2016年6月27日月曜日

『知性』の劣化

 イギリスが「EU離脱」を決めた。歴史的な大変動である。この結果をどう見ればよいのか。
 
 我々はイギリス(英国)と当り前のように呼び習わしているがイギリスを英語で記すときはUK(ユナイテッド・キングダム)と書く。ユナイテッドと表されるように英国はイングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの4つの国―カントリーの連合体である。西欧諸国の中でも最も古い歴史をもった国であるだけに今日に至るまでには複雑な国内事情を抱えており、たとえばスコットランド独立運動、北アイルランド問題など統合体としての不安定さはもともと根深いものがあるのがイギリスであることをまず知らなければならない。チャーチルといえば「偉大なる首相」として誰からも尊敬されていると我々日本人はイメージしているが、いつか見た第二次世界大戦を描いたイギリス映画でスコットランド人がチャ-チルを『悪魔』と罵る場面があり驚いたことが鮮明に思い出される。今回のEU離脱問題を分析するマスコミ報道では『世代間の差異』が大きく取り上げられていたがイギリス経済繁栄のカントリー別の偏りに根ざした統合体としてのUKへの不満も「離脱」に大きく影響したのは間違いない。
 イギリスが「階級社会」であるといえば違和感を覚える人が多いかもしれないが建国以来の歴史を引きずった今も厳然としてある「3つの階級」を認めないわけにいかない。イギリス人は階級によって英語のアクセント、服装、読んでいる新聞が異なり、同じ階級同士で交わるのを好み、違う階級の人々を皮肉る。オックスフォード大学やケンブリジ大学を出て上流階級を形成する王室、貴族、地主、資産家など。大学を卒業してホワイトカラーになる中流階級。そしてワーキング・クラスである労働者階級、この階級に属する人達は義務教育を終えるとすぐに社会に出るのが一般的である。イギリスでは、基本的に自分の出自がそのまま階級を示し、上流階級や上位中流階級の子弟は幼い頃から階級を維持する高等教育を施されて社会の上位層を上り詰めるような仕組みができ上がっている。
  一方1990年代以降先進国の中でも経済成長が顕著な米国及び英国は、金融産業の付加価値の増加率が高くなっており金融産業が経済成長を牽引している。実際英国金融業GDPに占める割合は10%を超えており、他の主要先進国よりも比重が格段に高い。数年前「ウォール街を占拠せよ」という運動がアメリカで起こったように、金融業の成果配分の格差の大きさは突出しており人口6千5百万人のの影響は3億2千万人の国の何倍にもなって格差を拡大しているに違いない。イングランドのロンドンにあるシティに代表されるイギリス金融産業の引き起こしている格差がイギリスの階級社会の『歪み』をなお一層拡大したであろうことは容易に想像できる。
  今回のイギリスEU離脱は報じられているように「世代間のEU観」の相違―生まれたときから「EUの一員としてのイギリス」を当然とする若年層と「偉大なる英国」を知っている40、50歳代以上のEU観―や「難民問題」が直接の引き金になっているとみるのは妥当ではあるが、そうした『経済的・政治的』に偏った分析からは本質的な解明は不可能である。歴史、文化、民族・言語など多層な分析を抜きにして『真実』が明らかになるほどイギリスという国は単純ではない。それにしても現在行われているサッカー欧州選手権決勝トーナメントに4つのカントリーがすべて代表チームを送り込んでいる英国の底力には驚くばかりである)。
 
