2017年7月31日月曜日

一杯一杯復一杯

 久し振りにKさんと会った。大学時代の一年先輩だが近しく付き合って貰っている。待ち合わせた阪急T駅の駅前の居酒屋で呑んだのだが、一杯一杯復た一杯と杯を重ねてあっと言う間に三時間が経っていた。生ビール中ジョッキ二杯と芋焼酎のロックを四五杯も呑んだろうか、日頃の晩酌と比べると相当過したのだが好い酒は悪酔いしない。帰りも心地よく翌朝もスッキリ寝覚めた。
 手土産に下げていった我が家近くのお百姓丹精の「朝摘み枝豆」がことの外旨かったとご丁寧に電話してくれた。それは多分自分で茹でたこともあったのだろう、あのKさんが何年か前から家事全般をやっているという。料理などまったくしたことのなかったKさんが愛妻が思いもかけず難病に罹かって家事を引き受けねばならなくなった。十年来服用していた薬剤が副作用したらしいが気の毒なことだ。Kさんだけではない、気がつけば四五人の友人が料理や家事を奥さんに代わって担当している。不思議なことに皆、それを楽しんでいる。いつだったか三人で呑んでいて、ふたりが料理談義に耽っていて仲間はずれにされたように感じたことがあった。後期高齢者になって何年か経って、伴侶もそれなりの年齢に達して、ともども健康体であることの稀有なことは覚悟しておく必要があると、しみじみ思う。
 
 呑み談義はやっぱりこの時期、政治に関わる話題が多かった。しかし豊田暴言議員や稲田防衛大臣は「語る価値なし」、森友問題の籠池某は「教育を食い物にする補助金詐欺師」の一言で済んだ、どうしてこの程度の奴輩に安倍さんや鴻池さんが騙されたのか残念至極である。問題となったのは「憲法九条」と「国連体制批判」だった。
 現憲法は敗戦後の占領下につくられた『理想憲法』だが、世界の進歩の度合いに先んじ過ぎた、人類最悪の武器―「原爆」を使用されるという『無惨』な経験を、憲法として日本国が世界に宣言しようとしたが世界の進歩は我国の次元に追いつけなかった。軍縮も核不拡散も超大国のエゴによって戦後70年、進展することなくいまだに第二次世界大戦時と同レベルに止まっている。人類の進歩は1945年で止まっているのだ。日本が世界に合わすのか、日本に世界が合わすのか。これまで我国は世界の進歩に合わそうとだけ考えてきた(アメリカにだけ合わせてきたという穿った見方をする人があるかもしれない)。しかしグローバリズムが行きづまって矛盾の堆積が「世界的な暴発」に進みかねない臨界点に達しつつある今、『世界を日本に合わす』努力を訴えねばどうにもならない時期に差しかかっているのではないか。北朝鮮の暴走を止めるのも、大国の暴力で抑えこむことが不可能なことは、制裁強化を繰り返しても効果の無い現状が証明している。
 北朝鮮問題に限らず世界的な矛盾―軍縮、核不拡散に加えて南北問題や温暖化問題など山積する諸問題を解決する機関としての「国連」が機能不全に陥っている。アメリカにトランプ大統領が登場したり英国のEU離脱、ロシアのクリミア侵攻、中国の南シナ海領有権侵犯など超大国が国連の存立基盤を危うくしている。そもそも第二次世界大戦の戦後処理機関としてスタートした国連は「戦勝国の権利」を最大限に容認した組織として成立した。そして70年経ってもそのままのかたちを保っている。この間世界の勢力図は大きく変化したし経済発展の度合いは著しく進展している。20年前はG7が世界を牛耳ることができたが今やG20でも世界をコントロールできない。世界の諸問題を解決するための組織として「国連」は抜本的な改革が求められている。
 
