2017年4月24日月曜日

大岡信さんのこと

 詩人の大岡信さんが亡くなった。年譜をみると1931年生れとなっているがもっと年長の方だと感じていた。私と僅か十歳しかはなれていないとはとても思えなかったのは彼の存在が私にとってそれだけ偉大であったからであろう。
 
 私の「韻文音痴」はどうしようもなかったがなんとか俳句の読み方感じ方が身に付いたのは彼の『百人百句(講談社)』のお蔭だった。彼の同種の著作としては『折々のうた』の方が有名だが私にとって『百人―』はありがたかった。奥付をみると2001年2月の発行になっているから仕事の第一線を退く前後に読んでいたわけで、時間的な余裕が今まで手を出さなかった不得意分野に挑戦させたのだろう。思い返すとその頃「西行もの」も数冊読んでいるから、俳句と和歌をなんとかしたかったのにちがいない。この本はその後も繰り返し読んでいていわば「座右の書」的存在として身近においていた。今手にとってみると、色マジックで細かく線引きしてあるから相当読み込んでいることが分かる。
 どこにそんなに惹かれたのかといえばそれまで抱いていた「俳句」のイメージを根底から覆してくれたからだ。「花鳥風月」の写生句か女性の得意な生活句が一般的だが、例えば「戦争が廊下の奥に立ってゐた―渡辺白泉」「戦争にたかる無数の蠅しずか―三橋敏雄」などの無季の社会句はショックだった。もちろん「除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり―森澄夫」や「白露や死んでゆく日も帯締めて―三橋鷹女」などの美しい句はいうまでもないが、「おそるべき君等の乳房夏来る―西東三鬼」の新鮮さも忘れ難い。俳句というものの多様な深さを教えてくれたのがこの『百人百句』であったのだ。
 大岡さんの訃報に接してまたパラパラとページを繰ってみると「桔梗(きちかう)や男も汚れてはならず―石田波響」「白地着てつくづく妻に遺されし―森澄夫」のような句に心が動かされたのは我が身がそれだけ老いの極みに近づいてきたからだろう。
 
 大岡さんについて大事にしていることがある。書中の「春深くケセランパサラン増殖す…ケセランパサランは白粉を食ふ虫なりといふ―真鍋呉夫」の解説文中に「ケセランパサラン」がどんなものか知らないと書いてあったのだが、何年かあと、今となってはどうしてそんな偶然になったのかまったく記憶が消えているのだが、フィンランドの民話を読む機会があって、そのなかに子どもたちの「囃しことば」として「ケセランパサラン」があり、何か白い綿のようなものがフワフワと飛んでいるのを追いかけている様子があった。そこでそれを大岡さんに手紙にして送ると、思いもかけず何日かして御礼の葉書が届いたのだ。今度このコラムを書くためにその葉書を探したが見つからない。状差しの一番奥に差しておいたはずがどこを探しても無い。絶対にあるはずだから日をおいて徹底的に探し出そう。文化勲章までもらったほどの人が些細なことにも気を配られる、そんな人柄が偲ばれて嬉しかったし改めて尊敬の念を深めた。
 その後彼の『万葉集を読む』『古今和歌集の世界』の二作を読み(蛇足だがこの二冊は私の蔵書の中の最高値で本体五千八百円もした)、加えて丸谷才一の『後鳥羽院』(新古今集についての作品)も読んだから結局大岡さんの影響で古典の和歌集三部に曲がりなりにも挑んだことになる。そしてそのことが自信となって方丈記、平家物語などの「古文」のいくつかも目を通すくらいはしたから大岡さんには感謝のほかない。
 六十歳以後の後期読書生活が充実した大元は大岡信さんの『百人百句』に導かれたことになる、思い返すとそういうことになる。こういう「出会い」もあるから人生はおもしろい。
 
 大岡さんの本分ともいうべき「現代詩」は幾らも読んでいない。これからは何人かの現代詩も読まねば大岡さんに申し訳ない。現代詩を遠ざけてきたのは「言葉」に対するセンスと細心さが不足していることを自覚しているからで、一つひとつの言葉の意味とイメージ、そして言葉の接続と重なりのつくりだす「ふくらみ」を知覚するちからが弱い、そんな私に現代詩は遠い存在だった。しかし、大岡さんへの義理としてでも少しは努力しなければ申し訳が立たないから、これからの時間の少しは現代詩にも捧げよう。
 
