2017年3月27日月曜日

新撰組と寅さん

 平成18年4月に始めたこのコラムの連載も丸11年を迎える。専門をまったく持たない市井の一市民が思いつくまま幅広いテーマでものを書く――最初は建設関係の業界紙が発表の場を提供してくれたが四年後あたりからはネット上に勝手に書いている――としたら、武器は「アマチュアリズムに徹した自分流の見方」以外にない。小沢昭一(昭和の喜劇役者、俳人、文筆家)さんが「新聞が同じことを言うようになったら、眉に唾をつけておいた方がいい」と言っていたがまさにそれである。そういう意味では随分好き勝手を書いてきた。それはよくいう「ペンが勝手に走って…」的な場合が多く、書くということは単に「考えをまとめる」だけでなく「書いているうちに考えがどんどん膨らんでいく」ということが少なくない。勿論「書く」が「読む」を促すことも事実でこの十年、多方面の著作を相当読んだ。読む―書く―読むのサイクルが快調な11年であった。
 
 その成果で『WBCの侍ジャパン』を見れば「自然芝と小林」がキーポイントになる。前哨戦は日本の「人工芝」で、決勝ラウンドはアメリカの自然芝で試合があった。人工芝に慣れている日本選手はアメリカに移ったら自然芝対策をよほど徹底しなければ苦杯を喫することになる、この予感が的中してしまった。菊池と松田のエラーは紛れもなく自然芝の悪戯によるものだった。菊池のはイレギュラー、松田の場合は自然芝独特のバウンドの高さに対応できなかったことによる。小林についてはこんな見かたができる。正捕手の楽天・嶋が怪我で不出場になって小林が浮上したのだが、守備はまだしも打撃に関してはまったく期待されていなかった。ところがフタを開けてみるとリードもキャッチングも文句なく、打撃までも5割近い好成績を上げるではないか!小林が均衡を破る活躍を見せる場面さえあった。しかし裏返してみると小林のバッティングが目立つほどチーム全体の打撃は好調ではなかったということであり、アメリカ戦は打撃低調で打ち負けてしまった。自然芝による失策と小林のラッキー消滅が敗因であった。
 
 兵庫県姫路市の私立認定こども園「わんずまざー保育園」問題が喧しいがこれも取り沙汰されている以外になにかがあるのではないか?そう疑問を持つのがアマチュアリズムだ。定員オーバーと過少な給食そして補助金の不正受給などなど、あまりにも「不正」が揃いすぎているし園長の身なりが話題の籠池夫妻や他の保育施設の園長さんたちと比較して貧弱すぎる。例えば反社会的勢力による新手のビジネスを疑う余地はないのか。保育士たちの屈服的な契約や異常な従順さは何らかの強制力が働いたことを伺わせるし、また園のHP(ホームページ)が整備されていないなど今日では考えられない、施設の詳細を隠蔽しているようにも考えられる。いずれにせよ彼らは生活保護を狙った「貧困ビジネス」にさえ手を伸ばしていることを思えば「子育て支援」に触手を延ばしても不思議はない。
 沸騰している「籠池問題」も「海外ではどんな風にみられているのだろう」と視点を変えてみると少々違った側面が見えてくる。インターネットで「籠池問題の海外論調」と検索してみると「【日本ヤバイ】極右と安倍首相の親密関係こそ問題の本質」とヒットした。「安倍首相と政府は、国家主義の理事長へ評価額をはるかに下回って国有地を売却したとして議会の質問に晒された(ロイター)」とある。このあと「安倍内閣閣僚19人のうち15人が日本の侵略戦争を正当化する改憲・右翼団体『日本会議』を支援する『日本会議議連』の所属議員である」という記事がつづく。安倍政権は発足当初から「右翼政権」と見なす海外報道が多かったが籠池問題で更に改憲・極右の烙印が捺されてしまった。世界的にポピュリズムに支えられた「右翼政党」が勢力を増しつつあるが、今回の騒動で我国の右傾化に拍車がかかっているとみられることは間違いない。
 
