2018年3月26日月曜日

ハッピーエンド

 三月は卒業式終業式と別れの季節である。そこで表彰される「皆勤賞」の是非がネットで熱くなっている。「学校へ行くのが良いことで行かないことが悪いことと差別されるのが許せない」「いじめがあるのに無理して行かなくても良いのではないか」「風邪をひいているのに学校に行って他人にうつすなら休む方がいい」などが否定派で「勉強も運動も人並み以下だったけど皆勤賞を貰って励みになった」「しんどい時もあったけどがんばって行って粘り強くなれた」「病気もケガもなく楽しく学校へ行けて、結果として皆勤賞になった。表彰されて嬉しかったし健康に感謝した」などが肯定派の言い分である。
 ネットの言葉はもっと過激だけれど大体こんな内容だった。価値観が多様化して何に価値を認めるか家々で異ってきているから「皆勤」を一概に立派なことと賞讃する人ばかりでないかも知れないが、そんな時代だからこそ『普通のこと』の偉大さとして「皆勤賞」があってもいいのではないか。
 
 「別れ」をネットで開いたついでに「なぜ女は、別れた男をスパッと忘れられるのか」を検索すると思いもかけない『名回答』があった。「女は『上書き保存』、男は『別名にして保存』」。これはウマい!言い得て妙、である。「上書き」すれば先にあった情報は消えてしまう。消すのがイヤなら「名前をつけて保存」することができる。何日か経って、何ヶ月か経って、前の彼・彼女の情報を開こうとしても「上書き」されたものは残っていないが、別名で保存されたものはいつまでもネット上に残っている。
 女はたくましい。男は未練たらしい、いや、ロマンティストだ。
 
 テレビドラマ『隣の家族は青く見える』(フジテレビ系木曜日22時)が終わった。このクールは見たいドラマが少なかった中で一話から見つづけたのは多様化した現在の「家族のスタイル」を取り混ぜてあきさせずに描いていたからだ。主人公は子どもが欲しくて堪らない「妊活」夫婦。ほかにエリートサラリーマンが自己喪失に気づいて妻に無断で退職して家庭崩壊寸前に追い込まれる中年夫婦、バツイチ夫が若い女性と同棲中に別れた妻が急死し息子を引き取らざるをえなくなって三人が家庭を築くまでの混乱ぶり。もう一組がゲイカップル。この四組の家族が新築のコーポラティブハウスで暮らし始める。
 
 コーポラティブハウスというのは、土地・建築物を共有し居住することを前提に入居予定者が事前に組合を結成し、その組合員による協同建設方式で造られた住宅のことで、土地の入手から建物の設計・建設・管理等組合で対処する住宅所有方式である。
 にもかかわらず住んでみてはじめてわかることがある。メンバーの中で子どもを持っている家族は一軒しかないからそれがまず揉め事の種になる。子供を持つことを当然視してその価値観を回りに押しつける。そんな彼女にとって『ゲイ』は受け入れ不能の「常識はずれ」にうつる、当然子どもたちの教育に悪いと「拒絶」する。そのゲイカップルは親の理解を得ることができなくて煩悶する。妊活夫婦は「不妊治療」を受けるがなかなか旨くいかないことで自分たちや家族との間で桎梏が生じる。
 ここに描かれている『家族』は現在の家族のあり方のほんの一部に過ぎない。それでも「結婚のかたちの多様性」「子どもをもつかどうか」「LGBT(性的少数者をさし、レズ、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーの頭文字をとって命名している)問題」など今の社会が解決しなければならない問題にひとつひとつ丁寧に取り組んでいた。
 子どもをもちたくても持てない人が多くなった現在、子どものない家庭・家族は決して「特異な存在」ではない。しかし社会の仕組みはいまだに「両親と子ども二人」を「標準家庭」と考えがちである。そこに「こじれる」原因がある。
 良い学校に入って良い会社に勤める、この標準コースも今や危うくなっている。ドラマのエリートサラリーマンのように、ある日突然「俺のしたいことはこれじゃない!」と気づいてコースから「逸脱」する人がこれから増えるに違いない。独立起業するのもそのひとつ。直接人の役に立ちたいとNPOに入る方法もある。十分な蓄えがあって好きな勉強をして専門職に就くやりかたもある。ドラマのように妻の同意を得るのが困難な場合が多いこともあろう、その場合どうするか。
 子どもを生めない夫婦は決して少なくない。とくに初婚年齢が高齢化すれば高齢出産の難しさもあって子どもをもうけないで夫婦生活を送る人たちが増えるであろう。子どもを持たないで夫婦の生活をエンジョイしている友人は結構多い。
 