 これまでに述べてきたようなイギリス固有の問題以外に今世界を覆っているグローバル化に伴う『低成長と格差拡大という新常態』も成長の恩恵に浴さなかった非エリート層に『離脱』を迫った大きな要因になっている。しかし低成長は宗主国の過酷な利益を擁護した「植民地主義」が容認されなくなった現代において、先進国と未開発後進国を統合することによって惹起される『揺籃期の調整期間』とみるべきで、それは「東西ドイツ再統一」後のドイツ経済の低迷期(直接的には5~6年であったが旧東ドイツ地域の低所得の改善は未だに解決していない)をみても明らかなのだが、これについてはここでは詳細には触れないでおく。それに比べて『格差の拡大』は市場の自由を放任している現在の資本主義に根本的な修正を要求しているシグナルと捉えるべきで、早急な対策が求められている。
 加えて、権力(や軍事力)によって押し付けられてきた統合や国境など―とくに第二次世界大戦の勝利国が設計した統治方式―が戦後70年を経て制度疲労を起こし再設計が必要な時期を迎えていることによる世界的な変動という側面があることも認識すべきであろう。UKの解体と再統合や『難民問題』はそうした視点で捉えない限り根本的な解決には到らないであろう。 
 
 政治や経済といった表層な分析だけで世の中の変化の原因を特定することで満足している最近のマスコミのあり方に『知性の劣化』を感じずにはいられない。アメリカの『トランプ現象』、そして今回の『イギリスのEU離脱』と二度にわたる『大変動』を見抜けなかったマスコミや論壇猛省を促す。
 
 

2016年6月20日月曜日

舛添、宮崎そして乙武

 舛添知事が辞職した。なんとも名状し難い末路であったが今回の騒動でもっとも彼の真実を突いていたのが北野たけし氏であった。「あの人は、最初から権力者になりたくて、人の上に立ちたくて、政治家になるために政治学者になったような人だからね。庶民感覚はないやな」と斬って捨てたのは彼が舛添氏が政界進出以前からテレビで何度も共演して舛添氏の並外れた『上昇志向』を見抜いていたからの辛辣な評言となったのである。マスコミがしきりと用いた『ブーメラン語録』も舛添氏の『権力者志向』を知っていれば、権力に上り詰めるまでの第三者批判と権力者になってからの『批判意識の喪失』―権力者ゆえに許される『特権意識』―この理不尽な乖離も彼の中ではまったく矛盾がなかったのであろうことが理解できる。舛添氏の特権意識は優者にのみ許される『野蛮』を厚顔無恥に実行したに過ぎない。すなわち「『野蛮』とは規則の不在であり、控訴の可能性の欠如なのである(オルデガ・イ・ガセット著『大衆の反逆』より)」から彼がヤメ検の弁護士を雇ってひき出した「違法ではないが不適切」という言辞はまさに『規則の不在』を正当化するための論拠に他ならず、従ってこの論拠の法的裏づけとなった「政治資金規正法」という法律が法律を装った「野蛮な法律」であることを見事に『あぶり出して』いるのである。
 舛添氏に決定的に不足していたのは『謙虚さ』であった。
 
 ゲス議員宮崎謙介氏の末路も哀れであった。衆議院議員が産休を率先して取るということで「少子化」時代の模範的夫のあり方として絶賛を博した直後の「妻の出産入院時の自宅不倫」であったから八方塞の集中砲火を浴びたのも当然である。しかし、しかし…である。早稲田大学出身の長身イケ面の一見優男でありながらスポーツマン、弱冠31歳で衆議院議員に当選を果す、しかも妻は新潟県の政治家一家の美人衆議院議員。ここまで絵に書いたような「勝ち組・成り上り」を極めたら男なら舞い上がるのも当然ではないか。女は手当たり次第面白いように靡いてくれる、セックスにも相当自信があったにちがいない。仕事も順風満帆思い通り、遂に若くして衆議院小選挙区で当選を果す、選挙区でも人気は抜群で当面落選のおそれは毛ほどもない。これで『有頂天』にならない「若いもん」は稀有であろう。しかしここまで人生が順調に運んでくると普通の人間なら『懼れ』を抱くものだが彼はそうではなかった。さらに増長したのだ。落とし穴が待っていた。
 彼は傲慢さに気づかなかった。決定的に不足していたのは『謙虚さ』であった。
 