 先に、人類の進歩は1945年で止まっていると書いたが実は1795年以来少しも進歩していないといっても過言ではない。1795年に刊行されたカントの『永遠平和のために』(光文社「古典新訳文庫」による)は、当時の先進欧米諸国を巻き込んだフランス革命戦争(1792年~1802年)の講和条約のひとつである「バーゼルの和約」が永遠平和を樹立するには不完全なものであることに危機感を募らせたカントが永遠平和を樹立するための諸条件を考察した政治哲学の書である。
 カントが掲げた諸条件を現在の世界情勢から判断して三つの要素にまとめると次のようになる。(1)常備軍の廃止(2)平和状態は新たに創出すべきものである(3)誠実さは最高の政治である。
 「常備軍が存在するということは、いつでも戦争が始めることができるように軍備を整えておくことであり、ほかの国をたえず戦争の脅威にされしておく行為である」。カントが危惧した戦争をいつでも始めることのできる状況はまったく変化していない。むしろ兵器の進歩と常備軍をもつ国家の増大によって状況は一層悪化している。
 「永遠平和は自然状態ではない。自然状態とはむしろ戦争状態なのである。つねに敵対行為が発生しているというわけではないとしても、敵対行為の脅威がつねに存在する状態である。だから平和状態は新たに創出すべきものである」。軍縮は一向に進まず世界の軍事費はロシア、中国、北朝鮮などの脅威の増大によって2015年には185兆円を突破している。核保有国の増加に歯止めがかからず世界の軍事的緊張は増大の一途をたどっている。220年の歴史は悲惨なふたつの世界大戦の経験を平和樹立に生かすどころか同じ誤りを繰り返す「愚行」の可能性を高める方向に突き進んでいる。唯一の「被爆国」日本は永遠平和を創出するための組織として「国連」を『改革』する歴史的使命を帯びていると覚悟すべきである。
 「誠実さはあらゆる政治に勝るという理論的命題は、いかなる異議をもかぎりなく超越して、政治の不可欠な条件となっているのである」。軍縮を誓い核不拡散を約束しながらいずれも実現から遠ざかるばかりの戦後70年の歴史は諸国が約束を実現するという『誠実さ』の欠片も有していない証である。国連を誠実さを担保する組織に改革する努力が今こそ望まれている。(安倍政権人気の凋落が誠実さの欠如によることは論を俟たない)。
 
 Kさんと別れての帰途、阪急に揺られながらフト浮かんだのが李白の『山中にて幽人と對酌す』(NHKライブラリー「漢詩をよむ『李白100選』」による)のなかの承句であった。一杯一杯と杯、いやコップを、復た一杯と重ねる酒呑みの心情を見事に汲んだ詩を記してこの稿を終わろう。
 両人對酌して山花開く/一杯一杯復た一杯/我酔うて眠らんと欲す 卿(きみ)しばらく去れ/明朝意有らば琴を抱いて来たれ
 

2017年7月24日月曜日

エアコンをつけっぱなしにしてはいけません!

 
 テレビというメディアの不定見については大概のことにはもう慣れっこになっているが今回の「熱中症対策―エアコンはつけっぱなしがお薦め」には呆れるばかりか怒りさえ覚える。
 近年の異常な暑さのために熱中症で救急搬送される人が急激に増え死者の数も無視できない数に達している。こうした傾向を踏まえると例年以上の暑さが予想される今年は余程シッカリと対策を講じないと大変な事態になるとの思惑から「エアコンの効果的な利用」を呼びかける動きとなったのだろう。それだとしても「エアコンつけっぱなし」推奨のテレビは不定見すぎる。
 
 エアコンをできるだけ使用しないでおこうという国民の―特に高齢者の「節電」意識は、2011年の「3.11東日本大震災」による「福島第一原子力発電所事故」によって我国全体の原子力発電が中止されたことにより「電力の供給不足」が予想されたので、「節電」を国全体で取り組みましょうという国民運動が起り、その一環として「エアコン節電」も提案されたという事情がある。エアコン使用は夏の「電力需要ピーク時」と時期が重なるために特に「節電」が強調された側面もあった。
 国民の心配をヨソに原発再稼動が徐々に始まりつつあるが、それでも電力需給は根本的に解決されていない。この状況で国民全体がエアコンを「つけっぱなし」したらたちまち「電力不足」になることはほぼまちがいない。そんな事態の予測もなしに無責任に「エアコンつけっぱなし」を囃し立てるテレビというメディアには愛想が尽きた。
 
