2016年4月25日月曜日

人生道半ば

 堀田善衛の『天上大風』を知ったのは加藤周一と鶴見俊輔の対談集『二〇世紀から』(潮出版)によってであった。早速読み始めてダンテの『神曲』からの引用「われ人生の道半ばにして」ということばに出会ってこのコラムを書こうと思った。
 『二〇世紀から』は私のホームグランドであるN図書館―京都でいちばん小さな市立図書館、多分―で書架を渉猟していてたまたま手にとったものだったが、読んでみて驚いた。二十世紀の知の巨人である加藤周一と鶴見俊輔が二十世紀について意の趣くままに語りあうのだから面白くないはずはないのだが、それにしても広い学識と透徹した批評眼に裏づけられた論評は、二十一世紀に生きる我々後代の者が二十世紀を振り返ってその意味を問うとき、間違いなく正真な事理に導いてくれるだろうと確信した。読後蔵書にしたいと思ったのだが絶版になっている。2001年の初版だから現在の出版事情からすれば当然なのかも知れないがこれほどの本が「文庫本」にもならないで絶版とは!ダメ元で古書店で検索すると福岡の小さな古書店に500円で出品されていた。「買いものカゴ」に入れて購入手続きをするとメールが来て「表紙にキズがあります。よければ200円で発送します」とある。内容さえあればいいのだから文句なく発注依頼して手に取ってみればほとんどキズなど無いに等しい「美麗」なものであった。送料振り込み手数料込で580円!何たる好運か!
 最近ちょくちょく古書店をネット経由で利用するが期待以上の成果である。本に対する愛情が古書店主の人たちには健在なのだ。こうした土壌を失くしたくないものだ。
 
 さて『天上大風』に「この十年」という一九七七年から十年の間―著者六十歳から七十歳―に物故した友人知己の作家、詩人、評論家、俳優などへの追悼的短評をつづったエッセーがある。趣くままに頁を繰っていて、多くの人が『六十代』で逝っていることに驚かされた。当時の男性の平均寿命が70歳前後だったからこれで普通なのだろうが、わずか30年ソコソコで10歳も寿命が延びたのだからスゴイことだと感じざるをえない。なかで一九七八年柴田錬三郎(六一歳)、一九八〇年五味康祐(五八歳)とあるのに軽い衝撃を受けた。片や魔剣の使い手眠狂四郎、片や「スポーツマン一刀斎」という型破りな剣豪小説(剣術の名人が巨人軍の強打者となってホームランを連発する)で適度なお色気をまぶした娯楽小説を提供して我々を楽しませてくれた作家がこんな短命であったとは!良質なエンターテイメントをもう一度読んでみたい、と切実に思った。
 一九八四年ミシェル・フーコー(五七歳)の項にこんな叙述があった。パリでこの著者のある本を求めたが在庫がなかった。すると本屋の主人が、三十分ほど待っていてくれといって、やがて、フーコーのその本を持って帰ってきた。どこで手に入れたのだと問うと「大学の研究室へ行ってムッシゥ・フーコーからもらって来た。だからこの本はタダだ」と答えたという。なんとも快い話である。そういえば私も最近こんな経験をした。読みたい本を大型書店で探したが無いので取り寄せを依頼した。そして「おたくのN区の小さな支店が私の家のスグ近くなのでそちらで受け取りたいのだが」といってみると快く応じてくれた。多分この店には少しの実入りもないだろうに。実に嬉しかった!
 