 乙武洋匡氏は先天性四肢切断という極限の障害を生まれつきもっている。それでありながら早稲田大学を卒業し教職員を勤め教育委員、NPO法人代表、文筆業、タレントとマルチな活動をする。結婚して二男一女をもうける。どこからみても通常の健常者以上の活躍であり通常の生活者と何ら変わらない。学生時代から女性関係ははなやかで彼の周りには幾人もの女性が取り巻いていたという。
 障害にうちひしがれて、懸命に努力してそこから抜け出て一般社会に迎え入れられ『頑張る』姿を賞讃される、というのがこれまでの障害者の常識的なサクセスストーリーであった。しかし彼の美学はそれをゆるさなかった。あくまでも普通に、健常者以上に何気なく、勉強し働らき恋愛し結婚子育て、浮気だって…。そうでなければ彼は自分が許せなかった。
 彼は傲慢さに気づかなかった。決定的に不足していたのは『謙虚さ』であった。
 
 低成長と停滞という閉塞感が横溢し無知と凡庸がはびこる現在にあって彼らは異様である。何故彼らは『逸脱』したのか、逸脱せざるをえなかったのか。『狂気』なのだろうか、『反逆』であったのか。
 彼らに欠如していたのは『他人への思いやり』である。隣人との共存と『寛容』を彼らは忘れていた。そこに『落とし穴』があった。
 しかし『寛容の欠如』は彼らだけではない、世界中に蔓延している。戦争という『代償』を払って20世紀が築き上げた『平和』のシステムを21世紀が『侵蝕』している。
 
 強欲と不寛容!
 「自由主義は、敵との共存、そればかりか弱い敵との共存の決意を表明する(前掲書より)」。
 
 

2016年6月13日月曜日

『老衰』という生き方

 最近高齢者の騒音などのご近所トラブルが多い。何故彼らが突然キレるのか?不健康だからだ。
 我家の隣に小学校がある。かなりのマンモス校で元気のいい子どもたちの声で溢れており老いた夫婦ふたりのシンと静まり返った暮らしに活気を与えてくれる。ところが先日軽い風邪で寝込んだとき子どもたちの騒ぎ声が「ウルサイ」と感じイラだちを抑えきれなくなった。辛うじて妻に当りチラスことなくのりきれたが、少しの「不調」で普段は何気なく過ごしていることがこれほど精神的負担に転じるのに驚ろいた。
 ことほど左様に老齢になって「快適」に過ごすことは難しく、才能とテクニックのいることに多くの人は気づいていない。目が見ずらい、耳鳴りがする、偏頭痛がする、歯が痛い味覚が鈍い、息切れがする、階段を上るのがつらい、ちょっとした段差につまずく、などなどこれらがいくつか重なってストレスが蓄積される。病院へ行ってもどこも悪くないといわれる、いくつかの病気が疑われるがこれと特定するにはいたらない。何かきっかけがあれば爆発して吐き出したいという鬱憤が堪りにたまっている。こんな状態の高齢者がどれほどいることか。
  高齢者の健康状態を『虚弱期』という期間を加えて捉える見方がある。虚弱期は「不安定な歩行、抑うつ症状があり早期の認知症が認められることもある。軽度要介護」と定義され「健康期」⇒「虚弱期」⇒「高度虚弱期」⇒「終末期」と進行する。健康ではないけれども何とか通常の生活が行えている高齢者に多い健康状態は『前虚弱期』といえるのではないか。又福沢諭吉は、身に一点の病状も無い『十全健康』の人は少ない。健康に似ているけれども十全健康ではない状態を『帯患(たいかん)健康』―どこかに患いをもっているけれども普通に生活をしている状態―と呼んでいる。高齢者のほとんどはこの『帯患健康』で生きている。自分の肉体と相談して細心のケアを施しながらこの状態をキープしたい。高齢者にとってこれがベターなのではないか。
 この期の高齢者はこれといって欲しいものは無い、でも旨いものを食って美味しい酒を飲んで楽しく時を過ごしたい。こんな生き方を望んでいるのではないか。もしそうすることができなくなったら、食事が自分で摂れなくなって旨いも不味いも分からなくなって、自分の足で好きなところへ行けなくなって、好きな音楽が聴けなくなって読書ができなくなったら、『老衰』という生き方をしたい。
 