 電力問題よりも「熱中症対策」が大事だという向きもあるにちがいない。エアコンの効果的な利用は有力な方策であることは事実であるからそのあたりについて話を進めてみよう。
 西陣の築百年近い民家から桂のマンションに引っ越して十五年近くになる。桂離宮の南、桂川のスグ西側のマンションは東西のベランダを開け放して風の通路を確保すれば快適そのものだった。引っ越して一年目、エアコンを利用したのは一夏で半月もなかったように記憶している。四、五年前――丁度七十歳を超えたのと合わすようにエアコンの利用頻度が多くなってきた。齢のせいもあるだろうが気温の上昇も一廉でなく、いわゆる夏日や猛暑日が年々増えてもきた。
 そこで「湿度計付きデジタル温度計」を買ってきた。どんな状況で『老体』はエアコンを欲しがるかを調べてみようと思ったからだ。その結果、大体の傾向としては、「室温が32℃、湿度が62%(ベランダを開放して風の通りをよくして)」というのが一応の目安になった。気温が29℃なのに湿度が64%を超えると無性に暑苦しく感じる。逆に湿度が57%位だと室温が32℃でもそう不快に感じないこともあった。経験を重ねて上のような目安を決めたのだが湿度が64%を超えたら原則エアコンを利用している。
 スポーツドリンクも重要なアイテムだ。一日に五、六回はコップ一杯飲んでいる。スーパーで2リットルのペットボトルが百円(税別)の安売りをアテ込んで1ケースづつ買っている。
 ここ二、三年心がけているのはベランダの壁の打ち水だ。はじめてやってみたときの驚きは忘れられない。水のかかるしりからサーッと冷気が湧き上がる。二度打ち水をすれば二時間ほどは暑さを押える効き目がある。一日三、四回、夕方にはベランダのガラス戸にも打ち水すると寝るときよほど室温が落ち着く。
 氷枕は六十歳ころから利用している。「熱もないのにそんなんしたら頭悪なるのとちがいますか」という訳の分からない妻の叱言を無視して使い続けているが、最近はテレビでも取り上げられるようになって妻の叱言も治まった。
 数年前までテニスをやっていた。インドアだったがそれでも七月近くなると暑さが堪えられなくなってくる。そんななかでもテニスしていると、あるとき、全身汗みどろになるときがくる。練習が終わると頭の先から靴下まで汗まみれ、シャワーを浴びると不思議にシャッキリする。この経験を経ると日常の暑さが軽く感じられるようになる。私はこれを「毛穴が開く」といっている、科学的に意味があるのかどうか分からないが有効な方法だと今でも信じている。思うにエアコンが普及するまでは、だれも皆こんな経験をしていたのではないか。ところが今では「毛穴が開く」前にエアコンに頼ってしまうから「暑さ慣れ」することがない。同じ30℃でも毛穴が開けば耐えられる肉体にレベルアップしていたのが耐久力がついていないからエアコンに頼らざるを得ない状態のまま躰がとどまっている。現在の人間と暑さの関係はそんなことなのではないか、そう思う。
 
 熱中症対策としてのエアコン利用を闇雲に反対するのではない。しかし利用を薦めるのなら、一方の重大問題でもある「節電」も考量して利用の目安を科学的に―温度と湿度だけの目安でもいいから示してほしい。扇風機を併用したり、濡れタオルで汗を拭うだけでも大分暑さはしのげる、とか「知恵」も授けて欲しい。それぞれの工夫の可能性も残しておいて欲しい。一刀両断「エアコンはつけっぱんしにすべし」と言われても一般庶民は困ってしまうのです。
 
「お金を気にしなくて済むなら誰に言われなくてもエアコンつけ放題にしたい」と思っている高齢者は世の中にいっぱい居るということをあの「エアコンつけっぱなし」推薦の専門家は知っているのだろうか。
 