 パソコンやスマホによるSNSを通じた「短文」型の遣り取りに馴れきった現代の人たちの「言葉」のリテラシー劣化は極度に進んでいる。最も卑近な例が「政治家」や「官僚」の言葉の貧弱さだろう、彼らの言葉には『重み』の欠片も無い。
 
 大岡さんの死を心から悼みます。

2017年4月17日月曜日

谷崎の「見方」

 ここ十年ほど解決がつかないままわだかまっていることがある。漱石の『明暗』が、世上伝えられているほど立派な作品とは思えないのだ。評論家などの云う「漱石最後の傑作」とは正反対に「駄作?冗長なる通俗小説」と十年前に読んだ感想が岩波文庫の裏表紙に書いてある。にもかかわらず折りに触れて手に取った漱石論のいずれをみても『明暗』は高評価になっていた。
 ところが、ところがである。『谷崎潤一郎全集第二十巻』の「藝術一家言/大正九年」に『明暗』の次のような評価があったのだ。「あのやうな作品が今も猶高級藝術として多くの読者を持ってゐるとすれば、それは偶々あの作品が漱石氏の如き学者によって書かれたものであり、殆ど談論風発的小説と言っていいほど議論づくめで書かれている為に、何となく高級らしい感じを与え、多少教育のある人々に浅薄な理智の満足を与えるがためであろう。私をして忌憚なく云わせれば、あれは普通の通俗小説と何の選ぶ処もない、一種の惰力を以てズルズルベッタリに書き流された極めてダラシのない低級な作品である」。ここまで云うかというほど辛辣な評価であるが、谷崎が漱石を近代文学者中最高の作家と認めたうえでのものであるから信用していいだろう。
 谷崎の評価をもって『明暗』の価値が確定するわけではないが、ただ、同じような読み方をする人がひとりでも居たと云うことで安堵した。それだけのことであるが十年来の気鬱が晴らされて心地良い。
 
 この『―第二十巻』は「饒舌録」を読みたくて図書館から借りたものだが思いの外面白い随筆が多く、収獲だった。その二三をご披露しよう。
 
 東京の下町には、所謂「敗残の江戸っ児」と云ふ型に当てはまる老人がしばしばある。私の父親なぞもその典型的な一人であったが(略)そんな工合で親譲りの財産も擦ってしまひ、老境に及んでは孫子や親類の厄介になる外はないが、当人はそれを少しも苦にしない。無一文の境涯になったのを結句サッパリしたくらゐに思って、至って呑気に余生を楽しんでゐる。(略)悪く云へば生存競争の落伍者であって、彼等が落伍したのは働きがないと云ふ欠点にも依るけれども、見やうに依っては市井の仙人とでも云ふべき味があって、過去は兎も角も、そこまで到達した彼等に接すると、大悟徹底した禅僧などに共通な光風霽月(こうふうせいげつ…さっぱりとしてわだかまりのない気持ち)の感じを受けることが有る。「私の見た大阪及び大阪人」より
 彼はこの後、大阪にはこんなタイプの老人を見たことがないと続けて、大阪人の金に対する執着を云うのだが、それは昭和初期までのことで今では東京も同じになっているにちがいない。正直にいえば、現今はこうした存在を許すほど余裕のある時代ではなくなっている。世知辛いギスギスした世相を反映するかのように、先日も世田谷の「児童公園の保育園転用反対運動」のニュースがテレビを賑わしていた。東京も大阪もなく、都会も地方の別も無くなってしまった。そういえばほんの二十年前までは田舎の畦道を歩いていると、真っ黒に日焼けして皺くちゃの「好い顔をした」百姓の爺さんばあさんに合ったものだが近頃はお目にかからなくなった。「昔はよかった…」で済ますには重い「世の移り変わり」である。
 