 ゲイについては同時期にNHKで『弟の夫』というドラマが放送されていた。こっちの方はカナダで「同姓婚」した弟が急死して、その夫が日本を訪ねてくるが兄はスンナリ受け入れ理解をもって彼に接する。周りの誤解も「善意」を仲立ちに解きほぐしてカナダの「弟の夫」を気持ちよく帰郷させる。『隣の…』の方は同居メンバーとの軋轢や母親の頑強な無理解にあってなかなか受け入れられないがカップル相手の粘り強い説得によって母親は折れる。
 NHKのいかにも「公序良俗」に反しないキレイごとな描き方からは今の日本におけるLGBTの置かれている「生きずらさ」が伝わってこなかった。
 
 『隣の…』の四つの家族はみなそれぞれに「ハッピーエンド」を迎える。なにがハッピーエンドをもたらしたかを考えてみると『寛容』であるように思う。お互いが相手を同等な存在として、理解し、受け入れて「恕(ゆる)す」。ところが今、我国に溢れているのは寛容ではなく『依存』のように思う。かたちとしては「相手を受け入れて」いるが、同等ではなく絶対的な存在として、無批判に受け入れている。俗に『忖度』というかたちで。
 
 『依存』はやがて『独裁』をゆるしてしまうのがこれまでの「歴史」である。
 
 
 

2018年3月19日月曜日

国家の品格 

 
 ――空文化する倫理規定――
 
 数年前『国家の品格』という本がベストセラーになった。へそ曲がりという性向と「うさん臭い」タイトルへの忌避感もてつだって未だに拝誦の栄に浴していないが出版社の惹句にはこうある。「日本は世界で唯一の情緒と形の文明である。国際化という名のアメリカ化に踊らされてきた日本人は、この誇るべき国柄を長らく忘れてきた。論理合理性頼みの改革では、社会の荒廃を食い止めることはできない。いま日本に必要なのは、論理よりも情緒、英語よりも国語、民主主義よりも武士道精神であり、国家の品格を取り戻すことである。すべての日本人に誇りと自信を与える画期的提言作者の藤原正彦氏は高名な数学者で若いころから海外で活躍した経験もあり、それ故に日本文化の特色と優位性を自覚してこの書を著したのであろう。しかし、情緒と武士道精神をもって日本国の「品格」とするのはいかがなものであろうか。昨今の「安倍一強」下における『忖度』の風潮を見るとき、公務員には「冷静、客観的な論理」の貫徹こそが求められているのではなかろうか。
 
 こんなことを書いたのは勿論「森友問題に係わる決済文書書き換え(捏造)」問題に接したからである。マスコミの論調は「公文書とは、国民が正確な情報に基づき主権を行使する民主主義の基本的インフラ」であるのにその「国民が共有すべき公文書を書き換えるとは信じ難い」とし「民主主義を揺るがす」最悪の事態である、などとなっている。
 戦後「民主主義を揺るがす重大事態」は何度もあったがそれらのほとんどはロッキード事件のような「贈収賄事件」であった。いってみれば民主主義に未成熟な「後進国」的な「利益供与」事件で正邪が明確であったから制裁も法にてらして厳格に下すことができたし、民主主義はただちに『復旧』できた。しかしここに至って全く異質な事件が相次いで起っている。
 そのひとつは「昨年10月の衆院選滋賀4区の開票作業で滋賀県甲賀選挙管理委員会の事務局長らが、投票総数と開票した票数の食い違いをごまかすため、白票を数百票水増しして集計していた」事件である。発覚からまだ日が浅いから今後どのように進展していくかは定かでないが、この問題がこれまでの「選挙違反事件」と根本的に異なるのは、選挙人と被選挙人との事件でなく、選挙制度そのものを監視・監督する側の事件であることにある。「公職選挙法」は選挙が公正に行われるために定められた法律だがそれは「選挙制度」が正常に機能することを前提にしている。今回の甲賀市選管の事件は制度そのものを踏みにじる事件であるところに『重大性』がある。果たしてこうした事態を直接的に裁く法律があるのかどうか、『想定外』だから他の法律―地方公務員法を援用して裁く以外に方途はないのかもしれない。それほど予想だにしなかった事件である。公務員の劣化もここまで「極まった」かと思わせる事件である。
 