 一九八八年中村光夫(七七歳)にはこんな言葉がおくってあった。戦時中の書きものとして『批評』に「ドン・キホーテに寄す」があり、それを校正しながら、こういう戦時といった異常な事態を時代が呈しているときには、ジタバタしないで、ドン・キホーテであれ何であれ、しっかりした古典を心行くまでに勉強していればいいのだ、それがもっとも確実に何かを得て行く道だ、との教訓を得たものであった、と。
 今の時代なら「晩年」こそ、古典を読むにふさわしい時期ではなかろうか。現役時代は心忙しく、ゆとりをもって「書を繙(ひもと)く」余裕など無かったからダイジェスト版で用を足してしまっていたが、心のどこかで「これではいけない」という忸怩たる思いがあった。考えてみれば読書だけでなく多くの事を「今はとにかく生きなければ」と言い訳しつつ進んできた。リタイアして、時間だけは十分すぎるほどある今こそ『充実』の時期なのではないか。
 『人生の道半ば』というダンテの言葉は彼の三十五歳のときのことばであるという。1265~1321年の生涯の彼にとって残すところ20年余でそう感じたということになるから今に引き移すと丁度50歳頃が「道半ば」になるのだろうがエラク中途半端だ。ダンテが「一事を成した」としての感懐であったと考えれば「60歳停年」が現在の「道半ば」になるのではないか。寿命が延びて停年も延長されつつある昨今だが、『停年』といういかにも「人生の到達点」を思わすような乾涸びた響きと訣別して、「道半ば、さあ次なる目的地へ」と意を新たにする『始点』と捉えるのもいいではないか。そして『晩年』。75歳を迎えた「後期高齢者時代」こそ人生の総仕上げをする『晩年』そのものだろう。旨くいけば90歳、100歳までだって生きられる。そう思えば、いつでも、何歳になっても『人生道半ば』にできる。「後期高齢者」などという役人の『事務処理用の官製用語』など、糞喰らえ!と開き直ってみるのもいいではないか。
 
 「この十年」は延べ四十三名の先行者を悼んだとある。先にも述べた如く作家に限らず種々雑多の知識人と堀田善衛は交わっていたことになる。それは『文壇』と呼ばれる特殊なムラだったが、出版社というよきパトロンがあって維持された『文化のインキュベーター』でもそれはあった。一部に批判があって背を向ける人もあったが文化の洗練と成熟には十分な働きを果した。堀田の死と時を同じくするように出版社に当時ほどの資力がなくなって『文壇』は影響力を失った。しかしそれは作家の「細分化」「専門化」と「世代の断絶」という情勢変化とも呼応した結果であった。
 『政界』も財界というパトロンの後退によって昔日の盛況を失った。そして彼ら政治家が『同士』から『仲間』に変貌するという『為体(ていたらく)』に及んで「政党」が『同志的結合』を訴える「綱領」さえ喪失する惨状を呈するに至っている。政治は民衆を『善導』する熱情を忘れ「ポピュリズム(大衆迎合)」の徒の烏合に成り果ててしまった。
 
 一冊の本との出会いがひとりの人生に絶大な影響をあたえることがあり、その出会いは図書館や本屋の書架のあてもない渉猟から生まれることもある。町の小さな本屋さんをこれからも贔屓にしていきたい。
 

2016年4月18日月曜日

インバウンド観光は持続するか

 爆買景気はいつまでつづくのか、という不安げな声を最近よく聞く。彼らの不安は凡そこんなものだ。
 ①円安がいつまでもつづくはずがない。②中国や東南アジアの経済成長が止まって今までのように可処分所得の増加がつづかないのではないか。③爆買の中心である中国で生産環境がよくなって良い物が作れるようになったり商品の供給量が増えるのではないか。
 こうした疑問あるいは不安は正しいのだろうか。
 
 昨年度(2015年)の訪日観光客は約二千万人。うち中国人は約五百万人である。中国の人口は大雑把にみて14億人だから0.4%程度の訪日客数になる。中国客が目に見えて増えてきたのはここ10年くらいだから単純に掛け算してもまだ人口の5%ほどが日本を訪れたにすぎない。成長が中成長に落ち着いたとはいえまだ10年以上は6%前後の成長は続くだろうから可処分所得もそれにつれてアップするはずだ。中国のインバウド観光は始まったばかりだし、東南アジア諸国も事情は同じだろう。東南アジアの観光需要の本格化はむしろこれからとみた方がいいかもしれない。
 為替相場は国力を反映しているから本当の円安はこれからではないか。中国も東南アジア諸国もまだまだ成長余力を残している。それに比べてわが国の少子高齢化は今後15年以上は進行していくだろう。とすれば相互の国力の比較は相対的に我国の方が低下していくと覚悟するべきで、できるだけ国力の劣化を押し留めるように懸命な努力にはげまなければならない。そして「ゆき過ぎた円安」をむしろ警戒しなければならない。
 商品の品質と供給量の問題の予測は難しい。中国に限っていえばゾンビ企業の市場からの撤退や品質管理の向上は相当年月を要するのではないか。習政権のあいだに体制が整うかどうかも怪しい。これまでのように日本やその他の先進国の工場の海外移転が中国一辺倒であれば事情の改善は10年もあれば達成できたかも知れないが、ここ数年は中国以外の第三国への工場移転が加速しているだけに、中国の自立的な品質向上の動きは限定的になるのではないか。
 