 最近の傾向で危うさを感じるのは歴史の見方が偏っていることだ。顕著な例の一つが「新撰組」だろう。全国から若い人たちが土方歳三や近藤勇に憧れて壬生神社、霊山博物館や伏見の寺田屋旅館を観光する。しかし彼等新撰組はヒーローなのだろうか。我々「鞍馬天狗世代」にとって新撰組は「悪者」だった。大仏次郎の『鞍馬天狗』に描かれる彼らは勤皇志士と敵対する暗殺集団であり、志士が窮地に陥ったとき颯爽と現れ新撰組をピストルと刀で成敗する鞍馬天狗に子どもたちは拍手喝采した。それがいつ頃からか新撰組がヒーローに変体した。それはたぶん子母澤寛の『新撰組始末記(1928年作、1996年中公文庫化)』と司馬遼太郎の『新撰組血風録(1964年作2003年角川文庫化)』の影響によるところが大きいと思うが、そこに描かれた新撰組隊員の悲劇的(下級武士の彼らが剣の力だけで栄達を望みながら結局時代の波に翻弄される)な姿が、格差社会の閉塞感につつまれた若い人たちの共感を呼んだのだろう。しかし歴史的視点から新撰組をみれば、超大な武力で迫る列強に対して鎖国を止めざるをえなかった開国派に反対し武力対決しようとする攘夷派に、無批判に従属した暗殺集団と断じざるを得ない。もし開国しなければ隣国清のように植民地化されたに違いなく、維新後の我国の驚異的な近代化はなかった。開国反対派の歴史判断は誤りであり、封建的身分制度の下で能力に応じた社会参加が認められていなかった下級武士―新撰組の彼らは、現状維持を狙う既得権集団(攘夷佐幕派)に与するのではなく、徳川の封建制を破壊する行動を起こすべきだったのだ。こうした「体制内改革」志向は我国の特徴で赤穂浪士もある意味で同じ範疇といえる。
 
 国民的人気映画の主人公「フーテンの寅さん」に違和感を感じるのも根は同じである。組織に属さず自由気ままに日本を放浪する寅さんに憧れ、共感する多くのファンは気づかないのであろうか。彼、寅さんにはいつでも帰ってこられる「葛飾柴又」というふる里があり、やさしい妹さくらや温かく包み込んでくれるおいちゃんおばちゃんやタコ社長がいて、あこがれのマドンナに失恋さえできる。こんな幸せな「アウトサイダー」はいないのであって、世の中には身よりもなく帰るべき故郷も持たない人のどんなに多いことか。「なに甘いことをいっているんだ」とイキがる寅さんを皮肉った目で見ている人たちこそ本当の「疎外された人―アウトサイダー」なのだ。
 
 最後に私の経験から「書く」ことをお薦めする。最初はメモ程度の日記でよい、書くことは物の見方を鋭くするし広くもする。読む―書くを繰り返せば読書力もつく。なにより「ボケ防止」になる。   
 「書く」ことは一種の「遊び」でありネット社会に生きる高齢者に最適の「良質の遊び」だと思う。
 

2017年3月20日月曜日

教育勅語のワナ

 日本ははるか昔に皇室の祖先が国を興され、その徳にならって国民が一丸となって忠義と孝行を尽くしてきたので今日まで栄えてきました。教育の根幹も同じところにあります。あなた方国民は、父母には孝行、きょうだい(兄弟)仲良く、夫婦は互いに睦みあい、友人同士は信頼し合うことが大事です。慎み深く行動し、他人には博愛の手をさしのべ、学問を修め仕事を習いそれによって知能を更に高め徳と才能を磨き上げ、進んで世のため人のために尽さなさなければなりません。憲法と法律は遵守しなさい。そして危急存亡の時には正義の勇気をもって社会のために働き、それによって天皇の世が永久に続くよう心がけなさい。
 あなた方がこのような心がけで力を尽すことは、天皇のための国民としてふさわしい資格を得るだけでなくあなた方の祖先がこれまで築いてきた日本の美風を保つためにも必要なことなのです(明治23年10月30)。
 以上が教育勅語の概要(少々意訳しています)で、このあとこうした道徳は古今不変の人間の守るべき道理であるから、わが国にとどまらず世界に広め、私、天皇とともにあなた方国民もともに守りつづけて、この国が心豊かな国でありつづけてほしいと願っています、と結ばれる。
 