 そして今度の「決済文書書き換え事件」である。マスコミの論調に見るように『民主主義の根幹を揺るがす』事件である。そもそも公務員(国家公務員)は国民全体の奉仕者であり、国民の一部に対してのみの奉仕者ではないことを自覚し職務上知り得た情報について国民の一部に対してのみ有利な取扱いをする等国民に対し不当な差別的取扱いをしてはならず、常に公正な職務の執行に当たらなければならないこと」と「国家公務員倫理規定〈倫理行動基準〉」の冒頭に定められている。更に「職員は、常に公私の別を明らかにし、いやしくもその職務や地位を自らや自らの属する組織のための私的利益のために用いてはならないこと」「職務の執行に当たっては、公共の利益の増進を目指し、全力を挙げてこれに取り組まなければならないこと」とも規定されている。
 これまでに明らかにされたところによれば、当時の「佐川理財局長」の国会答弁と齟齬を来たさないために「書き換え」られたことになっている。ということは「佐川」氏の個人的利益のために――それはひいては「財務省の省益」を守るために行われたのであり、明らかに倫理規定の「国民の一部に対してのみの奉仕者」であってはならないという定めの違反である。しかしそれは更に「財務大臣」のために、「安倍総理大臣」のために、とつながっていくかも知れない。
 行きつくところがどこまでなのか、想像を絶した『奥深く』底の見えない暗闇の「空恐ろしさ」。
 
 もうひとつ、無視できない報道があった。「東日本大震災の被災者に貸し付けられた最大350万円の『災害掩護資金』が6年間の猶予期間を過ぎた今年度後半から返済が本格化する。高齢者等の返済困難者をどう処遇するか、自治体の対応が課題となりそうだ」というのがそれだ。一部報道によれば350万円の返済月額はおよそ3万円になるという。この額は国民年金のみの受給者にとってはとんでもない負担になる。考えてみれば東北三県の被災者は農漁業やそれに付随する加工業の自営業者が多かったのではないか。
 猶予期間の終了を控えて市町村から返済に関する通知が発行されているが、それによると据え置き期間終了後の利率は年1.5%、延滞金利息は10.75%に設定されている。お役所文書独特の無味乾燥の文面にこんな数字があると、生活に困っている人にとっては脅迫に近い感じを抱くのではないか。もし返済不能になればどこかへ行方をくらますしかないと、不安に襲われる人もあるにちがいない。実際阪神大震災の被災者未返済のまま行方不明になった兵庫県内の被災者が昨年末の時点で約220人いることが分かっている 
 
 震災から7年経った今年もテレビ各局は「被災地の今」をレポートしていた。映し出される場面から伝わってくるのは『復旧』すらほとんど進んでいない現状。その一方で『復興五輪』と謳った「2020東京オリンピック」施設は着々とスケジュールを達成し20年にはまちがいなく開催にこぎ着けるに違いない。
 復旧すら危うい被災地と『復興五輪』の確実な進捗。フツフツたる『怒り』を感じるのは私だけだろうか。
 
 『国家の品格』を語るにふさわしい、と胸を張っていえる日本人がどれほどいるのか!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2018年3月12日月曜日