 私は東京のあの「遊ばせ言葉」と云ふものが分けても嫌ひだ。「遊ばせ」も程々にすればいいけれども、一つ一つの動詞に悉く「遊ばせ」をつけて、その廻りくどい云ひ廻しを早口に性急にぺらぺらとしゃべり立てるに至っては、沙汰の限りだ。あのくらゐ物々しく、わざとらしく、上品振ってゐてその実上品とは最も遠い感じのするものはない。あれに比べれば大阪の船場言葉や祇園の里言葉の方が風雅で品のいい響きを持ってゐる。(私の見た大阪及び大阪人―昭和七年」より
 ところで関西には、此の生活の定式と云うものが今も一と通りは保存されてゐる。京都や大阪の旧市内は云ふ迄もないとして、赤瓦の住宅の多い阪神地方でも、あの辺で住んでゐる人々の生活は決してその建物の外観が示すやうにハイカラではない。それと云ふのが、あの辺の人は昔は船場とか島の内とか云ふ旧市内の目貫きの所に住んでゐたものが移って来たか、さうでなければ地着きの素封家や豪農等が大部分であるから、一面に於いて近代風の邸宅に住まひ、それにふさわしい暮らし方をしてゐるやうでも、他の一面に於いて旧家らしいしきたりを今も捨てないでゐるのである。(同上
 最近流行りの「セレブ」批判を見事に辛辣についている。船場言葉は「吉本芸人風関西弁」に駆逐されたし、神戸や芦屋の住人は土地の出自すら知らない移住民が幅を利かして「セレブって」いる最近の図を見たら谷崎はどんな顔をするだろう。
 
 昔はよく、家庭に舅や姑がゐてくれた方が、却って嫁に色気が出ると云って、それを喜ぶ夫があった。(略)嫁が親たちに遠慮しつゝ、蔭で夫に縋りつき、愛撫を求めようとする――つつましやかな態度のうちに何となくそれが窺われる――その様子に、多くの男は云い知れぬ魅惑を感じた。放縦で露骨なのよりも、内部に抑え付けられた愛情が、包まうとしても包み切れないで、ときどき無意識に、言葉づかひやしぐさの端に現れるのが、一番男の心を牽いた。色気と云うのは蓋しさう云う愛情のニュアンスである。その表現が、ほのかな、弱々しいニュアンス以上に出て、積極的になればなるほど「色気がない」とされたのである。(「戀愛及び色情―昭和六年」より
 さすが谷崎、深い!核家族が当たり前になって、親と同居でも二世帯住宅が普及した現在では望むべくもないが、こんな「可愛らしい」風情の若妻の色気にこそ「おとなの男」はタマラなくくすぐられる。
 
 「大阪人の処世訓の中に、『嫁を貰ふには京女がいい』と云ふ言葉がある」「京に田舎あり」「京都は大阪の妾である」「聖なる淫婦」「みだらなる貞婦」……。
 こんな言葉が卷中に散見される。関東大震災で関西に移住した谷崎は最初京都に住んだが余りの寒さと暑さに閉口して苦楽園など神戸近辺に居を移す。食通の谷崎は関西が気に入って『細雪』などの名作の多くは此方で書かれている。
 
 妻の千代を親友で詩人の佐藤春夫に譲った事情を綴る「佐藤春夫に與へて過去半生を語る書―昭和六年」なども収める『―第二十巻』は谷崎の「見方」を知るには格好の一巻であった。
 
 
 

2017年4月10日月曜日

ギャンブル依存症

 手許に四冊の読みさしの本がある。きっかけは書評(毎日新聞日曜版の)で気にかかった『人はどうして老いるのか(日高敏隆著・朝日文庫)』だった。早速図書館で借りて読んでいる途中で、その巻末の朝日文庫の広告の中に荒川洋治の名前があったのでその『忘れられる過去』を近所の書店(何年か前から本を買うのは最寄のO書店に決めている。町の小さな本屋さんが次々と消えていくのが哀しくてせめて私だけでも…、と果敢ない抵抗をしている)に取り寄せを依頼した。更に『人は…』の文中に参考図書としてデズモンド・モリスの『年齢の本』が挙げてあったので図書館の蔵書検索で探したが蔵書になく、代わりに『競馬の動物学』という名に惹かれて借りることにした。もう一冊は、これも何かの本の引用に谷崎の『饒舌録』があり『谷崎潤一郎全集第二十巻』に収録されているのを知って借り出したものである。
 