 この「教育勅語」が森友学園騒動がきっかけで再び脚光を浴びている。それは籠池理事長の「教育勅語のどこが悪いんですか?親に孝行し兄弟仲良く夫婦相和すのは当たり前でしょう!危急存亡のとき自分のことは差し置いてお国のために尽くすのは当然ではないですか(概ねこんなだったと思う)」という言葉が「そうだよね」と共感を呼んで教育勅語の再評価が高まっているのだ。
 しかしこの風潮には大きな『ワナ』が潜んでいる。
 
 今回の騒動で最も心を痛めたのは何も分からず教育勅語を暗誦させられている子どもたちの姿だった。子どもたちは学校で学問を学ぶ。学問とは「何故」と疑問を持ちその答えを導く方法を学ぶことだろう。それであるのに教育勅語(倫理的道徳徳目)にはそれを許さない「愚かさ」に『信奉者』は気づいていない、安倍首相や稲田防衛大臣のように高等教育を受けた優秀な頭脳の持ち主でさえも。
 そのように道徳というものは批判的な見方が否定されるとねじ曲げて悪用される危険性を帯びている。例えば戦前、教育勅語が如何に悪用されたか。父母に孝を説き、父の上に天皇を戴き、国民は天皇の赤子であると位置づけて絶対の尊敬を必然とした。その天皇の命を体した政府であり軍隊をも「絶対」であると論理を飛躍させることへの疑問―批判を封じる機能を「教育勅語」に担わせ戦争へ突き進んでしまった。
 これまでの歴史を振り返ってみるとどんな社会にも矛盾があった。虐げられた人びとの不満が蓄積し臨界点に達したとき――まさにそれが『危急存亡』のときなのだが――お国(=既存の社会)のためではなく社会を変革する方向に爆発したエネルギーが作用されてきたから、人類は進歩してきた、そして今がある。
 ところが「親に孝行…」などの道徳的な徳目は二千年前三千年前に打ち立てられたもので、その後まったく追加も変化もしていない。この間社会は大きく変動し進歩している。我国の戦前戦後を比較しても、家父長制の大家族制から核家族に変わっている。長幼の序――祖父→父→長男という序列が重んじられ遺産は「長男」が相続して「家」が守られてきた。しかし現在の民法では相続はきょうだい平等になっているから納得の行く分配が行われなければ「きょうだい喧嘩」も起ってしまう、「きょうだい仲良く」とは言っておられないこともある。親に虐待を受けた子供が「子どもだから親に反抗せずに我慢しなさい」と押さえつけられて成長すれば、親になったときその子どもに虐待が繰り返されることになる。虐待を癒やす「カウンセリング」を受けて心の傷を修復するのが現在のあり方である。
 
 儒教にしろ宗教にしろ倫理的道徳徳目は「現状肯定」を基礎として現状「維持」「補強」を目的としているから、現状の制度や体制を変革しようというエネルギーを減殺―封じ込めてしまう魔力がある。しかし一方で道徳は知っているだけでは何の価値もない。道徳の試験で満点をとっても教えを実行しなくては学びを習得したことにはならない。籠池理事長のように教育勅語を良く勉強し子どもたちに暗誦させ教え仕込んでいる人でも校舎の建築見積書を三通も作るような『嘘』をついてしまうのでは教育勅語がまったく彼の生きる力になっていないことが分かる(こうした人のことを福沢諭吉は『偽君子』と呼んでいる)。
 