2017年7月17日月曜日

安倍首相は政治史を変えた

 安倍政権の人気が凋落している。種々の分析がなされているが「加計学園問題」が戦後日本政治史上極めて異常な出来事であるという認識が提起されないのに疑問を感じる。
 
 安倍人気の根本に育ちの良さからくる「清潔さ」があったのは間違いない。清潔さには二つあって、お金に汚くない―賄賂などを受け取らない潔癖さと、権力を恣にしない―政治手法には若干の強引さはあっても自分のためや身内、友人に利益誘導するようなことはしない、という二面である。これは戦後政治を長く担ってきた「自民党歴代首相」が伝統的に保ってきた良さでもある。唯一の例外は田中角栄であったがそれ以外にも自民党支持層に有利に働く制度や法制を定めることがなくはなかった――そうであったが、あからさまに「身内や友人」に『利益誘導』した総理大臣はなかった。だから韓国の朴槿恵大統領が友人の崔順実に巨大な「権力」を与え利権をほしいままにさせたことを「やっぱり韓国は…」と他人事として嗤ってすますことができたのだ。
 森友学園問題まではまだ許容範囲にあった―籠池氏は安倍さんにとっては他人だし、偶々彼の教育方針が安倍色を色濃く帯びていたから『ひいき』しただけと見ようと思えば考えられなくもなかったから。しかし加計学園の加計孝太郎氏は安倍首相の「腹心の友」である、これは違う!これを許したら韓国の朴槿恵大統領と同じレベルになってしまう。これだけは許せない!
 人気凋落の深層には戦後自民党の、いや歴代の総理大臣が保ってきた矜持を汚す――絶対に超えてはならない「一線を超える」ことへの『嫌悪感』がある。安倍首相が実際に加計学園の獣医学部認可に直接関与したかどうかは結局解明されないかも知れない。しかし結果として「腹心の友」に「利益誘導」があったことに変わりはない。それで嫌疑は十分だ。
 自民党の諸氏はもっと怒っていいのではないか。70年以上に亘って歴代の首相が堅守してきた歴史が汚されるのだから。
 なぜこのような『権力濫用』が許されたかについての真相解明が待たれるが、少なくとも「内閣人事局」に集中している上級官僚の人事権が影響しているのは間違いない。早急な制度の改善が望まれる(ひょっとしたらこの制度は我国には馴染まないのかも知れない)。
 
 さて問題の「こんな人たちに、私たちは負けるわけにいかない!」という安倍発言だが都知事選敗退から自民党人気凋落の最大要因とされている。選挙応援演説の対立陣営に発した言動とすれば当然視されていいはずなのにどうしてここまで強烈な反発を招くのであろうか。
 現在の第二次安倍政権は小泉政権後の第一次安倍政権、福田、麻生の自民党政権から鳩山、菅、野田の民主党政権そして現政権へという目まぐるしい政権交代(在位期間平均約一年)とその間の「決められない政治」への『反動』から「決める政治」を望んだ国民の願いを現実化した形であった。その結果衆議院291参議院121の議席を有し公明、維新などを加えれば衆参で改憲発議を可能にする圧倒的な政治勢力を国民は安倍政権に与えた。「安倍一強」は2006年から10年をかけた国民の『総意』の現れである。ところが安倍自民党の得票率は平成26年の衆議院総選挙では小選挙区で48%比例区で31.9%であったから投票率を勘案すれば国民の25%(比例区では16.8%)の民意を反映しているに過ぎないことになる。秋葉原で「安倍帰れ!」と叫んだ人たちに向って「こんな人たち!」と『敵対視』した安倍総理だが「敵対者は最大で国民の8割」いることを彼は忘れていた。というよりも、安倍首相の政治手法は国民の「2割」の負託であるということをまったく考慮に入れずにひたすら『自説』を主張し、実現にひた走ってきた。
 「こんな人たち」発言にひそむ『分断思想』の危険性の最たるものは弱者切捨てで、声を上げて安倍さんに賛同する人たち以外が見捨てられることにある。
 今さら安倍さんに「民主主義とは…」とご託を並べる気もないが、少数者の意見をいかに汲み取るかが円滑に民主主義を運営する根幹であることは言うまでもない。「多数決の論理」を振りかざして「少数者の不利」を放置しておけば少数者の不満が累積して「社会不安」となり「政権の崩壊」につながることは政治学の初歩である。こんなことは安倍さんも先刻ご承知だろうに。
 なぜ彼はこんな誤りを犯すに至ったのであろうか。
 
 心を尽せば飼い犬は飼い主の言葉を理解するし意思が通じるという。負託を受けていない五割以上の国民を敵対視する首相とトランプ米大統領。確かに世界は変わった。

2017年7月10日月曜日

100歳から始まる人生

 ショッキングなニュースがあった。安楽死の適用範囲を拡大して「健康上に問題はなくても『生きるのに疲れた』などと訴える高齢者に安楽死を認めよう」というオランダ政府の提案がそれだ。7月5日の毎日新聞に掲載されていた。
 
 オランダは2002年に世界で始めて医師による安楽死の実施を認める法律が施行された。▽心身の「耐え難く絶望的な苦痛」がある▽苦痛緩和に他の手段がない▽患者本人の明確な意志がある、ことを条件に患者本人の要請に基づき複数の医師が基準に従って可否を判断して実施される。実施した医師は地域審査委員会(医師や法律家、倫理学者などで構成)に届出て事後検証が行われる。医学的な症状や疾患がない人は原則対象外になっている。
 2015年の実施件数は5516件で全死者数の3.9%に相当しその7割はがん患者だった。
 