 『人はどうして老いるのか』『忘れられる過去』『競馬の動物学』『谷崎潤一郎全集第二十巻(饒舌録)』、とにかくしっちゃかめっちゃかの四冊を併行して読んでいる。こんな読み方はリタイアした六十歳過ぎからのことでそれまでは「読まねばならない本」を順次しっかりと読み切っていた。脚注や注書きは飛ばし読みすることが多く、参考図書などほとんど読まなかったし読書ノートはまったく取っていなかった。
 今から思うとどうしてあんな窮屈な読書をしていたのだろうと可笑しくなってくるが当時は自分なりのポリシーをもっている積もりだった。「時代を知る、されど時代に流されない」そんなものだったが根底には四十歳初めにある先輩と交わした「インテリでありたい」という気負いがあった。だから一定以上のレベルを保とうとセーブがかかって読まないで済ました本も多かったしジャンルも狭かった。それでいてとにかく忙しかった、余裕がなかった。
 時間だけは余るほど有る、今になってようやく読書らしい読書ができるようになった。最も変わった点は「批判的に読んでいる」ことだ。それまでは著者の言わんとすることの理解に汲々として「知識の積み重ね」ができていなかった。知識の蓄積が体系化されて自分なりの物の考え方に繋がらなければ「本当の読書」とはいえまい。しかしそれは読書のみによってもたらされたのではなく書くことと併行したから達成できたのだと思う。インプットとアウトプットの程好いバランスの成果だ。高齢になった友人たちの多くが読書を止めてしまったのも多分一方通行の読書のせいだったのではないか。パソコンという便利なものがあるのだから(書いて直してが簡単にできてネットに勝手にアップすればいい)是非「読み込み―書き出し」で読書を楽しんで欲しいと願う。
 
 四冊の本の中で『競馬の動物学』に興味を牽かれたのは間違いなく「競馬好き」だからだ。競馬との付き合いは長い。競馬を知ったのは二十二歳の時だったからもう五十三年になる。学校を卒業して就職したH堂という広告会社の社員寮が国分寺にあって新入社員研修の二ヶ月間、そこに放り込まれた。これが運命の分れ道だった、二駅先に「東京競馬場前駅」があったのだ。今は廃線になった国鉄中央線下河原線というのがあって競馬場へ絶好のアクセスに寮があった。悪いことに同期入社の京大卒の二人が学生の分際で競馬にうつつを抜かしていた輩で初めての日曜日に競馬に誘われた。二浪で世馴れた「おっさん」だったふたりに「純情可憐」な青年は抵抗できず、好奇心も手伝って生まれて初めて競馬場へ行った。そのころ「東洋一」と謳われ威容を誇ったスタンドに圧倒され、青々と広大無辺(?)のターフに魅了され、サラブレッドの雄渾な馬体に魅入られて、馬券まで当たって…、これで競馬に嵌らないほど「意志強固」ではなかった。
 爾来五十有余年、どっぷり競馬に浸かって過した。京都競馬場が増改築されたとき、新館のスタンドに立って「この柱の何本かはオレが中央競馬会に寄付したものだ」と競馬仲間に吹いたものだった。
 とにかく競馬は忙しい。土日が競馬当日で、月曜日は結果回顧と反省、火曜日に次週のレースメンバー発表、水曜日は調教、木曜日にハンデ金曜日に枠順発表。そして金曜日と土曜日は翌日の勝ち馬検討。ほとんど毎日何時間かは競馬に時間が割かれる、仕事が終わってからの何分の一かは競馬の研究に使われる。勿論、いい加減ならそれなりに過せるが、嵌ってしまえばそれでは済まなくなる。これだけ没入しても競馬で勝つのは至難の業、年間通せば必ず幾許かの負けは必定。
 
 競馬は「賭け事」である。それが『日常』になっていることに気づかない、それが普通になっている、ギャンブル漬けになっていることを本人も周りも「競馬」はカモフラ-ジュしてしまう。パチンコが住いのすぐ側にあるからギャンブルに浸かっているとツイツイ手を伸ばしてしまう、普通の生活の中にギャンブルがある。カード(トランプ)、花札、チンチロリン(サイコロ)、町のあちこちで日常にある。街外れのの寿司屋の隅っこのパチスロで十万円摩ってしまうお客もいれば、昼休みに時間つぶしの積もりで入ったパチンコ屋であっという間に十五、六万円を儲けたサラリーマンもいる。非合法のカジノもある。週日の昼間、場末の麻雀屋で三人打ちのブー麻雀半チャンで五万円が遣り取りされるようなことも決して珍しくない日常である。博打漬けになった男に誘惑は勝手に向うからやってくる。
 競馬を賭け事と決め付けて『金儲け』の手段と考えられる人は決して火傷はしない。「オレ、今週どうしても百万円要るんや」とまったく競馬を知らない人が友人に連れられて競馬場に来て、競馬新聞の読み方と賭け方を教えてもらって、丁度百万円になる馬券を買って、勝って、それきり競馬と無縁になった人を知っている。一年に10頭ばかりのオープン馬(一番ランクの高い馬)を選んで、出走するレースの人気と配当を組み合わせて投資と配当金のバランスの良いレースにだけ賭けて五年ほどでマンションを買った名人もいた。競馬は『金儲け』と割り切れるタイプの人は『ギャンブル依存症』になることはない。
 競馬に「金儲け」以外の何ものかを託すタイプの人が『ギャンブル依存症』に陥る。ロマンといったり、人生の縮図と見立てて「勝者」になった瞬間の快感に酔う人とか。一番手に負えないタイプは無意識にギャンブルに自分を『賭けている』人でこのタイプが『依存症』には最も多いのではないか。『お金をスル』ことに不感症になってしまって、そんな自分を「駄目な奴」と「自己否定」して『疎外感』を甘受することに無意識に快感を覚えている。
 