 一部独断的ではあったが、インバウンド観光の需要先細りの懸念はそう深刻に考える必要はないように思える。むしろ受け入れ側としての我国の観光資源の確保と洗練が心配される。というのもこれまでの我国の観光行政は「供給サイド」からの発想で行われてきたから、需要側―訪日客の視線が不足している。少し前まで地方自治体の観光課は「産業局地方振興課」的なところにあった。旅館ホテル業、運輸業やお土産産業の振興を主に観光行政が行われてきた。従って産業サイドからのアプローチが主体だった。それがここ数年のインバウンドの増加によってようやく『旅行者視点』で『観光』を考える姿勢ができてきた。
 そこでまず『観光省』を設置することだ。現在は国土交通省の一部局として「観光庁」があるがこれでは不十分だ。成熟国としてサービス産業が70%以上を占めるような産業構造になるなかで、観光産業はその主産業にならねばならない。としたら今の省庁編成のままでの取り組みでは駄目であって独立した省庁へ格上げする必要がある。ここからが観光産業発展のスタートだ。現在縦割りの各省庁に分散している「観光機能」を集約して「予算と権限」を確保し機能的に、柔軟性をもって観光立国樹立に向けて邁進することが必須だと思う。
 
 そのうえで日本の観光を考えてみよう。
 最大の魅力はやはり『歴史』だろう。少なくとも「奈良時代以降現在に至る」までの長い歴史を『ホンモノのかたち』で有している国は世界的にも珍しいといえる。中国は三千年の歴史を誇っているが、しかしその間に『民族の断絶』があり戦乱によって多くの歴史遺産が破壊されてきたから今ある史跡の多くは再建されたものである。それ以外のアジア諸国も戦乱で歴史が中断されたり「植民地化」されることで遺産が破壊された国が多くアジア以外の国でも同様の歴史過程を経てきた国がほとんどだ。そういった意味で、たとえば関西に限ってみても、「古代の奈良」「中世の京都」「近世近代の大阪」「ハイカラの神戸」と1300年の歴史が、今ここに、ある。この魅力を上手に訴えれば、世界の国から我国を訪れたいと願う人は多いはずだ。
 また非西洋国で最も早く近代化したのは我国である。工業化も、高齢化も日本が最初である。だからこれから発展を遂げようとしている国の人々にとってわが国は「未来予想図」になろう。「産業遺産」はもとより「最新の生産施設」にも興味はあろうしインフラや工場夜景すら観光資源になる。「雪」も「サル」も日本の大きな魅力である。
 日本食ブームも始まったばかりだから世界の人が本場の「日本食」を求めてくるにちがいない。清潔、キレイ、オイシイ、安全・安い・いいものへの需要に応える体制を崩してはならない。
 G7の首脳が初めて、揃って「ヒロシマ」を訪れた。「人類の悲劇」をその目で確かめたいと希う『真摯』な人たちも多いはずだ。「環境汚染」という『文明の負の遺産』をさらけだすことも『先進の愚かさ』を知るうえで重要な視点になろう。
 LCC(格安航空)も益々増えるに違いない。諸国の発展に応じて「ビザ要件の緩和」も行う必要がある。
 しなければならないことは無数にある。ということは、見方を変えればインバウンド観光の本格化はこれからだということだ。なにしろフランスの観光客数は八千万人を超えているのだから。
 
 観光の絶対条件、それは『世界平和』であるということを最後につけくわえておこう。
 
 

2016年4月11日月曜日

消費増税先送り論について(1)

 消費増税先送りをノーベル賞受賞経済学者など学識者知識人の力で権威付けして規定事実化しようという政府の世論操作が着々と進行中である。その先には増税延期を争点とした「衆参同日選挙」が控えているであろうことは政治の素人にもミエミエなのだが、この問題をそんな「矮小化された」政治問題にしていいのだろうか。
 先送り論の主な主張は消費の反動減とそれに連れた景気悪化であろう。しかしそもそも消費減少は増税が原因なのだろうか?景気は株式相場の悪化を判断材料にされることが多いがそれは正しいのだろうか?
 