「老いる」技術

 先日(2月14日)の京都新聞に老人学の素晴しい記事があったので概略を下に記す。
 定年の時期は「老い」という新しい冒険の始まりである。仕事には定年があるが、人生には定年はない。いくつになっても新しい発見があり、新しい学びがあり、新しい成長がある。定年になると地位や業績、築き上げてきたものを喪失するという経験をする。併せて、からだの変化もあり、無力感や不安を感じやすい。(略)しかし実は、失ったものはこれからの人生に不要かも知れない。自分にはどれだけたくさんのいいものが残っているか、「ないけど、ある」と、あるほうを見よう。たとえば、仕事が無くなっても、おかげで時間のゆとりができたというように。また散歩の途中に新しい草花を見つけたとか、ささいなことに感動し「生きている」よろこびを見いだすなどの新しい発見もある。(略)一方で夫婦でそれぞれの生活パターンを再構成しないといけないかもしれないし、夫婦を含めた人間関係の再編成は老後の生活をうまく折れ合っていくためのレッスンといえる。(略)ひとり暮らしの自由や楽しみも大切にしたい。ひとりが孤独で寂しいとは限らない。何かあったとき、誰かが駆けつけてくれるという信頼感があればいい。(略)定年後の60代や70代は老年期への過渡期として、しなやかさを育む時期と考えたい。時代や社会、心身の変化に対して、いかに柔軟に、しなやかに生きられるかが、とても大切になる。
 これを書いたのは立命館大学の特別招聘教授の「やまだ ようこ」さんで彼女の専門は「人生心理学」としてある。1948年生まれで京大教育学部教授を経て現在に至っている。生涯発達心理学も専門で心理学の応用――特に老人や成人への展開を試みられてきたのだろう。とにかくこれまで接してきた「老人学」に関する論述のなかで最も感銘を受けた。
 
 「仕事には定年があるが、人生に定年はない」という使い古された言葉が「定年の時期は『老い』という新しい冒険の始まりである」という語句が付くとストンと納得がいく。「いくつになっても新しい発見があり、新しい学びがあり、新しい成長がある」とつづけられると勇気が湧いてくる。「しかし実は、失ったものはこれからの人生に不要かも知れない。自分にはどれだけたくさんのいいものが残っているか、『ないけど、ある』と、あるほうを見よう」と諭されて老いを生きるテクニックを知らされる。人間関係の再編成、これは新しい視点だ。知人友人は当然だが「夫婦」にもこの考えを応用すれば、夫、妻という関係をまったく新しく変えることができそうだ。妻――家事経営と子育ての専門家でありセックスパートナーであった人が、人生の伴侶になり理解者になり善き友人である「女性」に変わってくれる可能性がある。同じ趣味の仲間になることもあろう。とにかく意識して、妻との関係に変化をつくることが大切になる。人生後半生がうまくいくかどうかの基本はここにあるようだ。
 「60代や70代は老年期への過渡期として、しなやかさを育む時期と考えたい」という視点は「人生100歳時代」にとっての正しい道程を示し「ひとりが孤独で寂しいとは限らない。何かあったとき、誰かが駆けつけてくれるという信頼感があればいい」という考え方は「老いの甘え」を戒める。
 