 最後に天皇について考えてみる。天皇は武家社会になって権力中枢から遠ざかった。ところが明治維新に「天皇の国家」に戻され、さらに天皇制が悪用されて第二次世界大戦が勃発し敗戦した。戦後天皇は象徴となり日本という国は『国民』のものになった(主権在民)。平成天皇が真摯に象徴天皇のあり方を模索され、万世一系という世界に類のない誇るべき文化と伝統を国民の『心のよすが』として定着されたのである。
 
 教育勅語を初め徳目の一つひとつはどれも「それらしい尤もさ」を装っている、そこに『ワナ』が潜んでいるのである。      
 

2017年3月13日月曜日

成心・僻見(29・3)

 一国の真の政治というものは、外国に対するいっさいの従属からその国を解放する方向に向うべきですが、しかしそのために、税関とか輸入禁止とかいった恥ずべき手段に訴えてはならないのです。産業を救うことのできるのは産業みずからの力だけであり、自由競争こそその生命です。保護されると産業は惰眠におちいってしまいます。
 このバルザックの『田舎医者』からの引用はまるでアメリカ・トランプ大統領の通商政策を批判しているように読めるが、実は1833年の作である。昨今我国では「地方創生」が声高に叫ばれているが一向に成果が上っていない。『田舎医者』はナポレオン1世失脚後の復古王政を打倒した7月革命でフランスが新たな社会の建設に向って民衆の力が勃興した頃、とあるさびれた田舎町を「地方創生」した医師兼村長の奮闘譚なのだが、その古い小説の「地方創生」策がいまでもそのまま適用可能な新鮮さを保っており、フランス資本主義揺籃期に息づく力強い「原理原則」に学ぶところは大である。
 
 原理原則の大切さは一、二年前に出された文科省の大学「人文科学系学部軽視」の通知の惹き起こした騒動にも読み取れる。この通知は「短期的成果偏重」から「理系重視、人文系とりわけ教育分野軽視」の意向を国公立大学学長宛に打ち出したもので、人文系学部の漸進的縮小、廃止を求めている。これに対して各学長をはじめ日本学術会議やマスコミも一斉に反論を掲げ、自然科学の止まることのない進歩をコントロールできるのは人文科学系知見が持つ『綜合性・統合性』であり、その必要性は自然科学進歩の加速が予想される21世紀に一層重要性が増すと訴えた。その結果この通知をめぐる騒動は文科大臣の人文系学部の再評価表明によって収拾されたが、当該通知の有効性は未だ残ったままであるようだし、文科大臣の謝罪はまだない。
 科学の暴走をコントロールする人文系知見の重要性は先日行われた石原前東京都知事の「豊洲市場問題に関する記者会見」でも明らかになった。席上彼はこのように訴えた。「豊洲移転は知事就任時既定事項であったし、土壌汚染に関しては、私には専門的知見がなく又独自判断する能力もないから、専門家の出した結論を信じそれに沿った判断にもとづいて、裁可するほかなかった。裁可責任は承知しているがわたし独りでなく行政機構も議会も責任を負うべきである」。
 石原氏は一時代を画した我国有数の文学者でありインテリであり政治家であった。その彼が『人文系知見』の『有効性』を否定してしまうのでは、我国が第二次世界大戦や原子力発電に無批判に突き進んだ誤りをいまだに防げない情け無い国であることを、『国際都市東京』の都知事が世界に発信することになってしまうではないか。巨大官僚機構のうえに立つ総理大臣であり東京都知事が、専門性に分化した統治機構を統御できないとなれば、政治の責任は誰がとるというのか。
 専門性の塊である軍隊にシビリアンコントロールが効かないことになれば世界は一体どうなる?
 老いたり、石原慎太郎!
 
