可能なのだろうか。
 為替相場が経常収支と密接な関係にあることはアベノミクス以前の長期の「円高」の経験で身に沁みている。1973年以降の円高基調の背景には「大幅な経常黒字」があった。東日本大震災後原油輸入増で貿易赤字に転じ高齢化による貯蓄の減少と相俟って経常赤字が常態化するかと思われたが昨年の原油安は一挙に経常赤字を改善した。アベノミクスによる「円安」誘導は経常収支赤字化と時期を同じにした『僥倖』であったに過ぎないという見方も成り立つわけで、現在の原油安が後進国の成長率低下やEUと我国の景気低迷という中期的な世界経済の低迷を背景にしているうえに米国の成長力停滞も加わって、原油安・資源安は我国の経常収支構造を『黒字化』で定着する可能性を高めている。こうした情勢を考慮してかIMFは2020年の我国の経常収支黒字のGDP比率をユーロ圏2.3%、中国0.6%を上回る2.8%と高めに予想している。経常収支黒字拡大というファンダメンタルズの変化は『円高』を中期的な趨勢に導くことを懸念させる。
 
 「株高」も今年に入って一挙に暗転した。昨12月初旬二万円をうかがわせる騰勢を誇っていた株式市場は中旬から下落に転じ今年になって坂を転がるように四千円以上値を下げた。今後の見通しはどうなるのだろうか。
 そもそも「株式市場」は『不安定』が本質なのであって一方的な上昇基調や下落傾向はなく当然のことながら「均衡点」など存在するはずもない。例えば東証一部の売買代金で市場動向を見てみると、二兆円が基準ラインとなって相場の冷熱が判断されるが、昨年12月下旬は二兆円に満たない低調な相場だったものが、今年1月末株価が急激に下落するや一気に「売り浴びせ」が起こり三兆円から四兆円の大型相場が展開されている。こうした相場の裏には多数の『投機家』の存在があるわけで、「多数の専門的な投機家が(略)おたがい同士で売り買いをはじめると、市場はまさにケインズの『美人コンテスト』の場に変貌してしまうのである。そして、そこで成立する価格は、実際のモノの過不足の状態から無限級数的に乖離する傾向を示し、究極的には、たんにすべての投機家がそれを市場価格として予想しているからそれが市場価格として成立するというだけになってしまう。それはまさに『予想の無限の連鎖』のみによって支えられてしまうことになる。そのとき、市場価格は実体的な錨を失い、ささいなニュースやあやふやな噂などをきっかけに、突然乱高下をはじめてしまう可能性をもってしまうのである(岩井克人著『二十一世紀の資本主義論』より)」。
 「黒田バズーカ」はまさに『予想の無限の連鎖』に訴える手法によって株高・円安を演出しようと企図したのであったが、ここにきてその効果は無残にも剥げ落ちてしまったのである。
 
 2020年にかけて「円高基調」が見込まれ、中国経済の中成長へのソフトランディング(を願う)、原油安・資源安による資源国の低成長、EUの低迷などが相関連して中期的な景気循環の下降局面を迎えると見込まれる現在、我国経済の先行きは決して明るくない。円安による輸出産業の業績向上に頼る従来型の景気対策でなく内需拡大を真剣に実現するような方策を地道に積み重ねる以外にこの難局を切り抜ける道はない。そのためには、規制改革を主体とした政府の「成長戦略」と「正規男性社員の働き方改革」を根底とした「女性と高齢者の労働参加率のアップ」と「若年労働者の雇用率大幅改善」という労働市場改革、ベースアップにこだわらないボーナス主体とした利益配分の増大による「労働分配率向上」と「格差解消」など、前例踏襲でない根本的な『改革志向』の取り組みを実現する必要がある。
 
 「イクメン議員の不倫辞職」という情け無い不祥事があったが、「育児休業」が男女の別なく普通に取れるような職場環境が現実化されたとき、我国経済は新しい発展のステージを迎えることになろう。
 
 
 
 