 この記事を読んで疑問を抱いたのは、アンチエイジングという若さを保つ技術が氾濫しているのになぜ「老いる」ことの技術がないのだろう、というものだった。「先生、このごろ睡眠が浅いように思うのですが」とかかりつけ医に相談しても「歳のせいですよ」と返されるのが普通だ。そんなことは分かっている、それを何とかしたいんだ!
 「加齢に伴う」悩みの解決策は多くの医師にとって未知の領域にある、これが真相なのではないか。やまだようこさんも言っているように「60代や70代は老年期への過渡期」として本格的老齢期である80歳後半に備えて体力知力を養成する時期なのだがそれを指導する「専門家」が不在なのだ。80歳でトライアスロンに挑戦した男性は60歳を超えてから水泳を始めたというが、個人差のある高齢者の体力向上をどう図ったらいいか、正解がまだないのにちがいない。齢をとると読書力が衰える人が多いが、これは体力低下に伴う根気―集中力の劣化と視力の低下が作用している。にもかかわらず「眼科健康診断」をしている人は皆無に近い。「歯科健康診断」は歯垢除去という形で年に何回か歯医者通いしている人もいるが「歯磨き」を医者の指導通り実行しているかどうかと問えばほとんどが首をかしげる。
 「好奇心」の衰え、これが高齢者の最も大きな「老化」だろう。なにもかも「知ったつもり」で知識欲が衰え、そのくせ「仮想通貨」だったり「AI-人工知能」だったりの新しい知識・技術に対しては、気後れして「知らなくても別に困らない」とタカをくくってしまう。何に対しても「既得の知識」で間に合わせるという「横着」をきめこんで、そのくせ「上から目線」で「横柄」を演じる。こうした老人特有の『傲慢さ』が「キレる老人」を生んでいる。「散歩の途中に新しい草花を見つけたとか、ささいなことに感動し『生きている』よろこびを見いだすなどの新しい発見」をいつまでもつづけられる『しなやかさ』が「老い」を楽しくしてくれる。
 
 アンチエイジングなどという無駄な『消費』でなく、「賢く老いる」技術を開発してほしい。
 
 

2018年3月5日月曜日

「働き方改革」の見方

 NHK総合テレビ「凄ワザ(月曜日午後10時25分)」の2月26日放送『AIvs人類3番勝負』は「働き方改革」を考える上で示唆に富む内容だった。A.ファッションコーディネート(FC)、B.タクシードライバー、C.俳句の三部門でAIと各分野のトップクラスが成果を競う内容で、Aでは30代男性、40代女性、20代女性のFCを大手デパートの第一線コーディネーターが、Bではキャリア20年以上のベテランドライバー、Cは大学生No1、主婦俳人、NHK俳句教室で4年手ほどきを受けたお笑い芸人の三人がそれぞれAIと対した。結果はAは2対1で、Bはドライバーが、Cでは三人とも人類が勝利した。しかしそれぞれ僅差で、もし平均的な能力の人間が相手なら「人類」が勝っていたかどうかは微妙なところだった。
 AI(人工知能)の進歩は今や侮れないレベルに達している。2040年頃には今ある仕事の半分近くがロボットやAIに置き換わるという予測は決して絵空事でない、と強く感じた。
 
 工場生産の成果は〈労働力(その仕事に携わる人間の数)×時間数〉に比例する。ところが営業マンの仕事やデザイナー、コピーライターなどの仕事は必ずしも〈時間数〉に〈仕事の結果=成果〉が連動していない場合が多い。事務作業は時間数に比例する仕事が多いが、〈企画〉や〈分析〉などの仕事は一部、あるいは相当部分〈時間数〉と独立したものがある。このような〈時間数〉に比例しない、独立した仕事は、業務遂行の手段や方法、時間配分等大幅に作業者の裁量にゆだねられている。
 裁量労働制はこうした「時間に比例しない」「作業者の裁量」が大きな仕事を対象として設定された「仕事の概念」である。ところが今国会で審議されている内容は仕事に要する「平均的な時間」の多寡を論争している。ナンセンスである。裁量労働制業務は、例えば任せられた仕事(データ分析に基づく時間外労働削減策の企画・立案)を、毎日6時間4日データを分析、解析して5日目に朝の9時から徹夜で翌朝の4時頃完成して納期に間に合わせられた、このような「仕事の仕方」が許される、そんな仕事がイメージされている。1日8時間労働の一般事務職と比べて、4日間は2時間勤務が少ないが5日目に10時間余計に仕事したことになるがそんな時間数に関係なく一定額が給与として支払われる制度が『裁量労働制』である。ただしこの場合これまでの一般的な職場では、毎日2、3時間の残業が通常的に行われていたことが多い。定時に仕事が片づいていてもサッと帰るのがはばかられ、それならとダラダラ仕事を引き延ばして毎日2、3時間の残業が定例化していて、そしてこのダラダラ残業を含んだ給料が支払われていた。このダラダラ残業代はおおよそ元の給料(基本給)の3割近くに相当する。従って、「裁量労働制」に移行する際にはこのダラダラ残業分を含んで給与を設定することが望まれる(労使の交渉に委ねられる)が、この部分を「切捨て」たり「値切ったり」して「給与設定」することが横行すると『残業させ放題労働制』と野党や世間の批判を浴びることになる。
 また「裁量労働制」は厳密な「同一労働同一賃金」制度を前提にしないと旨く機能しないことが予想される。この制度は「職務内容と範囲」の限定が厳密に行われて始めて成立する。ところがこれまでの我国の慣例では職務が「無限定」であることが普通だった。だから、担当業務が勤務時間内に効率的にこなせても「キミ、時間があるならコレもやっておいてよ」と担当外業務を振られる場合が多かった。「裁量労働制」ではこれを許してはならない。さらに〈時間外労働の上限規制〉〈勤務間インターバル制度〉も同時に導入することが重要だ。
 残業時間の多い少ないなどという的外れで不毛な論議を繰り返す愚行は切り上げて、早急に本格審議に入るべきだ。。
 