 今話題の森友学園問題も教育の原理原則を蔑ろにしたところに原因がある。学園関係者が本心から遵奉しているかどうかは疑わしいが「儒教的道徳教育」がこの学園の教育方針となっていることが騒動のキッカケとみられる(この学園のこれまでの経過を見ると学園の利益追求のために世間受けしそうな教育姿勢を時々に衣替えしてきたように受け取れるフシがある)。政治家の一部に根づよく儒教道徳を称揚する勢力があるが、儒教道徳は皇帝を頂点とした権力構造の維持と皇帝の資質涵養を主たる目的とした思想体系である。皇帝という封建君主が存在していない今、その資質を育成する倫理徳目にリアリティはないし、上下関係を維持するための権力構造もフラットな人間関係の民主社会には無用である。社会に役立つ「実社会で発揮される資質・能力」は「大人の求める社会に合わせて子供を育てる」ことに他ならず、結果としてAI(人工頭脳)時代に要求される「独創性や創造性」「高度な判断業務」を担う能力を阻害してしまう危険性が高いということに気づいていない。教育の一般的目標は「自立精神」の育成であり「子供の未来決定の自由」を保障するのが原理原則である。
 われわれ世代の教育を振り返ってみれば、欧米崇拝に偏向していたために日本文化のバックボーンを身につけないで今に至っているから外国人に能狂言や文楽・歌舞伎を尋ねられても答えられず、神社仏閣の扁額や博物館の屏風や歌扇の文字を読むこともできない。外国人と自信を持って交流できないのを「英会話力」不足のせいにしているが本当のところは別にあることは本人たちがいちばんよく知っている。
 
 ヤマトの「宅配便変革」は『ひとの使い捨てモデル仕事』の終焉を象徴している。企業経営は関係するステークホルダーのトータルな繁栄を目指すものであるにもかかわらず、従業員の権利を不当に貶め、分配利益を収奪した『ひとの使い捨て』経営モデルは物流に限らず建築建設業、低価格飲食業、コンビニ、宿泊業、家庭教師・学習塾など多岐に及んでいた。生産年齢人口は1995年の8726万人をヒピークに減少しており『人手不足時代』が到来するのは自明であったがここ数年それが顕在化し、ついにモデル崩壊の時期に至った。当たり前のこと、従業員の幸福を願うことが当然であるにもかかわらず無視しつづけた「日本の労働市場」の『歪み』は「働き方改革」を国全体で取り組まなければならないほど逼迫した状況になっている。本気で改革を実現したいなら日本の特殊性から、国を初め地方を含めた行政がまず先行、垂範すべきで、厚労省のお役人が先頭きって「ノー残業体制」に踏み出せば一挙に我国の労働環境は改善されるに違いない。
 
 ひとを大切にする。経営者であり投資家であり労働者であり生活者(消費者)である人、そのすべての人を公正に遇する。それが『原理原則』である。
 
 

2017年3月6日月曜日

新学習指導要領で日本はどうなる?

 先日馴染みの喫茶店の女店主がこんなことを言った。「どうして好い学校を出た頭の良い人たちが新興宗教などにハマってしまうのでしょうね。オーム(真理教)もそうだったでしょう、東大出のお医者さんとか…」。誰かが答えた、「自分の頭で考えないからですよ」。どんな流れでこんな話になったのか、多分清水富美加の幸福の科学・出家騒動あたりがトッカカリだったにちがいない。
 
 先の答えに言葉を足すとこんな風になる。
 今の受験体制では多くの知識を詰め込んで短時間で回答を導ける能力―「受験頭脳」に特化した生徒のレベルに応じて「偏差値」の高い良い(とされている)学校に入れるようになっている。大学に入学してからも就活の関係もあって実質三年足らずの学習期間に「受動的」な知識量拡大に勉めるだけで(アルバイトにも多くの時間が割かれるから)習得した知識を自分なりに編集、体系化して、独自の価値基準を確立することができないまま社会人になるケースがほとんど、ということになってしまう。言い換えると、高校までに習得した基礎学力をもとに「学部別」の「専門知識」という『ツール』を身に付け、職業に着いて社会人となって遭遇する種々の問題を『問題解決』するための『価値基準』を確立するという大学教育の最終目標を達成できないで、おとなになる人が多いということができる。
 