 どうすれば抜け出せるか。自己表現の方法を持っている人は『ギャンブル依存症』になることが少ない、油絵をやっているとか俳句を詠むといった人のように。読書に楽しみを覚えコラムを書いて自己を表現し発表して、読んでくれていると知って、競馬を一種の「推理小説」と見極めて自分をその作家になぞらえるようになったとき、競馬の儲けを無視できるようになった、ひともいる。
 
 「読書は一時のものではない。(略)読書を『失わない』ことがたいせつである(『忘れられる過去』より)」。荒川洋治の詞は深い。
 
 
 

2017年4月3日月曜日

スポーツジャーナルに物申す

 清宮の早実が敗れた。
 勝った東海大福岡のバッテリーが「インコース高目が弱い」と仮説を立てていた。初回の顔合わせでエースの安田は2球目をそのコースに投じた。するとファールを打った清宮が「『ウッ』という顔をした。振れていないんだなとわかった」と捕手の北川は振り返る(日経29.3.28p41関根慶太郎)。
 マスコミが大仰に騒ぎ立てた「超スラッガー」清宮選手は春センバツ2回戦で姿を消してしまった。彼の「内角高めのウイークポイント」は早い時期から指摘されていた。サンデーモーニング(TBS日曜日8時~)の張本さん(彼の炯眼は筒香を2年目のキャンプで見出し将来DeNAを背負う中心打者になるであろうと見抜いていた)の評価は彼の一年の時から辛かったが内角高めの弱点が矯正されなければ「プロでは…?」と疑問を呈していた。それから二年まったく克服されていない、指導者は何をしていたのだろう。要するに腕をたたんで腰でバットを振り抜くバッティングができるようにならなければ清宮は簡単に抑えられるバッターということだ。コントロールが悪く威力のない高校野球の球なら、甘いコースを腕を伸ばして力まかせに振り回すバッティングでも通用するが、東海大福岡の安田投手のようにちょっとコントロールのいい投手なら高校生でも牛耳ることは難しくない、清宮はそのレベルの選手ということになる。
 この程度の選手でも騒がれるくらい近年の東京の(野球)レベルは低くなっている。春夏通じて東京のチームが優勝したのは例の「ハンカチ王子」の平成18年夏・早実と平成23年夏の日大三高の二校のみ、それ以外では日大三高平成22年春の準優勝、帝京高平成19年春、関東一高平成24年春と27年夏のベスト4があるだけである。ところがマスコミは東京中心主義だから少しでも目立つ選手はハデに取り上げる。清宮選手の場合はお父さんがラグビーの名門早稲田とラグビー・トップリーグのヤマハの元監督というネームバリューがあったからマスコミも飛びついた。いずれにせよ、まだまだ未熟な高校生である若い才能を、中途半端にはやしたててツブすような上っ調子な報道を戒めると同時に、周りのチームメートにも気を配って不必要な不協和音を生じさせないように細心の注意で取材に努めてほしい。
 