 新年度(4月)になって株式相場が大幅に低下している。今年の最高値19000円近い相場から直近は16000円を割り込んでいるから3000円(15%)以上値下がりしているが、しかしこれは3月の株価が異常に高かったせいで、急速に進んだ円高などから考えれば「クジラ」―年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)による年度末をにらんだ「官製相場」だったのではないかというのが多くの専門家の見方になっている。事ほど左様に昨今の株式相場は世界の大金持ち―アメリカなら1%の富裕層が国の資産のほとんどを握り他の国でも10%未満の限られた人々が多くの資産を独占している―の資金をバックにした大型の投機ファンドや日本のGPIFなどと同様の世界の年金ファンドや保険会社などの大型ファンドが蹂躙している。折りしも「パナマ文書」という中央パナマの法律事務所が保有していた脱税目的と思われる世界の金持ちの「ペーパーカンパニー」のリストが公になり、エリツイン・ロシア首相や習・中国最高指導者の関係者の名もその中にあり大物議を醸している。日本の株式市場も外国人の影響力が格段に増している現状では、こうした限られた富裕層の『汚れた金』と大型ファンドによる『歪められた相場』になっているとみてほぼ間違いない。株式相場に神経質に反応して政策操作してきた安倍政権だが、果たしてこれからもそれは正しい対応といえるのだろうか。昨年度外国人投資家の日本株売り越し額は5兆円を超え1987年のブラックマンデー暴落時以来の多さを記録したと報じられている。ということは外国人投資家にアベノミクスが見放されたということだろう。ここに至っては短期の弥縫策を弄するのではなく、現在の日本が抱えている根本的な問題に真正面から取組んだ成長戦略を国民と世界に訴えるべきではなかろうか。
 
 一方連日のように「介護疲れによる殺人事件」が報道され、「保育所落ちた 日本死ね!!」というブログが共感を呼んで慌てて子育て支援策を打ち出さざるをえない状況に政府を追い込んだ。こんな情勢にあるにもかかわらず政府は「低所得高齢者向け給付金」を三万円給付しようとしている。このような支離滅裂な政策で「100年安心」の社会保障制度は持続できるのだろうか。
 そもそも消費税増税は「社会保障と税の一体改革」を目的として決定された政策である。5%から10%への増税で約10兆円の増収を見込み持続可能な社会保障制度への道筋をつけるのが本来のねらいであったはずだ。将来不安を払拭して安心して生活ができるよう状況を作りだそうというのが「消費増税」のねらいではなかったのか。
 ところが増税されても「待機児童」は減らず介護離職や介護疲れは解消されない。一体税金はどこに使われているのか。そういえば東日本大震災の復興特別税(所得税上乗せ2.1%25年間、住民税10年間1000円と別途法人税でも徴税されている)も被災地以外への流用が多額にのぼったにもかかわらず、2014年度分は18%も使われずに復興が遅れている。増税されても何に活用されているのか不透明で増税に対する不安・不満が国民に充満している。
 
 消費不振は増税そのものにあるのではなく、社会保障の将来への不安、増税への不信、一向に賃金が上がらない「国の成長政策」への不満―つづめていえば『将来不安』、生活を取り巻く『不確実性』が原因になっているのではないか。終戦直後の壊滅状態の中で国民が前向きにひたすら働きつづけられたのは、頑張れば必ず報われるという希望が持てたからだった。ところが消費増税によってその先にどんな明るい生活が待っているのか明確な、そして信頼のできる『将来見通し』が誰からも提示されない。だから増税のたびに不安な将来に備えて、身をすくめ消費を抑えざるをえなくなってしまうのだ。
 アベノミクスの三本の矢、大胆な金融政策でも機動的な財政出動によってもわが国はデフレ脱却を果せず経済を成長軌道に乗せることはできなかった。この閉塞感を打破するためには『国民の納得できる成長戦略』―希望の持てる将来が提示される以外に方途(みち)は無いのではないか
 