 昨今問題になっている「英語教育の早期化」もこれと同じような問題を抱えている。
 グローバル時代に対応できる「英語(会話)力」を確かなものにするには「早期」に英語に馴染む必要があるから小学校の三年くらいから英語を必修化しようというのが「早期論者」の考えだろう。しかしこうした考えには大きな「落とし穴」がある。
 彼等は言語を単なる「コミュニケーション・ツール」としてしか捉えていないが、言語にはもう一つ『自分の考えをまとめる』というはたらきがある。勿論、早期英語教育を受けた子どもたちが、その後も英語で会話し英語の書物(教育資材)で学習を続けるなら問題はない。しかし多くの子どもたちは日本で暮らし、日本語で親・きょうだい、友人や先生と話し、日本語の本で学習するにちがいない。日本語が「母国語」になるまえに英語も学んだ彼等は、知識を習得し編集・体系化して「自分の頭で考える」という『高度な言語操作』を日本語でも英語でもできない、中途半端な言語状況で放り出されてしまうことになる。
 さらに問題なのは、グローバル化した人的交流―政治であれ商売であれ、趣味的、文化的交流であってもそういう場にでてくる人たちは教養や専門分野でも相当レベルの高いことが多いにちがいない、そんな交わりに「英会話力」だけに秀でて、専門知識や日本文化のバックボーンのない「薄っぺら」な「グローバル人材」が太刀打ちできるだろうか。
 「概念的な専門用語」で書かれた書物や資料を読みこなす『読解力』と『自分の考えをまとめる力』には『母国語』が必須なのである(医学が特殊なのは専門用語が具体的であるからではないか)。「早期英語教育論者」はこの問題をどう考えているのだろう。
 
 折りしも我国公教育の教育内容や授業時数の大綱を定める「次期学習指導要領案」が文科省から2月に発表になった(小学校は平成32年度から、順次中・高校へ実施される予定)。この案について神奈川大学の安彦忠彦特別招聘教授が日経(2月28日)に「私の見方」として意見を述べている。
 まず「大綱」といいながら具体的な指導過程・指導方法まで細かく記述されており従来現場の研究・工夫に任されていた領域にまで規制が及ぶのではないかと恐れる。それ以上に危惧されるのは教育内容が産業界で重視されている「コンピテンシー」に偏っていることで、「実社会で発揮される資質・能力」であるコンピテンシーを高校以下からも育てて欲しいという産業界の要請に応えようという姿勢が鮮明になっている。この能力は「子どものときの興味・関心に基づく問題解決能力」に結びつかないばかりでなく、教育一般の目的である『自立』養成が後退することで、たとえコンピテンシーが身に付いてもしっかり自立していない学生が生み出されることになりはしないかと危ぶまれる。『精神的自立』が高等教育の最大の成果であるとするなら、そこへの過程で「実用性」に偏った資質・能力が教育されることで「大人の求める社会に合わせて子供を育てる」結果につながり「子供の未来決定の自由」が損なわれる危険性が極めて高くなるのではないかと締めくくっている。
 
 大学入試の「記述式」の導入、英語教育の早期化、学習指導要領の「実学重視」。この数年に文科省が打ち出した三つの方向性は『批判精神』と『精神の自立』の劣化につながっていくように感じられ、ポピュリズムとナショナリズムの跋扈する現在の世界情勢の「新たな隷従」と「民主的専制」への渇望と軌を一にする。加えて『AI(人工知能)とビッグデータ』の活動領域はコンピテンシーのそれと見事に符合し「好い学校を出た頭の良い人たち」の得意分野を置換してしまうに違いない。その結果文科省が今打ち出している方向性をこのまま推進すれば、AIの不得意分野である『高度の判断』業務や『創造性』を担う人材が我国から枯渇する悲劇が発生しかねないことが予想される。
 
 70年を超える「平和の時代」をいかにすれば永続させることができるか。それは戦争を惹き起こす「政治」や「思想」を見抜く『批判精神』をもつこと以外にない。その指導的地位を占める可能性の最も高い国は徳川300年の平和を経験している我が日本である。
 その自覚を共有したいと切に希がう。