2016年2月14日日曜日

ゼロ金利の庶民感覚

 マスコミの報道で驚かされるのは「オレオレ詐欺」の被害額の多さだ。勿論マスコミは多額の事件を選んで報道しているのだががそれにしても二千万円四千万円という金額にはあきれるほかない。更に、そんな大金が銀行や郵便局でなく身近に、タンス預金でもっていることになおのこと驚いてしまう
 しかしよくよく考えてみるとあながち驚くには当らない状況に庶民が置かれていることに気づかされる。被害者は大概高齢の女性のことが多く地方の例も少なくない。高齢になるとわざわざ銀行へ出向くことが億劫になるしまして昨今のATMは操作が難しく手に負えない人も多いにちがいない。地方には金融機関も少なくあっても遠くて不便なところにあるかもしれない。利子も100万円預けて一年に二円か三円くらいのものなら預ける手間、引き出す面倒さを考えたら「タンス預金」で十分と考える人があっても不思議はない。
 二十年前頃までは百万円を十年預けておけば百万円の利息がついた。バブルがはじけて金利が下がり続け「日銀ゼロ金利を宣言」という事態になったと思っていたらとうとうマイナス金利に突入してしまった。金融の専門家が熟慮して出した政策だからそれなりの効果を見込んでいるのだろうが庶民の感覚で言えば、もともと0.02%だったものがゼロになろうがマイナスをつけようが大して違いはない、ちょっと物騒だが「タンス預金」で済ませればよいのであって、公共料金の引き落としをどうするか、それくらいが面倒なだけだ。(それにしても利息収入の大幅減は庶民にとって大打撃でこれが消費不振の大きな原因と考えるのは素人考えだろうか。)
 
 問題は「物価が上がらない」ことにある。デフレマインドが払拭できないから企業が貯め込んだ「内部留保」を吐き出さない。投資や賃金が増えないから消費が落ち込んだままで景気が上向かない、インフレにならない。この悪循環を断ち切ろうと「量的質的金融緩和」を三年もつづけてみたけれども一向にラチが明かないからついに「マイナス金利」という法外な手に打って出たのだろう。いずれにせよこうした政策は人間の「期待」や「将来の見通し」に訴えかける手法なのだろうが、思ったように動かないのが人の気持ちでエライ人の計算通りにことが運ばなくても当然といえば当然と言えないこともない。
 賃上げが思ったほどに進まないのは消費について誤解があるからで「消費は将来の賃金見通しに基づいて行われるから賃上げは一時的なボーナスではなく基本給のべースアップにつなげる必要がる」という考え方がそれだ。確かに生きるために必須の食費や水道光熱費また将来への備え(結婚や持ち家の建設費、子供の教育資金など)は基本給で賄いたいしそれだけの収入は安定して得たい。しかしテレビや冷蔵庫などの耐久消費財や旅行、自分へのご褒美の装身具や高級腕時計などの贅沢品はボーナスを当てにしていることが多いように思うし好景気時の「熱い消費の盛り上がり」はむしろこうした商品への消費が主役なのではないか(株高で資産所得を手にしたお金持ちが高額商品を購入するという消費行動はこれを証明している)。賢明で堅実な庶民は住宅資金や教育資金は食費を切りつめてでも毎月確実に入ってくる給料で貯蓄するものだ。
 高齢世代が経験した「高度成長」はもう来るはずのないことで従って高インフレもないのだから、ベースアップにこだわらずに儲かったときには思い切ったボーナスで社員に応える、「労働者」もそれで納得して、グローバル時代に即応した機動性のある会社経営のし易い賃金体系に改めるほうがどちら―経営者も労働者も、ひいては投資家も―にとっても好都合なのではないか。
 
 マイナス金利で思い出したのは、もう相当むかしのこと、給料が銀行振込みになったとき、何となく物足りなく淋しい気持ちになったこと、現ナマの持つ一種妖しげな魔力を実感したことである。金融当局はマイナス金利にすれば銀行が日銀に預けてるお金が減少してその分が融資に振り向けられる考えているのかも知れないが、庶民からの預金が集まらなくなってそもそもの融資の原資が不足してしまうような事態になる可能性もあるのではないか。それほど庶民の「現金志向」は何年も前から強まっている。もし「貯蓄から投資へ」誘導しようとしているのなら庶民は「株」を信用していないし今年になってからの金融市場の混乱はそうした傾向を更に強めたに違いない。
 それよりも、ほとんどの企業で給与が銀行振り込みになっており公共料金等の口座引き落としも常態化し、ネット取引も飛躍的に増加している現状で「マイナス金利」が一般の普通預金にまで波及してタンス預金に逃げてしまうようなことになれば、社会構造を根本的に再構築しなければならなくなる可能性のほうをむしろ問題視しなければならないと思うのだが、専門家はいかがお考えだろうか
 
 最先端の金融理論の実験場であるかの様相を呈している現在の世界金融市場。犠牲になるのはいつも弱いもの――先進国の一般庶民や世界の弱小国――という構図は絶対にあってはならない。 