 老衰とは「高齢者で他に記載すべき死亡原因のない、いわゆる『自然死』」と定義される。老衰は天寿を全うした穏やかな死の証しでもある。老衰で亡くなる高齢者がこの10年で3倍に増えた。2015年の約130万人の死亡者のうち、約7割を75歳以上が占め、老衰で亡くなった高齢者は8万5千人に上り前年より9000人増えた。老衰死亡率(死者10万人に占める老衰死の比率)は戦前100人を超えていたが、医学が進歩して診断可能な疾患が増えるにつれて老衰死亡率は減少し1980年代以降20人前後で横ばいが続いていたが2000年半に増加に転じ15年には69.9人に上るようになった。
 フランスは90年代まで胃ろうを延命治療として積極的に取り入れていたが、現在では高齢者に胃ろうを施すのは虐待の一種とみなされるほどになっている。北欧では1990年代に介護施設に寝たきりの高齢者はほとんどいなかった。自力で食べられなくなったら死ぬという考えが広がっていたからだ。
 食が細くなり眠っている時間が長くなるなどの兆候は老衰の域に近づいたことを知らせている。延命治療で生き永らえるよりも自然に枯れるように逝きたい、自然な死を受け入れるという死生観の変化が現れているのだ。
 問題は子どもなど周囲の考え方だ、なんとかして生かしたいと考えるのが人情だ。医者も患者の死を見送るとき救える命を救えなかったのではないかという後悔、技能者としての敗北感を覚えるかもしれない。
 患者の死生観、周囲のものの感情、医者の自負などが絡み合って高齢者の死を取り巻く状況は複雑である。
 
 ここ半世紀近いあいだ「死」と真摯に向き合うことがほとんどなかった。ひたすら「死を遠ざける」ことに執着してきた。お陰で我国の平均寿命は世界一(男性は3位か4位だが)になることができた。それを誇っていた。「死」を「生」と断絶したものとして捉えてきたからとにかく「生」の限りない延長に国を挙げて取組んできた。フト「生」について疑問を持った。
 「生命というものは、どんな犠牲を払ってもこれを延ばしたいというほどまでに、愛着されるべきものではあるまい」、「自然が人間に与えてくれたあらゆる賜物のなかで、時宜を得た死ということにまさる何物もないのだ」、「特に最上のことは、誰もが自分自身で死の時を選ぶことができるということなのだ」(プリニウス『博物誌』よりショウペンハウエル『自殺について』からの引用)。
 
 ひとには『老衰』という生き方が選択肢のひとつにある。
 
 

2016年6月6日月曜日

Fさんが消えた

 行きつけの喫茶店の常連さん―Fさんが連休の間に忽然と姿を消した。あれほど喫茶店を愛し、皆との会話を楽しんでいたFさんなのに、ひと言の挨拶もなく引越してしまった。
 Fさん―今年齢(よわい)94才にして頗る壮健、耳は相当不自由で歳が歳だから全身ケアが必要だがアチラの方もまだまだお盛んな愛すべきご老人である。十年ほど前に奥さんが体調を崩してからは毎日の買い物も彼の担当で料理をすることもある。介護保険のお世話にはなっているが家事全般をほとんど一人でキリモリしているといっても過言ではない。それでいて遊ぶことも決しておろそかにすることなく、今日は東に明日は西にと祭りを楽しんだり食道楽したりと「人生を満喫」していた。いつだったか40年来の馴染みの祇園のおかあさんとデートしたと嬉しそうに話していた。
 