 今国会に提案される「働き方改革」関連法案(働き方改革実行会議決定29.3.28による)には〈同一労働同一賃金など非正規雇用の処遇改善〉〈柔軟な働き方がしやすい環境整備…テレワーク、副業・兼業〉〈女性・若者の人材育成など活躍しやすい環境整備〉〈病気の治療と仕事の両立〉〈子育て・介護等と仕事の両立、障害者の就労〉〈高齢者の就業促進〉〈外国人材の受入れ〉〈誰にでもチャンスのある教育環境の整備〉など現在労働市場が抱えている多くの問題を解決しようという意欲的な取り組みを展開している。そして〈雇用吸収力、付加価値の高い産業への転職・再就職支援〉を円滑に行える流動性の高い労働市場を実現し〈賃金引上げと労働生産性向上〉を達成して『デフレ脱却』を目指そうとしている。冷静に検討すれば、そして労使に偏りのない立場で取り組めば、労働市場を根本的に改善できる優れた計画なのだがどうしてそこへ行き着かないのか。残念でならない。
 
 冒頭に述べたAIの進化に人間が対抗するにはAIに負けないくらい深く、広く仕事を追究する必要がある。仕事は「形式知」と「暗黙知」を駆使して実行されている。簡単にいえばマニュアル化され全社的に「共有」された「仕事の仕方」と「作業者の勘(カン)」に頼る「仕事の仕方」である。その両方をOJT(オンザ・ジョブ・トレーニング)――未熟者を熟練者が仕事を通じて教育するというのがこれまでの我国の標準的な教育訓練の方法だった。「カン」の部分を何とかマニュアル化して誰もが「共有」できるように「作業の標準化」が行われてきたが、「マニュアル化不可能な部分」も多く、熟練者が「意識していない部分」もあった。AIはそれを、ビッグデータで取り込み、プログラム化し、ディープラーニングで「自生化」している。人間がAIに負けないくらい「カン(暗黙知)の部分」を解明する努力を行い、なおかつ、「凄ワザ」でAIが及ばなかった、現場で、その時、お客様からジカに収集した『最新の情報』――まだデータ化されていない情報を収集する能力とそれを『現実化』する能力を練磨することがAIに勝つ方法である。
 それを実現するには「仕事が好き」で「職場が楽しい」のが最低条件だ。
 
 賃金を上げるためには生産性向上は必須の条件であり「AI化」は避けられないのが現実だ。人間はAIを利用する側に回らなければAIに使われてしまう。弁護士などの『士』のつく仕事やお役人の仕事が最も「AI化されやすい仕事」という見方もある。
 
 現状に安住していればいつの間にかAIに仕事を「乗っ取られる」、そんな時代に生きているのだということを肝に銘じる必要がある。時代はまったく「新しい局面」――『大変革の時代』なのだ。