 法施行後も「死を自分で決める『自己決定権』」を主張する団体などから要件の拡大を求める声が高まって今回の政府提案に繋がったようだ。
 政府提案の概要は、「熟慮の末に人生が完結した」と感じる高齢者は「厳格で慎重な条件の下、自身にとって尊厳のある方法で人生を終えられる」ように範囲を拡大した。
 これに反対している王立オランダ医師会のルネ・ヘマン会長は次のような意見を述べている。政府案に沿った条件の緩和により「人生の終盤を迎えた人々が肩身が狭く感じることを懸念する」とし、「高齢者を社会で守るための施策に投資するのが望ましい」と語り、現制度を維持すべきだとの考えを述べた。更に政府案を「その先に死しかないトンネルだ」と批判し、「すべきことは、年を重ねたときに選択肢を与えること」だとも述べている。「死だけが望みだと考えている患者」が医師から一時的に苦痛を和らげる措置を提案されると意志を撤回する例もあると説明している。
 
 「熟慮の末に人生が完結した」と感じた高齢者、という語句は衝撃的だ。そこまで『生』というものと真摯に向き合って生活している人が当たり前のようにオランダに存在していることがそもそも凄いと思う。勿論、心身の「耐え難く絶望的な苦痛」があることが条件として残るだろうが、それでも「もうこれで死んでも悔いがない」と自分の人生を振り返れる生き方のできることを尊敬せずにいられない。
 もともとオランダや北欧では流動食や胃ろうを介した摂食は用いられず、自分の口と歯で食事が取れなくなったら静かに死を迎えるという考え方が一般的な社会だから我国とは相当『死生観』が異なっている。それを差し引いても死に向き合う姿勢は真摯だ。しかも死は彼らにとって『非日常』でなく、明日死を迎えることも当たり前のこととして生きている。
 死を『忌むべきもの』とは決して思っていない。
 
 三年前から(無職になってから)毎朝仏さんのお世話をしている。仏壇を開けてお水を換え、お花を供えて仏壇を整えた後、ロウソクに線香を燻らして数珠を頂いて般若心経をお唱えする。我家は浄土宗なので位牌と過去帳があるからその日に亡くなった先祖があればその戒名の方をお祀りする。亡くなった父母の写真が仏壇のすぐ横に掲げてあるからいつも見上げている。毎月墓参するからお寺さんとの付き合いも密な方だ。こんな環境だから「死者」との関係が途絶えていない。死者が近くにいる、死が間近にある。
 痛みには極めて弱い方だし苦しいのもイヤだ。歯は全部自前で眼も老眼鏡をかければ長い読書にも耐えられるがそのうち徐々に衰えることは覚悟している、しかし命の流れに抗うのは避けたいと思っている。
 
 NHKのBS世界のドキュメンタリー「100歳から始まる人生」が面白い。先日の番組は世界最高齢のブロガー、スウェーデンのダグニーさん。100歳でパソコンを購入したことをきっかけに一躍有名ブロガーとなったダグニーさんの刺激に満ちた日々に密着していたとても101才とは思えない背筋をピンと伸ばしてサッサッと歩く姿が驚きで、90才を超えた最高齢のディスクジョッキーとダンスに興じる姿は軽快であった。
 
 

2017年7月3日月曜日

豊田問題と働き方改革

 豊田真由子衆議院議員による暴言・暴行が政治問題化している。移動の車中で男性秘書に行った議員の暴言・暴行の状況が生々しく録音されており、下品で粗野な上から目線の見下した音声を繰り返し繰り返し聞かされて嫌悪感を覚えた人も多かったに違いない。先ず問題にしたいのはこの男性秘書が「政策秘書」ということだ。暴言・暴行の原因が秘書の後援会員へのバースデイカードの宛名書きの「書き間違い」だったと伝えられているが、政策秘書の職務はそのようなレベルのものではなく、万が一何かの都合でその作業をしたとしても作業の「二重チェック」は当然のことであり、この作業でミスをするようではこの秘書男性の職務能力は相当低いといわざるを得ない。
 そもそも「政策秘書」というのは国会法に定められた「主として議員の政策立案及び立法活動を補佐する秘書」で国費によって議員一人に一人採用が許されている。任用資格は「政策担当秘書資格試験」に合格することが必要で、この試験は国家公務員のいわゆるキャリアクラスの試験よりも難しいといわれている。それゆえ細野豪志、林芳正などの国会議員も政策秘書出身である。ところが「抜け道」があって「選考採用審査認定」を受ければ同等の資格が付与され、公設秘書を10年以上務めたものや議員秘書に類似の職務を務めて審査認定委員会が認定すればよいことになっている。件の秘書氏がどのような経緯で資格を付与されたか明らかになっていないが多分「抜け道」組だろう。しかしこの「抜け道」は1993年の国会法改正によって「政策秘書」が新設された際、それまで議員秘書として勤務していた既存の公設秘書を『臨時的』に任用できるように設けられた「時限的」なものと捉えるべきで、法執行以来既に20年以上経過している現在、この「選考採用審査認定」制度は廃止されるべきである。
 