 顔馴染みになって話すうちに出身が同じ「西陣」であることが分かり、終戦直後(昭和21年)酔っ払った進駐軍のイタズラで「北野のチンチン電車」が堀川中立売の鉄橋から脱線した事件を覚えているかという私の問いに、「あのときなぁ、ワシその角にあった交番でアルバイトの巡査やっててな、後始末で苦労したんや」との返答には驚かされた。西陣署に爆弾が落ちましたね、そうやったなぁ、私丁度そのとき西陣署のスグ上(かみ―北)にあった防空壕に母親と一緒に飛び込んだとこでしてね、爆風で瓦やなんやかやが飛び散っていったのをよう覚えてますは。それは危なかったな、一瞬の差やがな。映画館がようけありましたね、そや7、8軒あったなぁ。西陣京極のドンツキの「千中ミュージック」の息子が同級生でしてね、10時半頃隣の銭湯へいくと小屋のハネたストリッパーのおねえさんたちが来るというので悪仲間と連れてその時間にフロ行ってましたわ。などなど。
 話題が尽きなかった。二十才近く年上のおっちゃんという気安さで付き合ってくれたFさんだが、90才に手が届くころからは身近に迫った『終の棲家』のことを思案していた。一人娘が四国に嫁いでいたが頻繁に帰ってきて両親の面倒を見ることのできない事情があったようで、ここ数年近辺に次々と建設される養護施設や今はやりの「サ高住―サービス付き高齢者向け住宅」への入居も検討していたようだった。
 娘さんや、特に孫をそれはそれは大事にするFさんだったから回りの者はそんな風な親娘関係がもどかしく、子育ても終ったのだから(ふたりのお孫さんがそれぞれ就職、大学に入って)娘さんがもっと両親の面倒をみればいいのにと気を病むこともしばしばであった。
 
 そんなあれやこれやがあったFさんが娘さんのいる四国に引っ越したのだから、ヤレヤレであり喜ばしいことではあるのだがいまひとつスッキリしないのは、大層仲の良かった弟さんや妹さんにさえ連絡がなかった慌しさが不審で恨めしいのだ。連休明けに弟さんから喫茶店の女主人に「兄へ電話してもつながらない」と問い合わせがあったという。それは無いだろう、というのが回りの皆の気持ちなのだ。
 考えるに、娘さんとはご夫妻でいろいろ話し合われたことだろう。娘さんも両親の面倒を見たい気持ちは山々であったに相違ない。溺愛されたお孫さんからもおじいちゃんおばあちゃんの世話をして欲しいと乞われたであろうことは十分想像できる。しかしFさん夫妻はこの歳(90才を超えて)になって又新しい環境に移るのは億劫だったにちがいない。そんな娘と両親の感情のズレがあって、やさしいFさんは娘さんの気持ちも分かるから取り敢えず四国へ行ってみよう、様子を見て、どうにも四国が肌に合わないのなら京都に帰ってくればいい。そんな事情があっての『忽然のサヨナラ』になったのではないか。そして四国移住を本心から決心したら改めて皆に挨拶もして、荷物も送って家も処分して。そんな「心づもり」ではなかろうか。
 そんなことを思って納得することにした。
 
 高齢化がどんどん進んで80才は当たり前、90才も珍しくなくなった昨今。生きている年寄りも、生きられている(?)『そこそこいい歳』をした子どもの思いもいろいろだ。なってみなければ分からないが、70才過ぎてからの住まいの移動は気が進まないものだ。今年はじめに2才年上の女性(彼女は十年ほど前福島から引っ越して来た人だった)が横浜に、娘婿の転職に伴って移住したが、気丈に振舞っていたが辛かったろうと思う。年寄りにすれば「ほっといてくれていい」と思っていても、子どもにとってはそう思い切るには覚悟がいる。
 『老人ホーム』という呼び名もいやだし、ヨボヨボになった老人ばかりが集められてただ『食って生きている』(ようにみえる)だけの環境は堪らない。何世代もが同じ地域に暮らしながら、世間様にあまり迷惑も掛けないで『生を全うする』。そんなふうに老いて、生きたい。