 大阪場所の稀勢の里優勝の報道もスポーツ報道としてはどうかと思う面が無きにしも非ずである。ケガを押しての強行出場の涙ぐましい敢闘精神は賞讃に値するが、彼の今場所みせた格段の成長をもっと専門的に評価してほしい。千秋楽の照ノ富士を破った「奇跡の逆転優勝」も本割の勝利は相手の油断負けの要素が強かったが(前日の痛々しい相撲からは予想もできなかった稀勢の里の力強い反撃に泡を食った土俵際のツメの甘さ)優勝決定戦は横綱快心の理詰めの相撲だった。左肩のケガで上半身は思うに任せないが下半身は万全だったから動き回って右上手を抱え込んで「小手投げ」、これが横綱の作戦だった。本割の反省で冷静に四つに組んで正攻法の力勝負を挑むであろう大関とまともにぶつかったのでは力負けするのは必定と読んだ横綱が唯一、勝機を見出せる相撲は「早い流れの小手投げ」だったのだ。
 横綱昇進で精神面でも磐石に上り詰めた稀勢の里が窮地で冷静に勝負を見窮めた最高の作戦と技術の『奇跡の逆転優勝』であった。
 
 スポーツ新聞の有力コンテンツのひとつ「競馬」でもその報道姿勢に不満がある。
 例えば「凱旋門賞」。ここ数年ディープインパクト産駒が有力馬として挑戦し賑々しく喧伝されたが結果は無惨なものであった。父のディープインパクト自身は3着失格で、その産駒は2013年キズナ4着、2016年マカヒキは14着であった。これまでの日本馬の挑戦で良積をあげているのはエルコンドルパサー(父キングマンボ)とナカヤマフェスタとオルフェーヴルのステイゴールド産駒の3頭である。ディープもステイゴールドもサンデーサイレンス産駒だがその子どもの特徴は、軽快な決め脚の短、中距離で良積を上げるディープに対してステイゴールド産駒は典型的なスタミナ血統である。凱旋門賞は深い洋芝の重い馬場での2400m戦である。これだけディープインパクト産駒の不成績がつづくからにはなにか根本的な原因があるのではないかと疑問を抱いて当然ではないか。
 日本競馬は戦前の軍馬としての馬匹改良に起源をもち頑丈で耐久力優先の育成でスタートしたが、戦後は一転、米国に範をとった競走馬として速く、長距離よりも短中距離に適正をもつ「軽い馬」が主流の馬匹改良を重ねてきた。種牡馬も米国産の2冠馬サンデーサイレンスを輸入することが画期をなし、競馬場改良、トレーニングセンターと育成牧場の充実もあって、例えば芝1600mの走破タイムは1960年代の1分36秒台から1分32秒台にまで競走馬の質は向上した。しかしそれはあくまでも「速い短中距離馬」のカテゴリーでのことで、そのことはここ数年の香港国際競馬でのロードカナロアやモーリスの活躍が証明している。
 しかし凱旋門賞はまったくカテゴリーの異なる競馬である、「速い軽い短中距離馬」では絶対に勝てないレースと決めてかかる必要がある。そのレースに勝てる競走体系を確立しなくては勝利は覚束ない。日本人は凱旋門賞に拘りをみせてその勝利を悲願としているが、それなら覚悟を決めてかかるべきで、例えば中央では無理かもしれないが地方の競馬場に「擬似ロンシャン競馬場」コースを造るくらいの対策を講じて挑むべきだ。中央馬場のオープンクラス2400mでは走破時計が少々劣っても「擬似ロンシャン」でならオープン馬に勝てる、そんな競走馬を育成するくらいの「構想」で挑む。それほどの「発想転換」をしなければ、凱旋門賞に手は届かない。
 凱旋門賞はそんなレースではないか。この十何年かのJRA競走馬の挑戦をみて、そう覚悟した。
 
 同じく競馬について、「調教師」にもっと注目すべきではないかと思う。先にも記したが、競走馬の近年の質的向上は目ざましく、その中心にいるのが「調教師」に他ならない。昨年の香港国際競馬でモーリスとサトノクラウンの優勝を果した堀宣行調教師の「国際競馬同日複数優勝」という稀有な業績はもっと華々しく賞讃されるべきで、勝ち馬予想でも「調教師」を重視する視点で検討されても良い。
 有力騎手偏重の勝利傾向も近年の顕著な趨勢で、一日の三分の二(12レース中)以上のレースが有力2、3騎手の勝利で占められることも少ないない。であるなら、勝ち馬検討も十年一日の如く競争成績、レース展開などからする「伝統的手法」ばかりでなく、「騎手・調教師」主体の予想があってもいい。
 競馬予想にも大胆な「発想の転換」が望まれる。
 
 日本のスポーツジャーナルは不毛である、こんなことを言えばその方面の専門家からどんな反論を受けるであろうか。