2016年4月3日日曜日

イワンのばか

 トルストイの民話『イワンのばか』を幼い頃絵本で読んだ人は多いだろうが、今読み返してみるとその教訓的なことに驚かされる。あら筋はこんな風である。
 
 お金持ちのお百姓さんの三人息子―兄のセミョーン、次兄のタラスとお人よしで「イワンのばか」と呼ばれている末弟のイワン(口の利けない妹マラーニャと一緒に住んでいる)―と悪魔の話である。二人の兄は悪魔との戦いに敗れるがまじめにこつこつ働くイワンは王女さまの病気を治してあげたおかげで王様になります。悪魔の悪企みにしてやられたふたりの兄もイワンのおかげで王様にしてもらいます。そこで悪魔は最後の戦いを挑みます。
 セミョーンは好戦主義者ですので悪魔は言葉巧みに隣国インドを倒すようにたきつけ「軍拡」に国力を傾注させます。一方でインドにもセミョーンの国の対インドの軍拡を告げ口して軍備の大増強をさせます。その結果セミョーンは大国インドに抗する術もなく国を滅ぼしてしまいます。
 次兄のタラスはお金が好きで何でも欲しがる性質ですので悪魔は大量の金貨を作らせます。リフレ派でマネタリストのタラスはジャブジャブの金貨でイワンの国へ直接投資をして立派な御殿を建てようと、イワン国の住民に物資の購入や人材の雇用を働きかけます。イワンの国では「物々交換」と「役務の相互提供」で経済が成り立っていたのですが初めは金貨が珍しくて「子どものおもちゃ」や「恋人の首飾り」にしようと金貨と物資の交換に応じ建設人夫として働きます。でも二度目にはそんなに金貨があっても子どもも恋人も喜びませんからタラスの金貨に魅力を感じないようになります。結局タラスは希望の御殿を建てることができなくなりタラスの国も滅んでしまいます。
 最後に悪魔はイワンの国を滅ぼそうとタラスの金貨を持っていきますが当然何も買えません。腹の減った悪魔はイワンに助けを求めますと、イワンは領民に順繰りで悪魔に食事を恵んでやるよう頼んでやります。何日かしてイワンの家に悪魔がやってくるとイワンのおかみさんは昨日の食べ残ししか与えてくれません。なぜだと怒った悪魔に「うちでははたらきだこのないようななまけものにはちゃんとした食事はもらえないきまりなんだよ」と答えました。
 イワンは今でも元気です。でもイワンの国でははたらきだこのないものは今でもちゃんとした食事はできない決まりがつづいています。
 
 まとめが下手なのでトルストイの巧みな語りの味わいは伝えられませんが、トルストイの考えは分かると思います。隣国の脅威と緊張を打破するために『軍拡』を企てても、結局は大国の強力な財政に裏打ちされた『軍備増強』には太刀打ちできないという原理は現在でも真理でしょう。冷戦でソ連が崩壊したように現在の国際緊張下でも最強国の軍備が世界を支配する構図に代わりはないのです。
 世界経済のデフレ傾向の下、デフレは金融現象のひとつであるから貨幣量を増やせばデフレ脱却できると量的質的金融緩和を非伝統的手法を用いて展開しても、実経済の成長力を高めなければデフレ脱却はできないということを今の世界経済の混迷が証明しています。
 
 高度成長期から中成長に成熟した中国経済は、可処分所得の伸びの鈍化と生産者物価の低迷で大半の企業の赤字経営が常態化している。厖大な債務はGDP比でみても日本のバブル期よりもはるかに上回っており中国経済の長期停滞懸念は避けられない。とすれば中国経済の工業化の終わりと共に、モノの世界の収縮は続いていくと覚悟せねばならないが、それ以上に中国の過大な債務は金融市場の収縮にも影響し世界的な金融不安はこれからが本番になるかもしれない。
 北朝鮮の核の『挑発』、留まる気配も無い『難民』と『ナショナル・ステイツの溶解』、経済のグローバル化という新たな「帝国主義」と先進国に蔓延する『格差拡大』。21世紀はこれまでとは次元の異なる『混迷』を我々に突きつけている。
 こうした状況は第二次世界大戦後に樹立された『戦勝国システム』の機能不全をもたらすと同時に既存の理論・知識の適用不可能性をも思い知らしている。
 
 『イワンのばか』がなにを教えているのか?謙虚にトルストイに教えを請わねばならないのではないか。