 さて問題を二つの視点から分析してみよう。まず議員と(政策)秘書は封建時代の主従関係のように支配と服従の「上下関係」が許されるか、という点である。録音を聞くと議員は完全に秘書を召使(下僕)扱いし「支配」し暴力を振るうことが当然のように認識している。しかし議員と政策秘書はそんな関係が許されるものではなく、対等でなければならないはずのものである。聞くところによると豊田議員は2012年の初当選以来5年間で100人以上も秘書が交代しているらしい。議員の秘書との対人関係が正常でないから普通の秘書は「居付かなかった」のでこうした実情は周囲に当然知れ渡っていたはずだから、先輩議員や派閥の長が注意し正しい秘書との人間関係を教えるべきで、派閥の長が議員の非をかばう様では問題外である。また秘書も議員が暴言・暴力をふるうようなら正々堂々と抗議し説諭すべきで余りにも議員の我侭放題を許しすぎた。
 
 もうひとつの問題は「政策秘書」という『職務』が確立されていないことだ。上にも述べたように『専門性』をもって議員活動を補佐するべく国会法を改正してまで設けられたものであるにもかかわらず玉石混交で、その『職務能力』に大きなバラツキがあるまま放置されてきている。理想論をいえば、議員は初当選からベテランまで経験と専門性に相当な差があるから政策秘書は専門性をもって議員の能力・経験の不足する領域をカバーして国民の負託に応える仕事が完遂できるように補佐すべき存在でなければならない。例えば議員が厚労省の政務官に任用されたら厚労業務に専門性を持った政策秘書が採用されて経験ゼロの議員であっても一定レベルの職務が遂行できるように補佐する、内閣改造や政権交替があれば従前の採用関係にこだわらず件の秘書は新たに厚労業務を担う議員に採用される。このような関係が政策秘書と議員の雇用関係になるのが望ましい。
 ところが制度発足から20年以上経っても未だにこうした『政策秘書』制度に育っていない現状が今回のような騒動を引き起こしたのである。
 
 安倍内閣の目玉政策のひとつに「働き方改革」が揚げられているがお膝もとの議員活動がこの体たらくでは改革が遅々として進まないのも宣(うべ)なるかなである。時間外労働の適正化が「働き方」を見直す大きな要素と捉えられ取り組みが検討されているが、中央官庁や議員が「残業ゼロ」を率先垂範すればアッと言う間に実現できる。やる気があるか無いかだけのことだ。
 もっと大事なことは「労働時間、勤務場所、職務範囲」に無限定な『日本的職務』のあり方を改め『職務内容を明確化』して『専門性』を高めることだ。「政策秘書」など最も「職務内容が明確で専門性の高い」仕事であるから本来あるべき形に「政策秘書」という職務が確立されて、職務権限としての上位者と下位者の別はあっても仕事として議員と秘書が対等で互いに認め合う関係ができておれば今回のような騒動は起こるはずがなかったのだ。
 
 組織というものは「目的」を「意欲」と「円滑なコミュニケーション」で遂行し、『達成感を共有』して働く喜びを分かち合うものだ。議員事務所といえども組織であるからにはこの原則は貫徹されなければならないが、豊田真由子事務所にはこのすべてがなかった。議員は「目的」を所員に提示していなかった、所員に意欲がなかった、情報の共有は果されていなかった、これでは「事務所」として機能するはずもなく、苛立って暴言・暴行を振るうしかなかったのだ。
 
 安倍内閣は毎年のように口当たりの良い「政策目標」を並べ立てるが実現されたためしがない。「働き方改革」はまず「政策秘書制度」を本来あるべきかたちに確立し、議員事務所が正常に機能できるようにするところから始めるべきであろう。