2016年2月7日日曜日

ママたちの非常事態

 NHK朝ドラ『あさが来た』のある日の場面。和歌山からあさの姉はつが家出をしてあさの加野銀行に身を寄せている息子藍之助を連れ戻しに来る。取り巻く大人たちがどう対処するか興味を持ってみていると、母よのが藍之助をかばいながら筋を通して祖父や父の承諾を取り付けてから帰っておいでと諭す。いろんな解決策があるなかで最年長のよのの、古いけれども温かい愛で頑なな藍之助を納得させる物語の運びに安定感を覚えた。理屈も大事だがそれを超えた「大きな愛」の存在に懐かしさを感じるのは今の世の中にそれが稀薄になっているからだろう。「溺愛」は溢れているが「厳しい」「大きな愛」が少なくなって「排除」や「隷従」がはびこっている。大家族が消滅して核家族化して『愛のかたち』が直接的で単純化した結果だろうか。
 
 「子育て」も変化している。三世代同居が当たり前で、子だくさんで、母や祖母の手助けや「規制」があって、子どもも年嵩のものが小さい子幼い子どもをあやしたり教えたりして、家族ぐるみでしていた「子育て」が今や「母親」の『専業』になっている。最近になって「イクメン」や「育児休業」が少しは表に出てきたがそれでもまだまだで、母親の「孤立化」「育児不安」が常態化している。
 どちらが正常なのだろうか。これについては「NHKスペッシャル・ママたちの非常事態(1月31日放送)」が参考になる。700万年前人間はチンパンジーなどと枝分かれして「ホモ・サピエンス」になったのだが人類が今のように絶対的な「種の繁栄」を誇るに至った根本原因は『生殖機会』の多さにある。類人猿は1回の生殖の後5年間(嬰児が成長して独立するまでの期間)は妊娠できないのに比べて人類は毎年生殖できる。彼らは「発情期」にしか生殖行為ができないが我々人類は四六時中「欲情」できる浅ましい『機能』を具備してしまった。それはさておき人類は「多産」が自然であり「子育て」は皆でするのが普通のかたちなのだ。いまでもカメルーンなどに現存するピグミーのバカ族では家族の別なく10人近い子どもの子育てを部族全体で行っており幼児の授乳を他の母親に頼んで自分は自分の仕事をする、それがバカ族では普通なのだ。
 「共同保育」は人間にとって本能なのであって今の核家族を前提とした「母親専業」の子育ては異常なのだということを知ればあとはそれをどう展開するかを考えればいい。「地域で子育て」という取り組みももっと系統立てて多様化するほうがいいし、ネットを使った大規模な展開を模索するのもいい。勿論「父親」の参加は当然でお祖母ちゃんの知恵を大いに取り入れるべきである。そのためには「正規男性社員の働き方改革」が必須であるし「マタハラ」を絶対に許さない社会をつくらなければならない。
 現在の高齢者に偏った財政支援はバラマキを止めて「必要なところに必要な支援」を効率的にするよう改め、出産、子育て、教育―特に幼児教育に予算を飛躍的に拡大するよう國の体制を移行していく必要がある。
 母親の愛情に関わる「オキシトシン」というホルモンは逆の『攻撃性』に転化することもあり子育てに非協力的な夫への怒りやママ友同士のいさかいなどもこのモルモンの作用らしい。「子どもの年齢別の離婚率」でゼロ歳から2歳の間が圧倒的に多いのは夫の子育て参加が上手くいっているかどうかが影響している。また脳の「前頭前野」の発達が感情や暴発的な行動の「抑制機能」に関係しており幼児期の「イヤイヤ病」もこの機能の未発達のせいである。
 
 最近つくづく思うのは我々がんなに「常識」や「誤った知識」に縛られているかということだ。母親は「子育て」ができて当たり前という常識がどれほど女性の結婚・子育ての障害となってきたか。子どもができたら「退社」するものだという考え方は「会社」が家庭よりも家族よりも大事だという「古い固定観念」のせいだが、しかしそれも戦後の高度成長期にできたものにすぎない。女性家庭にこもるべきだという考え方も明治維新後のものだし、それも山の手のお役人階級から広まったもので、農業人口や自営の商売人の多かった時代は夫婦が協力して生業を守るのが当たり前だった、それがつい30年前のことだ。
 
 商談中に携帯が鳴って、「スイマセン、女房が都合が悪くなって子どもの保育園のお迎えを私がやらなければならなくなったのですが、いいでしょうか」という子育て中の若いサラリーマンを「イイヨ、早く行ってやりなさい」と上司や商売相手の先輩が思いやってやるような社会に日本が生まれ変わるのは、いつのことだろう。